宝 P.629-633

 

落胆!−−いかにそれと戦うか!

  一度、イエスを心に受け入れたなら、あなたは神の新しい子供として「新しく生まれた」のであり、永遠に主のものです! 聖書には、その時点から、主とのあなたの日々の歩みは、「いよいよ輝きを増して真昼となる、輝ける光のような道」となる、と書いてあります。 (箴言4章18節) イエスを受け入れることは、全く新しく素晴しい人生の始まりなのです。なぜなら、「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。 古いものは過ぎ去った。すべてが新しくなった!」からです。 (第二コリント5章17節)

  もちろん、成長過程にある子供なら誰でもそうであるように、霊的に新しく生まれた神の子供もまた、新しい人生の道において成長や進歩を遂げる過程でつまずいたり、倒れたりしますが、それはやむを得ないことです。そして、子を愛する親なら誰でもそうであるように、主はとても憐れみ深く、理解があり、私達が倒れた時にはいつでもすぐに引き起こし、手を貸し、立ち直らせて下さり、私達の過ちを許し、主の力を与えて、私達が主の道を歩み続けるのを助けて下さいます。「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。たとい、私達が倒れても、主が常に御手で私達を支えられる。」(詩篇103篇13節、37篇24節)

  私達がつまずき、倒れたり、失敗したように思えたりする時、私達は自分に失望し、どうして主はそういったことが起こるのを許されたのだろうと思ってしまいがちです。でも、主の御言葉は、「わたしたちの天の父の許しがなければ、一羽のすずめも地に落ちることはない」(マタイ10章29節)と保証しています。そして、私達は、「多くのすずめよりも、まさった者」(ルカ12章7節) なのだから、主の目と主の御手が私達の上にも置かれているということが保証されています。

  たとえあなたに何が起ころうとも、聖書には、「神を愛する者達には万事が共に働いて益となる。」とあります。(ローマ8章28節) ですから、 そのように倒れたり、失敗した時には、私達にとってあまり良い事に思えなくても、それらの事柄に対して主が理由と目的を持っておられることを私達は知っているのです。その理由と目的とは、私達が学ぶ必要のある教訓を教えるか、私達の信仰をテストするか、あるいは、主なしには私達がいかに弱く、無力であるかを示すことによって、私達を謙虚な者にするということなのでしょう。それによって、私達は祈り、主により近く引き寄せられ、主の力と助けにもっと頼るようになるのです。

  私達が倒れたりするのを主がどうして許されるのかを、いつも理解できなくても、私達が必ず覚えていなければならないのは、主が私達を愛しておられ、常に私達のかたわらにいて、忠実に、私達を助け起こし、元気づけ、励まし、助けて下さるということです。神の愛情深い聖霊は慰め主です。「いかなる試練や患難の中にいる時でも私達を慰めて下さる、悩める時のいと近き助け」なのです。 (ヨハネ14章16節、 第二コリント1章4節、 詩篇46篇1節)

  けれども、私達の霊的な敵である悪魔も、私達が倒れ、失敗し、間違いを犯した時には、たいていその場に急いで駆けつけて来るものです。でも、私達を救出し、助けに来られる主とは違って、悪魔は、私達を非難し、責め、落胆させに来るのです! 聖書は私達に、「悪魔の策略に無知であってはならない」(第二コリント2章11節) そして「身を慎み、 目をさましている」べきだと告げています。「私達の敵である悪魔が、ほえたけるししのように、 食いつくせるものを求めて歩き回っている」からです!(第一ペテロ5章8節)

  悪魔がクリスチャンに対して用いるお気に入りの「策略」、 すなわち手段の一つは、 落胆させることです! 悪魔は、あなたが救われ、イエスに人生を捧げるのを妨げることができないとすると、今度はできる限りの努力をして、あなたを落胆させようとします。そうして、あなたをあきらめさせ、あなたが主に仕え、他の人に主のことを告げ知らせるのを止めさせようとするのです! そして、落胆させるための手段の中でも、私達のほとんどに対して悪魔が一番好んで使うのは、私達の目を、自分の間違いや罪や弱点や失敗に向けさせることによって、主ではなく、自分に目を向けさせることなのです!

  聖書には、「義人はいない、一人もいない!−−すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている。人の心は罪深く、悪に染まっているので、誰がこれを知ることができようか?」とあります。(ローマ3章10,13節、エレミヤ17章9節) 主は、私達の誰もが完璧にはほど遠いことを知っておられます。そして、事実、主がいて下さらなければ、私達は皆まさにどうしようもない人間なのです! 偉大なる使徒パウロさえ、「私の内に、 すなわち、 私の罪深い己れの内には、 善なるものが宿っていないことを、私は知っている。ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう!」と告白したのでした。 (ローマ7章18,24節)

  聖書には、私達が自分を見るべきだとは書かれていません。「私達の信仰の導き手であり、 またその完成者であるイエスを仰ぎ見る」べきだと書かれているのです! (ヘブル12章2節) 主は、私達のあらゆる問題や悩みや災いを見よ、とも言っておられません。そうするなら、私達は確実にその中に沈んでしまうからです!−−ちょうど、イエスに呼び出され、舟から出て海の上を歩いた時のペテロのように!

  それは夜遅くのことでした。イエスは、舟で海を渡っていた弟子達に向かって、海の上を歩いて行かれました。聖書にはこうあります。「イエスが海の上を歩いておられるのを見た弟子達は、おじ惑い、恐怖のあまり叫び声を上げて、『幽霊だ!』と言った。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ! わたしである。恐れることはない!』と言われた。」

  「するとペテロが答えて言った、『主よ、 あなたでしたか。 では、 私に命じて、 水の上を渡ってみもとに行かせて下さい!』イエスは、『来なさい!』と言われたので、 ペテロは舟からおり、 水の上を歩いてイエスの方へ行った! しかし、 激しい風と荒れ狂う波を見て恐ろしくなり、 そしておぼれかけたので、 彼は叫んで、『主よ、 お助け下さい!』と言った!  するとイエスはすぐに手を伸ばし、 彼をつかまえられた。」(マタイ14章25-31節)

  ペテロは、自分の目を主から離して足元の波を見始めた時、心配になり、沈みかけたのでした! そして、目を再び主に向け、主に助けを呼ばわっていなかったなら、溺れていたことでしょう!

  この話は、いかに、悪魔がしばしば、私達が気落ちし、あきらめ、投げ出してしまうように仕向けようとするかを、本当にわかりやすく描いています。特に、私達が、つらい、嵐のような時を経験しているなら、なおさらのことです。そういう時には、私達が本当に信仰によって歩み、主に目を留めておく必要があるのです。 (第二コリント5章7節) 敵はやって来て、私達が状況を見るように、また状況の不可能な部分を見たり、自分達の過失や失敗や間違いを見たりするように、私達を誘惑しますが、それは、もしそうするなら、私達が確実に沈んでしまうのを、知っているからです!

  しかし、神の力の方が悪魔の力よりもずっとまさっています! 私達はただ、主に助けを呼び求めればよいのです。そうすれば、敵はいつも敗北します! だから、悪魔があなたを打ち負かす唯一の方法は、「あなたが目的を達成する見込みなど到底ないのだから、降伏した方がいい」と言って、何とかしてあなたが投げ出すように説得することだけです。悪魔は、「そんなことをしても無駄だ!」と言うのです。 もし悪魔が、 あなたを落胆させ、あきらめるよう説得してしまうなら、あなたは敗北する運命にあります! 聖書は、「うみ疲れても、 意気そそうしてもいけない」と警告しています。(ヘブル12章3節、 ガラテヤ6章9節) 何故なら、もし意気そそうして霊の戦いをやめてしまうなら、体もやがては疲れ果て、主の御心を行なうのをやめてしまうからです!

  だから、主の役に立ち、他の人達にとって祝福となりたいのであれば、あなたを落胆させようとする悪魔と戦うことを学び、それを克服する必要があります! 神の御言葉は、「敵が洪水のように襲って来る時、神の御霊は彼に対抗して軍旗を掲げる!」と告げています。 (イザヤ59章19節) もし、つまずき、倒れてしまい、敵が、あなたを意気そそうさせ、落胆させるために「洪水のように襲って来」たら、 一心に主に呼ばわりなさい。そうすれば、神があなたを救い出し、勝利を与えて下さいます! 主は、「神に服従しなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去るであろう!」と言っておられます。(ヤコブ4章7節)

  というわけで、悪魔があなたをがっかりさせ、落胆させようと試みるなら、戦いなさい! 悪魔の声や嘘に耳を傾けさえしてはいけません。まして、降伏するなどもってのほかです! イエスの御名によって悪魔に立ち向かい、その疑いや恐れや嘘を叱責し、イエスに自分を救い出して下さるように求めなさい! そうすれば、イエスは救い出して下さいます!

  聖書には、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で完全に身を固めなさい!」とあります。 (エペソ6章11節) そして、神は私達が必要としている霊的な武具の色々な部分をすべて列挙して下さっています。 (エペソ6章10-18節) この章句の中に記載されている攻撃的な武具の一つは、「御霊の剣、すなわち、神の言葉」です! (エペソ6章17節) 主の力や、保護や、許しや、憐れみなど、あなたが必要としているものを与えようと神が約束している聖書の節を選び、祈ってその約束を実現して下さるように要求し、声を出して主にそれを言い、さらには、悪魔に立ち向かうために、悪魔に対してさえその約束を言うのです。そうすれば、「神の言は生きていて、力があり、いかなるもろ刃の剣よりも鋭く」、悪魔は御言葉の真理に耐えられないということを知るでしょう! (ヘブル4章12節)悪魔はしっぽを巻いて逃げ去ります!

  また、悪魔がうるさくつきまとい、あなたの過失や間違いや短所を指摘し続けるなら、正直になって、「もちろん、私は良くない! もちろん、私は何も正しくやる事はできない! もちろん、私は山ほどの間違いを犯す! だけど、もし神がいて下さらなかったなら、もっとひどい者だっただろう!私の唯一の希望、それは、私の内にいますキリストであり、それこそ栄光の望みなのだ!」と認めてしまえばよいのです。(コロサイ1章27節)

  私達は一人残らずどうしようもない人間なので、もし目を主に留め、思いを主の御言葉に留めていないなら、私達は戦いに破れ、疑いを持つようになり、幻滅し、最終的には失敗してしまう運命にあります! だから、完璧になろうとするのはやめなさい。決してなれっこないのですから! あなたが何か良い事をするのを助けられるのは、イエスだけなのだと知って、ただ主に従い、ベストを尽くしなさい! 自分の事や自分の問題を忘れ、他の人達の事や彼らが何を必要としているかを考えなさい! そして、他の人達が幸せになるのを助けようと努めているなら、幸福の方があなたの所にやって来るでしょう!「与えよ、そうすれば、自分にも与えられるであろう!」(ルカ6章38節)

  だから、たとえ倒れるか、失敗するかしても、悪魔に気落ちさせられてはいけません! あきらめないで! 自分の悲しみに溺れてしまってはいけません! 破れた夢から橋を作り、再び船を出しなさい。たとえその船がすっかりぼろぼろで、ずたずたになっていたとしても! 信仰によって船出して、神には何が成し得るかを見てみなさい!

  下を向いて、波や、自分自身や、自分の問題ばかり見ていてはいけません! 天国を見上げなさい!「イエスを仰ぎ見つつ」! (ヘブル12章2節) 自分の間違いや失敗や問題や悩みを、くよくよ考える必要はありません。神の御言葉は、良いことについて考えなさい、と言っています!「すべて真実なこと、すべて正直なこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心に留めなさい!」(ピリピ4章8節)

  だから、がっかりし、気落ちし、落胆してしまいそうになったら、見上げなさい! 主をほめたたえ、主があなたのためにして下さったすべてのことを主に感謝しなさい! あなたの祝福を数え、あなたの思いや心、さらには声をも、祈りと賛美の言葉や、前向きの考えで満たし、聖句を口にし、主に向かって歌いなさい。そうすれば、悪魔や悪魔の夜の闇は追い払われてしまいます! ただ、光を招き入れなさい。神の御言葉の光、祈りの光、賛美の光、また他の人に仕え、助けるという光を! そうすれば、闇はおのずと逃げ去ってしまうから! 主をほめたたえよ! 神があなたを祝福し、あなたの心を奮い立たせて下さいますように! イエスの御名によって祈ります。アァメン。