宝 P.533-536

 

 歴史上の大いなる戦い!

 

全くの不利を乗り越えての勝利!

(列王紀下18章と19章、 歴代志下32章)

 

  ダビデの町エルサレムは、セナケリブ王の率いるアッシリヤ人の猛攻撃にあい、孤立状態になったことがありました。まわりの「ユダのすべての堅固な町々」はすでにアッシリヤ人の強力な軍隊に占領され、敵に包囲されてしまったエルサレムに、今最後が訪れたかのようでした。

  しかしながら、ユダの王ヒゼキヤは「イスラエルの神、主に信頼した」とても立派な王でした。ヒゼキヤは堅く主に従って離れることがなく、このことのゆえに、主は彼のなす全てのことにおいて成功を賜ったのです。(列王紀下18章5節)

  周囲の町々がセナケリブの手に落ちたのを見たヒゼキヤ王は、攻撃を回避するために、次のようなメッセージをセナケリブに送りました。 「どうぞ引き上げてください。求められるものは何でも払いますから。」

  セナケリブの返答は取引どころのものではありませんでした。銀300タラント(約14トン)と金30タラント(約1.4トン) という目の玉が飛び出るほどの額を要求してきたのです!

  ヒゼキヤはそのお金を工面するためにあらゆる手だてを尽くし、神殿の扉および柱から金の上張りをはぎ取る事さえしたのです。しかし、アッシリヤのセナケリブ王は、ヒゼキヤがこの相当な重量の貢ぎを送るなり、次には貪欲にももっと多くを要求し、しかもいずれにせよエルサレムを奪い取るつもりなので、その門を開くべきだと通告したのでした。

  しかし、この一切の事にもかかわらず、王ヒゼキヤは堅く立ち、先手を打ったのです。ヒゼキヤは町の外の泉から来る水を遮断する事について、自分の司(つかさ)達や隊長達の意見を聞きました。ヒゼキヤは、「アッシリヤ人が来て、彼らが多くの水を得られるような事をしておいていいだろうか?」と言って、大勢の男たちを使い、泉と、国の中を流れていた川とをせき止める事に成功しました。

  次にヒゼキヤは、町の周囲に防壁と見張り用のやぐらとを築き、また大量の武器、及び楯を造り、隊長達に民を指揮させ、町の門の所に民を集めると、こう言って大胆に彼らを励ましたのです。「心を強くし、勇み立ちなさい。アッシリヤの王も、また彼と共にいるすべての群衆をも恐れてはならない。おののいてはならない。われわれと共におられる方は、彼らと共におる者達よりも大いなる方だからである。彼と共におる者は肉の腕である。しかしわれわれと共におられる方はわれわれの神、主であって、われわれを助け、われわれに代わって戦われる!」

  敵がいかに強くても、神がやって来て、その民に代わり戦って下さるという信仰こそ、彼の一番の強さでした。天からの神の助けの方が、いわゆる強者の力や数よりもはるかに勝っていることを、ヒゼキヤは知っていたのです。ヒゼキヤが語り終わった時、「民は王の言葉に安心した」と記されています。ヒゼキヤの言葉が力強かったのは、彼が主に信頼していたためであり、また、神からの言葉を通して王に助言を与えていた、エルサレムに住む神の預言者イザヤの言葉に信頼をおいていたからです。

  やがて、指揮官ラブシャケに率いられたアッシリヤ軍の第一陣が到着し、会合を求めたので、ヒゼキヤの高官3人がラブシャケと話し合いに行きました。ラブシャケの要求は簡単でした。ラブシャケはヒゼキヤに、抵抗しようとしたり、エジプトとの同盟に頼ろうとしたりすべきではない、そうするのは、「折れかけている葦のつえによりかかる」ようなものだと言ったのです。そして、傲慢にも、「主がわたしにこの地に攻めのぼって、これを滅ぼせと言われたのだ。」と主張しました!

  ヒゼキヤの部下達が、「すぐそばの、城壁の上にいる民にわからないように、シリヤ語で話して下さい。」とラブシャケに頼むと、ラブシャケはかえって「ヘブル語で大声に呼ばわって言った。『諸国民の神々の内、どの神が国をアッシリヤの王の手から救ったか? もしいるなら、名をあげてみよ!あなたがたは主に信頼すべきだ、などと言うヒゼキヤの言葉を信じてはならない! それよりは、あなたがたの町から出て来て降伏せよ。死ではなく、命を選べ。』」

  しかし、「彼に答えてはならない。」とのヒゼキヤの指示に従って、民は賢明にも沈黙を守っていました。

  会合の結果を聞くと、ヒゼキヤは神殿に行って祈りました。また、預言者イザヤのもとに使者を遣わして、起きたことを何もかも知らせたのです。するとイザヤは、「恐れるな。主は、 あるうわさを聞かせて、ラブシャケを自分の国に帰らせられる。」との主からのメッセージを送り返してきました。そして、後に全くその言葉通りになったのです。

  しかし、ラブシャケが自分の国に帰って間もなく、ヒゼキヤは、セナケリブから、イスラエルの神を悪く言っている悪意に満ちた脅しの手紙を受け取りました。

  ヒゼキヤは神殿に上って行って、主の前にその手紙を広げ、こう祈りました。「天と地との神、主よ、セナケリブが生ける神をそしるために書き送ったこの侮辱の言葉をお聞き下さい。まことにアッシリヤ人は多くの国々を打ち破り、その神々を倒してきました。でも、それらは神ではなく、人の手によって造られたものであって、木や石でできた偶像にすぎません。主よ、どうぞ今、われわれをセナケリブの手から救い出してください。そうすれば国々は皆、主よ、あなただけが神でいらせられることを知るようになるでしょう」!

  そして主は、王の必死の嘆願を聞かれ、主の預言者イザヤに素晴らしいメッセージを授けられ、このようにヒゼキヤに伝えさせました。「アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に来ない。またここに矢を放たない。ここに立ちはだかることもなく、塁を築いてこれを攻めることもない。わたしは自分のため、この町を守って、これを救うであろう。」 主は、その民を救うと重ねて約束されたのです。そして、神の約束が現実のものとなるまで、たいして時間はかかりませんでした。

  その夜、主の御使(みつか)いが敵の陣営を巡って、18万5千人を撃ち殺したので、イスラエルの人々が翌朝目を覚ますと、城壁の外側には、山一帯に見渡す限り、何キロにもわたって敵の死体が散在していたのでした! 最も手ごわい敵の大軍が神御自身によって皆殺しにされたのです。しかも、「矢は町の中には一本たりとも放たれず」、かくしてイザヤの預言は成就したのです。

  セナケリブに関しては、自国に引き返して間もなく、その偽りの神々の宮で礼拝していた時に、自分の二人の息子に剣で殺されたのでした。

  かくして、私達は王ヒゼキヤの信仰を知ったわけですが、彼については、「ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼したので、彼の後にも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった。」と言われています。

  では、ヒゼキヤが、 先代の王達、つまり残忍な征服者セナケリブから他の国々の民を救い出すこともできなかったような、 無力な偶像を拝して神に背を向けた王達と全く異なり、それほども力強く高貴な王だった理由は一体何でしょうか? その答えは簡単です。まさしく、「彼は堅く主に従って離れることがなかった」からなのです。

  イスラエルの実に多くのよこしまな王達と違って、ヒゼキヤはただ神だけに信頼する決意をし、恐るべき敵の高慢な挑戦はもとより、一見克服し難いような困難にも立ち向かったのです。そして、それがゆえに神は、 ヒゼキヤと彼の軍とをその敵どもから超自然的に守って下さったのでした。

  そのような決断がどれだけの重みを持つかを知りながら、しかも敗北と思われる状態をものともせず、時勢に逆らい、真理と自由のためにあえて立ち上がろうという気をリーダーに起こさせるものは何なのでしょうか? それは、信仰です。主の預言者達の言葉を通して神にすがる信仰のみなのです。

    信仰、強き信仰は

    約束に目を留め

    ただ神だけを見つめ

    不可能を笑い飛ばし

   「それはなされる」と叫ぶ。

  だから、神に信頼しなさい。そうすれば、神は、 たとえ奇跡を行なわなければならなくても、あなたを救い、守って下さいます。そうでしょう? 

いままでもずっとそうして下さったのですから!

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━

  神に答えていただきたいですか?

  戸口でその答えを待っているのですか?

  神が先に語られたすべてのこと、

  その御言葉の中を探してみなさい。

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

  単純に信じる信仰は神を敬い、神はそのような信仰を貴ばれる。

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

  神の偉大な人物はすべて、神が一緒にいて下さるとひたすら信じていたがゆえに、神のために大いなることをした弱い人達だった。

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━ 

  キリスト教とは、人生の困難から逃れる道ではなく、それに立ち向かう道である。

 

  ───今日の祈り───

  主よ、どうか子供のような信仰を与えて下さい。私達が岩なるイエス・キリストの上に立っていると知り、 どんな状況でも、あなたの約束を信じ、その確かさの上に立つことができますように。イエスの御名によって祈ります。アァメン。