宝 P458-463

 

イエスのために堂々と立ち上がりなさい!

 

  昔、カナダ北部の広大な森で木を切るのが仕事の若者がいました。ある時、その木こりの若者が二、三日、近くの町へと出かけたところ、一人の牧師が、通りの角で彼に証しをし、彼はイエスを受け入れました。

  「ジェイク、君は、イエスに心の中に入って下さるよう求めたのだから、君の人生は変わるんだよ。」と牧師は言いました。

  「どんなふうにですか?」とジェイクが尋ねると、その牧師は聖書の節を見せたので、ジェイクはもっと近くに寄って聖書をのぞき込みました。

  「それはね、見てごらん、神の御言葉にはこう書いてあるよ。『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。』−−第二コリント5:17。だから、ジェイク、君に警告しておくが、伐採場に帰ったなら、君は非常につらい思いをするかもしれない!」

  「牧師さん、どうしてですか?」「なぜなら、君はよく知っていると思うが、木こり達は、乱暴者で、頑固で、悪い人間がほとんどで、おまけにクリスチャンが嫌いなんだ!」

  「確かにそうですね!」と、ジェイクは、その通りの端のほうで、酔っ払ってわめいている自分の友人達に目をやりながら、うなずきました。

  「しかしジェイク、君は前と同じ人間ではない。もう神を呪ったり、汚い言葉を吐いたり、悪いことをしたりはしない! 君があまりにも以前と違っているので、仲間達は君にいやがらせをするだろう!」

  「へーっ!」とジェイクは言いました。

  それから、ジェイクは伐採場に戻りました。そして何か月か過ぎ、また町へと出かけました。彼は、またあの牧師に会えるだろうかと考えていたのですが、するとやはり、あの牧師が通りの角に立って、小冊子を配っていました。その牧師に気がつかない人など殆どいない位でした。その牧師の微笑んだ顔は、通り全体を照らしているかのようで、通りすぎる全ての人にイエスの愛を投げかけていました。

  「やあ、牧師さん! お会いできてうれしいですよ!」

  「やあ、ジェイク!」とその牧師は叫び、イエスを受け入れたその木こりにまた会えたことを喜びながら、こう言いました。「伐採場ではどうだったかね!」

  「ああ、うまくいってますよ。本当に!」

  「でも、そこでクリスチャンとして生活するのは大変だろうと、私は君に言わなかったかい?」

  「いえ、いえ! そんなに大変じゃありませんでしたよ! 楽なもんです!」とジェイクは答えました。

  「すると何かい、彼らは君にいやがらせをしたり、君にきつくあたったりはしなかったのかね?」と牧師は驚いて尋ねました。

  「ああ、いいえ! あのですね‥‥仲間達は、僕がクリスチャンになったということに全然気がつかなかったんですよ!」

 

  それは真のクリスチャンの手本とは言えません!あなたは、自分に何か信じているものがあるなら、そのことについて話すことでしょう! もし自分の好きな野球チームは最高だと信じているなら、そのチームのことを話すでしょう! もし、自分の支持する政党が良いと信じているなら、その政党のことを話すことでしょう! また、自分の仕事は素晴しいと信じているなら、その仕事のことを話すことでしょう! そして、イエスのことを本当に信じていて、イエスを愛しているなら、イエスのことを話し、イエスの愛を他の人と分かち合うことでしょう。ちょうど洗濯女ソフィーのように! 彼女はある日、煙草屋の前に立っている大きな木彫りのインディアン人形に向かってイエスのことを話していたことで、誰かにからかわれたのです! するとソフィーは自信をもってこう答えました。「多分私はそうしていたでしょうよ。もう私はあまり物がよく見えないんでね! でも、自分がでくのぼうのクリスチャンになって、イエス様のことを誰にも全然話さないよりは、木彫りのインディアンにイエス様のことを話すほうがずっとましですよ!」

  イエスはこう言われました。「燭台があるのに、それを桝(ます)や壷の下におく者はいない」と。彼らは、どこかの片隅に一人で座って、誰も自分がクリスチャンになったのを見つけ出さないようにと願ったりはしません。そうではなく、「燭台の上において、家の中の全てのものを照らさせる」のです!−−マタイ5:15; ルカ8:16。彼らは堂々と、他の人にどうして自分の人生がそのように奇跡的に変わったのかを話します! 一度救われたなら、神の愛とイエスの真理を隠すことは不可能なはずです! もしあなたの心にイエスがおられ、イエスの愛を持っているのなら、イエスはあなたがそれを他の人に示し、他の人と分かち合おうと努力することを望んでおられるのです! イエスはご自分の命をあなたのために捧げられたのですから、そんな事は何でもないはずです!

  現代の共産主義者の大半がどのようであるかを考えてみて下さい! 彼らの事や彼らの大義について私達は頻繁に耳にします。彼らは確かに献身的であって、しばしば非常に犠牲的で断固としていて、活動的で、世界を支配するという自分達の目標に達するためには、命を捨てることさえいとわないのです! クリスチャンの大多数についても同じことが言えるでしょうか?

  残念ながら、現在、一般的にクリスチャンと呼ばれている人々の大多数は、自分が人から目立ち、その他大勢の人々と異なる独特の存在となることを恐れています。彼らは信念を失い、確信を失い、また、イエスのために断固とした態度を取り、人が自分の事を何と言おうと、どう考えようと全く恐れないという大胆さを失っています! あまりにも多くの人が、どの程度まで大胆になっても自分達の評判を傷つけないでいられるかを計算しようとします。そのような人達は、イエスの時代の、人のご機嫌取りをするユダヤ人達のようです。彼らのことについて聖書には次のように書いてあります。「指導者達の中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。」−−ヨハネ12:42、43

  彼らは、自分が狂信的な信者だと呼ばれたり、「キリストのゆえに愚かな者」 (第一コリント4:10) となるのを恐れて、本当に際立ったクリスチャンとなることを望みません。ちょうど、ロンドンの混雑した通りを歩いていた、ある実業家のようになる事を望まないのです。彼は帽子に、「私はキリストのための愚か者です!」と書かれた紙をピンで留めていました。そして、通り過ぎる人が、この人は熱狂的信者に違いないと考えながら、彼のほうをもう一度振り返ると、帽子の後ろにはまた別のカードが付けてあって、それにはこう書いてあるのです。「あなたは、誰の愚か者ですか?」!

  非常に多くの人が、あえて他の人と異なろうとしたり、思い切って一般の人達と違ったことをしようとすることは滅多にないというのは、本当に悲しいことです。彼らは、主と歩む人生においても、ひどく気をつかい、こっそりと、誰の邪魔もしないように努力するのです! 初代教会のクリスチャン達とはどんなにかけ離れていることでしょうか。初代のクリスチャン達は、「天下をかき回してきた人たち」とまで言われています!−−使徒行伝17:6。彼らはまさに、世間を騒がす者と言われていました。けれども、パウロやペテロやステパノやピリポの名は現在でも生き続けており、彼らの影響は今でも残っていますが、それに反して、現代の中途半端で何もしていない多くのクリスチャン達と同じようだった、受け身的な妥協者達は、ただ忘却のかなたに忘れ去られてしまいました!

  ナアマンは、そのような妥協者の飛び切り悪い手本です。彼は、もし自分の信仰を堂々と人前で表明していたなら、古代シリア全体を、真の神を信じる宗教へと改宗させることができたことでしょう。ナアマンは、王に次いで二番目に重要な人物でした。彼は最も地位の高い将軍、また防衛長官でした。イスラエルにいるエリシャに会いに行って、らい病を奇跡的にいやしてもらい、それからは、自分の妻や下女や親しい友人数人に、イスラエルの神以外に神はないと証しをし始めさえしたのです。けれども、シリアの王が彼に、自分と共にリンモンの宮に行き、拝むようにと求めた時、自分が新しく知った信仰を堂々と表明することをしませんでした。リンモンとは、シリアの人々が崇拝していた異教の悪神です。そしてエリシャに、こう弱々しくわびました。「どうぞ主がこのことをしもべにお許し下さいますように。」

  王とリンモンの宮に入るナアマンを目にした国民にとって、それはどんな証しとなったことでしょうか? 国民は、彼がイスラエルの神によっていやされたと聞かされていましたが、きっとその話を疑ったに違いありません。「もしかすると、ナアマンをいやしたのは、リンモンの神だったのかもしれないぞ。自分達は、ナアマンが王と共に毎日そこで拝んでいるのを見ていたからな!」−−列王紀下5章。

  「中立」や妥協などというものは、クリスチャンの生活の中にはありません。イエスは、「わたしの味方でないものは、わたしに反対するものである!」と言われました。−−マタイ12:30。クリスチャンの生活とは、情熱的で、徹底していて、イエスのために世界を勝ち取ろうという大義のために、100パーセントすべてを捧げる献身的な生活でなくてはなりません! クリスチャンが堂々と自分達の確信を大胆に表明し、立ち上がって、闇の軍勢と戦う時が来ているのです。闇の軍勢は、今世界中で活動しており、恐ろしいほどの速さで私達に迫ってきています! だから、何の確信も勇気も持ち合わせておらず、群衆に応じて色を変え、まわりの世界に溶け込んでしまうような「カメレオン」的なクリスチャンが戦う出番はありません! それが今日のキリスト教の真の問題です。みんなが「隠れ」クリスチャンということになっていて、誰にも見破られることなく、自分の魂だけをこっそりと天国に持ち込もうとしているにすぎないのです!

  あなたは、人の意見を恐れて自分の宗教をひそかに実践しているのですか? それとも、いろいろな時代にいた他のクリスチャン達のように公然と立ち上がるほどの確信と、クリスチャンとしての勇気を持っているでしょうか? また、どんなにそれが目立つことであり、自分がどんな立場になろうとも、あらゆる機会に自分の信仰を堂々と表明するだけの確信と勇気を持っているでしょうか! イエスは、「あなたは、熱いか冷たいかであってほしい!−−しかし、あなたが生ぬるいなら、あなたを口から吐き出す!」と言われました。−−黙示録3:15、 16。神にとっては、徹底的にするか、全然しないかのどちらかしかありません! 主のための人生には、中途半端などは存在しないのです! 神は、中途半端で生ぬるで優柔不断な人、妥協者、「ここまではやるが、それ以上は何もしない」というタイプの人々を忌み嫌われます!

  イエスご自身、「おのれをむなしくして、侮られて、人に捨てられ、悲しみの人で、深い悲しみを知っていた。彼は侮られ、われわれも彼を尊ばなかった」のです。−−イザヤ53:1-3。それでいて、今日のクリスチャンのほとんどは、イエスのゆえに少しでも侮られるのをいやがり、イエスのために口を開くべき時、口を開くべき所で堂々と発言したり、人の意見に構わず、あえて正しいことをしたり、神の御言葉の真実のために断固とした態度を取ったりしようとは思いません! イエスは私達のためにどれだけ苦しまれたことでしょう。それなのに、自らイエスのために苦しみを受けようする人が、どんなに少ないことでしょうか!

  聖書にはこう書いてあります。「主は私達のために命を捨てて下さった。それによって、私達は神の愛を知った。それゆえに、私達もまた、兄弟のために命を捨てるべきである!」−−第一ヨハネ3:16。私達は、この暗い時代において、まだ可能な間に、できるだけ多くの魂を勝ち取るために、喜んでどんなことでもやり、自分の命をも捧げる覚悟がなくてはなりません! 神の御言葉を証しすること、福音を宣べ伝えること、人々に神の愛を伝えること、彼らにイエスの愛を示すこと以上に偉大な仕事は、この世界にありません!

  ここに、非常に考えさせられる実話があります。それは、息子が「聖ジェームズ宮廷への大使」に、つまり、駐英アメリカ大使に任命された老婦人の話です。それは常に世界で最も名誉ある大使職とみなされていました。特に大英帝国が栄華の絶頂にあった当時はそうです。けれども、友人が婦人にこの素晴らしい知らせを伝えに訪れると、彼女は大喜びする代わりに、涙したのです。悲しそうに首を振りながら、彼女はこう言いました。「息子は、福音の大使となることもできたかもしれないのに。それが、駐英大使などになり下がってしまうなんて!」

  そのことを考えてみて下さい! 息子はアメリカ大使ではなく、天の御国の大使になることもできたというのに! 彼はすべての内で最も偉大なる王、王の王、イエスの大使となることもできたのです! 英国のような小さな国ではなく、全世界への大使、それも、最も偉大なる王国からの大使となって、いと高きところで永遠に宮殿に住まうこともできたのです!

  あなたにも、その任命を受けることができます!それを受諾しますか? この世界全体で、神の子供となること以上に高い地位はありません。そして、イエスのために堂々と立ち上がり、イエスのための証し人 (あかしびと) となる以上に大いなる名誉はありません!

  −−イエスのために今日立ち上がりなさい! あなたは、そうして良かったと思うことでしょうし、また神も喜ばれることでしょう! そして、主の愛というあなたのメッセージを受け取るすべての人もそのことを喜ぶことでしょう!