宝 P136-139

 

    ムーディは、小学校5、6年生程度の教育しか受けておらず、しかも成績はお粗末と言えるほどだった。また、初めて日曜学校に出席した時には、ヨハネの福音書を見つけるのに、創世記をめくっている始末だった。マウント・ベルノン会衆派教会の教会員になることを申し込んだ時にも、キリスト教に全く無知であったため、断られたほどだった。友人達からは、彼ほど、少しも社会の役に立ちそうにない人間は、めったにいないと思われていた。しかし、たとえ小さくて、取るに足らないような人であっても、その人が神に一切を委ねているならば、神はその人を大いに用いることができるのである。 

 

限界はない!

  17歳の時、ドワイト・L・ムーディはボストンの大都市で独り立ちするため、貧しい寡婦である母親の農場を出て、ボストンにある叔父の靴屋の店員として働き始めました。それは、1854年のことでした。そしてある日、それまでのムーディの人生で何よりも重大な事が起こったのです。

  若者ドワイトが最初に町にやって来た時に会った、献身的なクリスチャン、チャールズ・バーリーは、ドワイトにもっと証しをして、イエスや、救いについての神の教えを伝える必要があると感じました。そこで、バーリーはムーディの働いていた店に出かけ、奥の部屋で靴を包装していた彼を見つけると、どのようにして自分の救い主としてイエスを受け入れられるかを教えました。ムーディは熱心に聴き入り、その場で一緒に祈ってイエスを受け入れたのでした!

  その後まもなくして、バーリーはこのイエスを受け入れたばかりの青年に、次のような、意欲をかきたてるような言葉でチャレンジしたのです。「ドワイト・L・ムーディ、神の御心に服従して、喜んでそれを行なおうとするなら、神はその人を使って、際限なく何でもなさることができるのだ。」 ムーディはバーリーの目をじっと見つめて、こう答えました。「チャールズさん、神の恵みによって、僕はその人になることを決心します!」 そして、彼はそのような人になったのでした! それからしばらくして、ムーディはシカゴに移り、そこで福音を宣べ伝え、他の人達に伝道をし始めました。まもなく彼は、他の人々をイエスに導くことができることに非常に感激し、靴屋の仕事をやめて、全時間主に仕え始めたのです! その結果ムーディは、世界でも最も偉大な福音伝道者の一人となり、文字通り幾万もの人々の、永久不滅の魂を勝ち取ったのでした!

  でも、もしムーディが主の御心に従うことを決心していなかったなら、どうなっていたでしょうか? ムーディ自身、悲しいことにチャンスを逃していたばかりでなく、彼の奉仕を通じて福音を聞いた幾百万もの人々も、福音を知るチャンスを逃していたことでしょう! さて、それと同じことが私達一人一人にも言えるのです。つまり、もし私達が自分の人生に対する神の御心に服従しておらず、それを受け入れることもせず、主がせよと言われることは喜んで何でもしようという気持ちもないなら、私達は決して神が望んでおられる者になることはないでしょう! また、もし私達が神の望んでおられる通りの者になっていないならば、神が私達にさせたいと望むことを成し遂げることは決してできないでしょう。それは、ただ私達自身だけではなく、主の愛によって私達が何らかの形で助け、救いの手を差し伸べることを主が望まれるすべての人達にとっても、非常に悲しいことになります。

  あなたはこう反論するかもしれません。「でも、私には、主のためにムーディがしたような偉大なことは、何一つできっこありません! 偉大な福音伝道者でもなければ、魂を勝ち取る者でもないのですから!」 けれども、ムーディも初めはそうだったのです! 彼は貧しい農家の子で、成績は平均以下でした。そして、農場の生活に嫌気がさしたので大都市に出てきたのです。都会での生活を始めて数週間たった時、ムーディは自分に新しい目標を定めました。それは、大物実業家になって10万ドル儲けることでした。自分の人生を神に捧げるなんて、これっぽっちも考えていなかったのです!

  でも、自分の救い主としてイエスを受け入れた時、そして、主がどれだけ多くのものを自分に与えて下さったかを知った時、ムーディは自分の人生を主に捧げようと決心したのです。「どうやって自分の人生を主に捧げるのだろうか?」と、あなたは尋ねるかもしれません。さて、最初のステップは、まだあなたが心にイエスを招いていないなら、イエスを心に招き入れることです。それから、自分自身を主に委ねる必要があります。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださるであろう。」と聖書に書いてあります。 (ヤコブ4章8節) これこそ、神がこれまでに用いてこられたすべての神の偉大な人々の成功の秘訣なのです。すなわち、彼らは主に近づき、指示と力とインスピレーションを受けるために、ただ主と主の力と主の御言葉にだけ頼ったのでした。

  神の御言葉は私達にこう呼びかけています。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な奉仕である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造り変えられなさい。そうすれば、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るであろう!」(ローマ12章1,2節) 私達が自らを本当に主に服従させ、主の奉仕のために主に委ねるなら、その時、私達の人生のための神の御心を知るようになるのです!

  私達のあらゆる過ち、弱点、才能の無さなどにもかかわらず、もし私達がただ自分の人生を完全に主に委ね、また、主に、私達をご自分の望んでおられる通りの者にしていただくことをいとわないなら、私達を使って神にできることには、実際、限界がないのです! 勿論、それはとても重要な意味を含んだ「もし」です。なぜなら、私達各人にはそれぞれ自由意志があって、主にすべてを委ねて、「まず神の国を求める」(マタイ6章33節) 事も選択できるし、あるいは、まず私達自身の願望や私達自身の計画や私達自身の方法を求めることもできるからです。選択は私達次第です。また、主の完全な祝福と主の助けを私達が受けるかどうかも、私達の人生において、喜んで主を最優先する気持ちがあるかどうかにかかっているのです。

  多くの人が悟っていないようですが、聖書で、「まず神の国を求める」と言う時、それは、ただ単に私達の生活の中の「宗教的な」部分のことだけを言っているのではないのです。主が語っておられるのは、私達の全生活、私達の未来、私達の計画、つまり、実際に私達がすることについてなのです。「はい、主よ、私があなたに委ねる必要があるということは知っていますので、毎日ある一定の時間を、あなたの御言葉を読んだり、祈ったりするのに費やすことにします。でも主よ、私の職業のことで、これとあれを行なうために、また将来、これとあれを行なうために、何としても私の計画を続行しなければならないのです。」と言うのでは十分ではありません。

  私達の人生を主に捧げるということは、私達自身を生きた供え物として真に主の祭壇に捧げるということであって、自分の意志も、計画も、未来も、願望も、野心も、すべてのものを、完全に主の御手の内に置くという意味です。主の御国は人の魂から成っていることを私達は知っていますし、出来るだけ多くの人々の魂を勝ち取るために、主が私達に「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」ことを望んでおられるのも知っています。 (マルコ16章15節) だから、主の御心に服従するというのは、主の御言葉と主の愛を他の人達に与えるために、自分にできることを何でも快くする者になるということなのです。このように自分自身を主に捧げることは、私達の「なすべき奉仕」にすぎないと、主は言っておられます。主が私達のためにして下さったことを考えるなら、それは、私達がイエスのためにできる最小限のことにすぎません。 (ローマ12章1節)

  だから神の署名を求めて、あなたの計画書を神に差し出すのではなく、またはあなたの署名を求めて、神がご自分の計画を差し出されるのでさえなく、たとえ神の計画の内容を前もって知らなくても、白紙にあなたの署名をして、その白紙に神の計画を書き込んでいただこうという気持ちがあるでしょうか? そのことを考えてみて下さい。正直に、かつ誠実に、自分の人生を主に引き渡して、その後は、主が望まれることが何であれ、それを喜んでする気持ちがあるでしょうか? もしそうなら、神はあなたのために素晴らしく、栄光に満ちた将来を用意しておられます!

  いったん自分の人生を主に委ねてしまったら、主は必ずあなたを祝福し、できる限りあなたを用いて下さるのです! もちろん、すべての人がD・L・ムーディとか、使徒パウロになるように召されているわけではありません。しかし、神はその御国において、私達一人一人のための特別の召命と場所を持っておられます。福音書を丹念に読むなら、主は、人それぞれ、異なった奉仕をするように召されていたことが、はっきりとわかります。イエス及び、全時間イエスに仕える弟子達には、必ずしも自分達の事業や職業を手放しはしなかった友人達が大勢いましたが、おそらくそうしなかった理由は、影響力のある地位にいて仕えるほうが、主や主の仕事のためにもっと益となることができたからだったのでしょう。

  全時間仕える主の弟子の一人となるのは、大きな特権であり、特別な召命です。ほとんどいつもイエスと共にいて、全時間イエスに従っていた弟子達は、12人から70人しかいませんでした。けれども、主の御言葉を受け入れ、それを信じて、他の人達に伝え広めた者達は、その他に何千といました。彼らは、重要で、なくてはならぬ友人達、助けてくれる人達、守ってくれる人達であって、そのような任務のために、神によって立てられた人達だったのです!

  しかし、何をするにせよ、必ず主に仕え、他の人達を主の御国に勝ち取りたいという正しい動機で、それを行ないなさい。神の最高の召命が、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」ということだと信じるなら、あなたのしたいことが、自らそれをすることであれ、あるいは、他の人々がそうするのを援助することであれ、あなたは、「まず神の国を求めて」いるのであり、主はあなたを祝福し、あなたと共にいて下さるでしょう!

 

  「主はご存知であり、愛しておられ、顧みて下さる。

  何ものも主の真理をかすませることはできない。  主に選択を任せる者達に、

  主は最高で最善のものを与えられる!」

 

  あなたは選択を主に任せるでしょうか? もしそうするなら、主は、あなたのどんな夢や想像も及ばないほど、大いにあなたを祝福して下さるでしょう! 「際限はない」のです!

 

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  ある夏の朝、一人の子供が大聖堂の中に立って、美しいステンドグラスの窓から陽光が差し込んでくるのを見つめていました。窓には聖書の登場人物達が描かれていて、光り輝く見事な色彩となって照らし出されていました。「聖徒って一体何のこと?」と誰かに尋ねられた時、少女は、「聖徒って、自分を通して光を輝かせてもらう人のことよ。」と答えたのでした。