宝 P67-69

 

歴史に見る冒険実話集!

 

触れることの力!  (マタイ9章20-22節、ルカ8章43-48節)

  イエスがガリラヤの湖のほとりで群衆に教えておられると、ヤイロという名の地元の著名な会堂司 (かいどうづかさ) が人混みをかき分けてやって来て、イエスの足元にひざまずき、自分の娘を癒して下さるようにと、しきりに願いました。「死にそうなのです!どうか、おいでになって娘にふれ、娘の命を助けて下さい!」と、ヤイロはすがるように叫びました!

  イエスが、憐れんで、ヤイロと一緒に行くことに同意すると、群衆が押し迫って来ました。そしてその人だかりの中に、12年間もひどい長血を患っていた女がいました。彼女はこれまで、医者から医者へと通い歩いたけれども、治らなかったのでした。医療費に身代をみな使い果たし、様々な治療で苦しんだけれども、なお出血が続いていたのです。

  この女は必死の思いで考えました。「ああ、あの方にほんの少しでもふれることができたなら癒されるって知っているのに!」と。そして、イエスを遠くに見た女は、イエスにふれることを切に願って、人をかき分け、イエスのところに行こうとしました。見物人がイエスのそばに行こうとひしめき合っている間を通り抜けて行くのは、たやすいことではありません。でも、「イエスにふれなければ!せめて御衣 (みころも) のふさにでも。」という思いが女を駆り立てていたのです!  とうとう女は、イエスに手の届きそうなところまでやって来ました。そして、手を伸ばすと、指先で辛うじてイエスの衣にふれることができました。そして、そうするや否や、直ちに出血が完全に止まってしまったのです! 癒されたという、暖かく素晴らしい感覚が体を駆けめぐりました。長かった痛みと苦しみの年月の後、ついに自分が癒されたことを知ったのです!

  癒しの力が体から出て行ったのを感じたイエスは、一瞬立ち止まり、群衆の方を振り返ると、「わたしにさわったのは、誰か?」と尋ねられました。 弟子たちは驚きの目でイエスを見つめ、こう言いました。「群衆があなたを取り囲んで、ひしめき合っているのです。それなのに、さわったのは誰か、と問われるのですか?」 しかし、誰がさわったかをすでに知っておられたイエスは、にっこりとほほ笑んで、何も言わずに振り返り、わかっているという様子で、驚嘆している女に目をとめられたのです。

  自分の身に起きた事を悟ってなおも震えていた女は、進み出て御前にひれ伏し、自分の身に起きた事をイエスに告げました。イエスは愛情深く、また優しく、ちょうど父が子に語りかけるように、「娘よ、あなたの信仰があなたを癒したのだ!  安心して行きなさい。あなたの病いは癒された。」と言われました。女が癒されたのは、御衣にふれたからではなく、「女を癒したのはイエスに対する彼女の信仰」であった事を、イエスは全群衆にはっきりとさせておられたのでした!

  その女は、からし種一粒ほどの信仰を行動に移し、その奇跡が幾世紀にも渡って伝えられてきたのです! そして「あなたの信仰があなたを癒したのだ!」という言葉が!

  この物語には、今日の私達の生活に適用することのできる、学ぶべき教訓があります。イエスのところに群がってきた人は大勢いたのに、なぜ、神からの力強い癒しを受けたのはひとりしかいなかったのでしょうか? 多くの人は単なる好奇心からイエスを見に行き、イエスを見ることのほうに興味を持っていました。けれども、この女は、イエスのことを聞くやいなや、「これまで何を試しても失敗に終わったけれど、イエスなら本当に自分を助けることができる。」と心から信じたのでした。そこで彼女は、揺るがぬ信仰を持ってイエスに向かって行き、主との聖なる接触を持つまであきらめなかったのです!

  この話は、祈りがどのように働くかをとても明らかにしています! 大切なのは、どれだけ長く祈るかでも、どれだけ沢山祈るかでもなく、どれだけ信じるかなのです! それは、ラジオをラジオ局の周波数に合わせるようなものです。ついに波長が合うと、その途端に信号がはっきりと、しかも強烈な大きな音になって飛び出してきます! 祈りとは、私達人間の必要物を供給するための神の源からの経路を開くものです。祈る時、私達はただ自分達の必要を述べ、神が供給して下さると信じるだけです。そしてもし、主に信頼し、主の御言葉に従うことに最善を尽くしているなら、困った時には、主が助けて下さるでしょう!

  あきらめないで、あともう少し信じ続け、祈り続けるなら、どんな素晴らしいことでも起こりうるのです! あの虚弱な病身の婦人には、ただイエスに近づくだけの力しかありませんでしたが、彼女がその小さな種のような信仰に基づいて行動を起こした時、主と接触することができたのでした。

 

  祈りによって、神の力に通じることを学ぶなら、それは何という祝福でしょう。神の御言葉に従って、神の御霊との接触を霊的に求めることによって、素晴らしい結果を得られるのです!

  今日のクリスチャンの実に多くが、偉大なる医者イエス・キリストにではなく、人間の医者の方にもっと強い信仰を持っているというのは、残念なことです。実際のところ、彼らは信仰を失ったのではなく、ただ信仰の対象が変わり、医学に信仰を持つようになってしまっただけなのです! 医者が悪いというのではないのですが、医者は常に必要なわけではなく、いずれにせよ医者にも助けられないことがよくあるのです!

  ちょっとした病気にかかったり、痛みがあったりすると、人は毎度のように薬に頼ります。純粋な信仰を持って祈るなら、そうした面倒なことから免れられるということなど、考えもしないのです! ちょっとした頭痛も、神に対するほんの小さな信仰があれば治ります! アスピリンを飲んではいけないというわけではないのですが、神にチャンスを与えてみてはどうでしょうか? 癒されるように祈りなさい。そうすれば神は、あなたを癒すことができるだけではなく、その原因やそれを予防したり改善したりする方法を示すこともできるのです!

  癒しに最も欠かせないものの一つとは、信仰です。何が起ころうとも、神は自分を愛しておられ、自分の世話をして下さると知ることです。そして信仰は、ただ癒すだけではなく、病気や不健康の一番の原因である、恐れや緊張を取り除いてくれるということを知っていたでしょうか?

  神は喜んであなたを癒して下さるし、助けが必要な時にはいつでも助けて下さいます! ただ、求めればいいのです! 神の御言葉には、「わたしは、すべて肉なる者の神である。わたしにできないことがあろうか?」とあります。イエスはこう言われました。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう!」(ヨハネ15章7節) あなたは今まで、癒しの力を主に求めたことがありますか?

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  祈りは、薬より安いばかりでなく、より確実でもある!                                                                      

  主が自分を癒して下さると信頼すると、主と緊密な関係を持つようになるが、医者が癒してくれると信頼すると、医者と緊密な関係を持つようになり、ついには破産してしまう!  

                        

  イエスは私達を造られた。だから、私達を修理することができる!                  

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