宝 P93-101

 

万事は共に働いてあなたの益になる!

 

  クリスチャンが理解し、常に心に留めておくべきことの中でも、もっとも励ましになり、心の慰めになることの一つ、−−特に、トラブルが起きた時や、厳しい試練を味わっている時に思い出すべきこと−−それは、天の父は、私達を愛しておられ、私達の人生を絶対的に、そして全面的にコントロールしておられるということです! 天の父の御心でないことや、天の父が許されなかったことは、私達には絶対に起こりません! ですから、どうしてそんな試練を味わっているのか、自分ではわからないことがあっても、神は、ご自分のなさっていることが良いことだと知っておられるのです! すべてのテストや、試練や、災いの背後にある、あらゆる目的や理由を神は知っておられるので

す。

  神は、聖書の中で、「神を愛する者達には、万事が共に働いて益となる。」と約束して下さいました。−−ローマ8:28。万事、すべての事が益となるのです! 神は、神の子供であるあなたに、益とならないことが一つでも起こるのを許されません。もちろん、「何てことだ! 良くないことばかり、私には起こる!」と言いたい気持ちになるかもしれません。でも、遅かれ早かれ、何らかの点で、それがあなたにとって良いことだったことがわかったでしょうし、あるいは、いつかわかるようになることでしょう!

  次の話は、このことをわかりやすく説明する、素晴らしい例です。

 

  ある寒い冬の朝、ニューファンドランド島の東海岸にある小さな港から数隻の漁船が出航しましたが、午後になって大嵐に見舞われ、夜になっても、1隻として港に戻ることができませんでした。

  妻や母や子供や恋人達は、一晩中、海岸を行ったり来たりしながら、心配のあまり手を握り締め、愛する者を救って下さいと神に呼び求めていました。さらに悪いことに、民家の一つが火事になってしまいましたが、男達が皆出ていたので、火を消すことはできませんでした。

  夜が明けると、漁船がそろって無事に港に帰って来たので、みな大喜びでした。けれども、その中に一人だけ、絶望の表情をたたえた女性がいました。火事で家が焼けてしまった男の妻です。  夫が陸にあがってくると、彼女は泣いてこう言いました。「ああ、あなた、私達はもうおしまいだわ! 家も何もかも火事で焼けてしまったんですもの!」けれども、驚いたことに、夫は喜びの声でこう言ったのです。「その火事を神に感謝しよう! 漁船をみな、港に導いてくれたのは、燃えていた私達の家の炎だったんだよ!」

 

  イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたと共にいる。」と言われました。−−マタイ28:20。 また、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」とも約束されました。−−ヘブル13:5。最も暗く、最もつらい試練を味わっている時にも、主は常に「兄弟よりも頼もしい友」でいて下さるのです!−−箴言18:24 「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」−−詩篇23:4 どんなにつらい人生の転機にさしかかっても、イエスはあなたと共にいて下さるのです。イエスはあなたのことを気づかって下さり、先が真っ暗に思え、最も落胆させるような状況をも、あなたの益として下さるのです。イエスはそう約束して下さったのですから!

 

時々私達は、人生における決断の岐路に立たされ、

その先は行きどまりのように思えることがある。

しかし、神には、もっと先まで見ることができ、

それは、道が曲がっているからにすぎず、

道はその先なめらかになると教えて下さる。

歌の小休止は、ただ一息つくためにある。

まだ歌われていないところ、これから歌われるところこそ、

最も甘美で、豊かで、最善のところ!

だから、一息つき、リラックスし、力をつけなさい。

神に任せ、神に自分の荷を背負って頂きなさい。あなたの仕事は、まだ終わっていない。

ただ、道の曲がったところに来ただけ!

 

  主は私達を愛しておられ、私達が主に従おうとベストを尽くしているなら、主も、私達を助けるために、喜んで最善を尽くして下さるということを私達は知っています。だから、物事があまりうまくいっていないとしたら、それは神が間違いを犯されたからではありません。それは、神が私達に何かを教えようとしておられるか、あるいは、私達が何かのことで失敗したか、何らかの形で物事のやり方を間違ったか何かで、私達が的外れのことをしていたせいでしょう。

  ですから、物事がうまくいかなくなったら、まず第一に、主に目を向け、祈り、何が間違っていたのか、どうやってもっと良くやることができるかを尋ねなさい。あるいは、自分が何らかの間違いをしていたからなのか、それとも実際に主に従っていなかったからなのかを尋ねなさい。

  聖書には、「いわれのない呪いは、下らない。」とあります。 (箴言26:2) つまり、トラブルや事故や問題などが、クリスチャンに「偶然に起こる」ことはないということです! クリスチャンには、何も偶然には起こらないのです! 悪いことのように思えることが私達の身にふりかかったとしても、それは、目的や理由があって神が許されたことなのです。その目的や理由が、すぐには私達に示されなかったり、私達にはわからないこともありますが。

 

神の子供達には、何も偶然には起こらない

すべては、素晴らしいご計画の一部

困難、挫折、悲しみ、懲らしめは、

偉大な彫刻家である神による一削り

 

神の子供達には、何も偶然には起こらない

青写真は、神の御手によって作られた

あらゆる詳細は神の御子にならってデサインされた

だから、すべてはご計画に従って起こる

 

「ご自身の子供」と呼ばれる者に何が起ころうともひどい出来事、素晴しい出来事、何が起ころうとも人生のあらゆる試練は、神が御座から送られたもの何も偶然には起こらない。全ては計画されている!

 

  主はしばしば、「ひどい」と思えることが私達に起こるのを許されます。それは、私達を主にもっと近く引き寄せるためでもあるし、また、私達が謙虚な心を忘れず、より主に頼るようになるためでもあります。それは、聖書の中では「懲らしめ」と呼ばれていますが、それは、主からのおしおきの事です。良い父親なら誰しもそうであるように、主も、ご自分の子供達が言うことを聞かず、道をはずしてしまうのを見ると、心を痛められます。主は私達を愛しておられるし、また、私達が主の言われることに耳を傾けず、悪い事をするなら、結局は私達に害が及ぶということをご存知だからです。ですから、主は、愛をもって、私達を正そうとされるのです。

  もしも羊が、どうしても羊飼いや群れから離れ、さまよい歩き、正しい道からはずれようとするなら、その羊をいるべきところに戻すには、しばしば、羊飼いが愛のムチを振るうしかありません。

  もちろん、私達の大半にとって、おしおきをもらうというのは、あまり愉快なことではありません。けれども、主は、「愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」と言っておられます。−−ヘブル12:6,11

  ですから、主からのおしおきや懲らしめは、自分がそれをもらう時には、あまり良いものには思えませんが、それでも、あなたのためになるのです!特に、それをもらうことによって、あなたが罪を悔い改め、主のふところに戻るならば。主が私達を懲らしめられるのは、私達を愛しておられるからです。そして、私達が道をはずさないようにし、私達をいつも最上の状態に保ち、主の近くにとどまらせるには、懲らしめが必要だと知っておられるからです。ですから、懲らしめをもらうのは、時につらいものですが、それは、主の愛のしるし、主からの「受け入れ難い賛辞」であり、私達を訓練するのに欠かせないことなのです。そして、確かに、私達の益となるのです!

  神は、ただ私達の注意を引くために、いろいろな事が起こるのを許されることもあります。特に、私達があまりにも注意散漫になり、「生活の心づかいや、富や快楽」といった余計なことばかり考えているならば。−−ルカ8:14 私達があまりにもあれこれ気づかったり、思い煩ったりして、思いを主にとめないでいると、主は、私達を揺さぶり、私達の目を永遠に価値あるものに対して開かせるようなことが起こるのを許されます。その永遠に価値あるものとは、主と、主の御言葉と、主の御仕事です!

  詩篇を書いた偉大なるダビデ王は、自分が懲らしめられ、苦しんだ時にその事に気がつき、こう書いています。「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今は御言葉を守ります。苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしは、あなたのおきてを学ぶ事ができました。」−−詩篇119:67,71

  勿論、がっかりさせるようなことや、好ましくないように思えることが私達に起こるのを主が許されるのは、懲らしめのためばかりではありません。私達が自分のやり方を貫いたら、大変な危険やトラブルにはまり込むので、憐れみ深い主は、私達がそうならないように望んでおられるという場合もあります。しばしば、主は、私達の望み通りに私達の祈りに答えて下さらない時がありますが、それは、主はずっと先を見ておられ、もし私達が心の願いをかなえられたなら、それは私達に害を及ぼすと知っておられるからです。

  主は、私達の祈りに、全く完璧な形で答えられます。つまり、私達は、実際には石なのに、私達にとってはパンのように見えるものを求める事があります。そして、主が与えられたものを見た時、私達は目先の事しか見ずに、それを石として見てしまいます。でも後になって、それこそパンであったということがわかる場合がよくあるのです! (マタイ7:7-11参照) 次の話は、この事を説明するのにぴったりの例です。

 

  1910年の冬のある嵐の夜、演奏旅行中のクリスチャンのオーケストラの一団は、コンサートの契約があって、バルト海に面したリガという町に着きました。

  けれども、天候があまりにもひどく、おまけに、コンサート・ホールは町の中心からずいぶん離れたところにあったので、オーケストラの指揮者は、コンサートを中止するように、ミュージック・ホールの支配人を説得しようとしました。こんなひどい嵐の夜には、誰も来ないと思ったからでした。

  支配人は、中止には反対でしたが、もし誰も来なかったら、オーケストラの一団は、フィンランドのヘルシンキ行きの夜行の船に乗れるよう、早い時間にそこを出てもよいと言いました。

  演奏家達がコンサート・ホールに到着すると、一人の客が観客席に座っていました。その人は、ずんぐりした老紳士で、誰にでも笑顔をふりまいているようでした。

  この年老いた音楽愛好家のせいで、演奏家達はコンサートを全部せざるをえませんでした。だから、彼らは、早くそこを出て船に乗ることはできなかったのです。

  そしてコンサートが終わったのですが、それでも、その老人は席を立ちませんでした。そこで、案内係が、寝ているのだと思って肩をつつきました。すると、何と、その時になって初めて、その老人が死んでいることがわかったのです。演奏家達は、死んだ人間のためにコンサートの曲目を全部演奏したのでした!

  でも、そうする事によって、彼らは自分達の命が救われたのです。彼らがヘルシンキまで乗っていたかもしれなかった船は、その嵐の夜に沈み、乗組員全員が溺れ死んだのです。−−ですから、主の子供であるそのオーケストラのメンバー達は、船に乗れるように、コンサートをせずにすむよう切に願っていましたが、主は彼らよりもよく知っておられ、こうした期待外れに思えるような状況を使って、彼らが災難に遭わないようにして下さったのです!

 

  主が時々、好ましくないように思えることが私達に起こるのを許される、もう一つの理由は、私達を、主の望まれる通りの人間に造り変えることができるように、私達の自尊心をくじき、私達を砕くためです。(723ページの「砕かれることによって造られる」参照)

  聖書の中ではしばしば、主を陶器師に、そして私達を主の御手の内にある粘土にたとえています。−−イザヤ45:9、64:8、ローマ9:20,21 −−粘土を使って、主は、「主人に役立つ」器を作ろうと望んでおられるのです。−−第二テモテ2:21 しかし、陶器師が粘土で器を形作っていて、傷や間違い、こぶや欠点を見つけると、その同じ粘土をとって、つぶし、水を足して再び柔らかくします。そうすれば、こねて、造り直すことができるのです。陶器師は、最初のがうまくできなかったので、粘土が形作りやすいほどに十分柔らかくなるまで、それをつぶし、ぺしゃんこにし、押しつぶし、それから、新しくより良い器に造り直します。

  「粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。『私の民よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。見よ。陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手の内にある。』」−−エレミヤ18:4,6

  自分を造った人が、突然、自分をつぶし、ぺしゃんこにし、押しつぶし、造り直し始めたら、初めは、器にとってそれほど良いことには思えないでしょう。でも結局は、そうすることによって、より良い器となります。「共に働いて益となる」のです!

  主は、私達をテストし、試み、清め、より良い器にするために、何かが起こるのを許されることが、しばしばあります。それによって私達が、主の奉仕のためにより役立つ者になり、より謙虚で、優しくなるようにです。主は私達に、火のような試練をくぐらせて、かすをすべて焼いてしまおうとされ、また、嵐のような試練をくぐらせて、もみ殻をすべて吹き飛ばしてしまおうとされ、深い水をくぐらせて、泳ぐことを教えようとなさいます! 主は、そのようなテストを使って、私達に大きな勝利を与えて下さり、敗北のように見えるものからさえも勝利を下さるのです。なぜなら、試練を味わうと、私達は主に近くなり、主に呼ばわり、一心に主を求めようとするからです。試練がなかったら、私達は、惰性で進んで行きがちです。

  だから、人生の嵐や、苦難や、試練も、私達のためになるのです。なぜならそういった経験によって私達の力と決意が試され、私達に悪魔と戦う機会が与えられるからです! そして、私達があきらめて信仰を失ってしまうか、それとも「信仰の戦いを戦い」続け、何があろうと、主を信頼するかがわかるのです。−−第一テモテ6:12 主は、私達がどれだけ真剣に「みずから奮い立って」、主の助けや主の力を求めて主に呼ばわるかを見るために、私達の信仰や忍耐がテストされるのを許されます。−−イザヤ64:7

  もちろん、私達が辛い苦難や困難を味わうのを主が許される時というのは、真の試練となります。残念なことに、人はよく、ぶつぶつ不平を言うようになり、さらには、そのために神を非難する人もいます! 彼らは、主が許されたのが苦難であれ、病気であれ、何であれ、そこから主がその人に教えたいと思っておられる教訓を学ぶのではなく、ぶつぶつ不平を言って、「神よ、どうしてあなたはこんなことを私になさったのですか?」と言い、「主よ、私はどのような間違いを犯していたのでしょうか?−−私にこれが必要な理由は何でしょうか?」とは言わないのです。彼らは、そうしたことが自分に起こるのを許された神に対して腹を立てんばかりで、神が自分を懲らしめておられ、何かを示そうとしておられるということには気づきません。

  中にはひどく独善的な人もいて、そういう人達は、「何だって神は私にそんなことができるのだろうか? 私は主にこんなにも良くしているのに、どうして主は私をこんなふうに扱うんだ?」と考えます。彼らは実際、自分にそういうことが起こると憤ります。ちょうどヨブのように。ヨブは、主が最初に彼を懲らしめていた時、主のなさったことにひどく憤慨していました。主が、彼にどれだけ多くのことを味わわせなければならなかったか見て下さい。それによって、ヨブは、やっと謙虚になり、自分は神よりも正しくはないと告白したのでした。

  独善的な人達は、いつも自分の問題を、自分のせいではなく、神のせいにします。また、神が何らかの理由で問題が起こるのを許されているのだということを受け入れて、教訓を学ぶということもしません。問題や困難を抱えると、いつも「なぜだ、なぜなんだ? どうして神は私にこんなことをしたんだ? どうして神は私をこんな目に遭わせたんだ? 私は良い人間であろうとしたし、神のためにあれもこれもしたのに、未だにひどい目にあっている! 神はまだ、私を救い出して下さらない! なぜなのか?」と言うのです。そういう態度で神に理由を問いただそうとするのは、独善以外の何物でもありません!

  神はそういう不平や独善をひどく憎んでおられます。神は昔、シナイ砂漠で、何百万人にものぼるユダヤ人の一世代全部を滅ぼされましたが、それは彼らが不平を言い、自分達が神よりも正しいかのように装っていた為でした。「神よ、私達だったらそんな事はしなかったでしょう。神よ、どうしてあなたは私達にこんな事をなさったのですか? 私達の方が、あなたよりも優れた事をしていたことでしょう!」(480ページの「不平を言う者の運命」参照)

  こうした試練や苦難を使って、神はあなたを愛しておらず、祈りにも答えられないということをあなたに信じさせようとするのは、悪魔の仕業です!主は、悪魔がそうするのを許されます。それは、あなたの信仰を試し、また、あなたがどれだけ心から主を愛しており、主に仕えるためには喜んでどれほどの犠牲を払う気持ちがあるかを見るためです。つまり、ヨブの疑い深い妻がヨブに言ったように、「神を呪って死ぬ」か、あるいは、ヨブがしたように、試練にもかかわらず、何があっても主を愛し、「主が私を殺そうとも、なお私は主を信頼する。」ときっぱり言うかを見るためなのです。−−ヨブ2:9、13:15

  試練は、あなたの心をかたくなで憎しみに満ちたものにするか、あるいは謙虚でより良いものにします! そのどちらかなのです! ですから、試練に直面した時、心をかたくなにしないように、そして主に対して敵意や恨みを抱かないように気をつけなさい。聖書にはこうあります。「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」−−ヘブル12:15

  心をかたくなにするのは、解決策ではありません! 主はこう言われます。「あなたがたの心をかたくなにしてはいけない。」−−ヘブル3:15 それよりも、「あなたの荷を主に委ねよ。主はあなたを支えられる! あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。主は心の砕けた者に近く、悔いくずおれた謙虚な者を救われるからである。」−−詩篇55:22、34:18、イザヤ55:6

  神は、何をなさるにせよ、いつも愛をもってなさいます。先に言ったように、神は、あなたのためにならない事は、何一つ起こるのを許されません。まことに、「神を愛する者達には、万事が共に働いて益となる」からです!−−ローマ8:28  だから、状況が最悪に思えても、下を見てはいけません。見上げなさい! ぶつぶつ不平を言ってはいけません! 主を賛美し始めなさい。そうすれば、疑いや敗北や落胆といった、悪魔があなたを落とし入れようとしている穴から、賛美によって抜け出ることができます! 聖書には、神はご自分の民の賛美の上に座しておられると書いてあります。−−詩篇22:3

  疑いや恐れ、落胆や不平は、死をもたらします! しかし、信仰や信頼、勇気や主への賛美は、生命をもたらします! ですから、試練や試みを大きな心で、さらには感謝して受け止めましょう! 主は、私達が耐えられないような試練には決して会わせない、そして、それから抜け出す道も備えて下さると約束されました。あなたが主に呼ばわり、助けを求めるなら、主は常に、試練を耐えやすいものにして下さるか、あるいは、少なくとも、あなたがそれに耐えるのを助けて下さるのです。主はこう言われました。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は忠実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、それから抜け出る道も備えて下さるのである。」−−第一コリント10:13

  あなたは、「だけど、この苦難、この懲らしめ、この試練にどうやって耐えられるっていうのか。きつすぎて、私には耐えられない!」と言うかもしれません。でも、主の預言者ヨナが主に従うのを拒んだ後に、主がヨナに味わわせた試練を見て下さい。ヨナは、警告をするために邪悪な町ニネベに行きなさいという神の命令に従うのを拒んだのでした。すると、巨大なくじらが彼を飲み込み、彼は、自分はもうこれで終わりだと思いました! けれども、彼を飲み込んだ、そのくじらを使って、神は彼を無事に陸に送られたのです! それは、実は姿を変えた祝福だったわけです! 三昼夜にわたり、ヨナはくじらの腹の中にいたのですが、ついに彼が、主にすべてを委ね、不平を言うのをやめ、神に感謝し、神を賛美し始めると、主はくじらに、ヨナを陸に吐き出すように命じられ、ヨナは救い出されたのでした! (ヨナ書1章と2章参照)

  だから、いつも覚えていて下さい。主はあなたを愛しており、そして、人生の最も暗い時期というのは、しばしば夜明けの直前であるということを!  どんな試練があなたの身にふりかかろうと、あきらめず、望みを捨ててはいけません! 試練の時には、イエスに助けを求め、主の約束にしがみつき、その実現を要求し、主の言葉を信じなさい。主は、あなたがどんな試練を経験していようと、それが真に共に働いてあなたの益となるようにすると言われましたし、実際にそうして下さるのです! 神はそうせざるを得ません。ご自分の約束だからです! 主は決してあなたをがっかりさせたりはしません! アァメン? あなたに神の祝福がありますように!