宝 P228-239

 

神の愛の律法!

−−驚くべき恵み!

−−「律法はモーセを通して与えられ、めぐみとまこととはイエス・キリストを通してきた!」(ヨハネ1:17)「キリストは、(モーセの)律法の終わりとなられた!」 (ローマ10:4)

 

  初めに人を創造された時、神は、人が感謝に満ちた神の子供達として、自らの意志で自発的に神を愛し、神に従うことを選ぶことができるよう創造されました。神は、私達がただ愛と恵みと信仰によって神に従い、神に奉仕することを望んでおられ、規則や法律はほとんどありませんでした。人間が愛のゆえに何でも自発的に行うことを望んでおられたのです。それが神の本来のご計画でした。

  しかし、人間がますます不従順で、邪悪になっていったので、神はどんどん厳しい法律や規則や法規を定めなくてはならなくなりました。これらの律法は、正しい者のために定められたのではありません。なぜなら、善良な人は、自分の隣り人に害を加えたり、悪事を働くことなどせず、他の人を愛するからです。ですから、律法は、悪事を働く者、悪人達、邪悪な者達のために作られたのです。

  律法は、愛を持たない者達、悪を行い、冷たく、乱暴を働く者達に与えられたのでした。聖書には、モーセの律法のことが次のように書かれています。「すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者のために定められている。」(第一テモテ1:9)

  野性の動物、すなわち、襲いかかったり、かみつこうとする貪欲な獣には何をしなければならないでしょうか? おりの中に閉じ込めるか、殺すしかありません! 邪悪で反抗的で不信心で救われていない悪人は、野性の動物よりも手に負えない存在であり、神が人間を厳格な律法というおりの中に入れなければならなかったのも、それが理由です!

  というわけで、人間が、愛と恵みと信仰に基づいて生きることをしなかったので、神は、人間を規則によって取り締まり、罪びとを律法というおりの中に閉じ込めなければならなかったのです! けれども、規則は人を救うことはできませんでした。規則は人にその間違いを教えるだけです。「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」(ローマ3:20) 事実、モーセの律法によれば、誰も善なる人間となることはできません!モーセの律法は、私達を一人残らず罪びととします。なぜなら、それを全部守れる人など一人もいないからです! 「義人はいない、一人もいない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている!」(ローマ3:10,23)

  律法とは、聖書にあるように、私達の教師、指導者、「養育係」に過ぎず、私達が罪びとであることを示して、許しと憐れみを求めて神のもとに来る必要があることを私達に悟らせます。そして、私達自身には到達することのできない、神の全き完璧さと、全き義とを教えるためのものなのです! 「このようにして律法は、私達が信仰によって義とされるために、私達をキリストに連れて行く養育係となったのである。」(ガラテヤ3:24)

  聖書には、「主は喜んで施す人を愛して下さる」とあります。(第二コリント9:7) どんな親でもそうであるように、神は、ご自分の子供達が、神を愛しているために、神を喜ばせ、正しい行いをしたいという気持ちから、喜んで自発的に神に従い、神の求める事を行う方を、はるかに好まれるのです。もし子供が、それが決まりだからと、無理矢理に従わせられたり、従わざるを得ないからというので従ったり、罰や裁きを受けることを恐れるから従うのであれば、それは、その子が親を愛していることを証明することにはなりません。

  事実、人がもっと謙遜かつ正直で、もっとたくさんの愛と思いやりを持ち、非利己的で、思慮深く、お互いのことを気づかい、すべての人を愛し、誰を傷つけることも望まず、ただ皆を助けることを望んでいたなら、神はむしろ、ご自身の民や子供達を信頼し、彼らに完全な自由を与えておられたことでしょう。「主の霊のあるところには自由がある」からです。(第二コリント3:17)

  自由とは、まさに世の初めから、神の理想、神の究極の目標であり、神のご計画でした! そして神は、この目標に向かって、幾時代も通じて、ご自身の民を徐々に束縛から解いていこうとしておられるかのようです。神は、ユダヤ人をエジプトにおける隷属状態から解放されたものの、それから彼らを、モーセの苛酷で厳格な規則による束縛の下に置かれました。すなわち律法です!

  それからイエスが来られ、愛と恵みと憐れみと許しと真理−−私達の救い−−をもたらされました。「律法はモーセを通して与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストを通してきたのである!」(ヨハネ1:17) イエスは、救いと真の義とが、行いによるものではなく、神の恵みによってのみ得られるものであることを私達に示されたのです! 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である!−−決して行いによるのではない!」(エペソ2:8,9)

  そういうわけで、初期のクリスチャンは霊的に解放され、霊的な自由と救いを見い出しはしたものの、やはり古い習慣や伝統や律法に幾らか束縛されていました。ユダヤ教を教えられ、その中で育ってきた彼らは、その影響から完全に抜け出すことができなかったのです。

  しかし、イエスご自身が人々に守るようにと言われた律法は、愛の律法だけでした! 独善的で偽善的な宗教指導者達から、「先生、律法の中でどの戒めが一番大切なのですか?」と尋ねられた時、イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(マタイ22:37-39)と答えられたのです。

  そして、イエスが「これらの二つの戒めに律法全体と預言者とが、かかっている!」(マタイ22:40)と続けられたので、彼らはショックを受けました。ユダヤ人には実際、複雑で形式ばった拘束的な宗教上のおきてが何千とあったのですが、イエスは、彼らに必要なのは今では二つだけ、すなわち、神を愛し、他の人を愛することだけだと言われたからです! イエスは、「これに聖書全体が含まれている」と言われたのでした!

  イエスは、この一つの単純な、愛という律法に、すべての律法とすべての預言者がかかっていると言われました! 「律法と預言者」とは、旧約聖書全体を指しています! イエスは、愛こそ、すべてを含み、聖書全体を要約するものであり、私達に必要な律法はそれだけであると言われたのでした! 言いかえれば、もしあなたが神を愛し、他の人達を愛しているなら、他に律法が必要だろうかということです。他の人達を本当に愛しているなら、彼らを傷つけることはないし、利己的にもならず、他の誰かを傷つけるような事もしないでしょう!−−そうではありませんか?

  ですから、イエスの愛の律法は、私達を古い律法から自由にし、すべての律法を包含し、成就しています! 今、神の唯一の律法は愛であり、愛、それも、非利己的で、犠牲的でさえある真の愛、すなわち神の愛によってなされたことは何でも、神の目から見れば正しい事なのです! 教会の人々から見て罪であったり、人の目から見て不道徳な事であったりしても、あなたが愛によって行なった事なら、神の目からすれば全く罪ではないのです!

  聖書にはこうあります。「御霊の実は愛であって、そのような愛を否定する律法はない!」と。(ガラテヤ5:22,23)  神と人に対する、純粋な愛、非利己的かつ犠牲的な愛に反対する神の律法は一つもありません!

  イエスは言われました、「わたしは、律法や預言者を廃するためではなく、成就するために来たのである!」(マタイ5:17) そして、律法を成就することによって、主は律法の終わりとなられたのです。ですから、私達はもはや、旧約聖書のモーセの律法を守ることを求められてはいません! 「キリストはすべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた!」(ローマ10:4) これは、神ご自身の書物、すなわち聖書に書かれている神の御言葉です! これを信じますか? この言葉の意味がわかるでしょうか?

  神の愛の律法を通して、私達は、古い律法による束縛から解放され、愛による命と自由へと、完全に解放されています! 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである!」(ローマ8:1,2)

  イエスを信じる者にとっては、イエスの愛の律法による神の恵みが、古い律法の終わりとなったのです! パウロは、何度も何度も説教をしたり、書簡を書いたりして、古い律法が終わりになったこと、それはもう無効になり、終止符が打たれたことを再三再四示そうとしました! 恵みと神の愛の律法の下に生きているクリスチャンにとっては、モーセの律法は無効になったということを教えようとしたのです! 「今は、私達は律法から解放され、その結果、古い律法の文字によってではなく、新しい霊によって仕えている。キリストは、私達を律法の呪いからあがない出して下さった! すべての事は私達に許されている!」(ローマ7:6、ガラテヤ3:13、第一コリント6:12)

  十戒は、イエスに従う者達にとってはもはや律法ではありません! 現在、神がクリスチャンに課しておられる律法は一つだけです。それはイエスの律法、つまり愛の律法であり、「心を尽くしてあなたの神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ!」です。(マタイ22:36-39) それがイエスの言われたことでした! もちろん、この自由の宣言は、自分がモーセの律法に従う者であることを誇りに思っていた、イエスの時代の、律法を何よりも尊重するユダヤ人とその独善的な宗教指導者とを激怒させ、彼らはイエスの教義に反対して、こう叫びました。「これはモーセと律法にそむいている!」(使徒行伝6:13,14、21:28) そして、確かにその通りでした!

  この事をめぐって、イエスとユダヤ人との間で最も激しい宗教的論争が交わされました! そして、パウロと、割礼を重んじている律法主義者たち、つまり改宗してクリスチャンとなったものの、「そうだ、われわれは今ではイエスを信じているが、それでもやはり、十戒や安息日やモーセの律法など、すべての昔の律法も守らなければならない!」と言っていたユダヤ人達との間でも、この事をめぐって激しい論争が引き起こされました。(使徒行伝15:1,5)

  悲しいことに、律法主義的で、割礼をすることを信じていた初代教会のメンバー達と全く同じようなクリスチャンが、現代にも数多くいます! そうしたクリスチャンは、イエスの恵みを完全に理解してはいません。イエスを受け入れて、イエスの恵みを受け取るだけで十分であり、イエスの愛こそが私達に必要なすべてであるということがわかっていないのです。彼らは今でも、キリストを説く一方で、モーセの律法も説いています!

  しかし、イエスの言われたことによれば、今日の神の子供達はもはや、モーセの律法の下に束縛されてはいません! 私達は恵みと愛の下にいるのです! 私達にとっては、古い律法とは、永遠に過ぎ去ってしまったものです! 神に感謝しましょう! 今、私達が守らなければならないのは、イエスの愛の律法、すなわち神の唯一の律法、愛だけです! イエスを信じる者達は、もはやモーセの律法には束縛されていないからです! 「自由を得させるために、キリストは私達を解放して下さった。だから、堅く立って、二度と(モーセの律法の)奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ5:1)

  「律法の全体は、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ!』というこの一句に尽きるからである。」(ガラテヤ5:14) なんと驚くべき言葉でしょう! 律法全体が、新しい、たった一つの素晴らしい戒め、すなわち「愛せよ」という戒めの内に全部含まれているのです! 「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり、預言者である!」(マタイ7:12) 私達は、「互いに愛し合うことのほかは、何人にも借りがあってはならない」のであり、「人を愛する者は、律法を全うする」のです!(ローマ13:8) もし愛があるなら、あなたには全てがあります! そしてあなたは、神の律法をすべて全うしていることになるのです!

  神の唯一の律法は愛です! 今では、それ以外に何の律法もなく、モーセの律法も教会のおきてもありません! 私達にとっては、それらの律法はもはや存在しません! それらは、第一テモテ1:9で主が言われているように、不信心な者達を規則で取り締まるためだけにあります。そして、神の愛の律法を破る邪悪な者達がそれによって裁かれるのです。  「神は愛である。」(第一ヨハネ4:8) そして、神の愛の御霊で満たされている者達にとっては、愛せよというのが唯一のおきてです! 「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。」(ガラテヤ5:18) もしあなたが互いに愛し合っているなら、あなたが主に導かれて行う事は何であれ、神の目から見れば、完全に正しい事なのです。何をするにせよ、あなたが愛によって行い、誰も傷つけていないのであれば、それが間違っているということがあるでしょうか!

  イエスの非利己的で犠牲的な愛によって行うことは何であれ、正しいことであり、法にかなっています! 何でも愛によって行うことが律法であり、それしかありません。それがすべてなのです! 神の律法は、愛だけです! 私達は古いモーセの律法から解放されており、もはやそれに拘束されてはいません−−私達は自由です! 今では、愛の内に、すべての事が私達に許されています! 神をほめよ! 何でも愛によってする限りは、愛という神の唯一の律法を守っていることになるのです!

  もちろん、このことを知り、このことに気づくことは、私達にたくさんの自由を与えてくれますが、実際には神の愛の律法は、多くの面において、律法の中でも最も厳しいものです! なぜなら、神の愛の律法は、他の人達に対して悪いことをしてはいけないと言っているだけではなく、すべての人を愛さなければならないと言っているからです!

  ですから多くの面で、愛の律法は、モーセの律法よりも一層厳しいものです! 十戒は、公平と正義を行うよう命じていました。「あなたはわたしの他に、なにものをも神としてはならない。あなたは殺してはならない。あなたは盗んではならない、などなど。」−−全部、何々してはならないという形で書かれています! けれども、イエスの愛の律法の下では、私達は単に公平と正義を行うだけではなく、もっと積極的に愛し、愛と憐れみと許しとを持たなければならないのです!

  ですから、モーセとその律法から解放されたものの、その結果得られた自由は、自分の隣り人に対して無関心で不親切でいて、自分勝手で不法な行為を行うという、利己的で向こう見ずな自由ではありません!私達は今では、単に律法が命じているためにそれに従い、人々を傷つけたり、危害を及ぼしたりすべきでないだけでなく、単なる義務感を越えて、自分が相手を愛していて、そうしたいからという理由で、他の人達に対して積極的に良い行いをすべきなのです!

  愛は義にまさり、憐れみは正当さにまさります!今、私達は、愛と憐れみと親切をもって人に接しなければなりません。モーセの律法には、事実上、許しがなく、「目には目を、歯には歯を」というものでした!(出エジプト記21:24、レビ記24:20) モーセは、「もし誰かが自分の目を打つか、歯をへし折るなら、相手に向かって同じ事をしてもかまわない。」と言ったのです!

  しかし、イエスは、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」と言われました。(マタイ7:12) それは、人々があなたにしてくれる事だけではなく、自分が人々にしてほしいと思うことを人々に対してしなさい、ということです! これが神の愛です。イエスは「山上の垂訓」の中で数多くの例を挙げて、「昔の律法で言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。」と言われ、人々に全く違う事を教えられました! そして、「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、許しなさい!」と言われました。(マタイ5:38-44)  それが愛の律法です! これは、愛の律法が、古いモーセの律法よりもさらに偉大で厳しいことを示しています!

  ですから、イエスの律法の方が、実際には、はるかに厳格で、守るのが難しいのです。事実、イエスなしにそれを守ることは不可能です! 古い律法を守るのが不可能であったなら、イエスの律法を守るのはなおさら不可能でさえあります! だからこそ、主は、「わたしから離れては、あなたがたは何一つすることはできない!」と言われたのでした。(ヨハネ15:5)しかし、主はまた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全に現れる」(第二コリント12:9)、だから、「私達を強くして下さるキリストによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)とも言われました。

  主の力なしには到底、神の愛の律法を守ることなどできません。あなたが救われていて、心にイエスがおり、神の愛の御霊があなたの内に宿っていて、自分を愛する以上にすら他の人を愛する力を与えてくれるのでない限り! けれども、イエスを受け入れると、あなたの内にある聖霊が、人間には到底不可能な事、すなわち、心を尽くして神を愛し、自分を愛するのと同様に隣り人を愛するのを助けてくれます!

  もちろん、今日のほとんどの教会や、保守的な考えのクリスチャンは、こう言うことでしょう。「よろしい。キリストの愛の律法の下では、『すべての事が、私達に許されている』(第一コリント6:12)と聖書では言っているが、しかしこの事にはもちろん、エヘン、つまり、セックスに関することなど何一つ含まれているはずがないでしょう!」 なぜなら、教会は、人の体やセックスや快楽に関することはほとんど何であれ、違法であり、不道徳で、不信心で、悪いことだと宣言しているからです!

  しかし、「すべての事」というのは、イエスを信じている、愛情深い、主の子供達にとっては、本当に「すべての事」を意味しています!  性的な自由も含めて!  私達のしていることが、非利己的で、愛情深い、犠牲的な神の愛からであり、誰も傷つけていない限りは、許されるのです! それゆえ、聖書によれば、愛の内に、神の愛の内に行われる男女間のセックスに反する律法はもはや何もありません! それは罪でもなければ、姦淫でも姦通でもありません!  そういったモーセの律法は、もはや過去のものなのです!

  結局のところ、姦淫に反対するモーセの律法の目的は何だったのでしょうか? 古い律法の背後にすら、肉体的にであれ、他の面においてであれ、さらには、感情面においてであれ、人々がお互いに傷つけ合うのを防ぎたいという、神の愛と願いがありました。ですから、神の愛の律法を守っているなら、私達は神の愛の内に生き、人々を助け、誰も傷つけないよう最善を尽くすことでしょう。

  欲望と愛の違いはこれです。欲望というのは、単に自分自身の貪欲で利己的な欲求を満たすことに過ぎません。食事をするのはその良い例です。食べることは必要ですが、もしあなたが食事を誰か他の人から盗んで自分の口に入れるなら、これは利己的な欲望であって、愛ではありません。けれども、もしあなたが自分の口に入れるつもりだった食物を、おなかをすかし、飢え、それをどうしても必要としている人、それがなくては死んでしまうかもしれない人に与えるなら、これは神の真の愛です! 聖書にはこうあります。「兄弟が困っているのを見て、憐れみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼の内にあろうか?」(第一ヨハネ3:17)

  すべては、実際には、あなたの動機によって、あなたの心によって判断されます。神は今私達を、愛があるかどうか、あるいは利己的で、神の愛に欠けているかどうかによって裁かれます。けれども、自分は主の愛の内に行なっているという確信があるなら、その時には、神ご自身の御言葉によれば、あなたは信仰によってそれを行うことができ、あなたには御言葉への信仰以外、何も必要ありません! 神の愛の内になされた事なら、それは、神から見た限り、罪ではないのです。

  けれども聖書は私達に、「何であれ、信仰によらないことは罪である!」という警告もしています。(ローマ14:23) もしあなたが、何かが罪であって、いけないことだと思うなら、あなたにとっては、それは罪であり、いけないことなのです! 実に多くの事が、あなたの霊的及び精神的な態度と、あなたがそれにどれだけ信仰を持っているかに依存しています。「あなたには信仰があるか? あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら定めたことにやましいと思わない人は幸いである。」(ローマ14:22)

 

  もちろん、多くの人がある幾つかの事柄に対して信仰を持っていないのは、それに信仰を持ちたいと思わないからです。そして、信仰の薄い人というのは、普通、神の御言葉の知識にも乏しい人です。なぜなら、「信仰は神の言葉を聞くことから来る」からです!(ローマ10:17)

  ですから、神の愛の律法が与えてくれる真理と自由を信じ、受け入れたいと思うなら、この読み物の中に出てきた多くの聖句を読み返し、祈って、主にこう求めて下さい。「私の目を開いて、あなたの言葉の内のくすしき事を見させて下さい!」(詩篇119:18) 神の御言葉はあなたに信仰を与えてくれます!

  けれども、新約聖書を通して読むと、パウロや何人かの使徒達でさえ、まだ、古い律法主義から抜け出せない点が幾つかあったことがわかります。パウロの書いた物の幾つかを読むとわかるように、彼のユダヤ人に対する愛のゆえに−−その事は、彼の最終的な妥協と彼自身の死とにつながったのですが(使徒行伝21章)−−ただ、新しく改宗した人々がトラブルに入り込まないようにするだけのために書いたことが沢山あります。つまり、結婚やセックスなどについての様々な問題を解決するため、彼は、何をすべきか、どうすべきかについてアドバイスを書きましたが、その「パウロの律法」によって人々をかなり束縛することになり、そのほとんどはあまり自由なものではありませんでした。セックスに関する助言をしているところで、人々に、「これを言うのは、主ではなく、私である。」と率直に言っているところもあります。(第一コリント7:12)

  もちろん、イエスは、ご自身の人生と務めにおいて極めて自由であられ、モーセの律法やユダヤ教の伝統を、幾度となく破られました。そして、宗教指導者達をあまりにも激怒させたがゆえに、最後には、彼らに殺されたのでした! イエスが、パリサイ人や一般の人々に話しておられる場面の幾つかを読む時にも、イエスが、誰に対して話しておられるかを覚えておく必要があります。イエスは、まだモーセの律法の下にあるユダヤ人に対して話をしておられたのです。

  イエスが生きて教えを説いておられた時は、まだ律法の時代であり、イエスが私達の救いのために十字架上で死なれたことによって恵みの時代が完全に到来する前のことだったのです。聖書には、「神は、私達を責めて、不利に落とし入れる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」とあります。(コロサイ2:14) イエスは、地上での務めを終え、十字架にかけられていた時に、「すべてが終わった」と言われたのでした!(ヨハネ19:30)

  教会は、パウロの定めた規則によって、そして大半は、幾時代にも渡る彼ら自らの律法によって束縛されてきましたが、神の御言葉を祈り深く、偏見なしに読むなら、主が、主の愛と恵みの下で、ご自身の子供たちが自由になることを最初から望んでおられたことが実によくわかります。そして、初代教会とクリスチャンの時代の夜明けとが、律法主義とモーセの時代の束縛を、完全に時代遅れですたれたものとし、打倒してしまったのと同様に、今日の私達は、古い律法主義の伝統や、しきたりや、信心ぶっていて、偽善的で、独善的な、今日の教会体制の伝統の多くを捨て去らなければなりません!

  ですから、私達は、神についての教会の偽りの伝統と間違った道徳観から自らを断ち切ってきました!私達は、完全に向きを変え、もはや彼らの道を歩んではおらず、神の道を歩んでおり、自由であって、神ご自身の創造物の美と驚異とを、その快楽もすべて含めて、心ゆくまで楽しんでいるのです。それは、私達が楽しむようにと、主ご自身が造られたものです! イエスは、「もしわたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなたがたは真理を知るであろう。そして、真理はあなたがたに自由を得させるであろう!」と言われました。(ヨハネ8:31-32)

  イエスとその救いと御霊の自由を通して、神の恵みによって、私達はエデンの園の自由を取り戻したのです! そして、人間の法律に縛られることなしに、自由なセックスや子供達の存在を楽しむことも含めて、エデンの園でアダムとイブが楽しんだ、神からの本来の自由を得る方法は一つしかありません。神を知り、神の御霊によって導かれ、神の御言葉の真理を知ることによってのみ、罪の意識や律法の束縛から解放され、エデンの園での完全な自由を得ることができるのです!

  ですから、おわかりのように、教会の規則の多くや人間の法律の中には、神の愛と自由の律法に反するものがあるのです! しかし私達は、私達の住んでいる国の法律をできる限り守るようにしなければなりません。パウロが、「権威に従いなさい。」、すなわち、政府に従うようにしなさいと言ったようにです。「できる限りすべての人と平和に暮し」、自分にとっては正しくとも、他の人にとっては正しい事に思えず、他の人をつまずかせてしまうかもしれない行動によって、「あなたの兄弟をつまずかせてはなりません。」(ローマ12:18、箴言18:19、第一コリント10:32、ローマ14:15,21、第一コリント8:9,13)

  あなたは、イエス・キリストを自分の個人的な救い主として受け入れることによって、神の愛を受け入れましたか? あなたの心の中には、神の愛の御霊が生きていますか? 主や他の人達を、自分を愛するのと同様に愛していますか? 自分がしてほしいと望むように、他の人にもしているでしょうか? もしそうなら、あなたは、古くて死んだモーセの律法から解放されています! 今、あなたがしなければならないのは、イエスの愛の律法を守ることだけです! けれども先に言ったように、それは、古いモーセの律法にもまして大いなるものであり、はるかに厳しいものです。なぜなら、今、あなたの行うすべての事は、主の愛によってなされなければならないからです! あなたはモーセの律法以上に、より多くの憐れみと愛とを持っていなければなりません!(マタイ9:10-13)

  しかし、もしイエスとイエスの愛を心に受け入れていないなら、あなたはやはり古いモーセの律法の下にあり、すべての違反によって罪に定められます! そして、同じ律法によって裁かれるのです! もしイエスの愛を拒んだなら、モーセの律法をすべて破ったことになり、それに応じて裁かれるようになります!それらの律法は、あなたにとっては、過ぎ去ったものではないからです!(ヤコブ2:10、ガラテヤ3:10、5:1-4)

  ですから、イエスとイエスの愛の律法を受け入れて、自由に生きてはどうでしょうか? そうでないと、あなたは、モーセの律法によって束縛され、死に、呪われた者となってしまいます! 「あなたの仕えるものを、今日、選びなさい!」(ヨシュア24:15)モーセの死んだ律法に仕えますか? それとも、イエスの生きた愛に仕えますか? 私と私の家とは、共に主イエス・キリストと主の生きた愛の律法に仕えるでしょう! あなたは?