宝 P74-78

 

パリサイ人と取税人! (ルカ18章9節から14節)

 

  イエスは、その生涯の御仕事の中で、しばしばたとえ話を使って教えられました。イエスの多くのたとえ話の中でも、最も短く、しかし最も深遠なものに、あのパリサイ人 (びと) と取税人についての話があります。イエスは、「自分を義人だと思いこみ、それゆえに他の人々を軽蔑し、見下していた者達に対して、このたとえをお話しになった。」と、聖書にはあります。(ルカ18章9節)

  このたとえ話を読む前に、「パリサイ人」、そして「取税人」が正確には一体どんな人達であったかを知っておくと助けになるでしょう。パリサイ派とは、イエスの時代のあらゆるユダヤ教宗派の中でも最も影響力を持った宗派でした。「パリサイ」という言葉の文字通りの意味は、「分け隔てられた者達、つまり分離主義者達」で、それは彼らの信仰の基本的な性質を表しています。彼らはその当時の最も厳格な律法主義者であり、正統派ユダヤ教の無数の厳しい規則や、伝統的で儀式的な律法に一つ残らず従い、それらを守るとの誓約を立てていました。彼らは、自分達が、神のおきてに従う唯一の者達であって、それゆえに他の誰よりもはるかに優れ、清い者であると考えていたのでした。それで彼らは、非ユダヤ人をひどく軽蔑し、異教徒である「異邦人の犬ども」とみなして、自らを彼らとは別格に扱っていただけではなく、ユダヤ人の同胞に対しても、自分達のほうが上だと考え、自分達を別格としていたのです。

  一方、取税人の方は、他のユダヤ人から全く最悪の種類の人間であるとみなされていました! 取税人というのは、外国からの占領者でパレスチナの統治者であったローマ帝国のために税を取り立てる者達だったからです。彼らは、ローマ皇帝のためのユダヤ人取税人として公式に任命されていたので、同胞のユダヤ人からは裏切り者と見なされていました。しかも、ローマ人は人々からどれだけ税を取り立てるかを指示するのですが、さらに取税人は、自分の収入のために、それ以上いくらでも好きなだけ取り立てることができたのです。というわけで彼らは普通、ユダヤ人から暴利をむさぼる者、不正を働く者、盗む者だったのであり、それゆえに、ユダヤ人の同胞達からは、人間のくずとみなされ、ひどく軽蔑されていたのです。

  だから、パリサイ人と取税人を比較した、このたとえ話をされた時、イエスはユダヤ人社会全体の中の両極端の人々を選ばれたのです。一方は最も善良で、あらゆる人達の中でも最も正しく、最も信心深く、最も清く、最も神を敬う者とされていました。それに反して、他方は最悪で、最も汚らわしい、裏切り者の悪党として見下げられていたのです!

  イエスご自身が語られたそのたとえ話は、次のようなものです。「二人の人が祈るために宮に上った。その一人はパリサイ人であり、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、一人でこう祈った。『神よ、私は他の者達のような盗人、暴利をむさぼる者、不正な者、悪を行なう者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します! 私は週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げています。』

  ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんで下さい!』と。

  それから、イエスはまわりの者達に言われた。『あなたがたに真理を告げよう。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう!』」 (ルカ18章9-14節)

  この二人の内のどちらが実際に神によって義とされたと、イエスは言われたでしょうか? 外見はそれほども義人で清い者であり、疑いもなく自分のことを非常に正しくて、善良だと思っていたパリサイ人だったのでしょうか? それとも、他の人達から軽蔑され、自分でも自らを嫌悪し、恥じていたため、目を天に向けることさえしないで、ただ自分に憐れみをたれ、許してほしいと神に乞い求めた罪人である、取税人だったのでしょうか?

  神はよく、私達とは異なった物事の見方をされます!「わが思いはあなたがたの思いとは異なる!あなたがたの道もわが道とは異なる!」と主は言われます。(イザヤ55章8,9節) あの取税人がたくさんの罪を犯していたことは疑いもありませんが、彼は自分が罪人で、神の助けを必要としているという事実を正直に、また謙虚に告白し、認めたためにイエスは、その日神から義とされて宮から帰ったのは彼のほうだったと言われました。自分自身の善良さと義とを非常に誇っていて、自分に神の助けが要るなどとは全然思ってもいなかった、あのパリサイ人ではなかったと! そのパリサイ人の考えていた事と言えば、おそらく、自分が祈ることで神に栄誉を与えてあげているのだから、自分は神に良いことをしてやっているのだということぐらいでしょう!

  しかし、このパリサイ人が示した、独善的で宗教的な傲慢さは、神の目には、あらゆる罪の中でも最大最悪の罪なのです! それは、偽善的で「他よりも自分を清しとする」態度であり、そのために、独善的な人々は、他の者達を、自分のように清くも、純粋でも、忠実でも、善良でもないとみなして、軽蔑し、見下げるのです! このようになってしまった人は、他の人々の目には普通、会ったことのある人の中でも一番かたくなで、最も心が狭く、寛容でない者に映ります! なぜなら、他の人々を愛し、許し、理解してあげる代わりに、彼らはいつでも、自分がしているような「良い」事を全部していない人がいると、その人達を批判し、裁き、とがめるからです!

  福音書は、私達にこう告げています。「イエスが食事の席についておられると、多くの取税人や罪人達が来て、イエスと共にその席についた。パリサイ人達はこれを見て立腹し、弟子達に尋ねた。「なぜ、あなたがたの先生は、汚れた取税人や罪人などと食事を共にするのか?」イエスはこれを聞いて言われた。「あなたがたは、『わたしが好むのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んでくる必要がある。」(マタイ9章10-13節) つまりイエスの言わんとされたのは、「あなたがたがただ厳格に律法を守ったり、いけにえを捧げたりするのではなく、むしろ愛と憐れみを持っているのを見たいものだ! それほども独善的になって、他の人を罪に定めるよりも、むしろ彼らを愛するのを見たいものだ!」ということでした。

  このことを直視しましょう。私達は誰一人として自分自身の内に何も善なるものを持っていませんし、私達に何か良いところがあるとするなら、それはただ主であって、主の善良さなのです! 神だけがただ一人の良いお方なのです! 主の御言葉は、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」と言っています。 (ローマ3章23節) 信仰を持ち、神の善、神の愛、神の義を持っている者達を除けば、すべての人が悪いのです! 聖パウロでさえ、「私の内に、すなわち、私自身の内には、善なるものが宿っていない!」と言いました。(ローマ7章18節)

  イエスは、パリサイ人の、独善的な偽善に激怒されたので、彼らに対し、「あなたがたは、あなたがたが軽んじている酔っ払いや売春婦や取税人や罪人以上に悪い!」と告げられ、また、そのような罪人達のほうが、彼らよりも、もっと天国に行けるチャンスがあると言われました!

 

  イエスは彼らに面と向かって、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国に入る!」と言われたのです。(マタイ21章31節)  そして、ご自身の弟子達にさえ、「よく言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない!」と言われました。 (マタイ5章20節) 言いかえれば、あなた達が彼らよりも良くなければ、決して天国に行くことはできない、ということです!そして、彼らよりも良くなれるただ一つの方法とは、キリストの義を持つことです。なぜなら、パリサイ人にしても、人間的なものにおいて、その善良さが他の誰かにまさっていたということは全くないからです。

  自分達が義人であって、いつでも正しいかのように装っていた、パリサイ人の偽善的な見せかけをイエスはひどく嫌悪しておられたので、イエスは誰にも浴びせたことのないような最も激しい非難の言葉をもって、彼らに公然と告げられたのでした。「偽善な律法学者、パリサイ人達よ。あなたがたは、わざわいである! 杯と皿との外側は清めるが、内側は貪欲と不潔さとで満ちている! 盲目なパリサイ人よ、まず、杯と皿の内側を清めるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう!」

  「偽善な律法学者、パリサイ人達よ。あなたがたは、わざわいである! あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである! このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである!」(マタイ23章25-28節)

  パリサイ人達をそれほども独善的で偽善的にしたのは、彼らの誇りでした! 彼らはあまりにも高慢だったので、自分達も、他のすべての人と同じ罪人であることを告白できなかったのです。事実、彼らは自分の罪を告白できなかっただけではなく、自分も罪を犯すと悟ることさえできなかったのです!自分達にもひょっとしたら、何か間違ったところがあるかもしれないということを認めることができず、そのために「盲人を導く盲人」となってしまったのです! (マタイ15章14節)

  自分が悪いということを知り、自分が善人ではないということを正直に認めるなら、ほっとした気持ちになります。結局のところ、善である者は一人もいない、と神がご自身の言葉の中で言っておられるのですから! そういうわけで、神から見て、最も悪い種類の人々とは、善良である振りをして、他のすべての人を見下す人々なのです。主の御言葉にはこうあります。「義人はいない。一人もいない! それゆえに、あなたがたの救われたのは実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行ないによるのでも善行によるのでもない。それは、誰も誇ることがないためである。」(ローマ3章10節、エペソ2章8,9節) 私達はただ正直になって、「私は良くはありません。悪いし、罪人だし、もちろん間違いだって犯します! 私に何か良いものがあるなら、ただイエスのおかげです!」と告白する必要があるのです。

  神が正しいと考えられるのは、いわゆる罪のない完璧主義者ではなく、自分には神が必要だと知っている、哀れで、望みのない、謙遜で、罪深い罪人なのです! 主が救いに来られたのは、そのような人達です! 「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである!」とイエスは言われました。(マタイ9章13節) 神が善と考えておられるのは真の義であって、すなわち自分には神が必要だと知っており、救いを神だけに頼っている罪人なのです。自分自身の善行で己れを救うことができると思っている、自力本願の、独善的で、偽善的なパリサイ人ではありません!

  神が、聖人であると考えられるのは、恵みによって救われた罪人です。すなわち、自分自身の完璧さも義も全くなく、ただ神の恵みと愛と憐れみとに全面的に頼っている罪人なのです! そして、信じ難いことかもしれませんが、そういった人達だけが唯一の聖人なのです! それ以外の聖人はいません!

  だから、あなたはその両者の内のどちらでしょうか? パリサイ人ですか? それとも、取税人ですか?

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  祈り:主イエスよ、独善が傲慢さであり、傲慢さは、愛と謙遜の反対であることを、私達は知っています。だから主よ、どうか今日、私達に愛を与えて下さい。私達が他の人を非難したり、あるいは、「神よ、私がこのような者でないことを感謝します」と思ったり、祈ったりすることさえないように助けて下さい。もし私達が批判的で、傲慢になって思い上がり、他の人達のように悪くないのを喜ぶなら、私達の方がもっと悪い者でさえあるのです!    

  あなたは、「わたしが好むのは、憐れみであって、いけにえではない」と言われました。これがどんな意味なのかを学ぶためには、あなたと二人きりで時間を過ごさなければなりません! 主よ、私達が愛し、また、あなたが私達 を許して下さったように他の人達の罪を許すのを、どうか助けて下さい! そして、あなたが私達に憐れみを持って下さるように、私達も他の人達に憐れみを持つのを助けて下さい。イエスの御名によって祈ります。アァメン。       

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