宝 P.506-508

 

 歴史に見る冒険実話集!

    

カビのはえたパンによってかつがれる

(ヨシュア9章)

  エリコとアイでのイスラエル軍の勝利についての知らせが国中に広がり、カナン人は、恐れおののきました。このため、幾つかの大きな町の支配者達は、イスラエル人と戦争を行うための連合軍を結成することに決めたのでした。

  しかし中には、できれば、侵略者達と和平を結んだほうが良いのではないかと考える者達もいました。ギベオンの住民の長達もそうです。彼らは、自分達を救う為に巧みな策略をめぐらしたのでした。

  ギベオンはアイからそう遠くない所にあり、もし何の手段も講じないなら自分達の町が滅ぼされると考えたのです。そこで彼らは、遠い国から来た大使のような格好をし、「古びた袋と、古びて破れたのを繕ったようなぶどう酒の皮袋とを、ろばに背負わせ」ました。

  また、「繕った古ぐつを足にはき、古びた着物を身につけました。彼らの食料のパンは、みなかわいて、砕けていました。彼らは、ギルガルのヨシュアの所にきて、彼とイスラエルの人々に言ったのです。『われわれは遠い国から来ました。それで今われわれと契約を結んで下さい。』」

  イスラエルのリーダーの中には、長旅のために汚らしくしているこの旅人達のことを怪しみ、非常に注意深く観察する者達もいましたが、誰も彼らの正体を見破ることはできませんでした。ヨシュアはその者達に、「あなたがたは一体何者でどこから来たのか?」と尋ねました。

  彼らはわざと長旅ですっかり疲れきったような声で、「私達はあなたの神、主の名のゆえに、非常に遠い国から参りました。我々は主の名声、および主がエジプトで行われたすべてのことを聞き、また主が、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとの二人の王、すなわちヘシボンの王シホン、およびバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。」

  エリコとアイのことは口に出さぬよう気をつけました。うっかり口をすべらすなら、正体がばれてしまうからです。

  それから、ヨシュアとイスラエルの長達が彼らの話を信じだしたのを見て、自分達が持ってきた食べ物を指さし、悲しげにこう言ったのでした。

  「これは、私どものパンです。皆さんにお会いするために、旅に出た日、焼き立てのこのパンをかまどから出して持って参りました。しかし、ごらん下さい。すっかり乾いて、カビまではえております。またぶどう酒を満たしたこの皮袋も新しかったのですが、ごらんのとおり、破れております。私どもの服や靴も、長旅のせいで古びてしまいました。」

  なんと悪賢い詐欺師でしょうか! まんまとイスラエル人をだましたのです。そしてヨシュアも、そして他のリーダー達も彼らの話を信じてしまいました。カビのはえたパンという強力な証拠があっては、とても否定することはできません。「そしてヨシュアは彼らと和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた。会衆の長たちは、主の御前で彼らに誓いを立てた。」と書かれています。

  もちろん、その策略がばれるまで長くはかかりませんでした。事実、たったの3日で真実が明るみになったのでした。ヨシュアや他の者達がそのことを知って、どれほど自分達の馬鹿さ加減に腹が立ったか想像がつくと思います。

  しかしながら、イスラエル人は、自分達が主の御前で誓ったことのゆえ、主の怒りが下ることのないよう、その約束を守りました。

  イスラエル人はギベオンに行った時、そこの住民を攻撃しませんでした。しかしながら、彼らを欺いた罰として、ギベオン人達に、永久にイスラエルの民の奴隷となって働き、「たきぎを切り、水をくむ者となる」ように命じたのです。

  どうしてヨシュアとイスラエルの長達はこれらのずる賢い者達にだまされたのでしょうか? 聖書には、次のような説明があります。「イスラエルの人々は、彼らの食料は調べたが、主の指図を求めようとはしなかった。」 言いかえると、訪問者達の外見とカビのはえたパンを見て、彼らは、不審に思いはしたものの、そのことで主に尋ねることはしなかったということです。

  神は、エリコやアイの征服の仕方について助言を与えられたのと同じように、このことについても助言を与えようとしておられました。しかし、多分この二つの大勝利によって、イスラエルの民はおごり高ぶり、自信過剰になり、このような小さな事でわざわざ神に尋ねる必要はないと思ったのでしょう。だから油断しているところを突かれて、カビのはえたパンによって欺かれたのです!

  これは、ヨシュアと彼の部下達にとって何と貴重な教訓だったことでしょうか。もし彼らがそのことで神に助言を求めてさえいたなら、神は彼らがだまされることを許されはしなかったでしょう。その事で知恵を求めていたなら、神は知恵を与えて下さっていたでしょう。−−ヤコブ1:5

  昔、神の民に起こった様々な出来事について、聖書には、はっきりとこう説明してあります。「これらの事は手本として起こり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私達に対する訓戒(警告)のためである。」−−第一コリント10:11。

  そして、今日、指導的立場につく人々に最も必要とされているものとは、優れた判断力と識別力です。つまり、真実なのかごまかしなのかを見抜き、誠実で偽りのない人々と、不正直で偽りの心をもった人々を見分ける鋭敏な能力です。

  ではどうやってこの判断力を得るのでしょうか? それは簡単です! ただ主に与えて下さいと求めればいいのです。そうすれば、私達は受け取れると、主は約束して下さいました。−−マタイ7:7-11、ヤコブ1:5

  誰でもイエスに祈って、素早く答えを得ることができますが、主と主の御言葉に頼る代わりに、うぬぼれて自分の理解力や知恵に頼るなら、私達は悲しい間違いを犯し、すべては無駄な努力に終わってしまうでしょう!

  聖書は、終わりの日々には「邪悪な者や、人を欺く者はどんどん悪くなっていく。」と警告しています。ですから、嘘をつくことや悪賢さが多くの人々にとって一つの生き方となっているこの日、この時代において、私達は、神の導きと裏付けと指示を常に求める必要があるのです。主はこう語っておられます。「すべての道で主を認めよ。そうすれば主はあなたを導かれる。」−−箴言3:6

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   「にせ預言者を警戒せよ。彼らは羊の衣を着てあなたがたの所に来るが、その内側は強欲なおおかみである。」−−マタイ7:15              

   「彼らが声をやわらげて語っても、信じてはならない‥‥こうした人々は、甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。」−−箴言26:25、ローマ16:18。 

   「顔かたちを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」

 −−サムエル記上16:7。  

   「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、心の思いと志しとを見分けることができる。」−−ヘブル4:12。

   「うわべで人を裁かないで、正しい裁きをするがよい。」−−ヨハネ7:24。