宝 P.695-698

 

神は無抵抗主義者ではない!

  山上での垂訓の中で「悪人に手向かうな」とイエスが言われた所を引用して、クリスチャンはすべて無抵抗主義者であるべきであって、神に敵対する無神論者の敵どもに猛攻撃されても、何もすべきではないと主張する人達がいます。私達がキリストの戒めに従うべきなのは確かですが、個人個人、あるいは国家が、その戒めをどのように適用するのを主が望んでおられるかを知るために、まず神の御言葉を入念に読むことが賢明でしょう。

  マタイ5:38-45にはこう書いてあります。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし誰かがあなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者にも良い者の上にも雨を降らして下さるからである。」

  以上の聖句の中で、キリストは、悪人に攻撃されても、また持ち物を一切合切奪われても何の抵抗もせず、されるがままにするという、完全なる無抵抗主義を説いておられたわけではありません! 主は、目的があって、そのような道義を勧めておられたのです。その目的とは、私達がクリスチャンの愛と憐れみと許しの良き手本となって、敵をキリスト教に改宗させることでした! ですから、誰かがあなたの上着を取ろうとしたら、「私の物を取る必要はない。喜んであなたに分け与えたいのだから。そして、それを証明するために、ほら私のコートもあげよう!」と言うことができます。または、「私に君と1マイル行ってほしいのかい? いいよ、そうしよう。しかし、君に強制されたからではなく、クリスチャンの愛のゆえにしているということを証明するために、もう1マイル余分に君と行くこともいとわないよ。」と言うのです。

  しかし、「ほかの頬を向ける」ことについてはどうでしょうか? これは、誰かがあなたを肉体的に攻撃する時には、即座に反撃する代わりに、もう片方の頬さえ打たせなくてはいけないということです。これはどういう意味でしょうか? イエスは、相手が私達をたたいたり、殴り続けている間、私達は何も手出しをすべきでないという意味でそう言われたのでしょうか? そして、彼らが私達の愛する人達を殴ったり、苦しめたり、殺しさえしても、その暴力的で残忍な敵を許し、その敵どものために祈りながら、穏やかに何もしないで突っ立っていなさいということでしょうか? 明らかに違います! それなら、イエスの言わんとしておられたことは何だったのでしょうか?

  イエスは、彼らを主に勝ち取ろうとする為に、私達は敵に対して忍耐と憐れみを持ち、敵を愛するよう努めなくてはいけないと言われたのです。「私達を憎む者に親切にし、私達を侮辱する者や、迫害する者を愛し、彼らのために祈りなさい。」−−彼らがその冷酷で残忍な態度を変えるように祈りなさい! そうです、私達は彼らに神の愛を示すために「余分の1マイルを行く」べきです。しかし、いずれはその1マイルも終わり、もう十分だという時が来ます! 「敵を愛する」ために「ほかの頬を向けよ」などという戒めには、限りがあるのです。あなたが愛と許しをこめて、穏やかで親切に接しようと余分の努力を払っても、あなたの敵がそれに応えないのなら、もうそうする必要はありません!

  そうです。イエスは「ほかの頬をも向けてやりなさい」と言われましたが、あなたには二つの頬しかありません! そしてそれでもあなたの敵がまだ攻撃の手をゆるめず、あなたがほかの頬を向けても満足しないのなら、その時は、敵がもうこれ以上悪を行わないよう反撃すべきです! 2発か3発たたかれるか殴られるかしたなら、あなたは、相手が救いがたい敵で、あなたに傷を負わせることしか考えておらず、悔い改める気などさらさらないことに気がつくはずです! その時点を過ぎたなら、もう向ける頬も残っていないので、自分の身を守り始めるべきです! それは聖書にかなったことです!

  主が求められたのは、もう一方の頬を向けることだけであって、それ以上のことは求められませんでした。相手が両方とも打ったのなら、それで十分です! もしそれでもあなたを攻撃し、迫害し続け、悔い改めや改心の色を全く見せないなら、いつまでも彼らに愛と忍耐を示す必要はありません!

  神ご自身でさえ、愛と憐れみを示し、改心するチャンスを与えてやっても、その道を改めることを拒み、悔い改めようとしない悪人どもには、憐れみと忍耐をいつまでも施されたりはしませんでした。主は彼らに時間を与え、愛を与え、忍耐を示して、警告を与えられます。しかし、時が来て、彼らがそれでも悔い改めないなら、神はためらうことなく裁きを下し、義の怒りを彼らに注ぎ始められるのです! 「彼らが神の使者達をあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者達をののしったので、主の怒りがその民に向かって起こり、ついに救うことができないようになった!」 また主はこうも言われます。「しばしばしかられても、なおかたくなな者はたちまち打ち敗られて助かることはない!」−−歴代志下36:16、箴言29:1。

  「天の父は、悪い者にも良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ5:45)  そうです、それは真実です。しかし、主がいくら愛をこめて彼らを扱っても、それに応えることを彼らが拒否するならどうなるでしょうか? ヘブル6:7,8にはこうあります。「土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまう!」

  つまり、一定の時点まで来ても、神の敵とその民が神の愛の太陽と神の憐れみの雨に応えないなら、神は彼らを呪い、彼らは滅ぼされると、神の御言葉は言っているのです! イエスご自身、「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」時が来ると言われました!−−マタイ3:10、7:19。

  邪悪な農夫達のたとえも、この事をわかりやすく説明しています。「イエスはたとえで彼らに語り出された。『ある人がぶどう園を造り、それを農夫達に貸した。季節になったので、農夫達のところへ、一人の僕を送って、ぶどう園の分け前を取り立てさせようとした。すると彼らはその僕をつかまえて、袋だたきにし、から手で帰らせた。また他の僕を送ったが、その頭を殴って、侮辱を加えた。そこで更に三人目を送ったが、今度はそれを殺して、死体を放り出した。』」

  「それで主人は、『どうしようか。そうだ、私の愛子をつかわそう。これなら、多分敬ってくれるだろう。』と言った。しかし、農夫達は、彼をぶどう園の外に追い出して殺した。それからイエスは尋ねられた。『そのさい、ぶどう園の主人は、彼らをどうするだろうか。彼は出てきて、この農夫達を殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう!』」 つまり、とうとう報復をするということです!−−マルコ12:1-9、ルカ20:9-16。

  イエスは私達に、「敵を愛せ」、神に敵対する敵さえも愛せと命じられました。しかし、和解の手を差し延べ、できるだけ彼らに理解を示して、平和的に「ほかの頬」を向けることでクリスチャンの愛を示してやっても、それでも、彼らがその愛や憐れみや忍耐を強情に拒絶し、私達を打倒するために暴力で激しく攻撃しようと躍起になっているのなら、私達はもはや、彼らに忍耐や愛を示し続けるという道徳的な義務は負っていません。その時はもう、彼らにたたき返す時です!

  また聖書には、邪悪な敵どもの頬を打つことについて書かれた聖句もあることを覚えておきましょう! 詩篇3:7にはこうあります。「わが神よ、あなたはわたしのすべての敵の頬を打ち、悪しき者の歯を折られるのです!」

 

 

詩篇 第2篇

  1.なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。

  2 地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさは共に、はかり、主とその油注がれた者とに逆らって言う、

  3 「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と。

  4 天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。

  5 そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる。

  6 「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と。

  7 わたしは主の詔 (みことのり) を述べよう。主はわたしに言われた。「おまえはわたしの子だ。今日、わたしはおまえを生んだ。」

  8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。

  9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」と。

 10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、地のつかさらよ、戒めを受けよ。

 11 恐れをもって主に仕え、おののきをもってよろこべ。

 12 御子に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう。その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主により頼む者はさいわいである。