宝 P275-280

 

歴史に見る冒険実話集!

 

井戸端の女!

  「良きサマリヤ人(びと)」という言葉を耳にしたことのある人たちもいると思いますが、サマリヤ人とはどういう人たちだったのか、またどれだけユダヤ人が彼らを憎み、軽蔑していたかを本当に知っているでしょうか? イエスの時代のユダヤ人にとっては、「サマリヤ人」という言葉そのものが、侮辱を意味していたのです。(ヨハネ8章48節)なぜユダヤ人は、サマリヤ人を憎んでいたのでしょうか?

  紀元前720年、アッシリア帝国のシャルマネッサー王は、イスラエルを侵略し、北の地域に住む十の部族を捕虜として、自分の国に連れ帰りました。その後王は、バビロン、クタ、アワ、ハマテ、およびセパルワイムという遠い国々から異国人を連れて来て、かつてはイスラエル人が住んでいたその北イスラエルに住ませました。後に、その地域はサマリヤとして知られるようになったのです。(列王紀下17章22−41節)

  この人たちは、もともとは異教徒でした。彼らは、次第にユダヤ人の神を崇拝するようになりましたが、旧約聖書の中のモーセの書いた最初の五つの書しか信じていませんでした。モーセは、エルサレムが聖なる都であるとは語らなかったので、サマリヤ人はエルサレムの宮で神を崇拝することはしませんでした。彼らにとっては、サマリヤにあるゲリジム山が、神を崇拝するための最も聖なる場所だったのです。そして彼らは、山頂に宮を建てました。というわけで、サマリヤ人が混血の民族で、その慣習と宗教礼拝の方法が、ユダヤ人のものと異なっているということから、ユダヤ人は彼らのことを下等な民族だと考え、サマリヤ人とは全く交際しませんでした!

 

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  ある時イエスは、ユダヤの地で宗教上の敵から逃げていて、北にあるご自分の故郷のガリラヤに行くことに決めました。ユダヤからガリラヤまでの一番近い行き方は、まっすぐサマリヤを通って行くことでした。けれどもユダヤ人は、サマリヤ人をひどく嫌っていたので、サマリヤの地を通らないで、いつもヨルダン川を渡り、サマリヤを避けて、ぐるっと遠回りしていたのでした。けれどもイエスは、弟子達を連れてまっすぐサマリヤを通って行ったので、弟子達は驚いてしまいました!

  敵から逃れようとして、イエスと弟子達は朝早くから、ゴツゴツと荒れ果てた地を、一時も休まず長いこと歩き続けました。お昼近くになり、太陽がかんかんと照りつける中、一行は、ゲリジム山とエバル山の間の曲がりくねった高地を疲れながらも歩いていました。そして曲がり道に差しかかった時に、思わず飛びつきたくなるようなものがそこにありました。それは、ヤコブの井戸でした! その井戸は、2千年近く前にかの偉大なる族長ヤコブとその息子達が掘ったものです!

  旅に疲れ、喉の渇いた一団は、渇きをいやそうと、その有名な井戸のまわりに集まりました。ところが水をくむものがなく、しかも井戸の深さは30メートルもあったのです。彼らには、食べる物もありませんでした。そこから1キロも行かない所には、二つの山の谷間に、スカル (旧約聖書ではシケムと呼ばれています)というサマリヤ人の美しい町がありました。だから弟子達が町に行って食べ物や飲み物を買って来ることになりました。しかしイエスは、へとへとに疲れていました。彼はその前の夜、あまり寝ておらず、一日中、ほとんど飲まず食わずの状態だったので、もうこれ以上、歩くことはできなかったのです。だから弟子達が町に行っている間、彼は井戸のそばに座って休んでいました。

  弟子達が去って30分ぐらいした頃、イエスは誰かが近づいて来る足音を聞きました。目を上げると、長くゆるやかにたれた衣服をまとった美しい女の人が、からの壷を持って井戸に向かって歩いて来るところでした。その女の人の歩き方や身のこなし方から、彼女がかなり自由奔放な生活をしている女であることがイエスにはわかりました。事実、彼女は町中の噂になっている人でした。

 

  その女マラは、井戸に近づくと、そばの日陰に見知らぬ人が座っていたので驚きました。彼女は、二、三度怪しげにその男のほうを見ると、「ユダヤ人にまちがいないわ」と思いました。その男が自分をわずらわさないことを願いながら、彼女は壷を下に置こうとしました。

  イエスは、「水を飲ませて下さい」と言いました。

  マラは、驚いてイエスのほうを見ました。ユダヤ人の伝統では、ユダヤ人が『けがれたサマリヤ人』から、それもサマリヤの女の触れた器から水を飲むようなことは禁じられていたので、彼女はすっかり驚いてしまいました。

  「ユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、水を飲ませてくれと言うの?」と、彼女はやや無愛想に聞きました。

  イエスは、答えて言われました。「もしあなたが神の賜物のことを知り、また『水を飲ませてくれ』と言った者が誰であるか知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう!」

  マラは驚いて彼の顔を見、笑って言い返しました、「あなたは、くむ物をもっていないし、おまけに井戸は深いわ。その生ける水を、どこから手に入れるというの?」この見知らぬユダヤ人の鼻をくじいてやろうと、マラはツンとして、こう言いました。「この井戸を下さった私達の父ヤコブより自分のほうが偉いとでも思っているの? ヤコブご自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのよ!」

  イエスは立ち上がって井戸の方に行き、それに手を置くとこう言いました。「この水を飲む者は誰でも、また渇くであろう。しかし私が与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう!」

  なんてすごいことを言うんだろうと、マラは思いました。二度と渇かずにすむという、内からわき出る水が手に入れられるなんて! その人がまじめにそう言っているのかどうか、彼女にはわかりませんでしたが、こう答えました。「渇くことがなく、またここまでわざわざくみに来なくてもいいように、その水を私に下さい。」

  イエスは、「まずあなたの夫を呼びに行って、ここに連れて来なさい。」と言いました。

  「私には、夫はありません。」と、彼女は貞節な乙女を装って答えました。

  イエスは、彼女に言いました。「夫がないと言ったのは、もっともだ。実際、あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない! あなたの言ったとおりだ。」

  マラはショックを受けました! この見も知らぬ人が、どうして私の私生活をよく知っているのだろう? どうしてこの人にわかるの? ひょっとしたら、この人は‥‥預言者ではないかしら? 突然、ある事が頭にひらめきました! もしそうなら、世間で激しい議論の的となっている、宗教についての疑問に答えてくれる人がここにいるんだわ!

  彼女は、「あなたを預言者と見ます。」と言いました。そして一息ついて、近くのゲリジム山の頂上にある宮を指さしてこう言いました。「私達の先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべき場所は、エルサレムであると言っています。」 イエスは、彼女に言われました。「女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父は、このような礼拝をする者を求めておられるからである! 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである!」

  マラは彼の答えにびっくりし、こう思いました。「なんてすばらしいのかしら! それが真実だったらいいわ! もし私達がどこにいようとも、自分の心の中で神を崇拝することができるなら、どんなにすばらしいでしょう!」それから、ふとこう思ったのでした‥‥預言者にこのことを尋ねるのもいいけれど、メシヤである救い主にこのことを訊けたらどれほどすばらしいかしら!

  井戸にもたれながら、彼女はこう言いました。「私は、キリストが、つまり神に油注がれた者と呼ばれるメシヤが来られることを知っています。そのかたが来られたならば、私達に、いっさいのことを知らせて下さるでしょう。」

  イエスは彼女の目を深く見つめて、こう言いました。「あなたと話しているこの私が、それである!」

  マラは驚きのあまり、目を丸くしました! 彼女はあっけにとられたようすで、イエスを見ました。「こ‥‥この人が、本当にメシヤなの? キリストなの?」彼女は、イエスの深く貫くような目をのぞきこむと、自分の心臓がドキドキするのを感じました!

  突然、その時、向こうから男達の声が聞こえてきました。それは、イエスの弟子達でした。パンや果物やミルクの入った壷を腕にいっぱいかかえて、町から帰って来たのです。彼らがやって来て、腰をおろし始めた時、マラは飛び上がって、壷をそこに置いたまま、1キロほど離れた町へと走って行きました。

  彼女は息を切らしながら、町に戻って来ました。市場は買い物客で、なおごったがえしており、男達が町の門の日陰に座って、休んだり、話をしたりしていました。彼女は興奮したようすで、「来て!」と言ったので、大勢の人が集まって来ました。「私のしたことを何もかも言いあてた人がいます。さあ、見に来てごらんなさい!」

  スカルのサマリヤ人達は、彼女のまわりにたくさん集まって来て、彼女から驚くべき話を聞きました。「そしてその人は、自分のことをメシヤだと言ったのよ!」こう彼女が言うと、サマリヤ人達は唖然としました。彼女が確信を込め熱心に話しているのを見て、大勢の人々が彼女の言う事を信じ、彼女が井戸で会った人こそ、待ちに待ったメシヤにちがいないと思いました!

  しばらくして、弟子達は、町から大勢の人々が自分達の方に大急ぎでやって来るのを見ました。マラもその中にいて、まだ興奮さめやらぬようすで話していました。群衆は、イエスと弟子達のいる井戸まで来るなり、ぜひ自分達の町に滞在して、いろいろなことを教えてほしいと頼みました。イエスは、二日間とどまることに同意しました。サマリヤ人は喜びの声をあげ、イエス達を町まで連れて行き、飛び切り素晴らしいごちそうと、泊まるための部屋を用意しました。

  まる二日間、イエスは彼らの町で教えを説きました。神の目からすれば、ユダヤ人も、サマリヤ人も、何の違いもなく、また、人間の建てたどこかの宮でではなく、自分がどこにいようとも神を崇拝すべきであるという、解放されるようなすばらしい教義を聞いて、人々は大喜びしました! イエスの教えたすばらしい真実の言葉を聞いて、彼を信じるようになり、驚嘆の声を上げて、マラに言いました。「私達が信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。今、自分自身で聞いて、この人こそまことにキリストであり、世の救い主であることがわかったからだ!」

  イエスと弟子達がそこを去る日、ガリラヤへの旅をさらに続ける準備をしていると、町からおびただしい数の人々が別れのあいさつをしにやって来て、旅のために食べ物とワインをくれました。イエスへの愛で心がいっぱいになっているマラは、さよならを言うために群衆の中から出てきました。彼女の顔は、喜びの笑みで輝いていました。井戸のそばでイエスが言った言葉の意味を、今、すっかり理解していて、彼女の魂には生ける水がわき出ていたからです。

 

考えてみるべき課題

  (1)イエスは、失われた孤独な人を神の愛によって救うために、宗教的なおきてや伝統を破ることをためらいませんでした! 彼はサマリヤ人の、文化的、民族的、宗教的な違いにこだわらなかっただけではなく、井戸で出会った女性の罪深い心を見るよりも、その奥にある神の愛と救いを渇望する彼女の魂を見られたのです!

  (2)宗教のおきてに従って神を崇拝することを強く主張していたからといって、ユダヤ人はサマリヤ人よりもすぐれていて、正しかったのでしょうか? いいえ、そうではありません! 彼らは、ただサマリヤ人より独善的だったのであり、天国からより遠く離れていたのです!(マタイ15章6-9節、21章31-32節、 23章1-15節、 ルカ18章9-14節参照)

  (3)イエスは、もし彼女が神の賜物の事を知っていたなら、彼女の方からそれを求め、永遠の命へとわきあがる生ける水を私から受け取ったであろうと、その女性に言われました! これは、聖書の中で最も美しい約束のひとつです。この神の賜物とは救い、つまり永遠の命のことです! ローマ6章23節には、こうあります。「神の賜物は私達の主キリスト・イエスにおける永遠の命である。」この生ける水は永遠の命を象徴しているだけではなく、イエスを信じるなら、私達の心の中に生きるとイエスが約束して下さった神の聖霊をも象徴しています! (ヨハネ7章37-39節を参照)

   (4) イエスが言われたように、神は宮に住まわれないし、また神を崇拝するために人間が宮を建てることも望んでおられません。「いと高き者は手で造った宮の内にはお住みにならない。」(使徒行伝7章48節)そもそも神が、ユダヤ人が宮を建てるのを不承不承許されたただ一つの理由は、彼らがそうしたいと言ってきかなかったからです! (サムエル記下7章1-13節)では実際の建物が真の宮でないなら、いったい何が神の真の宮なのでしょうか? 人の心なのです! 第一コリント6章19節にはこう書いてあります、「あなたがたは知らないのか? 自分の体は、自分のうちに宿っている聖霊の宮である。」(また列王記上8章27節、第一コリント3章16節−17節、第二コリント6章16節、黙示録3章20節も読んで下さい)

   (5) イエスは、正統派のユダヤ人として育てられました。ユダヤ人は自分達の宗教のほうが、サマリヤ人のよりも『教義的に正しい』と信じていたのです。しかしイエスは、サマリヤ人をユダヤ教に改宗させようとしたり、エルサレムにある『正式の宮』で神を崇拝させようとはしませんでした。イエスを信じる限り、イエスは彼らを神の王国へ受け入れられたのです!

  私達もクリスチャンとして、他の宗派や教会に対して、これと同じ愛と寛容さを持ち、仲間のクリスチャンをすべて兄弟として受け入れるべきです!イエスが、サマリヤ人に対してしたように! アァメン?−−あなたはそうしていますか?

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 祈り:イエスよ、あなたの素晴しい愛を感謝します!−−私の罪をすべて許すほど大きな愛を! あなたが私を愛して、私に憐れみを持って下さったように、私も他の人を愛し、憐れみ深くなれますように! イエスの御名で祈ります。アァメン。