宝 P.625-628

 

神は決して、私達の期待にそむかれない!

  誰もが、人生において、物事が全くうまく行かずに、深く失望したという経験を持っています。そしておそらくは、神は私達の期待にそむかれたのではないかと思ったりしたことがあるでしょう。これは絶対に神の御心だと自分で確信して、そのために一生懸命に励み、神はきっとその努力を祝福して下さると思っていたのに、また、神の助けを求めて真剣に祈っていたのに、何かの理由で、何もかもがうまく行かず、神が私達の期待にそむかれたように思えることがあります! あなたにも、そんな経験はありませんか?

  たとえ、それがうまく行かなかったのも当然だと思えるような理由があり、状況を見れば納得がいくとしても、クリスチャンとして、次のような疑問がしばしば浮かんできます。「でも、主よ、私はそれがあなたの御心だと思っていました! ですから、どうして奇跡をしてでも、何とかそれを行なって下さらなかったのですか? どうして私の期待にそむかれたのですか?」 そのような時には、投げやりになって、私達の失敗をすべて神のせいにしがちです! つまり、「神を非難して」、心の隅で、神に対して幾らか反感を抱き始めるのです。

  そんな時、実際、ひどく失望し、落胆してしまうものですが、私達は自分自身にこう問いかけてみるべきです。「神は本当に私達の期待にそむかれたのだろうか?」と。主とその御言葉に真に信頼し、それに従う私達にとって、その答えはもちろん、ノーです。神は決して私達の期待を裏切られることはありません。ですから、物事が悪い方向に進んでしまった時には、どこかで、何らかの点で私達が失敗したのであって、それは私達のせいだという事実を受け入れなければなりません。

  私達の動機が正しくない時や、私達が自信満々で思いあがっていて、神にすべての功績や栄光を与えていない時には、たとえ目的やプロジェクトが良いものであっても、それが失敗に終わることがあります。明らかに神の御心であるのに、主が「祈りに答えられず」、「失敗」するのを許されているように思えることがありますが、その理由として考えられるもう一つの大切なことは、私達が神に不従順で、神の言われることを信じていないということです! すべてのことが神のご計画に従って進んで行き、私達が祈っている通りに物事が進行していても、もし私達が信仰をもってとことんまでやり遂げず、神が信じて従うようにと言われるその時に即座に従うだけの信仰を持ち合わせていないなら、期待通りの事が起こらないかもしれません!

  神はよく、私達の祈りに答えるために、状況を完璧なまでに準備して下さることがありますが、それでもなお私達は、自分達の役割を果たし、従って、神が何かをするようにと言われた時に直ちに行う必要があるのです! 神はまたとない機会を作って下さいますが、その時にこう言われます。「今だ!−−今しなさい!」 そして私達は、その瞬間に、神に従い、神がするようにと言われることをしなければなりません!

  このことは、他の人達に神の愛について証しをしている時にもよくあてはまります。主は必死に真実を探し求めている人を、奇跡的に私達の元に導いて下さり、私達の心の中に、その人にイエスについて話すようにという強い衝動を起こさせます。けれども、私達が従わず、自分の役割を遂行することを怠って、またとないチャンスを逃すなら、その時には、主のして下さったすべてのお膳立ては水の泡となり、主の目的は成し遂げられなくなってしまいます。けれども、何をすべきか主が示して下さった時に即座に従うなら、神が私達を通してなされることに限界はありません! たとえどんな障害や困難があろうとも!

  聖書の使徒行伝8:26-38に記されている、実際に起こった出来事を読むなら、神の御心を成し遂げるには、即座の従順が必要不可決だということがよくわかります。福音伝道者ピリポは、サマリヤで神の御言葉を説いていましたが、「主の使いがピリポにむかって言った。『立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい』(このガザは、今は荒れはてている)。」 とても大きなことを計画されていた神は、そのためにピリポを使いたいと思われました。そして、聖書には、ピリポが従ったと書かれています! 「そこで、彼は立って出かけた」と!

  彼が道に出ると、「エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた人」がいました。このエチオピヤ人の高官は神を信じており、礼拝のためエルサレムに上り、エチオピヤへの帰途についていたところでした。彼は自分の馬車に乗って、イザヤ書53章を読んでいました。それは聖書全体でも、最も驚くべき預言の章の一つです! イエスが生まれる500年も前に記されたこの章において、イエスの人生と死が正確に預言されているのですから! これは神の完璧なお膳立てでした! けれども、神のご計画を実現するためには、ピリポはやはり自分の役割を果たさなければならなかったのです!

  「御霊がピリポに『あの馬車に進み寄って行きなさい!』と言った。」 ピリポはどうしましたか? 「ちょっと待てよ、もう一度このことを考えてみなければ。相手は外国の重要な高官だし、まわりには、大柄で強そうな武装した護衛達もいる。あの馬車に近づいたら、面倒なことになるかもしれない。下手すれば、殺されかねない!」とピリポは言いましたか? これが、彼のしたことでしたか? いいえ! 彼は即座に従ったのでした! 聖書にはこう書かれています。「そこでピリポは真っすぐ彼の所に駆けて行った!」 彼は武装した護衛達に囲まれたその馬車の所に真っすぐ駆けて行って、その財務官にこう尋ねました。「あなたは、読んでいることがおわかりですか?」

  すると、その高官は、自分にはわからないことを告白し、ピリポに説明してくれるよう頼みました。もちろん、ピリポは喜んで応じました! その結果、そのエチオピヤ人は改宗してクリスチャンになったのです! そして彼は影響力のある高官だったので、エチオピヤに帰った後で全国民をキリスト教に改宗させたのです! それはすべて、ピリポが神の計画に従い、それも、神が彼に「今がその時だ! 行きなさい!」と言われた時に、即座に従ったからなのです。このことは、ピリポが本当に神に対して信仰を持っていたことを示しています!

  というわけで、「私達が祈っても、答えられないことがあるのはどうしてですか?」という質問に対する一つの答えが明らかになりました。それはしばしば、私達の信仰の欠如、つまり私達が神の御言葉を百パーセント信じていないことが原因なのです。私達は、神が本当に私達と共におられ、約束されたことを実行して下さる、という確信に欠けていることがよくあるからです! 確かに、神が何かをして下さると信じ、神の導いておられる大体の方向には従っているかも知れませんが、危機が訪れ、神が私達に、最後まで従って自分達の役割を果たすようにと告げられると、その時に、神が共におられると心から信じているのか、それとも、神が共におられるよう願いながら惰性で進んでいるだけであって、あまり確信がないのかがわかるのです。

  もし、私達がいたく慎重で、それがうまくいくとか成功するとか「確信」できるまでは、明確な行動に出たり、自分自身を神に委ねることをしないのなら、それは信仰ではありません! もし、神が共におられ、あなたの努力を支え、祝福して下さると確かに信じていないなら、神に信仰を行動に移すようにと求められた時に、あなたは、即座に従うための信仰を持ち合わせていないでしょう! もし全面的に信じていないなら、もし少しでも疑いがあるのなら、あなたは、従い、はっきりとした行動を取ることを躊躇することでしょう! そしてその結果、神のまたとない機会を逃してしまうのです!

  もし私達が神に従わず、そのまたとない機会に、その決断の瞬間に、自分の信仰を行動に移しそびれてしまうなら、その時には、失敗したのは神ではなく、私達なのです。もし私達が真に信頼していないなら、つまり、聖書に書かれているように二心なら、神が祈りに答えて下さると期待できるでしょうか? ヤコブ1:6-8にはこうあります。 「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。」

  信仰があるなら、神は奇跡を行うことができ、私達は何でも成し遂げることができます! けれども、信仰がないなら、私達は何も成し遂げることができません! 歴代志下20:20に書かれているように、「あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう。」 しかし、イザヤ7:9ではこう警告しています。「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない。」

  時には、状況が「まさにうってつけの」状況ではないように思えることもあるでしょう。何らかの新しい事柄が加わって、成功の見込みがあまりないように思えてくることもあるかも知れません。しかし、そんな時にこそ、私達の信仰が真に試されるのです! そして、神が私達と共におられ、祈りに答えて下さると、私達が本当に信じているかどうかがわかるのです。

  アブラハムが100歳で、彼の妻サラが90歳だった時、主は二人にサラが男の子を産むであろうと言われました。ローマ4:19-21にはこう書いてあります。「‥‥なお彼 (アブラハム) の信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。」 そしてヘブル11:11では、サラのことがこう書かれています。「彼女は年老いていたが、子を生んだ。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである!」

  あなたは神が真実であると、信じていますか?祈って神に助けて下さるようにと求める時、神があなたを助けて下さると「確信して」いますか? もしそうなら、たとえ見通しがはっきりしていなくとも、信じ続けて下さい。そして、神があなたに何かをするようにと言われたら、即座に従いなさい。そうすれば、神はあなたのためにも奇跡をして下さるでしょう!