宝 P165-172

 

迫害−−今むかし!

 

「わたしにつまずかない者は、さいわいである!」(マタイ11章6節)

 

  イエスが絶えずと言ってよいほど迫害を受けていたということは、イエスの生涯の際立った特徴でありながら、今日イエスの教えに従う人達のほとんどはその事を見落としがちです! 考えてもみて下さい。イエスは完璧で、一度も間違いを犯しませんでした。イエスは、肉体という形で神を現した方でした! (ヨハネ1章1,17節)  それなのに敵は、イエスを、あらゆる恐ろしい犯罪や罪を犯し、悪事を行なったとして厳しくとがめ、ついには、彼を捕らえて十字架にかけたのです!

  事実イエスは、自らを捧げて御自身に従う者は、皆、迫害をも受けるであろうと約束されました。「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を迫害と共に受け、また来たるべき世では、永遠の生命を受ける!」(マルコ10章29,30節) もし迫害を受けることもなく、何のトラブルもないなら、それはきっとイエスのために何もしていないからに違いありません! 聖書にはこう書かれているからです。「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな迫害を受ける!」(第二テモテ3章12節)

  イエスが御仕事(みしごと)を始められてから初めて故郷に戻られた時のことが、ルカによる福音書に次のように記されています。「それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂 (ユダヤ教の建物) に入り、聖書を朗読しようとして立たれた。」(ルカ4章16節) イエスは、立ち上がって、聖書の中の預言者イザヤの書から、御自分の内に成就されたメシヤに関する預言を読まれた後、会衆に向かって、「『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した・・・・だが、よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである』」(ルカ4章21,24節)と言われ、彼らを驚かせました。

  「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がって、イエスを町の外へ追い出し、その町が建っている丘の崖まで引っ張っていって、突き落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、去っていかれた。」(ルカ4章28-30節)

  イエスは、彼らに真実、つまり神が御自分の約束と預言を成就し、御自分の民についにメシヤを送られたという良き知らせを告げただけでした。しかし、彼らは、「この人はどこからこのような言葉と権威を得たのか? この人は、大工ヨセフの子ではないか?」と言って、この真実の啓示を拒み、真実を伝えるために来た使いを殺そうとしたのでした。「こうして人々はイエスにつまずいた」のです。 (ルカ4章22節、マタイ13章55,57節)

  イエスの所業が成功を続けるにつれ、嫉妬深い敵はイエスの評判を落とそうと試み、彼に対する偽りの非難がどんどんエスカレートしていきました。彼らが何にもまして告発したことの一つは、イエスが罪人の仲間になりさがったということでした。イエスの時代には、イスラエルはローマ帝国によって占領されており、ユダヤ人の中で最も軽蔑されていたのは、ユダヤ人でありながらローマ帝国のために働き、同胞のユダヤ人から税金を取っていた取税人達でした。でもイエスは、すべての習わしや偏見を無視して、そんなにも軽蔑されていた取税人と親しくし、さらには、取税人を御自分の使徒の一人として選ばれたのです。マタイがそうです!(マタイ9章9節)

  イエスが、取税人の家に入って彼らと食事を共にするのを見たユダヤ人の宗教指導者は、ショックを受け、弟子達に尋ねました。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や汚れた罪人などと食事を共にするのか?」(マタイ9章11節)  イエスは、彼らの非難に対して、こう言われました。「バプテスマのヨハネが来て、パンを食べることもぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだと言い、また人の子が来て、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だと言う。しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が (その生き方、人格、行ないによって) 証明する。あなたがたは、その実(み)によって彼らを見分けるのである!」(ルカ7章33-35節、マタイ7章20節)

  イエス御自身の身内の者達もイエスの言動を誤解しました。少なくとも、一度は、イエスは本当に気が狂ったと思ったのです。「身内の者たちは、この事を聞いてイエスを取り押さえに出てきた。気が狂ったと思ったからである!」(マルコ3章21節)

  イエスは、御自分を受け入れ、信じるすべての者の人生と心に平和をもたらすために来たということをはっきりさせられたものの、(ヨハネ14章27節、16章33節) 多くの人は御自分を拒むようになると知っておられたので、こう言われました。「あなたがたは、私が平和をこの地上にもたらすために来たと思っているのか、あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。」(ルカ12章51節) そしてその言葉は、確かに事実となりました。イエスが語る時には常に、そのメッセージを受け入れる者と拒む者との間に、はっきりとした分裂が生じたのです。

  「群衆のある者がこれらの言葉を聞いて『この方は、本当にあの預言者である』と言い、ほかの人たちは『この方はキリストである』と言い、またある人々は『キリストは、まさかガリラヤからは出てこないだろう』と言った....こうして群衆の間にイエスのことで分争が生じた!」(ヨハネ7章40-43節) 他の箇所にはこう書いてあります。「これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。そのうちの多くの者が言った、『彼は悪霊に取りつかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、その言うことを聞くのか』他の人々は言った、『それは、悪霊に取りつかれた者の言葉ではない!』」(ヨハネ10章19-21節)

  聖職者達も、イエスが病人や悪霊に取りつかれた人々をいやしていることを耳にしたのですが、「エルサレムから下ってきた律法学者たちは、『彼はベルゼブルに取りつかれている』と言い、『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』とも言った!」(マルコ3章22節) のです。考えてもみて下さい。イエスの時代に最も尊敬されていた宗教の権威者が、神の御子のことを、サタンに取りつかれた者だと言ったのです!  この種の非難に関して、イエスはご自分に従う者達に次のように警告されました。「弟子は、その師以上のものではなく、しもべはその主人以上のものではない。もし家の主人である私がベルゼブル (悪霊どもの頭) と言われるならば、その主人に従う者たちはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。」(マタイ10章24,25節)

  イエスは、「取税人や罪人」とつきあっていたことだけではなく、いかがわしい女性と交わりを持っていたことのためにも、よく非難されました。ある時、イエスが有力な宗教指導者の家で食事をしていると、突然、その食事の場に売春婦が駆け込んできました。彼女は、イエスの足もとに座り、泣きながら、自分の涙で彼の足をぬらし、自分の髪でそれを拭ったのです。そして彼女がイエスの足に口づけをし始めると、疑い深い宗教指導者は心の中でこう思ったのでした。「もしこの人が本当に預言者であるならば、自分にさわっている女がだれだか、どんな女か、わかるはずだ。それは罪の女なのだから!」(ルカ7章36-39節) しかしイエスは、その女性を愛し、彼女の罪を許し、祝福を与えて、家に帰らせました。

  こうしてイエスが愛や憐れみを示したことで、イエスの宗教上の敵は、屈辱を受けました。彼らには、愛や憐れみがほんの少ししかないということが暴露されたからです! 彼らの宗教が自分達の善行と独善に基づいていたのに反して、イエスは群衆に、救われるのに必要なのは、神の愛と憐れみに対する信仰だけであると教えられました。さらにイエスは、祭司長や長老達に面と向かって、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国に入る!」 (マタイ21章31節) と言って、彼らを一層侮辱されたのでした。

  またある時、宗教指導者達は、一人の女性をイエスの所に連れて来ました。彼らは、その女性が他の人の夫とベッドにいるところを見つけたのです。ヨハネは、彼らがイエスに問い詰めた場面をこう語っています。「『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました! モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか?』彼らがそう言ったのは、イエスをためして、非難する口実を得るためであった。しかしイエスは、何も耳に入っていないかのように振舞った。

  しかし、彼らが問い続けるので、イエスは彼らに言われた。『あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい!』これを聞くと、彼らは良心の呵責を受けた。そして年寄りから始めて、一人、また一人と立ち去り、ついにイエスと女だけになった。そこでイエスは、女に言われた。『女よ、みんなはどこにいるのか? あなたを罰する者はなかったのか?』女は言った。『主よ、誰もございません。』イエスは言われた。『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。』」(ヨハネ8章4-11節)

  イエスの敵が、イエスに対して激怒していた一つの理由は、イエスがいつも彼らの宗教上のおきてや伝統を破っていたからでした。ある時イエスが、安息日 (誰も働いてはいけないことになっていた、ユダヤ人の聖日) に会堂に入ると、片手がかたわでなえている人がいるのを見ました。聖書にはこうあります。「律法学者やパリサイ人たちは、イエスをとがめる口実を見つけようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。」 けれどもイエスは、彼らのことなど無視して、その男の人をいやされたのです。聖書にはさらにこうあります。「そこで彼らは、激しく怒って、イエスを何とか殺そうと、互いに話し合いを始めた!」(マタイ12章9-14節、ルカ6章6-11節)

  ヨハネによる福音書9章には、イエスの敵が、いかにイエスに敵対していたかがはっきりとわかる話があります。イエスが生まれつきの盲人をいやされた話です。ずっと盲だった人の目が突然見えるようになったことで、近所の人々の間で騒ぎが起こり、彼らはこの男を、宗教指導者であるパリサイ人達のところへ連れて行きました。するとパリサイ人達は、彼を問いただした後、きつい口調でこう言ったのです。「おまえをいやした人は、神から来た人ではない。安息日を守っていないのだから!」

 「しかし、他の人々は言った、『罪のある人が、どうしてそのような奇跡を行なうことができようか?』そして、彼らの間に分争が生じた! そこで彼らは、もう一度この盲人であった人に聞いた。『おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか?』『預言者だと思います。』と彼は言った。そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った。『神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることはわたしたちにはわかっている。』すると彼は言った。『あの方が罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただひとつのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです!』」宗教的指導者達のものの見方や考え方からすれば、イエスは絶対に神からの者ではあり得なかったのです。イエスは、彼らの神聖なる伝統を破り、彼らの厳格な宗教上の掟や規則や律法を守らなかったからです!  それどころかイエスは、「義人」なら当然こうするであろうと彼らが思っていた事と全く正反対の事をよく行なったのです!

  イエスの人気が急上昇しているのを見て、パリサイ人達は腹を立て、また心配もし、互いに論じ合いました。「私達は、イエスを止めることができないでいる。世の人々がそろってイエスの後を追っているのを見るがいい! どうしたらいいのだろうか? イエスはたくさんの奇跡を行なっている。もしこのままにしておけば、みんながイエスを信じるようになるだろう。その上、ローマ人がやって来て、私達の地位も権威も奪ってしまうだろう!」 そして聖書には、「その日から、彼らはイエスを殺そうと相談した」とあります。(ヨハネ11章47-54節、12章19節)

  彼らは、ユダヤ人が宗教的なことでイエスを訴えても、異邦人であるローマ帝国の総督ピラトを動かすことはできないと知っていたので、イエスを始末する唯一の方法は、イエスが政治的な犯罪を犯したと訴えて、イエスにぬれ衣を着せることだと判断しました。そこで彼らは、総督にこう告げたのです。「『わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢ぎをカイザル(シーザー)に納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと唱えているところを目撃しました!』」

  しかしピラトは、自ら直接イエスに尋問した後、イエスを訴える者に答えて言いました。「『わたしは、この人に何の罪もみとめない。』祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。」 (ルカ23章2-4節、マタイ27章18節) これを聞いて、「彼らはますます憤り、言った。『彼は、ユダヤ全国に渡って、偽りの教義で民衆を煽動しているのです!』そして祭司長、長老達は、イエスを殺してもらうようにと群衆を説き伏せた。」(ルカ23章5節、マタイ27章20節)それでもなおピラトは、イエスが犯罪といえるようなものは犯していないと確信していたので、イエスを釈放しようと努めました。

  しかし、長老達は、群衆を前にしてこう叫んだのです。「もし、この人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とする者はすべて、カイザルに背く者です!」(ヨハネ19章12節) するとピラトは、典型的な政治家のごとく、この政治的圧力に屈してしまい、「『この善良な人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末するがよい! それは、おまえたちの責任である!』と言って、その言葉を象徴するかのように自分の手を洗い、イエスを悪意に満ちた敵に渡してしまいました。すると民衆全体が答えて言いました。『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい。』」(マタイ27章20-25節) ピラトは、イエスを訴える不誠実な者達に抗するだけの道徳的勇気と確信に欠けていました。そのために、無実である方、完璧な方が、残酷にも十字架にかけられてしまったのです!

  しかし神に感謝することに、わずか3日後に、イエスは死から甦り、イエスに従う者達の小さな一団を究極の勝利へと導かれたのです! そして神の愛は、巨大な高波のように嫉妬深い敵を押し流し、その波は神の愛の福音を全地にもたらしました! 一方、愚かな敵は、イエスが言われた通りに、すたれ、不毛となり、ずっと後ろに取り残されたのです!

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  イエスは、私達にこう言われました。「しもべは、その主人にまさるものではない。もし人々が、わたしを迫害したなら、あなたがたも迫害するであろう!」(ヨハネ15章20節) だから、イエス御自身と同様、今日の献身的なクリスチャンが、自分のメッセージや方法に対して敵意を持った反応を受けたとしても、どうして驚くのでしょうか? あなたが積極的に神の言葉を宣べ伝え、人々をサタンの王国から救い出して、天の王国へと勝ち取っているなら、悪魔はあなたの良い働きを阻止しようとして、ありとあらゆる手を尽くしてあなたに戦いを挑み、攻撃をかけてくることでしょう!−−イエスに対してしたのと同じように!

  「でも今は、20世紀であって、文明の進んだ時代だろう? 今では状況も違っているのではないか?」と反論する人もいるでしょう。しかし、状況は変わってはいないのです! 悪魔が現実に存在し邪悪であるということについては、昔と何の変わりもないし、悪魔の民も依然として悪意や敵意に満ち、神の子供達に敵対しています!

  1968年、南カリフォルニアのさまよえる若者の間で私達がつつましいスタートを切ってからというもの、私達がこうして生きていること自体が、多くの自己満足した有力な宗教団体のメンバーを屈辱感にさらすことになり、彼らはそのことで激怒し、スタートした時点から私達を憎んでいるということに気づきました! 私達は、彼らが、できるわけがないと言って実行するのを拒んでいた事−−つまり、「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝える」という事 (マルコ16章15節) −−を実際にしていたからです! だから私達は常に、彼らから迫害を受け、私達についての偽りを広められたりしてきたのです!

  「すべてを捨てて、すべての造られた者に福音を宣べ伝え、マモン(富の神)ではなく神に仕え、信仰によって生きる」ということを実行して、イエスと聖書に徹底的に従う人は、週に一回教会に行くだけでよいという宗教で満足しているクリスチャンの大多数の人々からすると、変わり者、あるいは狂信者とみなされるのです! とても多くの保守的なクリスチャンが、私達の教義や信じていることや自由のことを、やや変わっていて、受け入れ難いと思うのは、おもにこのためなのです! けれども、私達が一番強調してきたことは、常に、イエスとイエスの愛と救いです! さらには、それを他の人と分かち合うことです! これこそ、私たちがまず第一に宣べ伝えていることなのです。私達のことを知っているあなた方は、きっとこのことを証言できるでしょう!

  事実、あなたがイエスを知り、聖書の中にある真理を理解するのを私達が助けたなら、またあなたが主により近くなり、主とより個人的な関係を持つのを私達が助けたなら、たとえ私達に対する中傷を耳にし、その内容が理解できなかったり、それに関した質問に答えられなかったりしても、あの盲人がイエスを非難する者達に答えたのと同様、私達を非難する者達に対しても、正直に答えればよいのです。つまり、「彼らが罪人であるかどうか、私にはわかりません。でも、一つだけわかっていることは、以前は私は盲で−−あるいは別の言い方をすれば、以前はどう生きたらいいかもわからず、イエスも知らず、御言葉も知らず、また祈り方も知らず、他の人に神の愛を伝えるということも理解できなかったのですが−−今は見え、理解できるということです!」と答えればよいのです。

  イエスの言われたことによると、人が真に神から出ている者かどうかを見分けるには、その人の働きの成果を見ればいいのです! イエスはこう言われました。「どんな木も、その実によって見分けられる。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。このようにあなたがたは、その実によって彼らを見分けるのである!」(マタイ7章15-20節)

  私達のメンバーが、世界中で忠実に主のために仕事をし、素晴らしい成果をあげているということは、確かに私達が神からのもので、神の栄光のために良い実を結ぶ良い木であるということの十分な証拠です! ハレルヤ! 80カ国以上の国々で働く1万2千人以上の私達の宣教師は、60以上の言語を使って、現在に至るまでに32億ページの福音文書を出版し、120の国籍の人々に福音を宣べ伝えた結果、1千万以上の人々をキリストへと勝ち取ったのです! そして私達は、毎日、神の愛や御言葉を数え切れないほど多くの人々に伝えています!

  というわけで、私達はたくさんの迫害を受け、中傷され、ひどい評判を立てられているにもかかわらず、神は私達を祝福され、守られ、栄えさせられ、メンバーも増やして下さってきたし、また友人による裏切りや敵からの激しい攻撃があっても私達が活動を続けるのを助けて下さっています! 私達に恨みを抱いている嫉妬深い敵が、どれだけ私達についての偽りを広めようと、私たちに敵対してどれだけ戦おうと、敵は決して勝つことはできません! 神が私達と共におられるので、私達は負けることがないのです! (ローマ8章31節) 神をほめたたえよ! 「その企てやしわざが人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、誰もあの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵に回すことになるかもしれない!」(使徒行伝5章38,39節)

  ですから、私達に恨みを抱く、嫉妬深い敵の嘘や中傷や偽りの言いがかりなど、どうか信じないで下さい!今日、クリスチャンが、一体どうしてそんなにたくさんの犯罪や悪事を行なったとして訴えられることがあり得るのかと、疑問を抱きそうになったら、ただイエスのこと、イエスが御自身の敵によってたくさんの偽りの告発を受けたことを思い出して下さい。イエスは、死をも耐えられたのです! アァメン? 神があなたを祝福されますように!