宝 P.771-776

 

与える事への祝福!

  靴製造業者のW・L・ダグラスは、アメリカ中の人々からよく知られている人物でした。この物語は、彼が苦労していた初期の頃のことから始まります。長い間、職が無かったため、有り金はあと1ドルだけになってしまいました。それにもかかわらず、彼はその半分の50セントを教会の献金皿に入れたのです。翌朝、近くの町に仕事があると聞きました。その町までの汽車賃は1ドルでした。どう考えても、あの50セントを取っておいたほうが賢明だったように思われました。しかしとにかく、残された50セントで切符を買って、目的地まであと半分の所まで汽車に乗りました。汽車から降りると、彼は目的の町に向かって歩き出したのです。

  さほど歩かない内に、ちょうどその町の工場で人を雇っていることを耳にしました。そして30分もしない内に、彼は職にありつき、そこの給料は、別の町に行っていたとしたら、彼が受け取っていたであろう一週間分の給料よりも、5ドルも多い額だったのです。

  月末までに埋め合わすことができるだろうと考えて、私は自分の十分の一税の内の幾らかを、靴を買うために使おうとしていました。でも、それからこう考えました。「いや、これは主のお金だ! 自分のでさえないんだ。靴を買うのはまあ待てばいいさ。」そこで、その靴屋を通り過ぎてしばらく歩くと、路上にお金を見つけ、そのお金は全部で30ドルあったのです。靴を買い、それにもちろん、そこから主の10%を納めるに十分足りる額です! 従うことは、割に合うものです!

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  私達の経済状態をうまく分析するには、自分のお金の内、どれだけを神に与えるかではなく、神のお金の内、どれだけを自分のために取っておくかによって分析することです。

  十分の一税を納めるクリスチャンは、次のことに驚くことでしょう。

  (1) 主の御仕事のために自分が納められる金額が多いこと。

  (2) 十分の一税を納めることで、自分の精神生活が深みをおびたものになっていること。

  (3) 残った十分の九で、生活費の支払いが容易にできること。

  (4) 十分の一よりさらに多く納めるのが容易であること。

  (5) 十分の一税を納めることによって、自分が手元に残った十分の九に対して、より忠実で賢い管理者になれること。

  (6) 十分の一税をもっと早く納め始めなかった自分に!

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  人生における成功は、どれだけ蓄積するかによってではなく、どれだけ分け与えるかによって判断されるべきである。

  分け与えるという美徳を実践することによって、人は、自分のために宝を蓄えていることになる。与えることは、投資なのである。

  百万長者の製造業者、A・A・ハイドは、10万ドルの借金を抱えていた時に十分の一税を納め始めたそうです! 借金をかかえているのに、自分の収入の10%を神に与えるのは不正行為だと思う、と言った人が大勢いました。ハイド氏も、前はその考え方に同感でしたが、ある日のこと、このことがふと心にひらめいたのです。それは、神こそ第一の債権者であるということです! それから、彼はまず最初に神に支払い始めました。すると、他の全ての債権者にも結局は全額を返済することができるようになったのでした。もし、人があなたから借金しているなら、まず神にその負債を支払うようその人に勧めるのが、あなたの側にとって賢明なビジネス方針だと言えるでしょう!

  私達が、ここラテンアメリカのある市に移って、宣教の仕事を始めようとしていた時のことです。この市には、もっと南に行こうと計画していた別の宣教師一家も住んでいて、その家族は、米国からお金が送られてくるのを待ってました。

  ところが、いつまで待ってもお金は届きませんでした。そこで私達は祈り、彼らを援助してあげる事に決めたのです。必要額は200ドルでした。それは私達の持っていた額の3分の1だったのですが、祈った時、使徒行伝2:44,45と、ルカ6:38の聖句を受け取ったので、彼らにお金を持って行きました。

  すると、次の日、郵便で4千ドルの小切手が私達の元に届いたのです。思いがけず遺産が入ったのでした。この遺産は、実は1年前に送られたのですが、それが郵送される途中で紛失し、現金にされていないことを銀行側が発見したのです。神の約束の素晴らしい成就です。そのお金は、南アメリカで私達の宣教の仕事を軌道にのせるのに、大いに役立ちました!

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  昔、ニューヨークの名物市長だったラガーディア氏が、警察裁判所の裁判長を務めていた時のことです。そこに、1斤のパンを盗んだために逮捕された老人が連れてこられました。その老人はぶるぶる震えながら、ひもじい思いをしている家族に食べさせるために盗んだと言いました。そこでラガーディア氏はこう告げました。「しかし、あなたを罰しなければならない。法律は法律だ。10ドルの罰金を要請する。」 それから、ポケットから何かを出しながらこう付け加えました。「これでその罰金を払いなさい。それで釈放してあげよう。」そして、10ドル札をあの有名な特大の帽子に入れ、こう言ったのです。「なお、この法廷にいる者全員に、50セントの罰金を払う事を要請する。人がパンを盗まなくては生きていけないような町に住んでいることに対する罰金だ! 廷吏、罰金を集めてきたまえ。そして集まったお金をこの被告人にあげなさい。」 帽子が回され、この年老いた男は、驚きながらも、天からの光に目を輝かせ、47ドル50セントを手に法廷を出て行ったのでした。

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  ある人が夢を見ました。その夢で、神はこう告げたのです。「わたしがあなたの毎週の収入を決めてあげよう。その決め方はこうである。毎週、あなたがどれだけの額をわたしに与えるかを見て、その額のきっかり10倍をあなたの収入とするのだ。」

  できる限り神に与えなさい。さもないと、神は、あなたが与えた額の10倍しか、収入として与えて下さらなくなるでしょう。

  4世紀のこと、オーガスチンは、収穫祭の説教でこう言いました。「私達の先祖達は裕福でした。なぜなら、神に十分の一税を納めていたからです。そして、シーザーにも租税を納めていました。しかし、今では神に尽くす気持ちを失ってしまったために、税金は不当に上がっています。私達は、神と分け合い、神に十分の一を与えることを望まなくなったので、今、私達が神に与えなかった分だけ、税金取りに取り上げられているのです。」

  お金は人を計ります。主に対するその人の献身の度合いを計るのです。お金が人を支配し、人がお金の奴隷になる場合もありますが、お金を使って人が何人分もの働きをする場合もあります。このような人達の与えたお金によって、宣教師は様々な国で福音を宣べ伝え、数え切れないほど多くの人達がイエスの愛と幸せを知ることができたのです!

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  ある夜、私は礼拝で説教をしていました。そして、その礼拝が終わった時、立派な身なりの人が近づいてきて、こう言いました。「スミス先生、私が今人生で持っているものはすべて、先生のおかげなんです。」 私が驚いた顔でその人を見ると、彼はそのわけを話してくれました。

  「私は昔、どん底の生活をしていました。仕事を失い、妻と二人の娘にも去られ、ぼろをまとっていました。そんなある日、あなたが開いていた伝道集会にふと入り込んだのです。その時、私がそれまで聞いたこともなかった凄い事をあなたが言っていました。『神にいくら与えても、神はあなたが与えた以上に与えて下さる。与えなさい。そうすれば与えられるであろう。神にきちんと支払いなさい。そうすれば、神もあなたにきちんと支払って下さるだろう。』と。私は真剣にその言葉に聞き入りました。

  あなたの言葉が真実かどうか試してみようと思い、そこにあった誓約書カードに、神が私に下さるすべてのものの何%かを必ず神に与えると書き込みました。もちろん、私にはたやすいことでした。無一文だったのですから。ところが、驚いたことに、それから数時間もしないうちに、仕事が見つかったのです。最初の給料をもらった時、約束通り、収入の何%かを送りました。それからしばらくしない内に昇給したので、もっと寄付するようになりました。そのうち、新しいスーツまで買えるようになったのです。そしてもっと良い仕事に就くことができました。ほどなく、妻と娘も戻ってきました。私は与え続け、その内に借金をすべて返済することもできたのです。」 こう話す彼の声は喜びに満ちていました。「今はマイホームもあるし、銀行に預金もあります。これはすべて、あなたのおかげです。あなたが正しいということがわかりました。神は御言葉の約束を守られるという事がわかったのです。」

  クリスチャンの、お金に関する考え方は二つあります。「私のお金から、神のために幾ら使うべきだろうか?」という考え方と、「神のお金から、私のために幾ら使うべきだろうか?という考え方です。

  年を取ってからクリスチャンになった裕福な老婦人が、ある日、孫娘と一緒に街を歩いていました。その時、乞食が近寄ってきたので、老婦人はその乞食の話を聞いてやり、バッグから50セント取り出すと、その乞食の手に握らせました。次の角には、救世軍の女の人が寄付のカンを持って立っていたので、老婦人はその中に1ドル入れたのでした。これを見ていた孫娘は興味津々といった顔でこう言いました。「クリスチャンになると、なくなるものが多いのね。」その老婦人は「そうよ」と答えて、説明してやりました。「短気はなくなったし、他の人を批判する悪い習慣もなくなったわ。それに暇な時間を無意味な社交や道楽に費やす気もなくなったのよ。それに利己的で欲張りでもなくなったわ。おまえの言う通り、確かに沢山のものがなくなったわね。」

  神が、人に与えなさいと言われた物をあなたが与えようとしないなら、あなたは、それを所有しているのではなく、それに所有されていることになる。

  十分の一税は、それだけ与えておしまいというのではなく、最低それだけは与えなさいという目安である。