宝 P.720-722

 

スルタンとサタン

−−すべての人への教訓!

 

  東方のある古い伝説に、こんな話があります。敬虔な、神の人として知られていた、ある偉大なスルタン (イスラム教国君主の称号) は、寝過ごして、祈りの時間になっても目を覚ましませんでした。祈りの時間が過ぎつつあるのを知った悪魔は、スルタンを起こしに来て、急いでベッドから出て祈るようにとせきたてました。

  「お前はいったい何者か?」 びっくりしたスルタンは、眠い目をこすりながら尋ねました。

  「いや、それはどうでもいいことです。」と、その怪しい人影は答えました。「大切なのは、私があなたを時間通りに起こしたということです! 起こしていなかったなら、あなたは10年ぶりに祈りの時間を逃してしまっていたでしょう!−−祈るのは、とても良いことですからね。」

  スルタンは誇らしげに答えました。「ああ、その通りだ! 私が祈りの時間を逃すなど全く考えられない。ただの一回だってだ! 

  だが、ちょっと待てよ! お前には見覚えがあるぞ。そうだ、お前の顔は知っている。そうとも、お前はサタンだ。お前が現れたのには、絶対に何か悪い動機があってのことだな。」

  侵入者は強い口調で答えました。「あなたが思っているほどの悪者ではありません! 以前、天使だったことさえあるのですから。」

  年老いた賢いスルタンは言いました。「それは結構なことだ。だが、お前は欺く者だ。それがお前の仕事ではないか! だから、神の御名によって要求する。事もあろうに、そのお前がいったい何だってこの私を起こして、祈ってほしいと望むのか、言いなさい!」

  スルタンがしつこく尋ねるので、悪魔はむっとしてこう答えました。「そうですか、どうしても知りたいのなら、話しましょう。それは、もしあなたが寝過ごして祈るのを忘れてしまったなら、そのことをひどく後悔し、悔い改めていたことでしょうが、10年間、一度も祈りを怠らない生活を続けるなら、あなたは自分にすっかり満足するようになるからなんです。祈るのを一回怠って、そのことを悔い、神に許しを求めるよりは、自分に満足するほうがあなたにとって、はるかに悪いんです! あなたの誇りで味つけられたあなたの徳よりは、悔い改めの混じった過ちのほうを、神ははるかに好まれますからね!」

 

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  この昔話には、何と重要な教訓があることでしょう。間違いを犯す事が私達にとって実際に良い事である場合がよくあるのです! もし間違いを犯さないなら、私達はきっとひどく自惚れてしまい、自信過剰になって、神や他の人々からの助けが必要だという気がしなくなってしまうでしょう。すっかり思い上がって、自己満足してしまうなら、実際には、神に近いのではなく、自分自身に近いのです!

  この現代社会では、確かに多くの人々が、誇りはかなりの美徳であると信じるように教え込まれています。でも実際には、神の目には、誇りや独善は、心の罪として映るのです! 事実、聖書には、「高ぶりは滅びに先立ち、誇る心は倒れに先立つ!‥‥神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜う」と書かれています。 (箴言16章5,18節、ヤコブ4章6節)

  神は頻繁に、私達の間違いを通して、私達がおごり高ぶる気持ちを抑えるのを助けられます。間違いをすると、私達は、高慢さがくじかれて、謙虚になり、主の助けにもっと頼り、自分自身の力ではなく、主の力にもっと頼るようになるからです。私達が自分のことを完璧だと考えて、あまりにものぼせ上がってしまうことがないように、私達が失敗することを主が望んでおられる時さえあると聞くと、あなたはびっくりするかもしれません!

  敗北のように見えるものから、神が最大の勝利をもたらすことがあります! 「勝利ですって? でも、それは一体どんな勝利だと言うのですか?」と言う人もいるかもしれません。神が屈辱的な経験を用いて、あなたをより良い人間、つまり、他の人達の過ちにもっと憐れみと理解を示し、もっと愛情深く、忍耐のある人にされる事が実に頻繁にあります。もしそういった経験がなかったなら、あなたはそのような人ではなかったかもしれないからです。

  自分の失敗もそこから何かを学ぶことができると悟るのは、つまり、失敗を建設的な観点から見るのは、励ましではありませんか? 主は、あなたを地面にたたきのめそうとしておられるのではなく、あなたの間違いを使って、もしそのような身を低くさせるような体験がなかったなら、多分学ばなかっただろう多くの重要な教訓を教えて下さっていると考えると本当に励ましになります!

  無論、これをするためには、自分に対して正直になり、喜んで自分の間違いを告白して、その誤りを正そうとしなければなりません。でも、よく言われるように、どんな言語でも、一番言いにくい言葉は、「私が間違っていた!」です。そして、自分の失敗を一番告白しにくい相手とは、大抵の場合、自分自身なのです。これをするためには、神のみが与えることのできる謙虚さが必要です。完璧で誤りがないように思われたいというのは、人間の持って生まれた罪深い性質であり、その結果、自分の間違いを告白できなくなってしまうからです。

  でも、もし真理を望み、神の祝福を願い求めるのであれば、私達は、自分の過失や失敗を正直に、身を低くして認め、告白するでしょう。そして昨日よりも今日もっと賢くなったと知ることで慰めを感じるでしょう。一般的な考え方とは違って、過ちを認めることは、自分の弱さの告白というよりは、むしろ強さの現れなのです!

  それに加えて、あなたが完全とはほど遠いことを、神は御存知です。事実、あなたが完全にはなれないこと、今後も決して完全にはなれないことを知っておられるのです。だから、最も重要な点は、あなたが完璧であるかどうかではなく、主と主の恵み、愛、憐れみに信頼して、全面的に主に頼っているかどうかなのです。あなたは、自分がどんな善行をしたとしても、すべての栄光を神に帰し、神をほめたたえるでしょうか? 何か良いことを成し遂げた時には、いつでも、「私にではなく、ただイエスに感謝して下さい! 私が何か良いことをしたのであれば、それはただ主の助けがあったからです!」と言ってはどうでしょうか。

  覚えておくとよい原則とは、自分が良いことをしたならそれが何であっても、神にすべての栄光を帰し、悪いことをしたならそれが何であっても自分の責任にするというものです。そうすれば、事実上あらゆる罪の根源である独善的な傲慢さの、あの恐ろしいわなに落ち込まない助けとなるでしょう!

  というわけで、間違いを犯してしまって、がっかりしたり、落胆しそうになったら、あのスルタンが聞いた言葉を思い出すことです。「あなたの誇りで味つけられたあなた自身の徳よりは、悔い改めの混じった過ちのほうを、神ははるかに好まれますからね!」

                                              

 

  祈り: 主よ、私達の間違いでさえ、私達にとって良いものであると気づくのを助けて下さい。自分の過ちや欠点に関して、自分自身と他の人達とに正直であるのを助けて下さい。あなたがいて下さらなければ、自分が無であることを告白します。 (ヨハネ15章5節) あなたが私達を砕かれ、私達を造り直そうとされることに対して抵抗しないように助けて下さい。そのような経験は、実際に私達があなたにより服従し、より謙虚な者となるのを助け、何よりもあなたの奉仕のために、より役立つ者としてくれるからです。イエスの御名によって祈ります。−−アァメン。