宝 P140-147

 

恥ずかしがるのは自意識過剰から!

−それをいかに克服するか!

 

  昔あるところに、来る日も来る日も、池のほとりに腰を降ろしては、水に浮かぶスイレンの葉の上のカエルを眺めていた少女がいました。ところで少女は、きっとそのカエルが王子様だろうと思っていました。そして、カエルは本当に王子様だったのですが、邪悪な魔女に魔法をかけられてカエルにされてしまったのです。少女が自分の鼻に小さなキスさえしてくれたら、その魔法が解けると知っていました。ところが、池のほとりの少女はとても恥ずかしがり屋で、カエルに話しかけることすらできなかったのです。カエルは、少女にキスをしてもらいたくてたまらなかったけれど、自分の方から話すことはできません。それで、少女は毎日池のほとりに来ては、座ってカエルを眺め続けるだけでした、というのがこの話の終わりです!

  そして、非常に残念なことに、これと同じ事が実際に日常で起こっているのです! 二人とも恥ずかしすぎて、最初のきっかけが作れなかったために、一度も花開くことのなかった美しいロマンスや、自分のジュリエットにめぐり逢うことのできなかったロミオ達のことを考えてみて下さい! また未来のカルーソーやモーツァルトやレンブラントであったはずなのに、ひどく引っ込み思案で、自分の作品を他の人に披露することができず、ついに才能が花開くことのなかった人達のことも!

  そして、クリスチャンがあまりにも内気でイエスのことを話さなかったがゆえに、何百万もの人の魂が失われたままで、天国で彼らに会うことができないというのは、何よりも悲しいことです! 誰かが恥ずかしがらずに、あなたに主のことを話してくれたことを、あなたは嬉しく思いませんか?

  「でも、私は生まれつき内気なんです。それは性格だから、どうにもならないんです!」と言う人もいるかもしれません。それは真実かもしれません。非常におおっぴらで、とても外向的で、おのずとしゃべりまくることができる人もいれば、内向的で、引っ込み思案で、無口で、恥ずかしがり屋の人もいます。けれども、大抵の人は、引っ込み思案でいたいとは思っていません。もの静かで、内気な人々は、もっと自由に他の人と話したり、思っている事を伝えたり、本心を他の人達に打ち明けたりする事が出来たらと思っているのですが、自分達を束縛している壁を打ち破るには助けが必要なのです!

  ほとんどすべての場合において、引っ込み思案というのは、そもそも恐れと自意識過剰が組み合わさったものです。私達が引っ込み思案になる時というのは、しばしば、自分に関する人の意見を気にして、人が自分のことをどう言うか、どう思うかと恐れているのです!

  もちろん、相手の人を傷つけたくないという理由で引っ込み思案になる場合もあります。それは、もっともなことに思えますが、例えば、友達や家族の人に口臭があっても、その人の機嫌をそこねたくないために、言わないでおくことがあります。けれども、誰かが告げないなら、その人はどうやって知るのでしょうか? もちろん、気をつかって、友達や家族の気持ちを思いやろうとすべきです。けれども、愛するがゆえに真実を話しているんだという確信があるなら、他の人が自分のことをどう言うかやどう思うかを心配すべきではありません! 聖書には、私達は人の意見を恐れることなく、主に仕え、主に従うべきであって、「人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのではなく、キリストの僕として心から神の御旨を行いなさい!」と書いてあります。(エペソ6:6)

  英語の "shy”(シャイ)、すなわち恥ずかしがるという意味の言葉は、私という意味の "I”(アイ)という言葉の前に "sh”がついているだけであって、"shyness”(恥ずかしがること)というのは本当は、 "I-ness"、つまり自分本位であることに過ぎないと言われています!恥ずかしがり屋の人というのは、たいてい自分自身の事で頭がいっぱいで、他の事に対しては  "sh" (シー)と言ってしまい、その事について話そうとはしないのです! 恥ずかしがることは、多くの場合、単なる自意識過剰に過ぎません。つまり、自分の事ばかり考え過ぎてしまっているのです。自分があまりにも痩せているとか、醜いなどと! それが、有名な歌手でありコメディアンでもあったキャス・ダレイに起きたことでした。彼女は歌手になることを夢見ていたのですが、自分が出っ歯であることで、ひどく自意識過剰になっていました!彼女は、ニュージャージーのあるナイトクラブで初めて大勢の人の前で歌った時、自分が「魅力的に」見えるように、上唇をできるだけ下げて、一生懸命自分の上の歯を隠そうとしました。その結果、歌っている彼女の顔はひどくおかしく見えました!

  ところが、そのナイトクラブには、キャスの歌を聞いて彼女の才能を見抜き、しかも恐れずに、彼女に真実を告げた男性がいたのでした。その男性は、単刀直入にこう言ったのです。「僕は君の歌うのを見ていたが、君が何を隠そうとしていたか知ってるよ。君は自分の歯が恥ずかしいんだろう!」 キャスの当惑ぶりにもかまわず、その男性は続けました「それがどうしたと言うんだい? 出っ歯だっていうのは何か恥ずべきことなのかい?隠そうなどとしないで、見せびらかしてやることだよ! 口を開けて堂々と歌い、君がそれを恥ずかしく思っていないとわかるなら、聴衆は君のことが大好きになるだろう! おまけに、君が一生懸命隠そうとしているその歯が、成功をもたらしてくれるかもしれないよ!」

  キャス・ダレイは、この男性のアドバイスを受け入れ、自分の歯のことで恥ずかしがったり、自分のことを気にしすぎるのをやめ、ただ聴衆のことだけを考えるようになりました! 口を大きく開き、喜びをこめて歌う彼女は、映画やラジオで、一躍トップ・スターになったのです!

  そういうわけで、恥ずかしがることや引っ込み思案を克服するにはどうしたらいいのでしょうか? その一つの方法は、キャス・ダレイがしたように、自分のことは忘れて、他の人達のことを考えることです! 自分のことを思い煩うのも、無駄に努力するのもやめなさい!これは、元社交界の花形であったある女性に、友人がこう質問した時のことと似ています! 「以前は神経質で、心配ばかりしていて、しょっちゅう怒っていたのに、今はどうしていつもそんなに穏やかで、幸せそうにしていらっしゃるの?」 すると、彼女はにっこりほほ笑んで、こう答えたのでした。「無駄な努力をやめたからよ!」 彼女は、どうやったら人々の注目を浴び、自分を良く見せられるだろうかと気をもむのをやめたのでした! 彼女は、自分とは違った者になろうと悪戦苦闘するのをやめて、ありのままの自分でいることにしたのです! 彼女が新発見した幸福の秘訣は、「無駄な努力をやめる」ことだったのでした! 本当の自分ではなくて、他の人に気に入られるような人になろうと気に病むのをやめ、その代わりに、神が造られたありのままの自分に満足するなら、私達は、それほど恥ずかしがることも、自意識過剰になることも、他の人の意見を気にすることもなくなります!

  また、自分が話す事など、世間で他の人達が話している事に比べたら面白くもなんともないだろうと考えてしまう事も、しばしば引っ込み思案の原因となっています。もしあなたにこういう問題があるなら、今度出かけた時に、他の人達が互いに話している事を聞いて、自分の会話と比べてみるといいでしょう! おそらく、大抵の人達の話題は、あなた自身も、正確に、知的に、同じ程度の機知やユーモアを含めて話すことのできるものだということに気づくでしょう。−−もしあなたが実際に話しさえするならば!

  また、多くの人達があまりにも引っ込み思案で、なかなか自分から話せないのは、ただ、冷たい目付きで見られたり、拒絶されたくないからです! このことを気にする人は大勢いますが、よく考えてみて下さい。もしあなたが、一生涯そういった拒絶を避けて生きようとするなら、きっと誰かと出会って親しくなる事もないでしょう! ですから、他の人達と話をするよう努めることです! 一歩踏み出してみないことには何も始まりません!

  私達のほとんどがある程度劣等感に悩まされているというのは真実です。私達には、自分が「他の人ほど優れていない」と感じる面が、少なくともいくつかあります! しかし、聖書を読みさえすれば、他の人達も同じで、自分が他の人よりも劣っているわけではないことがわかります! 神は、「義人はいない、善良な人などいない、一人もいない。」と言っています。 (ローマ3:10,23) 事実、イエスが地上におられた時には、その時代の宗教指導者たちのことをも罪びとだと言われました。彼らは高慢で、独善的な、完全主義者たちでしたが、売春婦や取税人の方が、彼らよりも先に天国に行くであろうと言われたのです!−−マタイ21:31。 「取るに足らないおまえ達」よりも、自分の方が高尚で優れているんだというように振る舞う者達に脅されたり、おじけづいたりしてはいけません! そして、覚えていて下さい。誰が何をしようとも何を言おうとも、恥ずかしがったり、引け目を感じたりするかどうかは、あなた次第なのです!

  有名な小説家であり、劇作家でもあるジョージ・バーナード・ショーは、引っ込み思案や内気さを克服して、非常にウィットに富んだ、卓越した雄弁家になった人の顕著な例です! どのようにしてその弱点を克服したのかと尋ねられて、ショーはこう答えました。「ちょうどスケートを学んだのと同じ方法ですよ。ともかく何回もヘマを繰り返して笑い者になり、それに慣れるようにしたんです!」 若かった時ショーは、ロンドンでも一番の内気な若者でした。彼はしばしば、よく知らない人の家のドアをノックできなくて、通りを20分程も行ったり来たりしたそうです! ショー自らこう言っています。「私ほど臆病で、そのことをひどく恥じていた人はまずいないでしょう」と。

  ところがついにショーは、内気や恐れを克服するための方法を思いつきました! そして自分の弱点に取り組み、それを一番の長所にしようと決意したのでした!彼は、討論クラブのメンバーになり、ロンドンで大衆討論会というものがあれば必ず出席しました。そして、いつも立ち上がって、議論で積極的に発言することを自分に強いたのです。そのように練習を積むことによって、彼の人前でのスピーチは上達していき、ついに、ジョージ・バーナード・ショーは、20世紀前半でも指折りの自信と才気に溢れた雄弁家となったのでした!

  クリスチャンである私達には、内気や引っ込み思案を克服するためのもっと確実な方法があります。なぜなら、私達にはイエスと聖霊がいて下さり、神の御言葉があるからです!

  では、イエスや聖霊や御言葉は、私達にとってどんな助けになるのでしょうか? これを読んでいてもうわかったことと思いますが、恥ずかしがることや引っ込み思案や内気は、基本的には恐れとプライドが入り混じったものです。恐れというのは、信仰の反対です。ですから、恐れを克服するには、もっと多くの信仰を持たなければなりません! では、どうやったらもっと多くの信仰を持てるでしょうか? 聖書や神の御言葉を読むことによってです! 「信仰は、神の言葉を聞くことから来る!」−−ローマ10:17。 神に対する信仰があればある程、あなたはもっと神の愛で満たされ、他の人々に対してもより多くの愛を持つようになります! あなたは、自分よりも他の人のことを気にかけるようになり、それによって、それほど自分を意識しなくなり、キリストのことをもっと意識するようになるのです!

  イザヤ26:3にはこうあります。「あなたは全き平安をもってその思いをあなたに留める者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである」 ですから、あなたの思いをイエスに留めておくことです! あなた自身をイエスに浸すなら、自分のことを忘れるのをイエスは助けてくれるでしょう。主を喜ばし、他の人達とイエスを分かち合うことに精一杯努力するのです。そうすれば主は、あなたの自意識をなくして下さり、あなたは、イエスのことやイエスのメッセージやイエスの愛や他の人達に対する愛のことだけを意識するようになるでしょう!

  また、内気であることと柔和であることの間には、非常に大きな違いがあることを指摘しておかねばなりません。聖書に出て来るモーセの話を読んだり、「十戒」の映画を見た人なら誰でも、モーセが、引っ込み思案で内気な性格の持ち主とはほど遠かったことがわかります! しかし聖書には、彼が「誰よりも柔和 (謙虚)な人だった」と書いてあるのです。−−民数記12:3。聖書には、私達が、「隠れた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみ前に、きわめて尊いものである」とあります。(第一ペテロ3:4)

  ですから引っ込み思案であるべきではないと言っても、大声で話したり、ずけずけものを言ったり、生意気だったり、派手にすべきだということではありません! ただ、あまりにも自分のことばかり意識しすぎて、人と話したり、証しをしたり、他の人達に対して正直に心を開くこともできないほどであってはいけないと言っているのです! 謙遜で柔和な人というのは、自分の過ちや弱点や短所をよくわきまえているものです。しかし、そういう人はまた、主の恵みや強さや力のことをもっとよく心得ていて、それゆえ、自分の力や勇気を、自分自身からではなく、神に対する穏やかな信仰と信頼から得るのです! 柔和であるというのは、決して弱いということではありません。それは、自制された強さなのです!

  最後に、恥ずかしがり屋だった私を主がどのようにして変えて下さったか、その体験談を話したいと思います。と言うのも、若かった頃の私は、ものすごく内気だったからです。誰か知らない人が戸口に来ると、母の後ろに走って行ってスカートのすそに隠れてしまうような子供だったのです! 私の9歳の誕生日に、友達が私に内緒で誕生パーティを企てた時のことを、今でもよく覚えています。玄関から家に入ると、突然50人の子供達がいろいろな所から飛び出して来て、「誕生日おめでとう!」と私に大声で叫んだのです! すると私はくるっと向きを変え、あわててドアを締めると、脅えたうさぎのように一目散に駆けて行ってしまい、その日はもう誰とも顔を合わせませんでした! あまりにも恥ずかしがり屋だと、そんなこともあるのです。私は素晴らしいパーティを逃してしまったし、友達の方も、パーティーの主役と一緒に過ごすことができませんでした! 何とも悲しいことです!

  私にとっては、学校は地獄のようなものでした! 内気でぎこちない「醜いあひるの子」だったために、大柄で強そうなタイプの男の子達にいじめられたのです!そして、思いやりのない、騒がしいガキ大将やいじめっこ達にいつも集中的にからかわれていました。私は人間嫌いではなかったし、たくさん友達がいたらいいと思っていたのですが、自分のことをあまりにも意識しすぎていたので、他の人達と一緒にいるのを恐れていました。相手が自分をどう思うか気になってしかたなかったからです。そして、女の子たちを相当怖がっていました! 女の子たちは素晴らしく美しいと思っていたし、大好きでしたが、恥ずかしくて近づくことさえできなかったのです!

  私がこの話をしているのは、きっと中には若かった頃の私と同じくらい内気な人がいて、そんな人に励ましになるだろうと思ったからです! 私の内気な性格は、病的なほどで、何かの恐怖症か精神病ではないかと思うくらい本当にひどいものでした!

  私は、19歳頃まで極端な恥ずかしがり屋でした!  救われていて、それまでずっと、他の人達にイエスのことを話したいと思っていたのですが、それは私にとって本当に難しいことでした! 時には、私の行っていた教会の若者たちの前でスピーチをしなければならないこともありました。私は、そのスピーチの準備に何日も費やし、自分の言うことを前もって一つ残らず紙に書いておくのですが、いざ壇の上で人前に立つと、あがって何も言えなくなってしまうのでした!

  ですから私は、恥ずかしがることについて本当によく知っています! そして私は、そのような気持ちがなくなった時のことを決して忘れはしないでしょう! それは奇跡的な出来事でした。ほとんど一夜にして起きた変貌だったのです。そして、それが私に起こったのであれば、あなたにも同じことが起こり得るはずです!

  幼なかった頃から、私はイエスによって生まれ変わったクリスチャンであったにもかかわらず、聖霊の油を完全に注がれること、つまり聖霊の「バプテスマ」と呼ばれているものを実際に行なったことがありませんでした。しかし、私がいやいやながらも青年クラブで合唱グループのリーダーを勤めていた教会に、ある無名の宣教師の女性が来た時に、私は聖霊を受け入れたのです。その人は、私達に聖霊のことを説明してくれ、ただ求めるならそれを受け取ることができると話してくれました! ルカ11:13にはこうあります。「このように、あなたがたが悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか!」

  自分にはクリスチャンとしてなお欠けているものがあると認めるのは、多少恥ずかしいことでしたが、私は前に進み出て、その人と一緒に心から祈り、私を聖霊で満たして下さるよう主に求めました。すると驚いたことに、この経験のすぐ後で、自分が大胆になって恐れもなくなり、より大きな勇気を持っていることに気づいたのです。それらが他ならぬ神から与えられたものであることを私は知っていました! 次に青年集会でスピーチをした時、自分が非常に大胆で自由なことにすっかり驚いてしまったことをよく覚えています! 以前は、できるだけ人々を見ないように、賛美歌集に顔をうずめんばかりにして歌っていた自分が、賛美歌集を下に置いて、手をふりながら情熱を込めて歌うようになったのです。聖霊ですっかり満たされ、喜びのあまり飛び上がったり、叫んだりまでしていました!

  神が望んでおられることを話し、神が望んでおられることをしている限りは、他の人達が自分のことを良く思おうが、悪く思おうが、一向に気にならなくなりました! 神の御心の内にいる限り、神の聖霊が勇気を与えてくれ、私は、全く一夜にして獅子のごとく大胆になったのです!

  それはもうずいぶん昔のことになってしまいましたが、その日以来、私は、もう自分自身のことは思い煩わなくなり、自分のことなど全く気にならなくなりました! 自分を強く意識するのではなく、キリストを強く意識するようになったのです! 私は新たな力を得、他の人達に対して大胆に証しをしたり、神の言葉を語るようになったのでした! ですから、神の聖霊の力によって、内気や、恥ずかしがることや、引っ込み思案から解放されたことを、本当に主に感謝しています! あれだけ恥ずかしがり屋で無口だった私が変えられたのなら、主は確かにあなたも変えることができます!

  ちょうどペンテコスト (五旬節)の日のイエスの弟子たちのように、あなたも聖霊によって満たされることができます。その日、弟子たちは聖霊を受け入れてから、人々の前に立って大胆に福音を宣べ伝え、ペテロは3千人の魂を主に勝ち取りました!−−使徒行伝2章。イエスが捕えられた時に怖くて臆病になり、主を3度も否定したあのペテロがです!−−ヨハネ18:25-27。ペテロは、神の聖霊で満たされた途端に非常に勇気のある大胆な人間となり、大群衆に向かって、恐れることなく福音を説いたのでした! 使徒行伝1章8節には、「聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、わたしの証人となるであろう!」とあります。

  聖霊のバプテスマを受けるのは、おもに、それによって、私達に生れつきある恥ずかしさを克服し、力と大胆さと勇気を得て、他の人達に証しをし、神の愛を分かち合うことができるようになるためです!

  聖霊のバプテスマとは何か、それは愛のバプテスマです! そして、あなたの心に、そういった積極的な思いやりや愛があるなら、自然と、愛と憐れみとをもって人々に救いの手をさしのべたいという気持ちになり、実に大胆にそれを行うようになります! ペテロのように熱烈な演説者になることはないとしても、少なくとも、神の聖霊の驚くべき力によって変えられ、恐れやプライドや恥ずかしがるといった束縛から解放され、他の人達に自由に主の愛を伝えることができるようになります!自分のことなど忘れ、他の人達の意見も気にしないで、ただ、イエスが他の人達を愛するために自分を用いておられるのを感じるのは、実に素晴らしく解放的な体験です! 試してみて下さい!

  あなたは、プライドや自意識過剰から生じる、恥ずかしさや引っ込み思案から、イエスによって解放していただいたでしょうか? もしまだなら、主の聖霊の力によるバプテスマを今すぐに受け入れて下さい! そうすれば、あなたはそういった束縛から自由になれます! ただイエスに祈って、自分をイエスの聖霊で満たし、他の人達に対するあふれんばかりの愛を与えて下さるようにと求めればいいのです! 主は答えられ、あなたは以前とは比べものにならないほど自由で大胆になれることでしょう! 主をほめたたえよ! あなたに神の祝福がありますように! 主の聖霊を今受け入れて下さい!

   (恥ずかしさを克服することについては、431ページにある「神のために燃える!」も読んで下さい。)