宝 P79-86

 

新しく生まれる!−−あなたは?

 

  イエスが来られたのは救いをできる限り容易なものとするためでした! 宗教家達がイエスを十字架にかけて殺したのは、それが理由でした。当時の教会体制の指導者達は、彼らなしには、そして彼らの複雑に込み入った律法、伝統、及び宗教的な形式主義に従うことなしには、決して救われないと言っていたも同然だったからです。

  けれどもイエスが来られて人々に示されたのは、日曜日にも、あるいは土曜日、金曜日、その他どの日にも、教会に行く必要などないということでした! 教会の律法や規則、規制、そして十戒やその他全ての者に従う必要はないと言われたのです。ただ、自分が罪人であり救いを必要としていることを告白して、イエスに救って下さいと求めればよかったのです!

  それは実に単純で、幼な子にもわかるようなことなのです。この世で、今、愛と喜びと幸せに満ちた神の霊的な御国に入るため、そして来世でも、神の天の御国において美しく素晴らしい、スリルに満ちた永遠の人生を送るためには、幼な子のようにならなければならないと、イエスは言われました!「心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできない!」、また「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることも、理解することもできない。」とイエスは言われたのです。マタイ18:3、ヨハネ3:3

  もちろん、救いを完全に理解することのできる人など、一人もいません。だからこそイエスは、幼な子のようになって、ただそれを信仰によって受け入れなければならないと言われたのです! 聖書には、神の愛と平安とは「人知をはるかに越えている」とあります。−−エペソ3:19、ピリピ4:7  それはあなたの理解を越えて、あなたの心に直接下ってくる愛なのです! イエスにおける神の素晴らしい愛や救いを味わうのに、神について何から何まで知る必要はありません。ただ受け入れればよいのです! 主を理解しようとするのではなく、ただ主を迎え入れなさい! それほど簡単なことなのです!

 

  イエスは言われました。「わたしは」−−イエスの父の家、神の御国に至る−−「門である。わたしを通って入る者は誰でも救われるであろう。」−−ヨハネ10:9 だから、もし天国に行きたいなら、あなたは、開かれた門であるイエスを通って行かなければなりません。ただ、その門をくぐれば天国にいけると信じ、信仰によってその門をくぐり、イエスを心に受け入れるだけです。そうすればあなたは救われます! 天国的な救いの世界、地上の天国、すなわち神の御国に入ったのです!

  聖書は、「神は愛である」と告げています。−−第一ヨハネ4:8  神は、ご自身が愛であること、ご自身が私達を愛していることを証明するために、どんなことをして下さったでしょうか? 「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世」−−あなたや私−−「を愛して下さった。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」−−ヨハネ3:16 神はあなたを本当に愛しておられるので、ご自分の御子イエスを与えて下さり、イエスはあなたに代わって、あなたの罪のゆえに苦しんで下さいました。イエスは、私達に対する神の愛の現れなのです。

  中には、こう尋ねる人もいます。「でも、どうしてわざわざイエスのことを話さなくてはならないのですか?」「どうしてその名前を使わなければならないのですか? どうしていつもイエスが象徴でなければならないのでしょう? どうして、神とだけ言って、神のことだけを語ってはいけないのでしょうか? イエスの名前を使うことを言い張ったりしないなら、もっと容易に受け入れられるのに!」

  そんな時私はたいていこう答えます。「それのどこがいけないのですか?」イエスが本当に神の御子であり、そして神が、ご自身を世界に現し、その愛を示す為にイエスを選ばれたのなら、神は確かにイエスの名前を強調されたのです。「わたしを愛するなら、わたしの子を愛しなさい!」これは私達からではなく、神から出された条件なのです。 「御子を否定する者は父を持たず、御子を認める者は、また父をも持つのである。」−−第一ヨハネ2:23  イエスご自身も、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは父のみもとに行くことはできない!」と言われました。−−ヨハネ14:6

  ですから、救われるために必要なのはイエスだけなのです! 私達には、父なる神を理解することなどできません。神は、私達の理解を全く超越された方なので、私達には夢に描くことさえできないのです! 「天が地よりも高いように、主の道は私達の道よりも高く、主の思いは私達の思いよりも高い。天も、いと高き天も神を入れることはできません」!−−イザヤ55:9、列王紀上8:27。私達の父なる神は、人間の思い、そして私達の突飛な想像力をもはるかに越えているので、神がどれだけ偉大で、驚嘆すべき方であり、又どれだけ素晴らしい方であるかを真に理解できる人は誰一人としていません。神と神の御霊は全宇宙を超越しているからです。けれども神は、ご自身がどのような方であるかを私達に示すために、自ら御子イエスを私達の所につかわされました。

  ですから、神が一番あなたにしてほしいと思っておられることは、イエスを神の御子として認め、自分の救い主として信じ、神から、その愛と、許しと、永遠の命という贈り物を受け取ることです!

  どうしてあなたは許される必要があるのでしょうか?−−それは、私達全員が罪人 (つみびと)だからです。聖書には、「すべての人は罪を犯したため神の栄光を受けられなくなっている。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は私達の主イエス・キリストにおける永遠の命である。」と書いてあります。−−ローマ3:23、6:23

  ですから、まず私達は、自分が罪人であることを告白しなければなりません。でも中には、「私はかなり善良な人間だ! 神はきっと、私がかなり善良な人間であること、又は少なくとも他の多くの人達よりはずっと優れていることを認めてくれ、天国に入らせて下さるだろう。」と言う人もいます。けれども、残念ですがそれでは十分でないのです! なぜなら、完璧でない限り天国に行く事はできず、完璧な人など一人もいないからです!

  聖書には「われわれ自身の正しい行いは、ことごとく汚れたぼろぎれのようである。」−−イザヤ64:6とありますが、原文のヘブル語では、ここのところは、私達自身の独善、私達自身の善行は「汚れた月経帯」のようなものであるとなっています。いわゆる「善良な」人々、「私は善良だ! 私はこんな事も、あんな事もしない!」と言って、他の人達よりも善良であることを鼻にかける人々を、神はそんなふうに見ておられるのです。だから私達は皆、ただ正直になって「私はどう考えても善良な人間ではない! 悪い人間だし、間違いも犯す。」と認めるだけでよいのです。

  そのためにイエスが死んで下さったのです。つまり、私達は皆罪人であり、私達の誰一人として十分に良くなることはできないし、十戒のような、非の打ちどころのない神の律法を守るのは不可能だからです。−−全く不可能なのです! イエスだけが完璧な方であり、だからこそ、イエスにしか私達の罪の代価を支払うことはできないのです。そしてイエスが私達に代わって私達の罰を受けて下さったので、神は私達を許すことができるのです。私達には、働きによって救いを手に入れたり、救われるのにふさわしい人間になることはできません。だからこそ、神は私達に贈り物として救いを与えて下さったのです。

  それはちょうど恩赦のようなものです。神は罪人に対して恩赦を施されたのです。そして、あなたがどれほどの悪人であるか、あなたがどんなことをしたか、というのは、神にとっては問題ではありません!もし謙虚に自分が罪人であることを告白し、許して下さいと求め、イエスを心に受け入れるなら、神はあなたを救って下さいます!

  あなたは自力でやることはできません。自分で自分を救うことはできないのです。救われるだけの善良さを持つことはできません。それは不可能です! 私達は、自分の働きや、自分の善良さ、それに神の律法を守り、神を愛そうという努力によって自分を救うことはできません。神の真理を見いだし、それに従おうと努力しても、自分を救うことはできないのです! 救いは神からの贈り物だからです!

  「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがたから出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためなのである!」−−エペソ2:8,9 どれだけ善良になろうと努めても、自分で自分を救うことはできません! 神の聖なる救いという天の完璧さは、神の恵み、愛、憐れみによってのみ受けられるものであって、それを手に入れるのに十分なほど完璧になることはできないし、働きによってそれを手に入れることもできないし、それを受けるのにふさわしい人物になることもできません!

  それを手に入れることのできる唯一の方法は、ただ信仰によって受け取ることだけなのです! それ以外に方法はありません! 救いを受けられるに十分なほど、善良になったり、懸命に働いたりすることはできません。どれだけ努力したところで、救いは得られないのです! ただへり下って、自分は、さまよえる罪人であって、救いを受けるにはふさわしくないこと、そして神の恵みがなければ天国に行くことはできないことを認めなければなりません! 救いは純然たる贈り物であって、ただ、信じ、受け取ればよいのです。他に何をする必要もありません!

  けれども、多くの人々はあまりにもプライドが高いので、贈り物を受け取ることができません。何でも、自分で働いて手に入れたいと思うのです。事実、ほとんどの宗教はそういうことを信じています。つまり、人は十分に善良だから、宗教上の規則や儀礼やきまりなどを守るなら、自分で自分を救うことができると信じているのです。でも、それは嘘です! どれだけ宗教的な形式ばったことをしても、どれだけ教会に行って、ミサや礼拝や祈りなどに参加しても、それで救われることはありません! イエスによってしか救われないのです! 「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」−−テトス3:5

  罪や、罪の力、罪の裁きから私達を解放することができるのは、イエスだけです!−−「もし私達が自分の罪を告白するならば、神は忠実で正しい方であるから、その罪を許し、すべての罪から私達を清めて下さる! 御子イエスの血がすべての罪から私達を清めるからである!」−−第一ヨハネ1:9,7

  神は、ただ一つの罪を除いて、あなたのありとあらゆる罪を許して下さいます。その一つの罪とは、イエスを拒むことです! 聖書には、それは「聖霊」−−真理の霊−−「をけがすこと」だとあります。−−マルコ3:28,29 唯一の許されざる罪とは、聖霊を拒むこと、つまり神の御声に心を留めるのを拒み、キリストにおける神の愛と神の救いをにべもなく拒絶することです。そういう罪は、この世でも、来たるべき世でも許されることはないと主は言われています。−−マタイ12:32

  だから、最もとがめられることとは、人間がすでに罪深いということではありません。神にはそれを許すことができ、また私達が神の御子を通して神の恩赦を受け入れるなら、実際に許して下さいます。けれども、最もとがめられることは、イエス・キリストを拒むことです!−−「その裁きというのは、光がこの世に来たのに人々はその行いが悪いために、光よりも闇のほうを愛したからである。」−−ヨハネ3:19

  しかしあなたが「世の光」(ヨハネ8:12) であるイエスの光のところに来るなら、「キリスト・イエスにある者は」、すなわちキリストの許しとキリストを受け入れた者は「罪に定められることがない」 (ローマ8:1)のです! 主は言われます。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて主に帰れ。そうすれば、主は豊かに許しを与えられる。たとえあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ! 紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ!」−−イザヤ55:7、1:18

  あなたは主と共に一から始めることができます!イエスをあなたの人生に迎え入れると、主は、「あなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消し、後ろに捨てて、もはやあなたに対してその罪を思い出すことはしない」のです−−イザヤ44:22、38:17、ヘブル8:12

  そして、ひとたびイエスを受け入れたなら、イエスを失うことはあり得ないし、イエスは決してあなたを捨て去りません。「父がわたしに与えて下さる者は、皆わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」−−ヨハネ6:37 イエスを持っているなら、主を持っているなら、あなたには命が、永遠の命があるのです。そして永遠の命を失うことは決してあり得ません!

  救いは永遠のものです! ひとたび救われたなら、あなたは常に救われています。神は偽ることはないし、ご自分の言葉にそむくことはあり得ないからです! 神が気が変わったりなさることはありません!イエス・キリストを受け入れ、イエスが救い主だと信じたなら、あなたは救われた神の子供であり、永遠に生きるのです! ひとたび神の子供として「新しく生まれた」なら、あなたは常に神の子供です! 生まれる前の状態に戻ることはないのです!

  「御子を信じる者は、永遠の命を持っている。」−−ヨハネ3:36−−たった今持っているのです! それにはどんな条件もついていません! 持つようになるだろうではなく、たった今持っていると書いてあります−−「永遠の命を持っている」とあるのです。誤ったことを信じている牧師や教会の人々の多くが教えているように、永遠の命が、次に悪いことを考えたり、次に悪いことをしたりするまでの数分しか続かないとしたら、それは永遠の命とは言えません!

  無知なクリスチャンは哀れにも、救われたり、救われていなかったりすることがあると信じていますが、そんなふうに一日に100回も救われたり救われていなかったりを繰り返すことはできません! 彼らはこう言います。「私が死んで、主が私の良き行いと悪い行いを秤にかけて比べられるまでは、天国に行くようになるのかどうかわからない。」彼らは、自分達がいつ救われるのか、自分の状態がどうなのか、救われているのかどうかなど、全く知らないのです! そんなふうでは人はノイローゼになってしまうでしょうし、実際にそうなってしまった人もたくさんいます!

  しかし神に感謝することに「信じる者達は、安息に入った」のです! −−ヘブル4:3。私達は、自分が十分に善良かどうか、自分が悪すぎるのではないか、天国に行けるのかどうかなど思い煩わなくてもよいと知っているし、毎日、自分は救われるのだろうかと考えなくてもよいと知っているので、心の休息と平安を持つことができます。私達は、イエスを受け入れたなら、自分が救われていることを知っているのです!

  確かに、主に従い、主の仕事を行い、実を結ぶことなどによって、主の御心の内にとどまり、主の祝福が受けられるようにしていることはできます。けれども、自分で自分を救われた状態に保つことはできません! それはイエスが一回限り、そして永遠に行なって下さったのです。永遠の命は、イエスの贈り物です! あなたの救いが永遠のものでないなら、それは救いとは言えません! 永遠に救われたのでないなら、救われてはいないのです!

  恵み+信仰+ゼロ=救いです! 救われるのに善良である必要はないし、救われたままでいるのにも、善良である必要はないのです。でもだからと言って、いったん救われたら、あとは自分勝手に生活することができるということではありません。もしある罪を犯しても告白せず、悔い改めもせず、償いもしないなら、あなたは何らかの形でそのために苦しむことになるでしょう。「なぜなら、主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれるからである。」−−ヘブル12:6 でも、たとえあなたが不従順で、反抗的で、罪のゆえに主から懲らしめを受けても、もし救われているなら、あなたは常に救われた状態でいるのです!

  一度イエスを心に受け入れたなら、それだけでいいのです! あなた永遠に救われています! イエスがあなたの心を出たり入ったりなさるということはありません! イエスはあなたの心にとどまっていて下さるのです! イエスはこう言われています。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである! わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。わたしは彼らに永遠の命を与える。だから彼らはいつまでも滅びることがなく、また彼らをわたしの手から奪い去るものはない!」--マタイ28:20、ヘブル13:5、ヨハネ10:28

  だから、主に感謝することに、私達は救われることができ、また救われていると知ることができるのです! そしてもちろん、あなたが本当に救われているなら、それが表に現れるようになるでしょう。あなたはもう他の人達のようではなく、彼らとは違っていることでしょう! 「キリスト・イエスにあって新しく造られたもの」となるのです。「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなる」のです!−−第二コリント5:17

  イエスを受け入れるとあなたの全人生が変わり、まるで新しい神の子として新しい霊を持って、全く新しい世界に生まれてきた新生児のようになります。ですから実際にこれまでと違う気分を味わったり、異なった考え方をしたり、以前よりもずっと幸せに感じても驚く必要はありません! それは新しく生まれ、前よりもはるかに良く、はるかに幸せな、新しい人になるようなものだとイエスは言われました。人生に対して全く新しい展望が開け、世界観も全く新しくなるのです--ヨハネ3:1-8

  人間にとって、自分で自分を変えることは不可能ですが、神にはどんな人をも変えることができます!私達が自分で自分の心を変えることはできませんが、変えて下さいとお願いすることならできます。イエスが心の中に入られると、すべてが変わります。何もかも変わるのです。あなたは「新しく造られたもの」、イエス・キリストにおける新しい創造物になるのです!

  もし変わらないなら、イエスを持っていないということです。なぜなら、イエスは人を変えるからです。あなたがいかに善良であろうと、イエスはあなたをさらに良い人にして下さいます。あなたは何一つする必要がなく、ただ、イエスに心に入って下さいと頼めばよいのです。そうすれば、イエスがすべてして下さいます。ですから、いろいろな事が変わるのを期待しなさい! 救われても、あなたが人間であることに変わりはないし、なお肉の体を持っているのだから、すべてが完全に変わるわけではないでしょう。でも、自分の霊、自分の考え方、自分の心、自分の方向に変化が見られることでしょう。あなたは幸せになり、あふれ出るような愛を持つようになります! イエスを持っているなら、愛を持っているのです。「神は愛」だからです!−−第一ヨハネ4:8

  あなたはイエスを持っていますか? あなたはイエスを心に受け入れ、イエスの御霊によって新しく生まれましたか? あなたはイエスの愛によって人生が変わり、新しい人、新しく造られた者となりましたか? そして、「古いものは過ぎ去り、すべてが新しく」なりましたか? あなたは祭壇の下にひざまづく必要もないし、立ち上がったり、座ったり、ひっくり返ったり、逆立ちしたり、この姿勢で祈ったりあの姿勢で祈ったりする必要もありません。体の姿勢や、目や頭の向きは全く関係ないからです。問題はあなたの心の姿勢なのです! もし神の御前にへりくだった心を持ち、自分が罪人で神の助けを必要としているということを認めるなら、ただイエスに、自分の人生に入って下さいとお願いするだけでいいのです!

 

  イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。誰でも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」−−黙示録3:20 イエスの愛は全能ですが、あなたがその愛を受け入れるように押し付けるようなことはなさらず、ただ中に入ることを求められているだけです。あなたはイエスを招かなければならないのです。それがイエスが設けられた制限であり、また、私達に求められる条件なのです。つまり、あなたは、自分の心の扉を開き、イエスを招き入れなければならないのです。

  ですから、今イエスを心に受け入れて下さい! イエスはあなたに、ご自身の愛や平安や幸福を与えることを望んでおられます。でも、イエスがそうなさることをあなたが望まない限り、イエスはあなたにそうしたものを与えることができません。あなたはイエスに入って下さいとお願いしなければなりません。イエスは柔和に、心優しく、愛と忍耐をもってあなたの心の戸の外に立っておられます。おそらく、もう何年もそこで待っておられるのでしょう。ご自身の御言葉や愛によって、また、おそらくは、何かの悲しい出来事や、愛する者との別れや、死や病気や痛みを通して、何回も何回もあなたの心の戸をノックしながら。

  けれども神は、選択をあなたに任せておられ、誰も、あなたがイエス・キリストを救い主として受け入れるのを強いることはできません! その選択はあなたにしかできないからです。あなたが望むなら、そして、あなたが望む時にその選択をすることができます。神はその選択をあなたに委ねられたのです!

  あなたは自分の心にイエス・キリストによる神の愛を持っていますか? それならあなたは永遠に救われており、天国に行くことができ、決して滅びることはありません! あなたは救われていますか?−−もし確かでないなら、今それを確かなものとするために、イエスを、あなたの主、救い主として自ら心に受け入れて下さい。ただこの短い祈りを心から祈ればいいのです。

  「主イエス様、どうか私のすべての罪を許して下さい。あなたが私のために死んで下さったことを信じます。あなたが神の御子だということも信じます。どうか今、私の人生に入って下さい。イエス様、心の扉を開き、あなたを招き入れます。どうか私の心に入って下さい。私があなたを愛し、また、他の人にあなたのこと、あなたの愛について告げることで、他の人達にも愛を示してあげるのを助けて下さい。私があなたの御言葉を読み、あなたの御霊によってそれを理解するのを助けて下さい。イエスのお名前によって祈ります。アァメン。」  「主、イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます!」−−使徒行伝16:31 神が、神の愛と救いによってあなたを祝福されますように!−−今、そして永遠に!