宝 P380-383

 

 歴史に見る冒険実話集!

 

軍人の大いなる信仰!

(ルカ7章とマタイ8章)

 

  イスラエルのカペナウムという町に、ローマ軍の著名な将校が住んでいました。彼は、守備隊の兵士百人を監督している百卒長でした。イエスがそこで御仕事を始められてからというもの、その百卒長と兵士達は、イエスの動きを見張っていました。ガリラヤから来たこのイエスという男が、ローマに対する反乱を扇動するようなことをしたり言ったりさせないようにするのが彼らの役目だったのです。

  しかしこの百卒長は、イエスが民衆に向かって、神の天の愛の王国についての教えを説くのを時折耳にしてからは、イエスの説く王国がローマ帝国にとって脅威となるものではないこと、そして、大いなる権勢を誇っているローマ帝国でさえも、この愛の教えには学ぶところがあるということを悟り、イエスを尊敬するようになったのでした!

  ある日のこと、百卒長が頼りにしていたしもべが病気で死にかかっていました。百卒長はすぐに、イエスが、病人や足の悪い人を癒していたことを思い出し、こう考えました。「あのイエスには、私のしもべを癒すこともできるのではないだろうか?」

  しかし、それには一つ問題がありました。「ローマ人である自分が、どうやってユダヤ人に助けを乞うことができようか? ほとんどのユダヤ人はカエサル (ローマ皇帝) の軍隊をひどく軽蔑している。このイエスという人はすべての人を愛し、気づかっているということだが、ユダヤ人であるイエスが、ユダヤ人に嫌われている人間にも助けの手を差し延べてくれるだろうか?」

  突然、彼にいい考えが浮かびました。「人々から尊敬されているユダヤ人の長老達を何人か呼んだらいい。彼らとなら私も仕事のことで付き合いがある。彼らが、私に代わってイエスに話をしてくれたらいいのだ!」というわけで、百卒長がユダヤの民に良くしてくれていたことで彼に恩義を感じていた長老達は、イエスのところに行き、しもべを癒してほしいとの百卒長の要望をイエスに伝えました。「この人は、まことに、あなたの助けを受けるに値します。私達の国民を愛し、さらには私達の会堂を建てるために資金の援助までしてくれました!」

  そこでイエスは彼の家に行くことに同意したのですが、その家からさほど遠くないところまで来られた時、百卒長の友人が百卒長からの伝言をイエスに伝えに来ました。その伝言はこうでした。「主よ、どうぞ、ご足労下さいませんように。私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすればしもべは治ります! 私も権威の下に服している者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人の者に、『行け』と言えば行き、また、他の者に『来い』と言えば来ますし、また、しもべに『これをせよ』と言えば、してくれるのです。」

  イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆に向かって言われました。「これほどの大いなる信仰は、イスラエル中でも見たことがない。」イエスが、ご自身の同胞であるユダヤ人を前にして、異邦人であるこのローマ人の方が、イスラエル中の誰よりも信仰が厚いと語るとは、なんと驚くべき発言だったことでしょう!

  このローマの軍人は、著名な将校でありながら、自分は、イエスご自身に直接会いに行ったり、イエスに自分の家に入ってもらうには値しないと感じたのです。けれども彼は、イエスなら、離れたところにいて、彼の家に来るまでしなくても、しもべを癒すことができると信じていたのでした! そしてまさにその通り、癒されたのです!

  聖書には、結局はイエスが家の外で百卒長に会い、彼の偉大なる信仰をたたえたその時に、しもべは直ちに癒されたとあります! そして、主の前に身を低くしたその百卒長は、歴史において神から栄誉を受けるに値する人々の仲間入りをしたのです。これ見よがしに長い時間祈り、伝統や儀式を重んじる、極端に宗教的なユダヤ人の内には見たこともない大いなる信仰を、イエスは彼の内に見いだされたからです!

  それどころか、この軍人と、「神の民」とされているユダヤ人達とが、あまりにも対照的だったので、イエスはこう言われたほどでした。「あなたがたに言うが、多くの人が東から西から来て、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国を受け継ぐことになっていた子らは、外の闇に追い出されるであろう。」(マタイ8:11,12) この預言の意味は、他の国々からの多くの者達は、イエスを主として受け入れるけれども、イエスの近くに住み、イエスを知る機会が沢山ありながら、イエスを拒む者達もおり、そういう者達は神の王国に入る機会を失ってしまう、ということです!

  イエスは、百卒長の大いなる信仰を喜ばれ、「行け、あなたの信じた通りになるように。」と言われました。すると、ちょうどその時に、しもべは癒されたのです!

  百卒長が家に帰ってしもべに会い、完全に癒されたしもべが、笑顔で感謝するところを想像してみて下さい! 百卒長は、間違いなく、しもべに向かってこう言ったことでしょう。「癒されたことで感謝するなら、神に感謝するがいい! ナザレのイエスのおかげで癒されたのだ! あの方こそが、この奇跡を行なった方なのだ!」

  今日のクリスチャンの多くが、イエスやイエスの弟子達についての話や、彼らが行なった奇跡についての話を、単なる昔話としてしまっているようですが、それは残念なことではないでしょうか? 多くの人々は、神の御子にまつわる歴史上の実話に込められた素晴らしいメッセージについて、じっくり考えようとはしないようです! 事実、彼らはこうした話を、現実性の伴わないおとぎ話とみなし、こう言うのです。「そんなのは現実的じゃない。神は遠くかけ離れた存在だし、天国も現実とは程遠い!イエスはとっくの昔に死んだし、何もかも遠い昔のことにすぎない!」

  でも、そうしたことは、今日でもなお起こり得るのです。そして神は、御言葉の中で言われている通りに物事をなさるのだと、単純に信じるだけの信仰を持った人には、そうしたことが実際に起こるのです! 神は、昔と変わらず、今も実在する方なのです! 神は、「主なるわたしは変わることがない!」(マラキ3:6) 「信じる者には、どんな事でもできる!」(マルコ9:23) と言われました。

 

考えてみるべき課題!

(「軍人の大いなる信仰!」からの覚えておくべき点)

 

  1.どうやって祈りの答えを得るかを説明するのに、この話ほどふさわしいものはありません。百卒長は、イエスの言葉に信仰を持っていました。ですから彼は、願いを聞き届けてもらうために、イエスに会ったり、イエスに触れたりする必要はなかったのです。事実、イエスはこう言われました。「行け、あなたの信じた通りになるように。」(マタイ8:13)。イエスは、家の中に入ることも、しもべを見ることもされませんでしたが、それでも、しもべを癒されたのです。

 

  2.忘れないで下さい。あなたには、全聖書の中の全ての神の約束があるということを! だから祈る時には、そうした約束を持ち出すのです。神に、神ご自身の御言葉をさし示すなら、あなたがその言葉に信仰を持っていることを示すことになります。つまり、神の御言葉に信仰を持っていることを積極的に宣言しているわけで、そうすることを神は喜ばれます。(ヘブル11:6参照)

 

  3.その百卒長が信仰を持つのに、何年も神学校に通ったり、神学教育を受ける必要はありませんでした! 彼は子供のような単純な信仰を持って信じただけであり、そのことのゆえに、神は彼を祝福されました。

 

  4.百卒長は、確固たる信仰の宣言をしました。彼は、「ふむ、イエスなら何かできるかもしれない。」と考えただけではなく、確信を持って、「ただお言葉を下さい。そうすればしもべは治ります!」と言ったのです。(マタイ8:8) そして彼は、その伝言を自分の友人達に託して、自分の信仰を、イエスにだけでなく、その友人達にも明言したのでした。それによって、友人達も、神が力強く答えて下さったことの証人となったのです!

 

  5.百卒長が大いなる信仰を持っていたのは、自分に自信があったからではありませんでした。事実、彼は、自分がよこしまな人間なので、イエスを家に招き入れるには値しないと感じていたのです。彼は神の愛の力を信じていたのであって、自分がふさわしい人間であると信じていたのではありません。むしろ、自分がふさわしくないことを恥じていたのです!

 

  6.そのように彼は、自分はふさわしくない人間だと感じていたものの、使いを送ってイエスにメッセージを伝えるという積極的な行動を取るようにと、彼の信仰が彼を駆り立てたのです。しばしば私達は、自分は本当にちっぽけで神の助けを受けるには値しないと感じるものですが、祈りの力を使ってイエスと連絡を取るなら、自分の役割、自分にできることをしていることになります。そうするなら、神が、残りの、私達にはできない部分をして下さるのです!

 

  7.神があなたの祈りに答えて下さることを信じるための確信や信仰があなたに必要なら、ここに挙げたいくつかの素晴らしい聖句を読んで下さい。そして、祈る時にはいつも、こうした聖句を実現して下さるよう神に要求して下さい。

 

  ヨハネ15章7節−−あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

  エレミヤ29章13節−−あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば。

  第一ヨハネ3章22節 −−そして、願い求めるものは、何でもいただけるのである。それは、私達が神の戒めを守り、御心にかなうことを行なっているからである。

  ヤコブ4章8節−−神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう!

  第一ヨハネ5章14節 −−私達が神に対して抱いている確信はこうである。すなわち、私達が何事でも神の御旨 (みむね) に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。