宝 P.599-601

 

信仰を行動に移す!

 

  神から色々なことを示してもらう人というのは、自分の信仰を行動に移します。ヤコブ2章17-26節には、「霊魂のない体が死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである」とあります。死んだ信仰とはどんなものでしょうか? それは、働いていない信仰です。作用しない信仰です。真の信仰は、受け身ではありません。それは信じることを行動に移すことです。それは実用的なものです。そして、自分でできることを神にしてもらおうと期待したりはしません。信じる人は、信仰を行動に移します。神に何かをお願いしたら、信じる人はもうそれを手に入れたかのように前進していきます。その人が神の約束をその言葉通り信じた時、その人にとっては、その御言葉を行動に移し、自分の願ったものがもう手に入ったかのように (揺るがぬ信仰によって、彼は確かに手に入れたわけですが。)進んで行くのです。信仰によってかなえられたとみなされることも、常識からいうと全く現実的ではないのですが、そういうのが、しばしば「信仰の立場」と呼ばれています。

  こうした考え方を鮮やかに説明するのに良い例となるのは、聖書の中でイエスがらい病人に、祭司達の所に行って、体を見せなさいと言うところです。聖書には、「行く途中で彼らはきよめられた。」とあります。(ルカ17:14)つまり、らい病人達が信仰を行動に移した時に、神は彼らの願いに答えられたのです。信じようと心に決めて行動するなら、神は私達がそうやって一歩踏み出したことを称え、私達の願いに答えて下さるのです。片手の不自由な人の場合には、イエスは、「手を伸ばしなさい。」と言われました。その男にとって手を伸ばすのは不可能な事でしたが、キリストが命令し、その男がやってみた時、その手は完全に癒されたのでした! 信仰は人の意志次第であり、私達が信仰を行動に移す事を、神は確かに期待されるということを私は見いだしました。誰かがこう言うのを聞いたことがあります。「信仰が市場に行く時には、かごを準備して行く」そして、それは年老いた婦人が祈りの集会に行った時の話のようなものです。ずっと日照り続きだったので、雨が降るように皆で祈ることにしました。その日は暑く、カラカラ天気で、その婦人は扇子を持って出かけたのですが、途中で、同じ集会に行く8歳の少女が、長靴にレインコート姿で、手には傘を持っているのを見て、すっかり恥入ってしまいました! また、次の話を読むと、信仰を実行に移す−−願い求めたものをすでに手に入れたかのように進んで行くとはどういうことかがよくわかるでしょう。

  エッタという名前の、とても熱心なクリスチャンの女の子がいて、彼女は、聖書大学に行って、クリスチャンとしての奉仕をしたいと強く願っていました。2年間、彼女は祈って、お金が入るのを待っていました。実のところ、去年彼女は家にとどまり、大学に行くための資金が融通されるよう祈りながら待っていたのですが、もうすぐ大学に入学するという時には彼女はたくさんの借金を抱えてしまい、どう見ても、大学行きは不可能のようでした。私の所に来たエッタは、ひどく落胆し、泣いていました。私が彼女に、君が大学へ行くのは神の御心だとわかっているかと尋ねると、彼女は確信があると答えました。そこで私は、「私だったら絶対にもうこれ以上は待たないだろう。君は2年も主にお金を求めてきたが、断固としてそれを要求したり、何らかの行動によって、自分は神がお金を送って下さると本当に期待しているんだということを示したりしたことがない。本当に神が君の祈りに答え、旅費や授業料などのための資金を与えて下さると信じているなら、どうするだろうか?」と言いました。すると彼女は「服の準備をし、大学に手紙を書いて私が行くという事を知らせ、出発に先立って支度をするでしょう。」と答えました。「そうだね。もし、神が私の祈りを聞いてくれ、私が大学に行くのが神の御心だと本当に信じているなら、私も同じ事をするよ。そして、断固として神の約束の上に立ち、状況に構わず、お金が手に入ったかのようにあらゆる準備をする。真の信仰は、すでにお金を持っているかのように行動していくんだ。誰かがお金を送ったと電報で知らせてきたら、その小さな電報の紙切れを信じるだろう。だが、神ご自身が尊い御言葉を使って知らせを送り、この上なく明確に、君の心の願いをかなえてあげようと約束されたのに、信じもしないで、『ああ、それは神の言葉にすぎない。そんなの何の意味もない。誰かが私を助けてくれるって言ってくれたらいいのに。』とでも言っているかのように振る舞っているんだ。」少女は答えて言いました。「私は神の言葉を信頼します! そしてあなたに、自分が神を信じ、神の約束をとことん信頼している事を証明します! 今から家に帰って、荷造りをして、準備をします。もうすぐ大学が始まるから、急いで準備しなくては。」そして、その少女は神に約束を実現して下さいと要求し、その時以来一度も信仰をぐらつかせませんでした。彼女は、すでに資金が手に入ったかのように、先立って準備をしたのです。神が自分をがっかりさせるようなことは絶対にないと信じて。そして、最善の時に「天の銀行が窓を開く」と信じていたのです。 (マラキ3:10)もしこの少女が今この話を読んだら、その準備期間に起こったある出来事のことを思い出して、私と同じようにほほ笑むことでしょう。ある日彼女は、私に電話をかけてきました。その日はちょうど、彼女が出発するはずの日の前日だったのですが、彼女は、服も持ち物も揃えて自分の部屋にきれいに積んであるけれども、トランクがないと言いました。そこで電話で話していた私達は「神はご自身の栄光の富の中からいっさいの必要を満たして下さる。」という聖書の約束を神に要求しました。私は自分の仕事にかかり、その事は忘れてしまっていたのですが、一時間ほどたって、友人のマーチン夫人から電話があり、彼女は、家の掃除をしていたら、沢山の物の中に、もう使わなくなったトランクがあって、押し入れの場所をとるので、私が使いたいかどうか尋ねてきたのでした。私は笑いながら、「マーチンさん、あなたは天国からの注文を届けているんですよ。でも、住所が間違ってました。主は、エッタの所にトランクを届けてほしいんです。」翌日の夜、たくさんの人が、大学に行く親愛なるエッタにお別れを言いに、駅までやって来ました。駅で彼女は私にこうささやきました。「まだお金は届いていないのです。でも、私は少しもおじけづいてません。主が私の祈りを聞き、『神に願い求めたことはすでにかなえられた』という強い確信がありますから。」(第一ヨハネ5:14-15)正直に言って、私は少し心を痛め、どこかで間違いがあったに違いないと考えていました。なぜなら、教会の役員会は、自分達で資金を幾らか彼女に提供すると話していたからです。私がその事を考えていると、遠くで汽笛が鳴り、列車のヘッドライトが見えてきました。そしてエッタは私の顔をじっと見つめていたのですが、私には言葉もありませんでした。私は首をかしげないではいられなかったのです。でも、神は、彼女の持っているような揺るがぬ信仰をあえて裏切るようなことはなさらないとわかっていました! 突然、トロリンジャーという私達の友人が、大急ぎで駅に駆け込んできました。彼は当時、役員会の会長で、熱心にクリスチャンの活動をしていたのですが、その彼は、私達の所に来ると、こう挨拶したのです。「オフィス(駅に近い所にありました)で仕事をしていたら、列車の汽笛が聞こえてきて、それで、役員会の人達がエッタの為にと言ってくれたお金の事を思い出したんだ。それと、これは私と妻からの贈り物だよ。」すると別の声がして、「ここにももう少しある。」と言いました。それはトロリンジャーの友人で、彼は、急いで駅に向かう途中のトロリンジャーに会ったのでした。「ご乗車願います。ご乗車願います。」と車掌が言い、私はエッタに、「神の約束にご乗車願います。確かに報いがあるね。」と言ったものでした。彼女は答えて言いました。「素晴しいわ。ただもう素晴しいわ。信仰によって何て素晴しいことができるんでしょう!」

  これこそ、あえて信仰を行動に移した人、つまりもうそれが手に入ったかのように進んで行った人、神の忠実さに頼った人の話です。

 

  今日の祈り                                                  

  イエス様、私達が、全ての事が祈りにかかっているかのように祈り、そして、全ての祈りが聞かれ、かなえられたかのように信じ、あなたが御心のままに全ての事を取り計らって下さると信頼するのを助けて下さい。御心が天に行われる通り、地にも行われますように! イエスの御名で祈ります。                                                 

アァメン。