宝 P.503-505

 

 歴史上の大いなる戦い!

 

最も「型破りな」戦い!

(ヨシュア記6章)

 

  エリコの中はあわただしい雰囲気に包まれていた。イスラエルの民がヨルダン川を奇跡的に渡ってからというもの、イスラエルの民の行動は町の城壁の上からしっかりと監視されていた。ヨシュアとイスラエルの民がまだ荒野にいた時から、エリコの王は彼らの勇ましい偉業の数々、すなわち彼らがエジプトから出た時、主が紅海を分けられたことや、彼らがヨルダンの東のアモリ人の二人の王を撃ち破ったことなどを耳にしていた。

  それゆえ王はいつ何時にも攻撃を加えられることを予期し、その兵士らに町の巨大な門を固く閉ざせと命じていた。誰もその門から出入りすることを許されなかった。城壁の上の見張りは皆、イスラエルの陣営の周りで起こるどんな動きも報告するようにとの指示を受け、また戦いに秀でたすべての男たちは武器を持ち、戦いに備えていた。

  ついに避けられない運命の時がやってきた。時は早朝、イスラエルの民が動き出したとの知らせが王のもとにすみやかに報じられたので、すぐさま警報があらゆる部署に発せられ、エリコの戦士らは皆、町の城壁の上の各々の持ち場に身を構えた。

  イスラエルの陣営では、ヨシュアは主から与えられた指示を祭司達に伝えていた。「主の契約の箱をかつぎなさい。そして七人の祭司はラッパを携えて、主の箱に先立たなければならない。」と。それから人々に命じて言った。 「進め! 町の周りを行進せよ。武器をとる者は主の箱の前に先立たせ、また後衛をその後に従えさせよ。」

  その頃にはエリコの城壁は、いまだかつて見たこともない非常に奇異な行進を見守る者達でいっぱいだった。何の攻撃も受けないということは、彼らにとって全く予想外のことだった。イスラエル人はラッパを吹き鳴らし続けるその祭司達と共に、ただ静かに町の回りを歩くだけなのだ。 (というのも、ヨシュアが、「あなたがたは呼ばわってはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない!」と命じておいたからである。)

  最初の日に限らず、その後六日にわたって一日に一度この奇妙な光景を目の当たりにしていたエリコの民は複雑な気持ちだった。城壁からじっと見下ろしていた者の中には、征服者とまで呼ばれている者達がこんな気違いじみたまねをしている事をあざ笑う者もあれば、不安にかられている者達もいた。

  こうして日は一日、一日と過ぎていった。毎回、その町の周りをまる一周するという全く同じ行進が、ヨシュアと祭司、そしてイスラエルの民によって行われた。

  しかしそうしているうちに七日目がやってきたが、この日は町を一周した後も引き揚げることをしなかった。一日中、七つのラッパを吹き鳴らしながら回り続ける物言わぬ何万人もの人々が行進する足音が止むことなく響き続けたのだ。

  七周目を回った時、七人の祭司は各々、ラッパを長く吹き鳴らし、ヨシュアはとどろきわたるような声で命じた。「呼ばわれ! 主はこの町をあなたがたに賜った!」

  その瞬間、軍隊のすべての兵士が空に響きわたる力強い叫び声をあげた! すると大きな轟音を立ててエリコの大城壁は崩れ始め、ついには完全に倒壊してしまった!

  ヨシュアの兵士達は町にどっと攻め込み、命じられていたとおり、「遊女ラハブとその父の家の一族と彼女に属するもの」を除いては誰も生かしておかなかった。

  「ヨシュアがエリコを探らせるためにつかわした使者達をかくまったために」ラハブと彼女の家族はイスラエルの内に平穏に暮らしたと聖書に記されてある。

  「主はヨシュアと共におられ、彼の名声はあまねくその地に広がった。」

  このようにして最初の大いなる勝利はカナンにおいて勝ち取られたが、それはどのようにして勝ち取られたのか? 強力な武器を所有する巨大な軍隊によってか? その戦いはヨシュアの大勇士達が強く熟練していたゆえに勝ち取られたのか? そうではない! これは全く「型にはまった」戦争といったものではなかったのである。

  反対にこの英雄的な勝利は、一見して弱く、装備も行き渡らない者達によって勝ち取られたのである。彼らは、神の言われたことをそのまま信じるほど奇抜な者達であった。彼らが喜んで主とヨシュアからの明確な指示に従い、「従うための信仰」を持っていたがゆえに、最も奇異な方法で彼らに勝利がもたらされたのである。

  しばしば私達は、大きければ偉大だと考えてしまったり、数が多ければ強いのだと考えてしまう傾向がある。しかし実のところ、このどれも必ずしも真実ではない。

  事実、神は、この世の人々のように大きいことをことさら好まれるわけではない。神が強い者の味方をされることはめったにない。ほとんどいつも、神は弱い者の味方である。なぜなら神の道は私達の道とは異なり、神の思いは私達の思いとは異なるからである。神は強い者をはずかしめるために弱い者を選び、賢い者の知恵を空しいものにするために愚かな者を選ばれる。(イザヤ55章8節、第一コリント1章27節)

  だから神に物事のやりかたを指図しようとしてはならない! ただ、主は御自分のしておられることが正しいことを知っておられると信頼しなさい!そしてそれがどんなに気違いじみているように見えたとしても神の道を行きなさい。

  明日あなたは主に信頼した事を喜ぶであろう!

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   戦いは長びくかもしれないが

   勝利は確実だ

   耐え忍ぶ者たちに

   ついに休息がやってくる!

 

   勝利を収める時、

   我々は神に賛美を捧げるであろう

   その時、我々の「司令官」の、

   「よくやった!」という声を聞く

 

   だから、今戦いに出よ!

   勇敢なる兵士よ、進軍せよ!

   主の力によって堅く立て

   敵が逃げ去ってしまうまで!

 

   知恵と力の聖霊による

   証印を受けて、

   進め、戦え

   キリストの兵士らよ、進め!

 

  ━━━ 今日の祈り ━━━ 

   ああイエスよ、どんな代価がかかろうとも、あなたが私達に求められることは喜んで何でもするだけの愛を与えて下さい。−−それがあなたのなされたように自分の命を捨てることであっても。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15章3節)