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主の翼に備えられた癒しの力!

 

  奇跡の時代というのは過去のものではなく、かつて主がなされたことは、今日でもなお起こり得ます!神は今でも生きておられ、健在で、昔と変わらず、主に信頼する者達の間で力強く働いておられるのです!主は、「わたしは主であって、変わることがない。」そして、「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがない!」と言われました。−−マラキ3章6節、ヘブル13章8節

  またイエスは、こう約束されました。「わたしを信じる者は、また、わたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。信じる者には、このようなしるしが伴う‥‥彼らが病人に手をおけば、いやされる。」−−ヨハネ14章12節、マルコ16章17,18節  神は今なお、心や精神や霊を変えるだけではなく、癒される必要のある体をも癒しておられるのです。

  あらゆる創造物の神である主にとっては、癒すことなど小さなことです! 体を造ることができるなら、確かにその修理もできるはずです! 私達を造られた方には、私達を治すこともできるはずです! 主は、「わが名を恐れるあなたがたには、義の太陽 (イエス) が昇り、その翼には、いやす力を備えている!」と告げておられます。−−マラキ4章2節

 

苦悩、試練、患難−−何故起こるのか?

 

  主は、主の子供達は決して病気になったり、体の調子が悪くなったりしない、とは言われませんでしたが、全てその中から私達を助け出されると言われたのは確かです!−−「正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される!」−−詩篇34篇19節

  どうして病気や災難が起こるのだろうかとよく思うのは自然なことですが、神は常に何事にも理由を持っておられ、神の子供には何事も偶然には起こらないのです。私自身や、他の多くの人達の人生を見てみると、神はいつも何らかの目的があってそういったものを私達に経験させられるのだということがわかります。もっとも、その目的がいつも直ちに明かされるというわけではありませんが!

  主は、しばしば、病気などを使って私達を試します。そして、私達を主に近づけて、主に呼ばわらせ、祈りの内に真に主を求めさせようとします。そうしないと、私達は惰性で毎日を送るだけになってしまうからです。だから、私達を主に近くとどまらせ、また謙虚に保ち、さらにもっと主に依存させるために、いろいろなことが起こる場合もあるのです。また時には、他の人ともっと近くなるようにするために起こる場合もあります。また、祈らせるために起こる場合もあります。私達が災難にあうのを主が許されるのでさえ、様々な理由があってのことであり、そうした事はすべて、私達の受けている訓練の一部なのです。

  聖書に出てくるあの盲の人の場合のように、時には、もっと不可解で、驚くべき理由でこういった事が起こる場合もあります。イエスは、彼が盲なのは、本人が罪を犯したからではなく、「神のみわざが、彼の上に現れるためである。」と言われました。そして、その事を証明するために、イエスは直ちに彼を癒されたのでした!−−ヨハネ9章 神が奇跡を行って私達を癒し、それが人々への証しとなるために、私達が病気になることもあります。つまり、神の力と、神が実際に癒すことができることをみんなに見せるためです。

  しかし、理由が何であれ、いつも覚えておくべき事は、神は何をなさるにも愛の内になさるということです。また、「主を愛する者たちには、すべてのことが共に働いて益となる」のです。−−ローマ8章28節 神を愛し、神御自身の子供であるあなたの身に、あなたの益とならない事が起こることなど、神は許されません。あなたは、「でも、私には良いことのようには思えないことがよく起こるけれど!」と言うかもしれません。けれども、遅かれ早かれ、何らかの形でそれが自分に良いものであったことが、結局はわかったことでしょう。たとえまだわからないとしても、いつかわかるようになります!

  ダビデ王はこう言いました。「苦しみにあったことは、わたしにとって良いことです。これによって、わたしはあなたのおきてを学ぶことができました。わたしは苦しまない前には迷いました。でも今は (苦しみを受けた後は) 御言葉を守ります。」−−詩篇119篇71,67節  だから、災難や苦難でさえ、私達にとって良いものとなり得るのです。あなたにその理由がわかるまで、何週間も、何ケ月間も、さらには何年間もかかることがあるかもしれませんが、時が来れば、神は正しかったし、正しいことをされたということがわかるようになるのです!

 

癒しはあなたのために!

 

  「正しい者には災いが多い」けれども、主は「すべてその中からあなたを助け出され」ます。 (詩篇34篇19節)  どんなにたくさんの災いがあっても、また災いが何であっても! す・べ・て、すべての災いから! つまり、幾つかのとか、少しのとか、ほとんどのとか、多くの災いからではなくて、すべての災いからです! だから、神御自身の言葉によれば、あなたは神が必ず救い出して下さると期待できるのです!

  癒しはあなたのために用意されているのです! 私達一人一人に宛てて書かれた神の言葉である聖書には、癒しに関する聖句がいたるところに記されています。神は、聖書の中で私達に様々な約束をされました。私達は、その約束を神が果たして下さることを要求し、その実現を期待することができるのです。「尊く大いなる約束が、私達のために与えられている。これらのもの (神の約束) によって、あなたがたが神の性質にあずかるものとなるためである。」−−第二ペテロ1章4節

  これはまた、あなたの信仰の源でもあります。信仰は、神の御言葉を聞くことによって成長します。−−「信仰は聞くことによるのであり、神の言葉を聞くことからくるのである。」−−ローマ10章17節 これが信仰の法則です。信仰は御言葉の上に築かれるので、祈り深く御言葉を読み、あなたの信仰を強めて下さるよう神に求めなさい。

  神の御言葉を読めば、神はあなたを癒せることだけではなく、癒したいと思っておられるのだということがわかるでしょう! 哀れならい病人がイエスのところにやって来て、「主よ、御心でしたら、清めていただけるのですが。」と言った時、聖書には、「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう、清くなれ!』と言われた。すると、らい病は直ちに清められた。」と書かれています。−−マタイ8章2,3節主の与えたいという気持ちは、私達が受け取りたいという気持ちにまさるものなのです!

  神が私達から求められるのは、神を敬って、神の御言葉と約束に信仰を持つことだけです。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを必ず信じるはずだからである!」−−ヘブル11章6節  だから、主に信頼するのです!「主は、その良き約束を皆一つもたがえられなかった!」−−列王紀上8章56節

  偉大な医者であられるイエスは、あなたの癒しのための支払いをすでに済ませられました。私達の霊の救いのためにイエスの血が流されたように、私達の体の癒しのためにイエスの体が砕かれたのです。イエスはあなたの救いのために死んで下さいましたが、イエスが苦しまれたのは、あなたの癒しのためだったのです。「彼は、十字架にかかって、私達の患いを身に受け、私達の病をその身に負うた。その打たれた傷によって、私達は癒された。」−−マタイ8章17節、第一ペテロ2章24節、イザヤ53章5節

  この節で、「打たれた傷」と訳されている言葉は、原文のヘブル語では、文字通り「打撲、痛み、鞭の跡、負傷」という意味です。だからイエスは、そうした傷を負うことによって、私達の病気のためにもあがなって下さったのです。つまり、イエスは肉体的に苦しむ事によって、私達の体が癒されるように、償いをして下さったのでした。だから、イエスによるあがないの一部として、また主が償って下さったものの一部として、私達は癒しを求めることができます。それは、求めるだけで、もうすでにあなたのものなのです!

 

祈りの力!

 

  「信仰による祈りは病んでいる人を救い、そして主はその人を立ち上がらせて下さる。かつその人が罪を犯していたなら、それも許される。」−−ヤコブ5章15節 祈りは力強いものです! 私達が祈る時、物事は起こり、物事は変わります! 神は祈りに答えられます。

  もし、あなたが本当に必死になり、心の底から主に呼ばわって求めているなら、主は答えて下さるのです! 主は、「あなたがたはわたしを尋ね求めてわたしに会う。もし一心にわたしを尋ね求めるならば。」と言われています。−−エレミヤ29章13節 また、「わたしに呼び求めよ。そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されていることをあなたに示す。」とも。−−エレミヤ33章3節

  忘れないで下さい。聖書の中のすべての約束は、あなたへの約束なのです!−−「尊く大いなる約束!」−−第二ペテロ1章4節 だから、祈る時にはそれらの約束を引用し、神に御自身の言葉を思い起こさせるのです。そうすることによって、あなたは神の御言葉に信仰を持っているということを示すことになります。このように自分に信仰や御言葉の知識があるということを積極的に宣言することこそ、神を喜ばすのです。

  主は「これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いてあふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい!」と言われます。−−マラキ3章10節 恵み、つまり主の癒しは、まだ目には見えません。あなたには、癒すという主の御言葉しかありません。だから主が癒しを注がれるか否か、一体どうやって分かるのでしょうか? 主を試みなければならないのです!まさにテストにかけなければならないのです。癒して下さるように神に迫らなければならないのです。

  主は私達に、「わたしの手のわざについて、わたしに命じよ!」とさえ言われています。−−イザヤ45章11節 だから、主に御自分の言葉を守らせるのです!答えを要求し、また期待しなさい! 主が約束されたのですから! 主に信仰を持ち、ちょうどイエスが試みにあった時になさったように、聖句を引用し、それを自分への約束として要求するのです。(マタイ4章参照) 主は御言葉を守る義務を負っておられます! だから、主にそれを思い起こさせ、主の約束をしっかりと握りしめ、絶えずそれを暗記し、口にし、神が答えて下さることを一瞬たりとも疑ってはいけません。そうすれば、神は答えて下さいます! そうせざるを得ないのです! 答えたがっておられるのです! だから主に信頼しなさい!

  イエスはこう言われています。「何でも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」−−マルコ11章24節 「私達が神に対して抱いている確信はこうである。すなわち、私達が何事でも神の御旨 (みむね) に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。そして私達が願い求めることは、何でも聞き入れて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを知るのである。」−−第一ヨハネ5章14,15節 私達はただ、神の約束を信じ、祈って、神が答えて下さることを期待するだけでよいのです。

 

「燃えさかる炉」

 

  でも、主はいつでも直ちに答えて下さるわけではありません。それによって、私達の信仰が試され、私達は、主と主の御言葉へと駆り立てられ、霊の内にもっと主の近くに引き寄せられるのです。そうやって信仰が試されないなら、私達は主や主の御言葉のために時間をとったり、それらに注意を払ったりしないかもしれません。

  主はよく、私達を癒される前に、私達の信仰を試され、私達が喜んで従うかどうかをテストされます。たとえ決して癒されることがないかもしれないと思っても、私達がなお主を信じて従うかどうかを、主は見たがられるのです! もし、私達の方が主に信仰を持つ事によって主を敬わないなら、主の方でも、癒しによって私達を祝福する必要はありません! たとえ決して癒して下さらなくても、私達は主を信じて従わなければならないのです!

  例えば、自分の信仰を捨てることを拒み、バビロンの王の偶像を拝むのを拒んだために、火の燃える炉に投げ込まれたヘブルの三人の若者がしたように。彼らは、「私達の仕えている神は、その火の燃えさかえる炉から私達を救い出すことができます。また、あなたの手から私達を救い出されます‥‥たとえそうでなくても、王よ、ご承知下さい。私達はあなたの神々に仕えず、またあなたの金の像を拝みません!」と言ったのでした。彼らは炉の中に入って行き、それで一巻の終わりのようでした。炎はとても熱く、死刑執行人さえ焼け死んでしまったほどだったのですから! しかし、彼らが神への信仰を持ち、神に従ったために、神は彼らと共におられ、彼らは煙の臭いさえつけずに出て来たのです! (ダニエル3章参照)

  まず信仰を持って従うのです。そうすれば神は祈りに答えられます!「あなたがたの信仰は試されて、金よりも、多くの純金よりもはるかに尊いことが明らかにされるからである! なぜならば、見よ、わたしはあなたを精練したが、銀のようにではなく、災いの炉をもってあなたを試みた。それ故に、あなたがたを試みるために降りかかってくる火のような試練を、何か思いがけない事が起こったかのように驚き怪しんではならない!」と主は言われます。−−第一ペテロ1章7節、イザヤ48章10節、第一ぺテロ4章12節 神の奇跡を生む力によって、起こりそうなことも起こらずに済むのです。ちょうど、あのヘブルの三人の若者の場合のように。あなたも火の中を通らなければならないようなことがあるかもしれませんが、主には、煙の臭いさえつけさせずに、あなたをその中から連れ出すことが容易にできるのです!

  病気は普通、大きなテストなのですが、残念な事に、不平を言ったり、苦々しい思いを抱くという結果に終わってしまうことがよくあります。また、中には癒して下さらないと言って、神を責める人もいるのです! そういう人は「癒してくれたら、主に仕えよう。でも、主は私なんか愛してはいない。顧みてもくれない。癒して下さらないのだから!」と言うのです。

  そのような疑い、恐れ、落胆、不平は死をもたらします! エジプトを出たイスラエルの民の大人達はどれほど不平を言ったことでしょうか! 彼らは、信仰の欠如のために、荒野で死んでしまったのです! 彼らは、「とても多くのことを苦しんだのに、無駄にしてしまった」のです!−−ガラテヤ3章4節 あれほどたくさんの苦しみを味わったのに、不平を鳴らしたため、決して益にあずかることがありませんでした!戦いのことで不平を言い、勝利の直前に投げ出してしまう者は、決して勝利を楽しむことはないのです! 何と悲しいことでしょう!

  しかし、信仰、信頼、勇気、主への賛美は生命をもたらします! もし悪魔をたたきのめしたいのなら、何が起こっても、ただ主を賛美し始めることです! 悪魔は賛美には全く耐えられないのです! だから悪魔はしっぽを巻いて逃げ去るでしょう! 「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去るであろう。完全な愛は恐れを取り除くからである。神が私達にくださったのは、恐れの霊ではなく、力と愛と健全な思いの霊なのである! それゆえに、主は全き平安をもって、その思いを主にとめている者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである!」ハレルヤ!−−ヤコブ4章7節、第一ヨハネ4章18節、第二テモテ1章7節、イザヤ26章3節  神は敗北と思われるものから、最大の勝利を収められます。そして忘れ去られていた賛美の道を行ってみると、主が勝利を下さる事がよくあるのです! だから状況が真っ暗でも、下を見てはいけません! 見あげなさい! ぶつぶつと不平を言ったりしてはいけません! 主をほめたたえ始めるのです。そうすれば、悪魔が落とし込もうとしている穴の中から賛美によって抜け出られるでしょう! 賛美は信仰の声!

 

癒されるため、また癒されたままでいるための、その他の条件!

 

  この世における私達の幸福と健康と祝福とは、神に対する私達の従順にかかっています。神が癒しのために要求しておられる代価を私達が喜んで払おうとしないなら、神は私達を癒されません! 従順な者だけが癒されます。癒しは、従順な者への報酬なのです。健康は、神からの特別な祝福であり、従順でいる場合しか要求できないのです。

  神は私達を癒す事ができるし、また癒したいと思っておられるのですが、まず私達の方が最初に、何をもいとわず神に服従する者となり、何も隠し立てすることなく、すべての問題から救い出されたいという決断を下さなければなりません! まず、不従順とか神の御心に服従しようとしないなどといった霊的な問題を解決し、それから、祈りと従順との内に全面的に神を信頼するのです。そうすれば、おのずと良い結果が得られます!

  神が何かの事で私達を懲らしめ、お仕置きされ、罰しておられるために、私達が病気になるということもあります。常にではありませんが、時々、そういうこともあるのです。私達が悪いのを見ると、神は心を痛められます。それは、神が私達を愛しておられ、また私達が悪ければ、それによって私達自身も他の人々も傷ついてしまうのを知っておられるからです。だから、神は私達を正し、私達に光を見させ、向きを変えさせ、悔い改めさせ、告白させようとなさるのです。

  というわけで、神のお仕置きでさえ、神が私達を非常に愛しておられるということの証明なのです!−−「主は愛するものを訓練し、受け入れるすべての子をむち打たれるのである!」−−ヘブル12章6節 また聖書の同じ章の13節には、たとえ自分の罪のゆえに病気になっても、「むしろ癒されるように」とあります。

  神は愛情深く、いつくしみ深い神です。「天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜るいつくしみは大きい! 父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。主は心から人の子を苦しめ、悩ますことをされない。」−−詩篇103篇11-14節、哀歌3章33節

  だから、神が教えようとしておられる教訓を私達が学んだ時、又は、神御自身の望まれる結果をもたらすための状況が整った時、神は、「むしろ癒されるように」と言われるのです。−−ヘブル12章13節 神はむしろ癒すことを好まれるのです。もし私達が、癒された後も神に従い続けると神から信頼されるに値し、神が教えようとしておられることを学んだならば。

  これと同じ原則はまた、神に癒していただいた後の私達にも適用されます。もし私達が従って、神の御心の内にとどまり、私達が癒されたことで神に栄光を与え続け、神が癒して下さると信頼し続けないなら、私達が感謝せず不従順であるために、神は病気がぶり返すのを許されるかもしれません。もちろん、もし悔い改めるなら、神は私達を許し、もう一度癒すことができます。「そのいつくしみは、とこしえに絶えることがない」からです。−−詩篇136篇

  主の癒しは特別の祝福、お金では買えない特権であって、救いとは違って、もし主が癒して下さると信頼し続け、すべての栄光を主に与え続けないなら、取り去られることもあるのです。だから、もし癒されたままでいたいのなら、主に従い、主の近くにとどまったほうがよいでしょう。また、主は目的があってあなたを癒して下さったのだから、あなたはその目的を果たすべきです。神があなたの体を癒して下さったので、あなたの体を神の栄光のために使うのです!

  もちろん、癒されるための最大要因の一つは信仰です。神があなたを愛し、顧みておられ、何が起きても世話して下さるということを知っていることなのです。信仰は、病気や不健康の最大の原因の一つである恐れと緊張さえ取り除いてくれます。信仰があるなら、精神的平安があり、神が一切のことを世話して下さると知っているからです! 神に対する信仰と信頼は、肉体の休息感、精神的平安、心の満足、霊的な幸福を与えてくれます。そして、そうしたものは全て、あなたの健康を大いに増進する助けになるのです。

  あなたは、神と神の愛に信仰を持っていますか?かの偉大なる医者、つまり「その翼に癒しの力を」備えておられる方に、もう直接会いましたか? もしまだなら、ただ、神の御子イエスに、心の中に入って下さいと求めて、あなたの救い主としてイエスを受け入れるだけでいいのです! あなたのすべての問題に対して神に答えてもらい、神の愛と幸福によって、あなたの心と生活を「言葉に尽くせない栄光に満ちた喜びで」満たしてもらいたいなら、たった今、イエスを受け入れることができるのです!−−第一ペテロ1章8節

  「なおりたいのか?」−−ヨハネ5章6節 体と思いと霊とにおいて? それなら、今イエスを受け入れて下さい! その為には、自分の罪を許してくれる救い主が必要だという事を認め、告白し、イエス・キリスト御自身の御霊を、あなた自身が心の中に受け入れるだけでいいのです。イエスは、「見よ、わたしは(あなたの心の) 戸の外に立ってたたいている。誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入る。」と言っておられます。−−黙示録3章20節

  そして、どうぞ忘れないで下さい。「わずかな予防は万全の治療の労を省く。時を得た一針は九針の手間を省く!」ということを。癒しを必要とするよりも、健康でいる方がまさっています。だから、正しい食事をし、適宜な運動をし、十分な休息をとり、正しい生活をしなさいという、健康のための神の決まりを守って、病気の予防に最善を尽くしなさい。でも、神の癒しが必要になったら、その時には、いつでもあなたのためにそれが用意されているのを、覚えていて下さい! ただ、あなたの信仰の手を伸ばして、癒しを受け取るだけでいいのです。「主はあなたのすべての病を癒す!」−−詩篇103篇3節 例外はありません!主には何でも癒すことができるのです! 奇跡を期待しなさい! そうすれば、イエスの御名によって奇跡が起こるでしょう!

  どうしたら祈りに対して答えていただけるかや、癒しのための信仰について、また、イエスや他の人達を愛するという人生を送ることについて、さらにお知りになりたいなら、是非お便りを下さい。喜んであなたに返事を書き、あなたが神の言葉から答を見つける助けになりたいと思います。

  「信仰による祈りは病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ち上がらせて下さる!」−−ヤコブ5章15節  私達はあなたを愛しています。そして喜んで、あなたのために、またあなたと共に、祈りたいと思っています。今日、お便りを下さるか、私達を訪ねて下さるか、あるいは私達をあなたの所に呼んで下さい! 今、そして永遠に、神があなたを祝福され、神の愛と真理と健康と幸福をあなたに与えられますように!