宝 P.602-606

 

宿命論−−祈るべきか、祈らざるべきか!

 

  今日、大勢の人々が、何が起ころうと、そうなる運命だったんだ、だから、あきらめるしかないという考え方を持っています。「自分にできることは何もない。だから、事の成り行きを、ただそのまま受け入れるしかない。」と言うのです。こういう考え方は「宿命論」と呼ばれるものです。

  「宿命論者」は、何かのプロジェクトや仕事に失敗すると、もう一度起き上がって戦い続け、神に、どうか状況を変えて、うまくいくように助けて下さいと懸命に祈る代わりに、失敗したのも「神の定めた運命だったんだ」と言って、何もせず、ただおとなしく敗北感にひたります。どんな事が起こっても、ただ、それを受け入れ、これも運命だったのだとあきらめてしまうのです。

  けれども天国に行った時、私達は、非常に多くの不運が、実は、神のせいでも、悪魔の仕業でさえもなく、祈らなかった自分のせいだったということに気づくことでしょう! 祈りさえするなら、望みはかなえられ、状況は変わっていくのです! なぜなら、神が祈りに答えられるからです! 預言者イザヤが言ったように、イスラエルに多くの災いが降りかかったのは「みずから励んで主の名を呼ぶ者がいなかった」からでした。(イザヤ64章7節) 祈りには力があり、物事を変えることができます。ですから、もし物事が変わらないとしたら、それはあなたが祈らなかったせいです! だから、祈りなさい!

  確かに、時には、神の御心が決まっていて、私達にはそれを変えられないこともあります! そんな時には、私達は神の御心に服従しなければなりません。しかし、いつもそうとは限らないのです! 多くの場合、戦い続けるのをやめたり、何かに信仰を持つことができなくなってしまうなら、主に従い、主の御心に委ねていることにはなりません。それどころか、そういうことが起こるのは、ただ信仰が欠如していたり、私達の信じるものや本当に必要とするものを受け取るために戦おうという確信や決意に欠けているためであることが少なくないのです! このことに関する話を、次に幾つか挙げてみることにしましょう。

 

執拗(しつよう)であれ!

  イエスは弟子達に、次のように言われました。「誰かに友人があるとして、その人の所へ真夜中に行き、『友よ、パンを3つ貸して下さい。友達が旅先から私の所に着いたのですが、何も出すものがありませんから。』と言った場合、彼は内から『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供達も私と一緒に床に入っているので、今起きて何もあげるわけにはいかない。』と言うであろう。しかし、よく聞きなさい。友達だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。

  そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者は開けてもらえるからである。」 (ルカ11章5-10節)

  教訓:もしあなたが本当に何かを必要としていて、あなたが神に従っており、それを手に入れるのが神の御心だという確信があるなら、あるいは、あなたが何か極めて重要な事で成功するよう神の助けを求めているなら、そのことのために祈りなさい。 (第一ヨハネ5章14-15節を参照)  執拗でありなさい! 神があなたを助け、あなたに必要なものを与えて下さるよう、強く求め続けるのです。そうすれば、神はその祈りを聞いて下さいます! 「捜せ、そうすれば見いだすであろう。」 そして、主があなたの祈りにすぐに答えられなくても、あきらめてはいけません! ただ祈って、天国の扉をたたき続けなさい。そうすれば、「開けてもらえる」のです!

 

祈りなさい。あきらめてはいけません!

  それからイエスは、弟子達に一つのたとえ話をして、あきらめないで祈り続けることを教えられました。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町に一人のやもめがいて、彼のもとにたびたび来て、『どうぞ、わたしを訴える者を裁いて、わたしを守って下さい。』と願い続けた。

  彼は、しばらくの間聞き入れないでいたが、ついに心の内でこう考えた。『私は、神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめが私に面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきて私を悩ますことがなくなるだろう!』」

  そしてイエスは言われました。「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか!−−まして、神は、日夜叫び求める選民のために、正しい裁きをして下さらずに、長い間そのままにしておかれることがあろうか。神は彼の求めを無視されるだろうか? あなたがたに言っておくが、神は、すみやかに裁いて下さるであろう。」(ルカ18章1-8節)

  教訓:主は、その不義な裁判官のような方ではありません。私達を助ける気持ちもあまりなく、私達にしきりにせがまれてやっと、いやいやながら私達を助けるといった、冷たい方ではないのです。神は、私達に必要なもの、さらには私達にとって最善のものを与えることを望んでおられます! しかし、神はよく、私達が、自分にはそれが必要だと本当に確信しているかどうか、そして神はそれを与えて下さるという揺るがぬ信仰を持っているかどうかを見ようとされます。そのために神は、すぐには答えず、まず私達の信仰や忍耐を試すことがあるのです。(ヘブル10章35,36節、詩篇40篇1節参照)

 

戻って、もう一度見なさい!

  神の預言者エリヤが、人々の罪に対する罰として、イスラエルの地が干ばつになるようにと主に祈ってから3年半の歳月が流れました。神はその祈りに答えて、干ばつをもたらしたので、その間、雨は降らず、地は乾き、不毛となり、飢饉が襲いました。ところが、今、主は、カルメル山の頂上で驚くべき奇跡を行なわれ、人々に、偽りの神バアルではなく、自分こそが真の神であることを示されたのでした。そして人々は、主を信じました! 長く続いていた干ばつは終わる兆しもなかったのですが、ついに人々が、エリヤの信じる神こそが真の神であることを認め、それを告白したので、エリヤは主に、雨を降らせ、地と、人々の命を救うよう祈ったのでした!

  信仰により、エリヤはアハブ王に言いました。「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい。」 それからエリヤは、カルメル山の頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れ、熱心に祈りました。そして、しもべに言いました。「上って行って、海のほうを見なさい。」 しもべは、その通りにし、戻ってきて言いました。「何もありません。」

  また懸命に祈り続けた後、エリヤは、まだ雨の兆しはないかと、しもべを見にやらせましたが、しもべは帰ってきて、空にはまだ雲のかけらもないことをエリヤに告げるのでした。それにもくじけず、エリヤはまた懸命に祈り、またしもべを見にやらせました。しかし、しもべはまたもがっかりさせる知らせをもって帰って来たのでした。何もないのです。

  七度もエリヤは言いました。「戻って、もう一度見なさい。」 しかし、七度目に、しもべはついにこう伝えました。「海のほうに小さな黒雲が起こっています。でも、人の手のひらほどの大きさしかありません。」

  エリヤは喜んで、すぐさま、しもべに命じました。「急げ! 行ってアハブに伝えなさい。雨にとどめられない内に、車を整え、山を降りるようにと!」しもべが山をかけ降り、アハブに忠告を伝えていると、突然、空全体が雲におおわれて、暗くなり、強い風が吹いてきて、大雨が降りだし、アハブはやっとのことで町に戻ることができたのでした! (列王紀上18章41-45節)

  教訓: ヤコブの手紙5章16-18節には、この話の教訓が次のように要約されています。「祈りなさい‥‥義人の熱心な祈りは大いに力があり、効果のあるものであるから! エリヤは私達と同じ人間的弱さを持つ者であったが、雨が降らないようと懸命に (熱心に) 祈りを捧げたところ、3年半の間地上に雨が降らなかった。それから、再び祈ったところ、天は雨を降らせた。」

  だから、もしあなたが本当に何かを必要としているなら、そして、自分の動機が神から見て正しいという確信があるなら、必要なものが何であろうと、信仰をもって、それを求めることができるのです! 「もし、心に責められるようなことがなければ、わたしたちは、神に対して確信(信仰)を持つことができる。そして、願い求めるものは何でもいただけるのである。それは、私達が神の戒めを守り、御心にかなうことを行なっているからである。」(第一ヨハネ3章21-22節)そして、神があなたの祈りにすぐ答えて下さらないからといって、信じるのをやめてしまってはいけません! エリヤに見習いなさい!

−−信じ続けなさい!

 

 

神に考えを変えさせた男!

  モーセが、シナイ山の頂上で神から十戒を授かっている間に、民は金の子牛の偶像を作りました。そのため主は、モーセに言いました。「急いで山をおりなさい。あなたの民は悪いことをした! 彼らは鋳物の子牛を作り、これを拝み、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼった、あなたの神である』と言っている!

  わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それでわたしを止めるな。わたしの怒りは彼らに向かって燃え、彼らを滅ぼし尽くすであろう。しかしわたしは、あなたを大いなる国民とするであろう。」しかしモーセは訴えました。「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。

  どうしてエジプト人に『神は、悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼしたのだ。』と言わせてよいでしょうか。主よ、どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民を滅ぼそうとするのを思い直して下さい!」 すると主は思い直し、民に災いを下すのをやめられたのです! (出エジプト32章7-14節)

  教訓: モーセのように、神の人はしばしば、必死に心から祈りました。そして、実際に神に考えを変えさせたのです! 彼らの祈りが、災いや破壊や神の裁きを全く止めてしまうこともあったのです。また、神が人々や国家に下そうとしている裁きが、その罪の重さのゆえに避けられないものであった時でも、神を信じ敬う人々が祈ったことによって、その裁きが、少なくとも後まで延ばされたこともありました。良い王達が、へり下って神に祈ったことで、その王達の治世には裁きが下らなかったことも何度かあります。 (歴代志下34章23-28節)

 

宿命論についての総まとめ

  (1) 宿命論的な考え方を持っているのは、信仰が欠如していることの証拠です。物事の成り行きをそのまま受け入れてしまうというのは、状況が変わるようにと、神に祈り、懇願するだけの信仰がないということなのです。祈りを通して、主と強いつながりを持ってはおらず、主があなたの祈りを聞き、それに答えて下さることを信じていないということを示しています。

  (2) 宿命論はまた、非常に怠惰な考え方です。闘志を失わないで、祈るなら、実際に物事は変わります。しかし霊の内で戦い続けるのは大変なことなので、多くの人々は、一生懸命努力することもないし、主が何かをして、状況を変えて下さるよう、「みずから励んで主の名を呼ぶ」こともありません!

  (3) 起こったことを何でも「神の計画」として受け入れてしまうのは、自分が失敗したという事実を直視したがらない人が自分を正当化するために使う手段であったり、都合の良い言い訳であったりすることがよくあります。実際には、彼らが失敗したのは、信仰の欠如や、祈りの欠如、あるいは、何かに本当に一生懸命になり、頑張って忍耐強くそれをやり続けようという意志の欠如などが原因であったのにです!

  (4) 多くの場合、神の御心は、決まってしまっているわけではありません。私達は、それを左右することができるのです。起こったことが何でも、「神の御心」や、神が望まれたことであるとは限りません!神が、何かが起こるのを許すべきかどうか決断される時、私達は、自分達の意志や祈りによって、神の決断を大きく左右することができるのです! 主は、イザヤ書45章11節で、「わが手のわざについて、わたしに命じなさい。」とさえ言われました。

    あなたは祈りますか? 神があなたの祈りを聞いて、それに答えて下さると信じますか? それなら、忍耐をもって信じ続けなさい。勝利に向かって戦い続けるのです! たとえ失敗し、倒れても、そのまま寝そべっていてはいけません! 起き上がって、戦い続けなさい! あなたが正しいことのために戦い、正しいものを求めているなら、神は答えて下さいます!−−いつか必ず!