宝 P.589-593

 

 歴史に見る冒険実話集!

 

 「わたしのためにパンを作って下さい!」

−−やもめ女は、与えることによって自分の命を救った!

(列王紀上17章)

 

  紀元前900年頃のこと、史上最悪の王アハブの統治の下、イスラエルの民は深い悲しみと苦難を味わっていました! アハブは、異国生まれの妻イゼベルにひどく感化され、彼女の邪悪な宗教バアル教を取り入れたのです。それは、悪魔の神バアルを崇拝する全くの異教でしたが、アハブとイゼベルの邪悪な支配の下で、真の神の預言者達は次々に殺され、バアル教が国教となったのでした。

  神は、ご自分の怒りを表すために、神の預言者エリヤを直接アハブ王のところにやり、このような不吉なメッセージを伝えさせました。「主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう!」 このメッセージを伝えた後、エリヤは荒野に逃げ、アハブの兵士から身を隠しました。主は彼を人里離れた峡谷に導かれ、そこには水の飲める小さな川があったばかりか、彼は奇跡的にカラスから食べ物を得ました。神がカラスに、パンと肉を彼のもとに毎日運ぶようにと命じられたのです。

  そしてエリヤが預言した通り、雨が一滴も降らなくなり、深刻な干ばつが国を襲いました。いつ終わるとも知れぬむし暑い日々が何か月も続き、焼けつくような日差しが、からからに乾き切ったイスラエルの地に照りつけていました。作物はとれず、井戸や川も干上がり、深刻な飢饉が始まったのでした。エリヤが水を汲んでいたケリテ川も、すぐに涸れてしまいました。けれども、神は忠実な方で、その川の水が涸れたその日に、「主の言葉が彼に臨んで言いました。『立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう!』」

  ザレパテは、ケリテ川から160キロほど北にありました。そこに行くためには危険な旅をしなくてはいけませんでした。干ばつに襲われ、すっかり乾いて荒れ果てた地を歩いて行かなくてはならなかったのです。エリヤは、砂漠と化した荒地や、岩のごろごろした丘や、急な山道を何日もとぼとぼと歩き、ついにザレパテに着きました。そこは海に面した町で、今のレバノンにあります。ほこりと汗にまみれ、疲れきった足どりのエリヤは、その町の門の近くで一人の女がたきぎを拾っているのを見つけ、大声で言いました。「水を下さい! 器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませて下さい!」

  その女は、この疲れた様子の旅人をかわいそうに思い、水を持ってくるために立ち上がりました。すると、彼はもう一度その女に声をかけてこう言ったのです。「どうか、食べるものも持ってきてもらえませんか!」 エリヤの方を向いて女はこう言いました。「主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎを2、3本拾い、うちへ帰って、わたしと子供のために調理し、それを食べて死のうとしているのです。」

  エリヤはきっとすぐに、このかわいそうな貧しい女こそ、自分を養い、世話をしてくれると主が約束されたやもめ女だということに気づいたことでしょう! そこで彼は大胆にも女にこう言ったのです。 「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言った通りにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない。』とイスラエルの神、主が言われるからです。」

  このような尋常ではない言葉に、この哀れな貧しいやもめ女はどんなに驚いたことでしょう! 女はこう思ったに違いありません。「私は、とても貧しいから、たきぎを集めて、私と息子のために最後のささやかな食事を作ったら、その後は飢え死にするだろうと言ったのに、この人は、まず自分のためにパンを作れと言っている!」

  けれども、エリヤが主の御名のもとに権威をもって語ったので、彼女は、この人は神の人、預言者に違いないと思い、彼の語った主の言葉を信じました。だから、この愛すべきやもめ女は、神に信頼し、エリヤの言った通りにしようと決めたのでした。彼女は急いで家に戻ると、粉の入れてある大きなかめの底から、一握りの粉をかき集め、また、油のびんを手にして、それを傾け、最後の数滴の尊い油を使い切ってしまいました。

  驚くべきことが起こったのは、おそらく、彼女が粉と油を混ぜ合わせて練り、エリヤのために小さなパンを一切れ焼いてからのことだったのでしょう。このみすぼらしいやもめ女が、エリヤのためにパンを焼きながら、回りを片付けている様子を想像してみて下さい。彼女が、からになった油のびんを元の場所に戻そうとすると、突然、ちょっと前よりもそれがずっと重くなっていることに気づいたのです。少し傾けただけで、新鮮な油がそこからこぼれ出たので、思わず自分の目を疑いました! そのびんには油がいっぱいに入っていたのです!

  そのびんを置くと、彼女は、粉の入れてあるかめのところに飛んでいきました。そして、そのふたをあけると、驚きで息をのんでしまいました! ほんのちょっと前には空っぽだったのに、今では新鮮な粉がいっぱいに入っていたのです! 奇跡が起こったのです! 女は、これほどの祝福を与えて下さった主への感謝の気持ちでいっぱいでした! ちょうどエリヤが預言した通り、「飢饉の間中、彼女のかめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった」のでした!

  この貧しいやもめ女は、自分が生きのびるために、哀れにも2、3本のたきぎを拾い集め、死ぬ前に、自分と自分の息子のために最後のパンを焼こうと考えていました。けれども、神の預言者が突然現れ、「まず、わたしのために小さいパンを一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。」と言った時、神は、女が神と神のメッセンジャーとをまず第一に置くかどうかテストしておられたのです。そして、彼女はそうしました! だから、神は女を豊かに祝福され、3年に渡る飢饉のさなかでも、そのかめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかったのです! 女は、少量ながらも自分に与えられる限りの物を与えました。だから、神は、彼女が想像もしなかったほどに報いて下さったのです!

  神は次のように働かれます。神は、あなたが与えた以上に喜んであなたに与えて下さり、あなたがどれだけ与えようとも、神が与えて下さる以上に与えることはできないのです! 神はいつも、あなたが与えることができる以上に、報酬を下さいます!あなたが与えれば与えるほど、神は報酬を下さいます!

  デービッド・リビングストーンは、裕福なイギリスの宣教師で、アフリカのジャングルを開拓し、そこで主のために死にましたが、彼はこう言いました。「私は神のために犠牲を払ったことはない。神は、私が神に与えたよりもはるかに多くのものを、報いとして私に与えて下さった!」 彼がいくら与えても、神はそれ以上の報酬を与えて下さったのです! 彼はついに自分の命も捧げましたが、イエスへと導いた不朽の魂のゆえに、つまり、何千もの人々の魂を永遠に救ったために、いつまでも存続するような報酬を確かに受け取ることでしょう!

  大勢の人々が理解していないようですが、主の経済は、この世の経済とは全く逆に作用します。大半の人々は、「私が億万長者になったら、他の人達に与え、貧しい人達を助け、主の仕事を援助するようになるかもしれない。」と言います。けれども主は、「今持っている物を与え始めなさい。そうすれば、私があなたに報い、もっと多くのものを与えるであろう!」と言われます。神の目から見れば、豊かさへの道は、与えることなのです! 神の言葉には、「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある」とあります! (箴言11章24節)

  ですから、それほど持っていなくても、あなたが神に与えるなら、神はあなたを祝福して下さいます。そして、神に与える一つの方法は、貧しい人達や神の宣教師達を助けることです。イエスが弟子達に言われた、「わたしの羊を養いなさい」という言葉に従って神の仕事を達成するために働いている人々を助けるために、できる限りのことをすることです。(ヨハネ21章15-17節)

  使徒パウロは、自ら主へと導いた信者達にこう手紙を書きました。「もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈り取るのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。」 (第一コリント9章11-14節)

  これが、神の宣教師達のための、神のご計画です。神は、宣教師、つまり、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝える」 (マルコ16章15節)ために、自分の持っていたものをすべて手放した人達が、このようにして、生計をたてていくのに必要なものを受け取るよう計画しておられるのです。そして、ザレパテのやもめ女がエリヤから主の言葉を受け取ったのと同じように、そうした宣教師達から神の言葉を受け取った人達は、神のメッセンジャーを助けるために、自分に与えられるものを与えるなら、主ご自身が彼らに報いて、「あふるるほどにあなたがたに祝福を注いで下さる」ことでしょう! (マラキ3章10節)

  ご存じのように、私達のゴールは、宗教の建物を建てることでもなく、高価な土地を得ることでもありません。私達にはそういったものは全くありません! けれども、私達が持っているもの、受け取るものはすべて、宣教の仕事に使われます。どこででも、できるだけ多くの人達に手を延ばし、神の愛とイエスによる救いという良き知らせを携えて、彼らに神の愛を伝えることに使われるのです。

  イエスはこう約束されました。「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。」「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」 (マタイ10章42節、25章40節) ですから、たとえ、私達に加わって、神の愛と真理を他の人達に伝えるという仕事を一緒にすることができなくても、なお、私達があらゆる人々に手を延ばし、彼らを勝ち取るのを助けるために、できるだけの援助をして下さるならば、あなたは、大きな祝福となり、私達の仕事にとって欠かせない人となるのです!

  神があなたを祝福されますように! 私達はあなたを愛しており、主の愛のメッセージをもっと広めるのを助けるためにあなたが与えて下さるものは何でも、本当にありがたく思います! 「与えよ、そうすれば自分にも与えられるであろう! あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は満ちて余り、あなたの酒ぶねは新しい酒であふれる。  (ルカ6章38節、箴言3章9,10節)

 

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  多くのものをどんどん与えることで有名だったある農夫の話があります。友人たちは、彼がそんなに与えながら、どうしてそんなに繁栄しているのかわかりませんでした。ある日、友人達の代表がやって来て、言いました。「わしたちにはさっぱりわからんよ。おまえさんはわしたちの誰よりもはるかに沢山与えているのに、それでも、まだまだ与えるものがあるみたいだ。すると農夫は言いました。「そのわけは簡単さ。わしが神の貯蔵用のかめにどんどん入れていくと、神もわしのかめに入れ続けて下さるんだ。そしてな、神のシャベルはわしのよりもずっと大きいんだ!」