宝 P389-392

 

期待

 

  神から祈りの答えを受け取る人が少ないのはどうしてでしょうか? クリスチャンは二つに分けられます。祈ってその効果が現れるのを期待する人達と、ただ祈るだけで、何かが起こるとは期待していない人達です。祈りとは第一に、何かの結果を生じさせるための手段で、人間の必要と神の供給の源とを結びます。それは、子供が、大いなる父に向かって呼び求めながら、自分が受け取りたいと思う以上に父が喜んで与えてくれると期待するようなものです。「地上の父親が、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら求めて来る者に良いものを与えて下さらないことがあろうか。」(ルカ11:13)

  ある友人が幾分ユーモアを交えながら、自分の教会の会員は「ください屋」ばかりで、いつも主に求めてはいるものの、実際に主が与えて下さるとは全く信じていないと話してくれました。「これを与えて下さい、あれを与えて下さい、これをして下さい、あれをして下さい!」といつも言っているそうです。

  こんな話があります。バージニア州の山麓の田舎のある教会では、鐘の真下に祈りの集会のための部屋がありました。老いた堂守は、はしごを立てて、鐘のあたりで何かの修理をしていました。ところが、老人ははしごのてっぺんに腰を降ろすと、早めにその部屋に集まっていた人達に向かってこう言ったのです。「あんたがた、どうしてこの鐘が鳴らなくなったか知っていなさるかね? それは、祈りが教会の屋根よりも上にのぼっていかないから、鐘に祈りがいっぱい詰まっちまって、動かなくなってしまったせいですよ! あんたがたが祈った時にそれが答えられると信じないもんだから、沢山の、何百もの祈りがそこで止まって、上にあがっていかなくなってしまったんです。何かが起こると期待しない祈りなど、祈りじゃないってことを知らないんですか? 祈ってもたいていは、あんたがたは、何かが起こると期待なぞしていなかったでしょう。しかし、本物の信仰というのは、祈る時に何かが起こると期待するものです。だから期待していないなら、それは信仰じゃなくて、単なるたわごとにすぎんのですよ!」

  その夜、その古い教会で行われた祈りの集会は、今までとは違っていました。もし祈る時に心から期待するなら、私達の場合にもどんなに大きな違いが生じることでしょうか? 私達はただ口先だけで祈っているのでしょうか? それとも、何かを期待しながら祈っているのでしょうか? 私達にとって、祈りは、物事を変えてくれるものでしょうか?

  祈りは、ただ個人の潜在意識に影響を与える「信心深い瞑想」ではありません。祈りは全く実際的で、電報や電話を使うのと同じくらい現実的な手段です。それどころか、電報や電話以上に効果的です。相手はいつも応答して下さり「あなたがたが得られないのは、求めないからである」と言われます。

  主を信じる私達が、他の人達に不信心を引き起こし、私達の天の父を不信者達の笑いぐさにしているというのは、本当に悲しいことではないでしょうか? それというのも、私達が祈りに対する答えを受け取らないために、私達の神は留守にしているか、眠っているか、長旅に出ているかのように思われてしまうからです。ちょうど、異教徒達が自分達の神に呼ばわった時に、エリヤが彼らをあざけったように、人々は私達の神をあざけっているのでしょうか?(列王紀上18:26)

  「『バアルよ、答えて下さい。』 しかし、何の声もなく、答える者もなかった。昼になってエリヤは彼らをあざけって言った。『彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起こされなければならないのか。』 そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀と槍で身を傷つけ、血をその身に流すに至った。こうして昼が過ぎても、何の声もなく、また顧みる者もなかった。」

  「その時エリヤは、すべての民に向かって、『わたしに近寄りなさい』と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。夕の捧げ物を捧げる時になって、預言者エリヤは近寄って言った。『アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルではあなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせて下さい。主よ、わたしに答えて下さい、わたしに答えて下さい。主よ、この民にあなたが神であること、また民の心を元に返したのはあなたであることを知らせて下さい。』 その時主の火が下った。民は皆見て、ひれ伏して言った。『主が神である。主が神である。』」

  何年か前に、オクラホマ州のビッグ・キャビンで、ある父親が私の所に来て、心のよこしまな息子の為に祈ってほしいと求めました。私達はその事について毎日熱心に祈り、父親は、集会で祈りのリクエストを聞かれる度に、手をあげてその息子が救われるように祈ってほしいと求めました。そしてとうとうある晩、息子は私達の救いの呼びかけに応じ、説教壇の前に出てきて、神に心を捧げたのでした。

  それからその建物の後方で伝道をしていた人達が、ある人のために祈ってほしいと私を呼んだのですが、その建物は人でぎっしり詰まっていて、人をかきわけながらやっとのことでそこまでたどりつくことができました。そして祈り終えると、私は息子のために何年も祈っていたその父親を見つけました。父親の腕をつかむと私は言いました、「ブラザー、あなたの息子さんが説教壇の前に出てきて、とうとう救われたんですよ。」 父親は何と言ったと思いますか? こう言ったのです。「まさか。それは何かの間違いでしょう。息子のはずがありません。同じ名前の人がいたんでしょう。この地区に同じ名前の若者がもう一人いますからね。」 この人に、それが本当に彼の息子で、今日救われたのだと納得させるのに5分もかかりました!

  その夜、父親は集まった人達にこう話しました。「私は息子のために20年も祈ってきましたが、今夜、息子が救われたと聞いた時ほど驚いたことはありません。」 その父親は、20年間も祈っておきながら、神が何かをなさるとは全く期待していなかったのです! 父親の心には神の愛があり、聖書が真に神の御言葉であると深く確信していながら、今までこれっぽっちも期待していなかったとは!!

  これはなんと哀れなことでしょうか。そして、ご自分の子供達が、ずっと祈り続けていながら、その祈りが答えられるなどとは少しも期待していないというのは、神にとってどれほど悲しいことでしょう。この主題の最初のところで触れたように、神は私達に与えて下さるばかりか、自分が手を延ばさなくても手の内に入れて下さると私達は期待します。自分達が何もしなくとも、ただ神が下ってきて、求めていたものをひざの上において下さることを求めるのです。神はそうして下さいますが、それにはまず私達が、「すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう」という神の条件を満たさなくてはなりません。(マルコ11:24)

  神には、ご自分の条件を定める権利があります。そして、その条件とは、私達が神の御言葉を信じることによって神を敬うという、実に単純なことなのです。聖書には、完璧にならなければ神を喜ばせることは不可能である、とは書かれていません。今あなたの心に神を喜ばせたいという願いがあるなら、自分の力では得られないものを神は与えて下さるとただ信じることによって、神の御言葉を敬えばよいのです。不可能に向かって信仰の第一歩を踏み出し、神の御言葉以外には何もしがみつくものがない時に、神があなたの祈りを聞き、あなたの望むものを与えて下さると期待するのです。これこそが神を喜ばせます。

  非の打ち所がないほどの模範的なクリスチャンに見えるのに、神から何かを受け取ることがほとんどない人々がいますが、そういう人々は、まさにその点で欠けています。つまり期待していないのです。彼らは、この力強い信仰の原則について少しも知りません。またその一方で、弱いクリスチャン、つまり、正しい道を歩みたいと心から願っているのに、誘惑を受けるとしばしばつまずいてしまうクリスチャンが、しばしば、祈って、驚くべき答えを神から受け取るのを、私は知っています。彼らが、幼な子のような単純な信仰を持っていて、祈った後いつも、神が答えて下さると期待していることが、見ていてよくわかるのです。