宝 P70-73

 

歴史に見る冒険実話集!

 

詐欺師の救い (ルカ19章1-10節)

  世間一般の考えに反して、イエスは富に反対しておられるわけではないし、良い目的の為に使われる場合は尚更です。さて、聖書の中で富や物質的豊かさについて述べられているところを読むと、多くの人々はいつも自然と、若い金持ちの役人の悲しい話を思い出すことでしょう。彼は、富を貧しい人々に分け与えるようにというイエスの忠告を拒み、悲しみながら帰って行った人です。 (ルカ18章18-25節)  しかしあなたは、エリコのある裕福な役人とイエスとの出会いの話を聞いたことがありますか?

  その話にでてくるザアカイは、かなり評判の悪い人でした。とりわけ、「祭司の町」エリコの通りを行く多くの献身的な宗教家と比べてみると、なおさらでした。

  ザアカイは、大きな税務所の責任者で、裕福でした。そして当時は取税人と呼ばれていた徴税官は、ユダヤ人にとっては階級の最も低い類いの人々であって、売春婦と同等にしかみられませんでした。彼らは詐欺師、ゆすりを働く者、貧乏人からお金を奪い取る者として知られていました。また彼ら自身、ユダヤ人であったものの、ひどく憎まれていたローマ政府のために働いていたので、同胞に対する裏切り者とみなされていました。  ザアカイは、政府の権威の下に、税金として好きなだけお金を取り立てる事ができ、税金以上に絞り取った分は、そのまま彼のものとなったのです。

  しかしある日、ザアカイのこのような生き方を完全に変えてしまうようなことが起こったのです。彼はすでにイエスのことや、イエスが行なった多くの奇跡のことを聞いていましたが、さらに興味をそそったことには、イエスも彼と同じように評判が悪く、また取税人や罪人の友人として知られていたのです。実のところ、イエスの弟子の一人であるマタイも、以前はナザレで取税人の仕事をしていたのです!(マタイ9章9-13節)

  ザアカイは、「預言者になった大工」に会ってみたいと前から思っていました。また彼は、「町の人達や祭司は、私の名前を聞くだけで、つばを吐くも同然なのに、あんなに信心深い人が、どうして私と同じような人と友達になれるのだろうか? イエスは私とも友達になってくれるだろうか?」とよく思ったものでした。彼は自分の血のつながった家族を除いては、真の友達はいませんでした。最近になって、彼は、満たされない気持ちがつのってきました。真の暖かさと満足感を得るには、単にお金だけではなく、それ以上の何かがなくてはならないことが、だんだんわかってきたのです。結局のところ、彼には事実上、お金で買えるものは何でもあったのです。立派な家、安定した地位‥‥しかし何かが欠けていたのです。でもそれが何なのか、自分でもはっきりわかりませんでした。

    そしてある日、イエスはエリコの町を通られました。イエスが町に来られたことを聞くと、ザアカイは何もかもやめて取税所を閉め、イエスを一目見ようと急いで出かけました。イエスを取り囲んでいる大きな群衆は、ゆっくりと道を進んでいましたが、哀れなザアカイは、背がとても低かったので何も見えませんでした。

    すると彼は、群衆の前方にあった大きないちじく桑の木を見つけました。イエスがそばを通られる時、木の上からならイエスを見ることができるかもしれないと思ったザアカイは、人が自分をどう思うかなどすっかり忘れ、走って行って群衆を追いこし、すばやく木に登りました。

   イエスは、その木のところまで来ると、急に後ろを振り返り、何かを探すように上を見上げました。イエスは近くに来られて、ザアカイをまっすぐ見あげ、こう叫びました。「ザアカイ、急いで下りてきなさい。私は今日、あなたの家に泊まることにしているから!」

  「な‥‥なんて言ったんだ?」とザアカイはびっくりしました!「イエスは私の名前を知っていたぞ。私の家に泊まりたいだって?」ザアカイは、木からするすると降りながら、今のは聞き違いではないだろうかと思いました。「いったいどうして、イエスが私の名前を知っていたのだろうか?」けれどもイエスが本気でそう言っておられることを知るやいなや、ザアカイはこう答えました。「もちろんですとも! 光栄です! どうか私の家にいらして下さい。大歓迎ですよ!」そして大喜びで、イエスを家まで連れて行きました。  彼らが家の中に入ると、彼らの後をついてきた群衆は家の外に立ち、憤慨して「何てことだ! イエスは、罪深い取税人の家に泊まるぞ!」と不満げに言いました。群衆は、「イエスともあろう人が、宗教の修業の中心地である我々の立派な町に来たのに、よりによってあのようなならず者のところに泊まるとは、いったい何たることだ!」と考えて、そのことを恥じ、嫌悪の念までも抱いたのです。しかしイエスは御自分が正しいことをしていると、はっきりと知っておられました。イエスは、ザアカイの見かけではなく、愛と満足感を渇望している空しい心の中を見ておられたのです。

  イエスと出会ったその朝、ザアカイは答えを見つけたのです! 今では富や持ち物は、他の人に与える場合を除けば、もはや重要なものではなくなりました。ザアカイは、興奮してこう言いました。「イエスよ、私は今ここで決断したことをあなたに知ってもらいたいのです! 私は自分の財産の半分を貧民に施します! そして自分が今までだましたり、利用したりした人々に償いをするために、彼らから取り上げたお金を四倍にして返すことを約束します!」その金額が非常に大きかったことを考えると、それはすばらしい約束でした!

  彼は、今までずっとぜいたくに、利己的に生きてきたのですが、イエスと出会い、イエスの語った言葉を聞いてからというもの、自分に劇的な変化が起こるのを経験しました。突然彼は、愛することや与えることの本当の意味が生まれて初めてわかったように感じました。

  イエスは、外でぶつぶつ言う群衆に聞こえるように言いました。「今日、この家に救いが訪れた!まことに人の子は、失われた者を捜し出して、救うために来たのである!」以前ザアカイがどれほど悪かったかなど、関係のないことでした。主の愛は、罪を許すに余りあるものでした。事実、聖書の中には、イエスがザアカイのすべての罪を一つ一つあげていったというような記録は全くありません。なぜならザアカイは、自分の愛を行動で示すことによって、一目でわかる悔い改めの実を結んでいたからです。彼は、イエスを自分の心や人生や、自分の家の中に受け入れて、イエスの手本や教えに従う者となりました。彼は、神の王国に新しく生まれた子供となったのです!

  これはザアカイの全く新しい人生の始まりでした! もはや彼は、自分のまわりの人や世界に対して無関心ではないのです。今や彼は、他の人々を、利益を得るための単なる手段として扱うのではなく、自分の富を、貧しい人々を助けるための手段として使うことに関心を持つようになったのです。そして彼は「喜んで主を迎え入れた」ので、彼のすばらしい変化は、自分の意志を主に委ねる人に対して神がどんなにすばらしい事ができるかの一例として、幾世代にも響きわたりました! ザアカイは、与えることが苦しいことではなく、喜びであり、幸福と満足感をもたらしてくれるということを見いだしたのです! 彼は、次にあげるイエスの言葉の真理を知るようになったのです。「与えよ。そうすれば自分にも与えられるであろう。そしてそれはあなたのところに山と盛られ、ゆすり入れられ、あふれ出るまでに与えられるであろう!」(ルカ6章38節)

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考えてみるべき課題

(「詐欺師の救い!」からの覚えておくべきポイント)

 

  1.あなたは、イエスから見て悪すぎることは決してありません。良すぎる場合は問題ですが! イエスは、自分が善人であると考えている、独善的で極端に高潔な宗教家よりも、自分が罪人であるとわかっている人々から、もっと喜んで受け入れられました!「イエスは言われた、『よく聞きなさい。取税人や遊女はあなたがたより先に神の国に入る。というのは、ヨハネ (バプテスマの)があなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じず悔改めなかったが、取税人や遊女は彼を信じた!』」(マタイ21章31、32節)

  2.イエスには、神の王国の一員であり、イエスを援助していた、金持ちの友人がかなりたくさんいました。アリマタヤのヨセフやニコデモがその例です。ふたりとも、サンヒドリン議会と呼ばれる、ユダヤ人の教会の指導者の一団の、裕福なメンバーでした。またイエスは、カペナウムに住む、ローマ政府の高官である百卒長のしもべをいやしました。他には、どこへでもイエスについて行ったヨハンナがいます。彼女はヘロデ王の家令の妻で、王の宮殿に住んでいました。そしてまた、エルサレムの、ある裕福な家に住む、マルタとマリヤとラザロもいます! (ヨハネ12章1-8節)

  イエスの弟子たちの中には、低い階級出身の者もいますが、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、マタイは世間に認められた実業家でした。しかし、一つ確かなことは、彼らは自分のお金だけではなくて、自分の人生そのものをも、主への奉仕や、愛のために世界を勝ち取るという、緊急に果たされるべき大義のために捧げたのです!

  3.もしあなたが弟子にはなれないなら、弟子である人を援助することはできます!「そうすれば、天に宝を持つようになるであろう。」(マタイ10章40-42節) イエスはザアカイに、家やお金を捨てるようには言われなかったものの、ザアカイは、愛を信じるようになったために、「地上に宝をたくわえる」のではなく、困った人々を助けるという良い目的のために自分の富を使い始めたことは明らかです。