宝 P607-614

 

怒り!−−それは危険な衝動!

 

 私は、友人に向かって

 怒りの言葉をぶつけた

 その言葉はナイフのように彼の心に突き刺さり

 その傷はなかなか癒されなかった

 考えなしに口にしてしまったあの言葉

 2人とも忘れることができればと思うが

 それはまだ余韻を残しており、

 その記憶はなお心に残る

 

  あるクリスチャンの作家は、次のような体験を語っています。「子供の頃、私はひどく短気で、そのためにしばしば怒りが昂じて、残酷なことを言ったり、良くないとわかっている事をしたりしました。

  ある日、私が遊び友達に対して怒りを爆発させてしまい、泣いているその友達を家に送って帰ってくると、父は言いました。「おまえが怒って、思いやりのないことを言うたびに、門の柱に釘を打ち込むことにしよう。だが、おまえが、忍耐強くいて、親切で優しい言葉を言う度に、一本釘を抜いてやろう」と。

  数カ月がたちました。その入り口を通るたびに、釘の数がどんどん増えているのが見え、どうしてもその理由を思い出さずにはいられません! そこで私はついに、その釘が抜かれるようにするのはチャレンジになるから、最善を尽くしてやってみようと決めたのでした!

  とうとう、待ちに待った日がやってきました!最後の一本の釘を父が抜いてくれた時、私はそこらへんを飛び回りながら、誇らしげに言いました。『お父さん、やった、釘が全部なくなった!』

  父が穴だらけになった柱をじっと見つめている様子が今も目に浮かびます。父は、思慮深くこう言ったのです。『ああ、確かに釘は全部なくなった。だが、痕は残っている!』」

 

  「今日の怒りは、明日の後悔のもと」というのは、まさしく真実です。忍耐を切らし、怒って言ってしまった言葉を、後になってどれほど深く悔やむことでしょうか。言わなければよかったのにと。怒りを爆発させるなら、全くひどい状態になることがあります! 誰かがこう言いました。「カインの心に怒りが生じた時、その怒りは殺意と紙一重だった!」 激しく怒っている時ほど、悪魔からの思いが心の内に入りやすい時はありません。怒ると、自制心が最も低いレベルにまで下がり、理性が働かなくなり、良識も何もなくなってしまうのです! 怒りが昂じると本当に危険です!

  モーセがエジプト人を殺したのも、思わず怒りを爆発させてしまったためで、そのために彼は、命からがら逃げなければなりませんでした!−−出エジプト記2:11-15。 それから彼は、40年間荒野で、忍耐強く、慎ましく羊の世話をしながら、衝動にかられて物事をするのではなく、神の御声に耳を傾ける時間を持たなければなりませんでした。そうやって初めて、彼は、ヘブル人をエジプトから救い出すという、時間のかかり骨の折れる、忍耐を要する仕事に取りかかる準備ができたのです。

  聖書には、怒りについて書かれている箇所がたくさんありますが、その大半は、怒りを戒めています! 少なくとも、愛や忍耐がなく、利己的で、高慢で、人を傷つけ、正当ではない、人の怒りを戒めています! パウロは、「あなたの無慈悲、憤り、怒りを捨て去りなさい。」と言っています−−エペソ4:31。ソロモンはこう警告しています。「気をせきたてて怒るな。怒りは愚かな者の胸に宿るからである。」−−伝道の書7:9。 神の御言葉はまた、こう警告しています。「怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。」(箴言22:24,25) 怒っている人は、暴力を振るいやすく、あなたや他の人達に危害を加えたり、問題を起こしたりするからです!

 

義の怒り!

  けれども、必ずしもすべての怒りが間違っているわけではありません。結局のところ、怒りというのは、神が人間に与えた自然な感情であり、それ自体は、正しいとか、間違っているということはないのです。怒りが正しいか間違っているかは、その理由や動機によります。ギリシャの哲学者アリストテレスは、こう記しています。「かっとなって怒るのは簡単で、誰にでもできるが、正しい相手に向かって、正しい時に、正しい目的をもって、正しい方法で怒るのは、簡単なことではない。それは、誰にでもできることではないのだ!」 全くその通りです。

  今日のクリスチャンの大半は、怒りは罪であると考えているようです。そして、悲しいことに、ほとんどの場合は確かに罪なのですが、怒らないことが罪である場合もあるのです! 神ご自身、激怒されることがしばしばあります。特に、反抗的で、真理を拒み、他の人達を抑圧し、迫害し、虐待する邪悪な人達に対しては! 事実、聖書にはこう書いてあります。「神は、日々、邪悪なものに対して憤りを起こされる!」−−詩篇7:11。

  賢明なるソロモン王はこう書きました。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」(伝道の書3:1)  そして、絶対に、私達が怒るべき時もあるのです! そうでなかったら、どうやって、「戦いを立派に戦い」、「立派に戦いぬき」、「悪魔に立ち向かい」、「御言葉を宣べ伝え、責め、戒め、勧める」ための闘志や、熱意や、活力が持てるでしょうか! また、行動的なクリスチャン兵士として、罪や悪や悪魔の軍勢に立ち向かい、また戦うために私達がしなければならないことをするための闘志や、やる気や、熱意がどうやって持てるのでしょうか!−−第一テモテ6:12、1:18、ヤコブ4:7、第二テモテ4:2。

  聖書の中には、怒りをコントロールできないと悪い効果をもたらすことをはっきり示す例もたくさん載っていますが、神の人が、良い理由、正しい理由から怒りを持ったという例もたくさんあります。神からくる怒りが、悪に抗して戦わずにはいれないという気持ちにさせたのです!

  その一例として、聖書の中のサムソンの話があります。サムソンは、慣習にとらわれない裁きづかさで、神は彼を使って、ご自分の民を敵から救い出されたのですが、そのサムソンは、敵が自分を裏切り、欺いたと知った時に、「主の霊が激しくサムソンに臨んだので‥‥激しく怒り」ました! それは主が、彼が怒りを覚えるように仕向けられ、その怒りを使って、彼が立ち上がり、主の民の敵を滅ぼすようにとされたのです!−−士師記14:19。

  似たような例は、サムエル記上11章にも見られます。サウルが王に選ばれたばかりの時に、イスラエルの敵であるアンモン人がヤベシ・ギレアデにやって来て、そこを包囲しました。そして使者がサウルにこう伝えました。ヤベシの人々が降伏して、アンモン人に、ヤベシの人の右の目をすべてえぐり取らせない限り、アンモン人は和平を結びはしないと誓ったというのです! 何と残酷なことでしょう! 彼らの右の目をすべてえぐることで、イスラエルのすべての民に恥辱を味わわせようとしたのです。聖書にはこうあります。「サウルがこの言葉を聞いた時、神の霊が激しく彼の上に臨んだので、彼の怒りははなはだしく燃えた!」−−サムエル記上11:6。そこでサウルは、イスラエルの男達全員に、すぐにヤベシの援助に来るようにと命じ、大軍を結集しました。そして、その軍勢が、邪悪なアンモン人を総くずれにし、壊滅させたのです!

  新約聖書には、イエスでさえ、しばしば、神からの怒り、義の憤りにかきたてられたとあります。マルコ3章を読むと、イエスがユダヤ人の会堂に行かれ、そこで、片手のなえた人を見たとあります。偽善的で、宗教的な、イエスの敵達は、イエスが、聖なる日である安息日にこの哀れな男をいやして、モーセの律法を破るかどうか、じっと伺っていました。イエスは、片手のなえた男に、「みんなの前で立ち上がりなさい!」と命じられました。それからイエスは、偽善的な宗教家の方を向かれ、こう尋ねたのでした。「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらが良いか?」

  彼らは、この問いかけに押し黙ってしまいました。「イエスは怒りを含んで彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は完全に元どおりになった!」−−マルコ3:1-5。ですから、ここに、イエスご自身が、偽善や、イエスを非難する者達の心のかたくなさに、怒られ、悲しまれたという例を見ることができます。

  また聖書には、他にもイエスが怒られた時のことが書かれています。それは、子供達に手をおいて祝福していただくために、人々が幼な子らをイエスの元に連れてきたのに、弟子達が彼らを叱り、子供を連れてきた者達を返そうとした時のことです。「それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子をわたしのもとに来させなさい! 彼らを止めてはならない。神の国はこのようなものの国である!』」−−マルコ10:13,14。ご自分の弟子達が、幼な子をご自分の所に来させないようにしているのを見て、イエスは怒られたのです。「幼な子をわたしのもとに来させなさい!」と命じられた時、イエスはきっと、「憤った」口調で言われたことでしょう。ですから、私達も、誰かがイエスのもとに来るのを邪魔したり、止めたりするものに対しては、それが何であれ、誰であれ、怒って当然なのです!

  そして、もちろん、イエスが怒られた最も代表的な例は、当時の宗教指導者であったパリサイ人の偽善を猛然と攻撃されたことです! イエスは、宗教家が神の御名を利用して、貧しい人々から奪い、搾取しているのをご覧になると、ご自分の手でムチを作られ、激怒して宮に入って行かれ、自ら両替人を打ち、追い出され、彼らの台をひっくり返し、金を散らして、大声でこう叱責されました。「あなたがたは、祈りの家を、泥棒や強盗の巣窟としている!」−−ヨハネ2:14-16。マタイ21:12-13。

  その日の後になって、イエスは、パリサイ人に対する最後のメッセージを告げられました。彼らが独善的な偽善者で、無慈悲にも貧しい者達を虐げ、神の真理を拒んでいることに激怒されたイエスは、彼らに猛然と真理をぶつけ、彼らの罪をあばき、彼らを非難し、呪い、まさしく彼らを地獄行きに定めたのです! このメッセージがあまりにも深く彼らの心に突き刺さったので、それ以来、彼らはイエスを殺そうと心に決め、そのほんの2、3日後にイエスを十字架にかけて殺しました!−−マタイ23章を読んで下さい!

  ここに挙げた例や、その他の聖書の例を読むなら、怒るべき時もあり、そうした「義の怒り」が神から出たものであるということは明らかです! 聖書には、「怒ることがあっても、罪を犯してはならない!」とさえ書いてあります−−エペソ4:26。ですから、主は実際に、正義のためなら、又は正当な理由があるなら、怒るようにと教えておられるのです。例えば、偽善や不正があったり、無実の人々が危害を加えられたり、欺かれている時には。このような神の御心に沿った怒りは、不正や間違ったことを正し、正す必要のある状況を改善するために行動を起こそうという気にさせるはずです!

  これが、神からくる怒りと、「人の怒り」との違いです。人の怒りについて、聖書にはこう書かれています。「人の怒りは、神の義を全うするものではない。」−−ヤコブ1:20。しかし、義の怒り、神からくる怒りは、良い結果を生み出します。

 

怒りをどう解消するか

  残念なことに、私達が怒るのは、たいていの場合、ここで話してきたような高尚な理由からではありません。私達はしばしば、単に、自分のことだけを考える、利己心のゆえに怒るのです。たとえば、自分の思い通りにならないとか、プライドが傷ついたとか、冷遇されたとか、ぞんざいに扱われたとか感じて、不満が募り、気を害して怒るのです。

  そんなふうに怒りが込み上げてきたり、腹が立ってくるのがわかったら、そして、それが、「義の憤り」でないことが明らかなら、努めて怒りをコントロールしようとすべきです! 怒りを抑えもせず、感情が激するに任せて行動したり、何か言ったりすべきではありません! 聖書にはこうあります。「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。」−−ヤコブ1:19。

  「聞くに早い」とは、別の言い方をするなら、「注意深く聞く」ということです。人の言うことに忍耐強く耳を傾け、一息ついて、何を言うかや、どう反応するかについて、よく考え祈るなら、たいてい、自分の怒りをコントロールすることができ、自分の感情を健全な形で表現することができるものです。「愚かな者は怒りをことごとく表し、知恵ある者は静かにこれを抑える。」−−箴言29:11。 腹を立てて、感情的になっている時に話してはいけません。気持ちが静まってからにしなさい。かっかと怒りに燃えて何か言っても、それは冷静な判断に欠けています。賢明な人は、自分の感情をコントロールします。怒りが間違いを引き起こし、自分の愛する人を傷つけ、友情を壊してしまうと知っているからです!

  怒りは強い感情なので、何らかの形でそれを外に出す必要があります。しかし、残念なことに、その感情をそのまま吐き出したところで、何の解決にもなりません。怒鳴ったり、辛らつな言葉を吐いたり、感情の高ぶりをそのまま表すというふうに、怒りを暴力的に表現したとしても、何らかの結果を生むものの、たいていの場合、あまり好ましい結果は生じません! 「頭に血をのぼらせるのは、お粗末な出世法である。」「かっとなって怒る人はいつもその後始末に苦労する!」

  勿論、私達がここで取り上げているのは、私達自身によって引き起こされた「人の怒り」であって、主によって引き起こされた義の憤りではありません。義の怒りにかき立てられているなら、鋭い言葉や、高ぶった感情も良い結果をもたらしうるからです。それは、他の人達の心も掻き立てて、そもそもあなたを憤らせた罪や悪や不正について気づかせるのです! 主が、主の預言者イザヤにこう言われた通りです。「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ示せ!」−−イザヤ58:1。

  神の言葉は、「主を愛する者よ、悪を憎め」とさえ言っています。また「主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む!」ともあります−−詩篇97:10、箴言8:13。心から主を愛し、主を畏(おそ)れており、真の確信と神からの熱意を持っているなら、あからさまな悪や、悪事や、不正を見て、何もせず何も言わないでいたり、それを無抵抗に受け入れたりはしません。そのようなことに対しては、それは間違っているとはっきり発言するはずです。それも必要とあれば、怒りを込めて!

  このような義の怒りは健全で、表に出すべきものです。預言者エレミヤは、背教した同胞の民の邪悪さや反抗的態度を見て、こう言いました。「わたしの身には主の怒りが満ち、それを忍ぶのに、うみつかれている!‥‥もしわたしが、『主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない』と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じ込められているようで、それを押さえるのに疲れはてて、耐えることができません!」−−エレミヤ6:11、20:9。(431ページの「神のために燃える!」も読んで下さい)

  しかし、自分の怒りが単に、自分の感情やプライドが傷ついたことから生じたものだとわかっているとしても、なお、それが心の中にたまっているなら、それについて何かする必要があります。けれども、すでに述べた通り、たいていの場合、その怒りを他の人にぶちまけるのは賢明なことではありません。

  多くの人がうまくいくと発見した一つの解決策は、他のことを怒りのはけ口にすることです。草を刈ったり、庭仕事をしたり、散歩をしたり、運動をしたり、車を洗ったりすることで、怒りによって生じ、うっ積したエネルギーを発散させるのです。そうすれば、そもそも怒りの原因となったことばかり考えなくても済みます。そして、気を静めるための時間が取れるので、問題の解決策について考えたり、祈ったりすることができます。

  もちろん、多くのクリスチャンは、怒ると罪悪感を感じるので、単に、自分が腹を立てているという事実を無視しようとして、怒っていないかのように振る舞います。けれども、怒りを無視しても、それは、かご一杯の紙くずに火がついているのに、それを押し入れに隠してしまうようなものです! 確かに、火が自然に燃え尽きてしまうこともあるかもしれません。けれども、たいていは、家まで焼けてしまうことでしょう! 怒りを外に出さずにうっ積させるのは、健康的ではなく、医学的にも、胃潰ようや不安、頭痛、さらには憂うつ症といった、あらゆる問題の原因になると立証されています!

  ですから、誰かに対して、理不尽にも、怒りが込み上げてきていることに気づいたら、その感情をコントロールできなくなる前に、そのことを告白しなさい! 例えば、妻との会話が激しい口論になり、少し緊迫した雰囲気になってきたら、こう言うのです。「こんなふうに言い合いをしていたら、だんだんイライラしてきた。腹を立てたくはないし、君だって僕に腹を立ててほしくはないだろう。だから、今はこの辺でやめにしておいて、後でまた話すことにしよう。まずは祈って、これを解決するのを助けて下さるように主に求めようじゃないか。」 こう言って、相手も腹を立てたりすることがないように、相手に、自分が腹が立ってきていることを知らせるのは、とても良いことです! こう言ったらいいかもしれません。「すまないが、だんだん腹が立ってきた。どうしたらうまく解決できるかなあ?一緒に祈ってもらえないかい?」

  誰かに対してすでに不当に怒り、もう手遅れになってしまったなら、プライドを捨てて謝りなさい! 怒ると問題を引き起こしてしまいますが、プライドがあると、その問題が解決不可能になってしまいます! また、誰かがあなたに対して不当に怒りをぶちまけたなら、許してあげなさい!

  短気を治す最善の治療法は、よく祈る事です!自分の怒りをコントロールするのが難しいなら、祈って、イエスに助けを求めなさい! みんなで一緒にあなたのために祈ってもらうように、頼むこともできます。団結した祈りには大きな力があるからです! 怒りに関する聖句や、私達クリスチャンが人に対してどう振る舞うべきかが書いてある聖句を暗記しなさい! 箴言16:32には、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は都を攻め取る者にまさる」とあります。今日、イエスに助けを求めなさい! イエスは決してあなたの期待に背くことはありません!(537ページの「議論反対論!」と727ページの「悪癖を克服する!」も読んで下さい)

  もちろん、私達が誰かに対して怒ったり、腹を立てたりして当然な時もあります。たとえば、人が、わざと私達や他の人達を不当に扱ったり、傷つけたりした場合です。イエスは言われました。「理由もなく兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない」(マタイ5:22) ということは、時には、兄弟に対してでさえ、怒るべき「理由」があるということです。だからこそ主は、「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めたら、許してやりなさい」と言われたのです−−ルカ17:3。

  けれども、このことを心に留めておいて下さい。愛と謙遜と祈りによってすべての問題を解決することができるということ、そして、「もしあなたがたが人々のあやまちを許すなら、あなたがたの天の父も、あなたがたを許して下さる」ということを−−マタイ6:14,15。 「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」(マタイ7:12) これこそ、神の愛の律法です! ですから、あなたが愛情深く、優しく、人を許すことのできる人となり、主があなたの感情をそのように動かされる時にだけ怒るよう、神が助けて下さいますように!−−アァメン? 神があなたを祝福されますように!