宝 P281-285

 

愛の御霊 (みたま)!

 

地の喜びは過ぎ去り、

やがてなくなってしまうことを

彼は知っていた

彼は天国の愛を味わい

心には救い主が住んでいたのだから!

 

にもかかわらず、人生の道で

彼はつまずき倒れ、

この世と、「わたしについて来なさい!」と招くキリストとの板ばさみになり、

あてもなくさまよっているかのようだった。

 

従い、羊飼の招きに心を留めたかったのに、

彼にはその力がなかった。

努力はするが

倒れてしまうのだった!

 

そんなある夜、彼女に会った。

天の女神のように

彼女は彼の手を取り、やさしくこうささやいた、

「わたしは神の愛の御霊!

 

あなたは御子を通して父は知ったけど、

でもわたしを受け入れなければ。

なぜならわたしは

聖なる三位一体の愛情深い母だから!

 

あなたの魂の内にあるわたしの力で、

あなたの心をときめかせ、

あなたを満たさせてほしい!」と。

「僕はあなたのものです!」、巡礼者は答えた、

「僕の命を捧げます。すべてをあなたに任せます!」と。

 

彼女のキスで力を与えられ、

その愛に満ちた手で変えられ、

その愛の抱擁で新たにされて、

彼は別人になった!

 

彼は自分のことよりも

他の人のことを気にかけるようになり、

大胆に彼の救い主を告げ知らせ、

多くの人を主の囲いに導き入れた!

 

  この絵に描かれた若者のような人が、今日、実に大勢います!−−「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6) イエスを知るに至り、その心の中に主と主の素晴しい愛とを受け入れているのに、彼らの主との関係はどういうわけか不完全で、何かが欠けているので、彼らには、主を愛し主に従うすべての者に与えようと主が約束された、力と愛と喜びが欠けているのです!

  そういったクリスチャンの多くは、虚弱になり、やる気もない、無力な者となってしまうので、熱意もない、気の抜けた、伝統的なキリスト教で満足してしまいます。でも、そのようなキリスト教は、新約聖書の福音書の中に見いだされるような、イエスがその弟子たちに与えられたスリルとチャレンジに満ちた人生とは、ほど遠いものです。このそっけない、ほとんど死んだとも言えるような、まがい物のキリスト教は、キリストやその教えとはほとんど何の係わりもないので、教会教と呼ばれる方がもっと適しているでしょう。今日のそういった宗教のほとんどが、その基礎及び基盤を、教会の建物や教会礼拝、そして「彼らの伝統によって、神のいましめを無にしている」教会じみた規則やタブーに置いているからです。(マルコ7:6-13)

  神は、クリスチャンの人生を、愛と喜びと力で満たすことができ、夢にも思わなかったほどのスリルや達成感や満足感を与えて下さいます。それなのに、実に多くのクリスチャンがそのことを知らないでいるというのは、あまりにも悲しく、残念なことです! イエスは、弟子達に力を与えると約束され、彼らはイエスの復活後に「上から力を授けられる」であろうと言われました。つまり、イエスが特別な慰め主をつかわして、その慰め主が、彼らを慰め、導き、また「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝える」権威と力とを授けるであろう、と言われたのです。(ルカ24:49、ヨハネ14:26、マルコ16:15)

  神が、その子供たちのために用意されたこの素晴しい力は、聖霊による力です。そして、これを聞くと多くの人は驚きますが、聖書の中では、聖霊は、この絵の中の若い巡礼者が出会ったような美しい女性として描かれているのです!−−彼女は慰め主、愛の御霊、三位一体 (さんみいったい) の母親像です! 初めに神が人を造られた時、聖書には、神が「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう−−そして、男と女とに創造された!」と言われたと書き記されています。(創世記1:26、27)−−だから神の三位一体とは男と女なのです!

  聖書の箴言で、ソロモン王は、「地がまだ造られず、もろもろの天を備えられた、その初めから」神と共にいた、神の愛と知恵の霊を、女性形で記述しています。(箴言8:1-35)  神の尊い聖霊は、神ご自身の天国での妻、御子イエスの霊的な母、また霊の内では私たち全員の母なのです!

  これまでにイエスを受け入れたことのある人はすべて、「霊によって新しく生まれ変わっている」ので、もちろん聖霊をある程度受け入れています。 (ヨハネ3:8) でも、聖霊の油をあふれるほどに注がれる、あるいは聖書が「バプテスマ」と呼ぶものを受けるというのは、普通、イエスを受け入れた後で起こる別個の経験なのです。

  コップに入った水がその良い例です。コップには水がいっぱいに入ってはいないかもしれませんが、幾らかでも入っているなら、少なくとも完全に空ではなく、やはりコップの水であることには違いありません。さて、クリスチャンの多くがそれと同じです。彼らが持っているのは、ほんの少しの水、つまり、かろうじて彼らを救ってくれる、わずかな神の御霊だけなのです。

  しかし、聖霊によるバプテスマを受けるというのは、ちょうど、コップがいっぱいになってあふれ出るまでに水が注ぎ込まれたようなものなのです!それはものすごい聖霊のほとばしりなので、あなたはあふれるほどに満たされます! イエスは、「わたしを信じる者は、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう!」と言われました−−これは、イエスを信じる人々が受けるべき御霊をさして言われたのです!(ヨハネ7:38、39)

  この聖霊によるバプテスマ (洗礼) 、つまり、聖霊が注ぎ込まれることは、愛のバプテスマです!−−その愛とは、神への愛と他の人々への愛です!−−福音によって彼らに救いの手を差し延べ、彼らを主に勝ち取るに十分なほどの愛、どうしてもすべての人を愛してしまう素晴しい愛なのです! 事実、神の聖霊は愛なのです。なぜなら、「神は愛」だからです! (第一ヨハネ4:8)

  だから、聖霊に満たされるということは、神の愛で満たされることなのです! 無論、それは同時に神の力、つまり、他の人々にイエスのことを告げ、彼らと主の愛を分け合うことができるようにしてくれる力のバプテスマでもあるわけです。

  この世を離れて父のみもとに昇られる直前に、イエスは弟子たちに、「ただ聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、全世界でわたしの証人となるであろう」と告げられました。(使徒行伝1:8) 主の聖霊の力を受けると、あなたは証人となって、主のいましめに従い、他の人にイエスのことを告げて、イエスが愛しておられることを彼らに教えたくなります!

  神の素晴しい愛の霊を受け入れると、私達は、神の愛と力で満たされるだけではなく、聖書が「御霊の賜物」と呼ぶものも受け取ります! (第一コリント12章) これらの賜物には、超自然的な知恵や知識、いやしの賜物、奇跡を行う力、預言する能力、また新しい言葉や言語で語る能力などが含まれます! (第一コリント12:4-10) 新約聖書に沢山出てくるこれらの驚くべき賜物は、今なお現実のものであり、使徒たちの時代にそうだったように、今日でも使うことができます。「イエス・キリストは、きのうも今日もいつまでも変わることがない」からです! (ヘブル13:8)

  だからもし、生き生きとした、行動的なクリスチャンになって、主に従い、福音を宣べ伝え、他の人々を勝ち取って主の御国へと導きたいなら、そして、あなたの主に対する忠実さのゆえに、天国で永遠の冠と多くの報酬を受け取りたいなら、あなたは神の尊い聖霊によって満たされる必要があります!−−主の力なしに主の仕事をすることはできないからです!

  「あなたは信じてから、聖霊を受けたことがありますか?」(使徒行伝19:2) あなたは、イエスを受け入れてから、神の愛のこのあふれ出るほどの力を受けたことがあるでしょうか? あなたは、父なる神が、ご自分の子供達に与えると約束された素晴しい賜物を持っていますか? あなたが主の仕事をするために用いる、美しい「御霊の賜物」を何か持っていますか? ただ求めるなら、今すぐにそうした賜物を持つことができます!

  イエスは、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見出すであろう。門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう。」と約束されました! (マタイ7:7) 聖霊を神に求めたなら、あなたには、自分の中に聖霊が入って下さったということがわかります。イエスが聖霊を与えて下さると約束して下さったからです!−−ちょうど心の中にイエスを受け入れた時、聖書にそう書かれているがゆえに、イエスが中に入られたと知っているのと同じようなものです!(黙示録3:20)

  この絵の中で聖霊が若者を招いているのと同様に、聖霊はあなたも招いています。来て、イエスに従い、仕え、永遠に生きるようにと、また、あなたの想像を絶するような喜びやスリルや満足感を知るようにと招いているのです! 聖霊の、愛に満ちた呼びかけに心を留め、たった今、主の尊い聖霊によって満たされるように神に求めて下さい! 待つ必要はありません! 神は、あなたが受け取りたいと思っている以上のものを喜んで与えたいのです!

  ただこの短い祈りを祈って、今、神の愛と力の御霊を受け取って下さい。「愛するイエス様、私はあなたを愛しています。私の人生には、あなたの愛と力がもっと必要です。だからどうぞ今、あなたの聖霊で私を満たして下さい。そして、あなたに従い、あなたやあなたの愛のことを他の人々に告げる力を与えて下さい! イエスのお名前によって祈ります。アァメン!」