宝 P155-164

 

神の「風変わりな人々」!

−−あなたはその一人ですか?

--「あなたがたは、この世と妥協してはならない!」(ローマ12:2)

 

  聖書に出てくる偉人や神の指導者や預言者達は皆、伝統を守り、立派で模範的な行動をする人達であるといった印象を、大半の教会は人々に与えています。もし彼らが今日生きていたなら、理想的な社会の一員であり、善良で、高潔で、教会に通う、良心的な市民であるに間違いないと。

  ところが、聖書の有名な人物についての教会の解釈や説明ではなく、聖書を開いて、そのような人について書かれている箇所を自分で読んでみると、それらの「聖人達」が、伝統を重んじる人達ではなかったことがわかります! 彼らは神をひたすら信じ、神の導きに従い、神が何を告げられようとも、さらには、どうして神がある事をしてほしいのか全くわからなくとも従った、信仰の人達だったのです!

  神はしばしば、彼らが期待したり、当然だと思っている事とは正反対の事を行うよう要求されました。彼らは、「見えるものによらないで、信仰によって歩いている」(第二コリント5:7)人々で、ただ神が言われたからというだけの理由で、どんなことでも行なったのです。時には、そのような人でも、主と議論し、主の言われる方法が間違っているとか、それよりましな方法があるはずだなどと主に言ったことがありました! しかし、彼らがついに主にすべてを委ね、神の方法に従った時、彼らは常に、神が正しかったこと、神の方法が最善の方法であったことを悟ったのでした!

  「神は、不可思議な方法で奇跡をされる」とよく言われていますが、聖書に出てくる、神が用いられた有名な人々の生涯について学ぶならば、それが真実であることがはっきりとわかります! 事実、神は、私達が当然こうなるだろうと思うこととは正反対の事を行われるのを非常に好まれます! それには奇跡を要し、神がご自身の超自然的な力を現すことができるので、人ではなく、神が行なっておられるということを人々に示すことができるからです。そして、神がすべての栄光をお受けになるのです!

  主はこう言われます。「わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっている! 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い!」−−イザヤ55:8,9。「妥当」な方法というのは、たいていの場合、人の方法です。しかし、神の方法は普通、人間の予想とは正反対で、奇想天外で、型破りで、伝統を破り、妥当でも正統でもなく、形式ばってもいません!

  「主は、あなたがたを選んで、独特の民とされた。」−−申命記14:2−−と、主が言われたのは、このためだったのです。真に主を愛し、主に従う人々というのは、常に、他の人々とは異なり、主を信じない、世の大半の人々に比べると非常に「風変わりな」人々なのです。よく神の民や預言者や指導者達が、世間の人々には、変わり者か、熱狂的信者か、全くの気違いの一団のように見えるのは、このためです!

  けれども、この世の人々の見方は、しばしば、神の見方とは全く異なっています。−−「生まれながらの人(論理的、世俗的な見方をする人)は、神の御霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」−−第一コリント2:14。イエスは、このようにさえ言われました。「人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌み嫌われる!」−−ルカ16:15。

  乾いた土地で、突然、巨大な船を造り始めたノアのことを、邪悪な世間の人々はどう思ったことでしょうか! この実に巨大な船が完成する日まで、120年間、ノアは、来る日も来る日も根気強く働き続けました! 船を造るなど、全く奇想天外で、信じ難いことでした! 実にばかげており、完全に道理にかなっていないので、人々はノアが気が狂ったと思ったに違いありません。誰一人として、そのような事を試みた人はおらず、実は、それまでに雨など一度も降ったことがなかったのですから!  けれども、ノアとその息子達は神に従い、とにかくその船を建造しながら、人々に、神の裁きが下ろうとしていると警告し続けたのでした。しかし、世間の人々はそれを信じようとはしませんでした。そして、人々はノアをばかにし、あざ笑いましたが、最後に笑ったのはノアだったのです。ノアの言った通りに洪水が襲い、この世の邪悪な人々を滅ぼしたものの、その洪水によって箱舟は水に浮かび、ノアとその家族は助かったのでした!−−創世記6-8章。

  もう一人、非常に型破りな人物がいます。それはイスラエルの最も偉大な王だったダビデです。ダビデの人生は、最初から、神に仕える偉大な王に対して私達が抱くイメージとはかけ離れていました。神の預言者のサムエルは、エッサイの息子の中で次の王となるべき者に主の油注ぎを与えようとベツレヘムに行った時に、たくましくてハンサムな長男のエリアブに会い、「この人こそ、主が油を注がれる人だ!」と思いました。−−サムエル記上16:6 ところが、主はサムエルにこう言われたのです。「顔のかたちや身のたけを見てはならない。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る!」−−サムエル記上16:7。

  エッサイの6人の息子に会って、祈り深く彼らを見た後で、サムエルは言いました。「主が選ばれたのは、ここにいる者達のどれでもありません。エッサイ、息子はこれで全部ですか?」

  エッサイは答えて言いました。「まだ末の息子が残っていますが、外に出て、羊を飼っています。」

  ダビデは小柄で、とても若かったので、父親でさえ彼が選ばれるとは思っていなかったのですが、サムエルがダビデを呼びにやり、ダビデが部屋に入って来るやいなや、主は、サムエルにこう告げられたのです。「立ってこれに油を注げ、これが、わたしが王に選んだ者である!」−−サムエル記上16:12。

  しばらくして、有名な、ダビデとゴリアテの対決がありました。サウル王は初めは、この小さな羊飼いの少年では到底ゴリアテの相手にならないと思い、ダビデをこの巨人の前に出すのを拒んだほどでした。そして、それでも行くと言い張るダビデに、今度は、自分の武具をまとい、自分の剣を持って行くようにと、しきりに勧めたのでした。けれどもダビデは、それを丁寧に断ると、木でできた羊飼いの杖と、石投げ、それに何個かの石を持って出て行ったのです。

  この見るからに弱々しそうな相手が自分と一騎打ちしに来たのを見て、巨大なゴリアテは侮辱もはなはだしいと思い、あざけって笑いました。「杖を持った子供をつかわすとは、わたしは犬なのか?」−−サムエル記上17:43。

  しかし、ダビデはこう叫び返したのでした。「おまえは剣と、槍と、投げ槍を持って私に向かってくるが、私は万軍の主の名、すなわち、おまえが挑んだ、イスラエルの軍の神の名によって、お前に立ち向かう。そして、主は、お前を私の手に渡されるであろう。また、この全会衆も、主は救いを施すのに、剣と槍を用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主が我々の手にお前たちを渡されるからである!」−−サムエル記上17:45-47。

  ダビデはそれから、いつも的を外すことのない石投げに石を入れると、ゴリアテに向かって走り出しました。そして、たった1個の小さな石は見事に命中し、そのペリシテ人の大ぼら吹きは地に倒れたのでした! こうして、主は大いなる勝利を収められました! イスラエル軍の熟練した将軍や顧問達の予想や期待とは全く違う方法で!

  神が、普通では考えられないような方法で物事を行なわれる例は、ギデオンの物語にもあります。ギデオンは、一介の農夫の息子にすぎませんでしたが、主は彼と共におられ、彼は、イスラエルの3万2千人もの兵士を率いることになりました。敵の方がはるかに優勢で、「ミデアンびと、アマレクびと及びすべての東方の民はいなごのように数多く谷にそって伏していた」(士師記7:12)のですが、驚いたことに、その敵の軍勢と戦う前に、主はギデオンにこう告げられました。「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとを渡さない。おそらくイスラエルはわたしに向かって自ら誇り、『わたしは自身の手で自分の民を救ったのだ』と言うであろう!」−−士師記7:2。

  そこで、主はギデオンに、3万1700人の兵士を帰らせ、わずか3百人だけが残りました! それから主は、彼らが戦いに勝つために、聞いたこともないような、ひどく気違いじみた事を行うようにと告げられたのです! ギデオンは、その3百人の兵士を三つに分け、それぞれに、ラッパと、たいまつを入れた土の壷を用意させました! それは世界初の、火薬爆弾、あるいは「火炎瓶」でした! 兵士達は、夜、皆が寝静まった頃に、敵の陣営にこっそりと忍び寄ると、敵の陣営を四方から取り囲みました。それからギデオンの合図によって、兵士達は一斉に、叫んだり、怒鳴ったり、手に持ったラッパを吹き鳴らしたり、壷を打ち壊したりしたのです!

  3百もの壷が砕けるやかましい音、まわり中から突然どっと照らされた3百ものたいまつの明かり、それに、ギデオンの3百人の音楽隊のトランペット奏者が吹くラッパの轟きが加わり、ミデアン人は、驚きと恐怖で目を覚ましました。そしてパニックに陥り、混乱の中で同士撃ちを始めたのです! 「敵軍はみな走り、大声をあげて逃げ去った。主は敵軍をしてみな互いに同士撃ちさせられたので、敵軍は、ギデオンの前を去った!」−−士師記7:15-22。

  戦いに勝利する方法としては、これは全く馬鹿げているとしか言えません! 敵を征服するのに、こんな恰好の悪い方法があるでしょうか! 実に愚かしく、突拍子もなく、聞いたこともないような方法です! けれども神は、それを行われたのでした! そして、ギデオンとイスラエルの民とは、その勝利をただ神に感謝するのみでした。なぜなら、彼らがした事と言えば、壷を壊したり、たいまつをかざしたり、ラッパを吹き鳴らしたり、声を張り上げて怒鳴ったりなど、実に馬鹿馬鹿しいことばかりだったからです。しかし、一番肝心な事をして下さったのは神でした! ですから、そのような戦いに勝利したことで手柄を受けるのは、他ならぬ主なのです! 神を信じ、その気違いじみた導きに従うだけの非常識さを備えていたギデオンのような愚か者ではありません!

  しばしば、主は、無気力な人々の目を覚まし、ご自身のメッセージに耳を傾けさせるために、主の預言者達に、極めてショッキングで、非常識で、型破りな事柄を行うようにと告げられました。また、人々が決して忘れることのできないような方法でご自分のメッセージを伝えたり、説明するため、ご自身の預言者に、何かの役を演じさせられることもありました。つまり、デモンストレーションをさせたのです!

  神学者や聖書学者達は、しばしば、大預言者イザヤのことを「高潔な預言者」と呼んでいますが、彼が「裸の預言者」でもあったことを知っている人は、殆どいないようです! 「主はイザヤに語って言われた、『さあ、あなたは腰から荒布を解き、足から靴を脱ぎなさい。』 そこでイザヤはそのようにし、裸、裸足で歩いた。主は言われた、『わがしもべイザヤは3年の間、裸、裸足で歩き、エジプトとエチオピアに対するしるしとなり、前ぶれとなったが、このようにエジプト人の虜とエチオピア人の捕らわれ人とは、アッスリアの王に引き行かれて、その若い者も老いた者もみな裸、裸足で、尻をあらわし、エジプトの恥を示す。』」−−イザヤ20:2-4。

  考えられますか! 神の預言者が3年も素っ裸であちこち回り、エジプトとエチオピアの民に、彼らが捕虜として恥辱的に連れ去られ、その罪のゆえに罰せられるということを示そうとしていたとは! 気違いじみたことに思えるでしょう? 確かにそうでした。しかし、それこそ神がしておられたことだったのです!

  主はまた、預言者エゼキエルに主の民の前で劇的なデモンストレーションをさせました。そのデモンストレーションとは、ひどく変わっていて、はしたなく、「異常」な、「反社会的」行為でした。現代の最も「文明の進んだ」国々で誰かがこのような行為をするなら、即刻、留置場にぶち込まれるか、精神病院に収容されることでしょう!

  神の指示により、エゼキエルは大きなかわらを一枚取って、その上にイスラエルの都エルサレムの絵を描きました。それから、これに向かって塁を築き、城門の扉を壊す破城槌の模型をその周囲に置いて、このエルサレムの絵を包囲しました。そして、その前で、 常に体の片脇を下にして430日間も寝たのです!

  主は前もってエゼキエルに、大きな器に小麦と大麦、豆を準備し、それでパンを作って、その14か月の間食べるようにと命じられました。そして、エゼキエルが思わず吐き気を催すようなことを言われたのです。「あなたは、大麦の菓子のようにこれを食べなさい。人々の目の前で、これを人の糞で焼かなくてはならない! そして主は言われた。このようにイスラエルの民はわたしが追いやろうとする国々の中で汚れたパンを食べなければならない!」−−エゼキエル4:12,13。

  正統派ユダヤ教徒として、常にモーセの食事に関する律法を一つ残らず守ってきたエゼキエルは抗議しました。「ああ、主なる神よ! 私は自分を汚したことはありません。若い頃から今に至るまで、汚れた食べ物を食べたことなどありません!」

  主は答えられました。「よろしい。では、人の糞の代わりに、牛の糞を使うことを許そう。あなたは糞でパンを焼くがよい!」−−エゼキエル4:13-15。というわけで、エゼキエルは、裁きが間もなく降りかかることを民に警告するため、430日間、決まった量の糞のパンを食べながら、包囲されているエルサレムの都をかたどったものの前で、常に体の一方を下にして寝たのでした!

  預言者ホセアが命じられたデモンストレーションは、多分、エゼキエルが命じられたこととは違って、少しは楽しみもあったでしょうが、それでも非常に型破りで、変わっていました! 背教したイスラエルに、彼らの罪や偶像崇拝が主の目からすれば霊的な姦淫であることを教えようとして、神はホセアに言われました。「行って、淫行の女、遊女をめとりなさい。この国は主から離れ去って、淫行にふけっているからだ!」−−ホセア1:2。 そのような行為を禁ずる宗教上のおきてや、しきたりや、伝統があったにもかかわらず、ホセアは直ちに遊女を見つけて結婚し、3人の子供をもうけたのでした。

  それから、主の民が主に忠実でなくとも、それでも主は愛して下さることを示すために、ホセアの妻が他の愛人の元に去ってしまった時も、主はホセアにこう言われました。「妻は他人に愛されているが、それでも妻を愛していることを示せ。民が他の神々に転じても主がその民を愛されるのと同様に、妻を愛せ。」 ホセアは従い、こう言っています。「そこで私は、銀15シケルをもって彼女を買い取った。」−−ホセア3:1,2。

  ホセアの結婚は絶対に、人々が伝道師たる者に対して期待するような立派なものではありませんでした。しかし、それは神がなさったことで、主の民に対して、主と民との関係を思い起こさせる説得力のある手本となったのでした!

  神が、人間の伝統やしきたりや予想や意見を無視された実例として、神ご自身の御子イエスの誕生と生涯と死にまさるものがあるでしょうか! もし王の王たる方が王宮の偉い貴族達の立ち会うもとで、ローマ政府の誉れと称賛を浴びながら、宮殿で誕生したのなら、はるかに尊敬され、受け入れられたことでしょうに! しかし神は、ご自分の御子が、牛やろばの見守る中、こやしの臭いがする納屋の汚い床の上でこの世に生まれ、ぼろ布にくるまれて、かいばおけの中に寝かされ、その上、名もない貧しい羊飼い達がひざまずいて彼を拝むことを選ばれたのです!

  常識で考えれば、イエスがその頃の社会の承認と祝福を受けていれば、もっとまともなスタートが切れたことでしょう。しかし、地上でのイエスの父親として神が選ばれたのは、影響力と権力を十分に持った著名な有力者ではなく、卑しい大工のヨセフだったのです。

  この非常に重要な家族は、世の中に受け入れられ、承認され、尊敬されることもなく、マリヤとヨセフは、不正な体制からの逃亡者となって、まるで犯罪人のように、赤ん坊だったイエスを連れて外国に逃げなくてはなりませんでした!

  そして、イエスが選ばれた弟子達のことを考えてみて下さい。イエスは、サンヒドリン(学識ある偉大な律法学者や国で最も優秀な神学者や祭司達が訓練を受けた、ユダヤ人の宗教裁判所)の学者ではなく、魚臭い漁師や、嫌われ者の取税人達を、最も近い弟子に選ばれました。そうそう、町で一番タチの悪い過激派や唱婦もいました!

  そして、イエスは、強大な権力を持つ宗教体制に協力して、その益にあずかろうとしたりはせず、当時の諸教会に絶えず挑戦し、そのしきたりに大胆に反抗して、伝統を打ち壊し、彼らの宗教全体の中心となっていた大いなる宮が滅ぼされると告げさえしました! 彼らがイエスを冒涜罪で訴えたのも無理はありません!

  そして考えられますか? イエスご自身が鞭を作って、彼らの聖なる宮に入って行くと、両替人のテーブルをひっくり返して、金を撒き散らされたのです。そういうことを、2度も3度もされたのです! イエスご自身、大物の宗教家達がそのような行為を絶対に喜ぶはずがないと知っておられたに違いありません! そして最後には彼らが自分を殺すことになると! 確かにそうなりました! 何という最後でしょう! 鞭打たれ、裸にされ、二人の泥棒と共に人々の前で十字架にはりつけにされて死なれたのですから!

  それから、主はパウロをご自分の使徒の一人に選ばれました! ユダヤ人の中でもリーダー格の一人が急進的なクリスチャンになるなど、ユダヤ人が好ましく思うわけがないと、主は十分ご承知だったに違いありません! クリスチャンの兄弟達でさえ、それが賢明なことかどうか疑い、自分達を一番熱心に迫害していた人物が突然仲間の一人になったことを、なかなか信じることができませんでした!パウロの人生はとても急進的で、とても熱狂的で、現代人の大半が頭に描いている善良なクリスチャンのイメージとは正反対でした!

  世間の人々が自分をどう思っているかを知っていたパウロは、どちらかと言えば裕福で妥協しているクリスチャンにこう手紙を書きました。「私達使徒は、全世界に対して見世物となっている! 私達はキリストのゆえに愚か者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者になっている。私達は弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、私達は卑しめられている! 今の今まで、私達は飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしである。この世のかすのように、この世から拒絶されている!」−−第一コリント4:9-13。

  スペースの関係で、聖書に登場する神の風変わりな人々すべてについて記すことはできませんが、今までに挙げなかった何人かを簡単に紹介しましょう。アブラハムは、自分の故郷を去り、一生の間、主のために旅をしたのでした。「行く先を知らないで、出て行った」!−−ヘブル11:8。モーセは、エジプトのパロとなって、富と権力を欲しいままにすることもできたのに、エジプトを去り、荒野で羊飼いとなりました。そして、40年後に戻って、パロに反抗し、自分の民を脱出させたのです! また、サムソンはいつも冗談を言い、女性を追い回し、ろばのあご骨を持って、一人で敵を千人も殺しました! また、エレミヤは自分の国の破滅と捕囚を預言するために、くびきをつけて歩き回っていました。その結果、彼は足かせにつながれ、売国奴と呼ばれて獄に入れられました! またペテロやアンデレやヤコブやヨハネもいます。彼らは、全く見も知らぬ人が、「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言うと、即座に、家業の漁師をやめて、その人について行ってしまいました−−マタイ4:19。

  聖書全体を通して、また歴史を通して、献身的な神の男女の例は他にも数え切れないほどあり、彼らの生涯は、主が非常に不可思議な方法で奇跡を行われるということを鮮やかに証明しています! 神はほとんどいつもと言ってよいほど、人が当然と思うようなことと全く反対のことを行うのを好まれるようです。それは、ご自分こそ、神であり、ボスであって、状況や人間の伝統やしきたりにはとらわれずに、不可能なことでも何でもできられるということを示すためなのです!

  主に従った人々の中には、貧しく、弱くて、あまり教養のない人が大勢いました。彼らは、成功するタイプと世間の人々から思われるような種類の男女とは大違いだったのです。しかし、聖書には、神は実際にそのような人を選ぶのを好まれると書いてあります。神はこう言われます。「知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはない。それだのに神は、知者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえにあえて誇ることがないためである!」−−第一コリント1:25-29。

  主はそのような人々を選び、使われます。なぜなら、そのような人なら、自分のアイデアや、自分の力や、自分の知恵は十分ではないので、主と、主の導きに従わなくてはいけないと知っているからです。そして、神の方法が時にどんなに気違いじみていても、それを行おうとします! たとえ、それが型破りで、奇想天外で、話にもならず、理にかなっておらず、人間の「規範」から完全にはずれていても!

  実のところ、もしあなたが本当に神に従い、主のための忠実な証し人になりたいと思うなら、この世の人々に受け入れられている、正常で、まともで、伝統に沿ったやり方に反してしまうのは避けられないことなのです。「世を友とするのは、神への敵対」だからです!−−ヤコブ4:4。

  あなたが、主と主の意志と主の御言葉に従えるよう神が助けて下さいますように! 人の道ではなく、神の道に従えますように! あなたが時勢に逆らって神の道を行き、イエスのために立ち上がって、他の人達に主のことを告げることもいとわないなら、主はあなたを大いに祝福して、あなたと共におられ、あなたが多くの人に対して大きな祝福となるようにして下さるでしょう! そして、不信心の世間があなたをあざけり、ばかにして、拒絶しようとも、主は、あなたをほめたたえ、受け入れて下さいます。いつか主の天の都で、あなたを歓迎し、輝かしい永遠の報酬を与えて下さるのです! 「良い忠実な僕よ、よくやった。主人と一緒に喜んでくれ!」−−マタイ25:23。 主は、あなたを迎える時に、こう言って下さるでしょうか?