宝 723-726

 

砕かれることによって造られる!

 

  イエスを知り、イエスを愛する私達にとって、この人生の経験のすべては、ちょうど大いなる学校教育のようなものです。主は私達の教師であって、私達の一人一人に対して、主や主の愛、救い、奉仕について知る必要のあることのすべてを教え、また、私達が主に服従し、主の御言葉に従うのを助けたいと望んでおられるのです。

  自分だけの力で、主や主の天の御国のために実際に何かを成し遂げることのできる者など、一人としていないことを、神は知っておられます。事実、イエスは、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と言われました。(ヨハネ15章5節) でも、聖書には、「キリストによって」私達は「何事でもすることができる」と書いてあります。 (ピリピ4章13節) もし、 私達がただ単に主に服従し、神が望んでおられる者に、つまりあるがままの自分ではなく、神の期待される通りの人間に喜んでなりたいという気持ちが本当にあるなら、その時、神は私達を力強く使うことができるのです!

  無論、主に対して何事をするのもいとわず、すべてを委ね、服従した者となるということは、私達が一晩で学べることではありません。それには、時間がかかり、砕かれ、苦しむ過程を要するのです。また、私達を必死にし、もっと主の近くに引き寄せるような教訓や経験が必要です。

  神によって使われることができるようになる前に、神によって身を低められなければならなかった聖書の中の人物、つまり、高く上げられる前に、神が深みに引き降ろさなければならなかったリーダーは、数え上げたらきりがないほどです。神がそうされなかったなら、彼らは自分で事を成し遂げたのだと考え、神に栄光を帰さなかったことでしょう!

  ヨセフを見て下さい! 彼は、ヤコブの12人の息子の中でも、父の一番のお気に入りの子でした。ヨセフの兄達はとうとう彼をひどく妬むようになり、彼を半殺しにし、穴の中に投げ込み、そして奴隷として売りとばしてしまったのです! しかし、それこそ、ヨセフを謙虚な者にするために主が使われたことだったのです。神によって高められ、主の民の救い主となることができる前に、ヨセフはまず奴隷となり、囚人となり、犯罪人としてのとがめを受けなければならなかったのです! (創世記37章、39-41章)

  そして、モーセを見て下さい! 彼は40年もの間、他ならぬパロの王宮で教育を受け、超世界帝国であった古代エジプトの全土においてパロに次ぐ有力者にのし上がったのです。聖書には、モーセが、「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれた」と書いてあります(使徒行伝7章22節) が、神はまだ、その民を自由へと導くために彼を使うことはできませんでした。モーセは神のやり方ではなく、この世のやり方でいっぱいだったからです。モーセはまず砕かれなければなりませんでした。そこで、神は彼をパロからの逃亡者にし、彼は40年間を荒野で過ごさなければならなくなり、その間彼のしたことはただ羊の世話をすることだけでした。そしてとうとうモーセが十分に砕かれ、謙遜さを備えた人間になった時、神は、モーセのために計画しておられた任務にモーセを使うことができたのです! (出エジプト記2,3章)

  そして、イスラエルが生んだ最も偉大な王、ダビデ王のことを考えてみて下さい。バテシバに恋をしたダビデは、意図的にその夫を戦場で戦死させ、それからその全犯罪を嘘で包み隠したので、神は完全に彼の罪を暴露し、その高慢な鼻をへし折り、厳しく裁かれなければなりませんでした! そして間もなく、ダビデは裏切り者となった自分の息子、アブサロムによって王座を追われてしまったのです。(サムエル記下11、12、15章)

  でも、ダビデの失墜は下向きだったのでしょうか、それとも、上向きだったのでしょうか? 神の上への道は、下に下がる事である場合があります。実際のところ、たいていの場合は! 私達が考えるのとは正反対なのです! そして、ダビデは低められ、全王国も低められて、彼らを偉大なものにされたのはただ主だけだったということを、皆が改めて知ったのでした! そして主の憐れみのゆえに、ダビデの人生のその苦難と挫折から、詩篇の甘い蜂蜜と、主へのかぐわしい賛美の芳香が生じたのです!

  勇敢で、力強い、偉大な預言者エリヤは、バアルの偽預言者を恥ずかしめ、自分が正しいことを証明するために、天から火を呼び下ろすこともできました! (列王紀上18章) けれども、何百人もの偽預言者を殺した後で、エリヤは恐ろしくなり、一人の何でもない女、すなわち、邪悪な女王イザベルから逃げ出してしまったのです! 荒野に隠れたエリヤはひどく落胆してしまい、死ぬことを願ったほどでした! しかし、その絶望の時にあって、この火と雷の預言者は、神の静かで、小さな声に耳を傾けることを学び、柔和な人になったのです! そして、主の御手によって使われる、はるかに優れた、より謙虚な道具になったのです。彼は、女王だけではなく、王やすべての兵士をも恐れぬ預言者となって戻りました!

  そして、使徒ペテロを見て下さい! 彼はイエスに、「たとえ他のすべての者があなたを見捨てても、私は獄にでも、また死に至るまでも、あなたと一緒に行く覚悟です!」 (ヨハネ13章37節、ルカ22章33節) と言いました。しかし、そのほんの数時間後、イエスが宮の番兵達に捕らえられ、ユダヤ人の宗教裁判所に引き出された時、建物の外にいた何人かの人がペテロに気づき、彼はイエスの友人だと言うと、ペテロは、イエスを知っていることさえ強い口調で打ち消し、ののしったり、いったい彼らが何のことを言っているのかさっぱりわからないと断言したほどでした! (マルコ14章66-71節)

  ペテロが三度目にイエスを知らないと言った時、ご自分を捕らえた者達によって建物の別の場所に連れて行かれようとしていたイエスが、振り向いてペテロを見つめられました。その時、ペテロは、自分が決して主を知らないなどとは言わないと誓ったことを思い出したのでした。ペテロはそれから「外へ出て、激しく泣いた」と、 聖書には書いてあります。 (ルカ22章62節) これは、主のためのペテロの奉仕の終わりだったのでしょうか? そうではありません! 主がペテロを初代教会のリーダーとされたのは、この屈辱的な敗北、この大失敗の後、間もなくしてのことだったのです!

  あるいは、偉大なる使徒パウロのことを考えてみて下さい。彼はラビのサウロとして知られた、有力なユダヤ教のリーダーでした。そして、急速に広まっている、ナザレのイエスの信奉者達からなる新興宗教にとどめを刺すことを自分の使命としていたのです。手当たり次第、できるだけ多くのクリスチャンを捕らえ、獄に入れ、処刑しようと、馬にまたがってダマスコまで旅をしていた彼を、神は馬からたたき落とし、神の存在そのものであるまばゆい光をもって彼を盲目にされなければならなかったのです! かつての偉大なラビのサウロは無力にされ、盲目にされて恐れおののき、町まで手を引いて連れて行ってもらわなければなりませんでした。そしてショックのあまり三日の間、食べることも飲むこともできませんでした! その時、主の弟子の一人がやって来て、パウロに神からの言葉を伝え、その目のために祈ってやると、ラビ・サウロは改宗し、あの偉大なる使徒パウロとなったのでした! しかし、神によって使われることができるようになる前には、彼もまた神によって身を低められ、砕かれて、新しい人にされなければならなかったのです! (使徒行伝9章)

  というわけで、自分がどうして試練や苦難や砕きを経験しているのか、いつも理解できなくても、神は、ご自分の計画を知っておられるということを、忘れないで下さい! 神は、それぞれの試みや試練や悩みの背後にある目的、理由をすべてご存知なのです。

  主は、「主を愛する者達には、すべてのことが共に働いて益となる」と約束しておられます!(ローマ8章28節) 主は、主の子供であるあなたには、あなたの益となること以外に何一つ起こるのを許されないでしょう! 勿論、私達はしばしば、「何てことだ! 私にはあまり好ましく思えない事が幾つも起こる!」と感じるものです。でも、遅かれ早かれ、何らかの点で、それがあなたにとって良いものだったことがわかるようになるのです!

  神は、敗北のように見えるものから、最大の勝利を収められることがあるということを、あなたは悟るでしょう。それは主に対する服従、砕けた心、謙虚さ、そして主に完全に頼るという勝利です。そうしたものは、もし、あなたが神の望まれる者になるつもりでいるならば、絶対に欠かせないものなのです! だから、こういった聖書の手本によって気を取り直し、たとえ物事が何もかもうまくいかず、希望が失望に終わっても、落胆してはいけません。

  何かのことでかつて主に真に使われたことのある人はすべて、まず初めに、砕かれ、低められ、事実、自分ではできないと悟るまでに至らなければなりませんでした。そうでなかったら、あまりにも高慢になり、自分の才能や生まれつきの能力に自信を持ち過ぎてしまって、神が彼らを使われようものなら、栄光を自分に帰してしまうことでしょう。主が弱いもの、愚かなものを選んで使われるのはこのためです。つまり、「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため」なのです! (第一コリント1章25-29節)

  神は必ずしも私達と同じようなものの見方をされるわけではありません。「主の思いは私達の思いとは異なり、主の道は私達の道とは異なるから」です。 (イザヤ55章8,9節) そして、主は私達の成功や失敗によってではなく、私達の忠実さによって、私達を裁いたり、報いたりされるのです。主は、いつか天国で、主に対して忠実であった者達に、「良い忠実なしもべよ、よくやった!」と言われるでしょう。 (マタイ25章21節) 「しくじったしもべ」とか、「成功したしもべ」と言われるのではなく、「忠実なしもべ」と言われるのです!

  だから、何よりもイエスに忠実でありなさい!そして、先ほど出てきた聖書の中の人物がしたように、もしあなたが自らを低くして、主が教えようとしておられる教訓を学ぶならば、あなたには敗北と見えるものも、主のための大勝利となることがあるのを忘れないでいて下さい。

  「これらの事が彼らに起こったのは、他に対する手本としてであって、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私達に対する訓戒のためである!」(第一コリント10章11節)