GN461 DFO

 

苦い根!−−食い尽くして滅ぼす、命取りのもと!(GN461--DFO)

 

    

T.苦い根のひどい影響!.............2 

 A.それはあなたの主との関係や主に対する奉仕を妨げる!..............2 

 B.苦い根は敵にすきを与える!.............2

 C.苦い根は肉体的にも影響を及ぼす!..........3

 D.苦い根は他の多くの人達を傷つけ、「汚す」!.....3

                                                        

U.何故人は苦い根を持つようになるのか?........4

  A.火のような試練:あなたをより良くするか、            

   恨みを抱かせるか?.................5

 B.神を非難する!...................6

 C.他の人を非難する!.................7

 D.恨みや憎しみに満ちた思い:悪魔の邪悪な種!.....8

 E.苦い根の声:不平!.................9

                                                      

V.苦い根が生えるのをどう避けるか!..........9

 A.最も大切なものは愛!...............10

 B.「互いに罪を告白し合いなさい!」−−ヤコブ5:16..10

 C.前向きな、感謝に満ちた態度を保ちなさい!.....11

 D.自分の思いを防御せよ!..............12

 E.物事を主からとして受け取る!−−ローマ8:28....13

                                                      

W.どのようにして苦い根を取り除くか!........14 

  A.自分に苦い根がある事を告白しなさい!.......15

  B.攻撃、攻撃、攻撃!................15

 C.「私達が他の者を赦すように、 私達の罪をもお赦し下さい。」...........16  

 D.霊的な再生!...................18 

 

X.苦い根に対する解放の祈り!............18 

 

 

苦い根に関する特別シリーズのパート1!              

苦い根!−−食い尽くして滅ぼす、命取りのもと!編集1990年11月

(ダッドとママのレターより−−アポロスによる編集)DFO2672

 

  1.「気をつけて神の恵みからもれることのないように、また、苦い根が生え出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。」−−ヘブル12:15。−−神の御言葉は苦い根のもたらす有害な結果についてこう述べている。苦い根は、あなたの霊全体を汚し、他の多くの人達をもひどく傷つけ、汚す、実に有害なものなのだ!

  2.苦い根が極めて危険な理由の一つは、その根が大きくなって広がり、自分でどこがおかしいのか気づきさえする前に、あなたの心や霊を霊的に汚染し、汚し得るだからだ。人間の生まれながらの罪深い性質によって、私達は、他の人が自分に対してひどい事をしたり、自分を不当に扱ったと感じると、傷ついた気持ちや恨みを抱くのをいとも容易に容認し、正当化してしまう。事実、神に対してすら、そのように感じることがあるのだ!

  3.大半の植物の根のように、憤りや恨みの小さな「根」は普通、表面には見えないずっと下の方にある。しかし、そこでその根は成長して広がり始め、どんどん深くなって行き、その状態が許されるなら、そのような苦い根は、やがてはまさにあなたの心や霊を蝕み、あなたを霊的に食い尽くして滅ぼしてしまうことだろう!−−最後にはあなたは霊的に死んだ者となり、事実上、主にとって何の役にも立たなくなってしまうのだ!

  4.苦い根は、「マタドール」として知られる南米のつる植物に非常によく似ている。木の根元から、マタドールのつるはゆっくりと上に伸びて行く。だが、成長して行くにつれ、それは木を枯らし、ついに木のてっぺんにまで達した時には、自ら冠を授けるかのように花をつけるのだ。マタドールというのは文字通り殺し屋という意味だ。苦い根は、小さな時には害のないもののように見えるかもしれないが、大きくなるのが許されるなら、その憤りや悪意や憎しみのつるは、間もなく心のまわりに巻き付いて、やがては魂を殺してしまうのである。

  5.だからこそ神の御言葉は、「すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい」と私達に訓戒している。−−エペソ4:31。そして、ここに挙げるレッスンはまさにそれについてである。つまり、苦い根として知られる命取りのもとをどのように見極め、対処し、取り除くことができるかである。そうすれば、その破壊的な悪魔の策略に妨げられることなく、自由に愛し、主と他の人達に仕えられるようになるであろう!−−「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てる」ことができるようになるのだ!−−ヘブル12:1。

 

 T.苦い根のひどい影響!

A.それはあなたの主との関係や

主に対する奉仕を妨げる!

 

  6.私達が敵に攻撃をかけ、神の御国のために新たな領地を征服したり、新しい魂を獲得するためにベストを尽くすなら、悪魔はもちろん、かなり躍起になって私達を阻もうとする!−−だが、神に感謝することに、私達がそれを許さない限り、悪魔は私達を阻むことはできない。しかし、何らかの点であなたが悪魔の否定的で破壊的な思考を思いめぐらし、私達を弱める疑いに耳を傾け、信仰をくじく恐れを抱いているなら、それは敵に対する部分的な降伏なのだ。−−そして悪魔に対する降伏は必ず問題を起こす!

  7.自分の内に苦い根や憤りや非難の霊がはびこるのを許すなら、あなたは油注ぎや主からのインスピレーションを失ってしまう。自分の人生の巡り合わせのことでぶつぶつ言い、憤慨し、神や他の人達があなたにした事に対して批判的になり、不平を言っていながら、同時に神の御霊を持っていることはできない。それは全く不可能なことだ。主は、主の民の賛美の内に住まわれる。私達が主に近づく時、主は私達に近づいて下さる。「賛美のいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」−−詩篇22:3、ヤコブ4:8、ヘブル13:15。

  8.「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」−−ヘブル11:6。主があなたの人生にもたらす事柄を受け入れず、あなたに対する主の扱いや世話について疑いや不信を抱くだけでなく、実際にぶつぶつ言い、憤慨し、反抗的になるなら、それは確かに信仰ではなく、主は絶対に喜ばれない!

  9.そして苦い思いが心に根をおろすのを許すなら、あなたは主と自分自身の両方に対して失敗する事になる。そのような根はどんどんはびこっていき、最後にはあなたを滅ぼしてしまうからだ。−−少なくとも、あなたがミニストリーや主に対して全く貢献できないようにし、あなたが助けている事になっている神の御仕事全体に害を及ぼし得るのだ。

  10.苦い根があなたのミニストリーを妨げ、あなたを使い物にならない存在にするというのは、偉大な画家かつ技術者であったレオナルド・ダ・ビンチのこの実話によく表されている。かの有名な「最後の晩餐」の絵に取り掛かる直前に、彼は仲間の画家と激しい口論をしてしまった。ひどく憤り、恨みを抱いた彼は、自分の敵、つまりその画家の顔をユダの顔にすることにし、後の世代にまで汚名や屈辱を伝える事で復讐しようと考えた。だから、ユダの顔は彼が最初に描き終えたものの一つだった。それがダ・ビンチが激しい口論を交わした相手の画家の顔であることは、誰の目にも明らかだった。

  11.だが、イエスの顔を描く段になると、仕事が全くはかどらなかった。何かが彼を悩ませ、阻み、その懸命の試みをくじこうとしているようだった。ついに彼は自分を抑え、阻んでいるのは、自分の敵の顔をユダの顔にしたという事実だという結論に達した。そこでユダの顔を塗り消し、改めてイエスの顔を描き始めた。すると今度は傑作を描くことができ、それは幾世代に及んで称賛を浴びるに至ったのである。

  12.この事は、私達が、自分自身の内にキリストの姿を描き、それと同時に敵意や憎しみの別の顔を描く事はできないことをはっきり示している。もっとキリストのようになり、主があなたに望んでおられることを成し遂げるには、確かにすべての恨みや憎しみを「捨て去り」、「かなぐり捨て」ねばならない。

 

B.苦い根は敵にすきを与える!

 

  13.小さな苦い根が自分に生えるのを故意に許すことは、悪魔にわざと入り込ませるようなものだ! 心の中のそういった不満や憤りや不平はどんどん広がり、まわりのすべてをおおい、すべてに影響を与え始める。それが苦い根のする事なのだ。−−だからこそ、あまりにも深く根をおろす前に、捕らえて、根こそぎにしなければならないのである!

  14.「アリスの魔法の園」で神が私に与えてくれた絵と物語を覚えているか? 邪悪な魔法使いからアリスが受け取った邪悪な種は大きくなって、不満と不和と恨みと争いの雑草となり、実に大きく、苦々しく、不快な、苦痛を与える、息苦しいものになってしまった。しかも、それではまだ足りないかのように、邪悪で破壊的な、悪魔の落胆と疑いと恐れと絶望の巨人が彼女の花壇に入り込む道となったのだった!

  15.−−憤り、嫉妬、疑い、恐れの小さな種が成長して根をおろし、心に広がり始めるのを許すことの恐ろしい結果を実によく現した絵であり、警告である! そのような種をずる賢い魔法使いの悪魔から受け取るというのは、敵にすきを与えることだ。そしてそれをするなら、悔い改めて主との関係を正し、主に感謝し、賛美し、正しい道に戻るまで、敵が一時的にあなたを抑圧し、攻撃することが許される。

  16.主が私達に、「悪魔に機会を与えてはいけない!」と言っておられるのはこのためだ。−−エペソ4:27。この節は、必ずしも悪魔に完全に征服されたり、取り付かれなくても、時に悪魔に入り込んで働く機会を与えてしまうことがあるということを示している。だが警告するが、悪魔はどんなすきにも付け込んでくることだろう。だから敵を退け、全く機会を与えてはいけない!−−敵があなたの心に蒔こうとする小さな嫉妬や不平や恨みの種や根を通して、敵に入り込ませないように用心しなさい!

 

C.苦い根は肉体的にも影響を及ぼす!

 

  17.心の問題や霊の問題はあなたの肉体に影響を及ぼす! 医学ではそのような病気を心身症と呼んでいる。精神的なことが原因という意味だ。しかし、そういった病気は、あなたの霊や間違った心の態度によるものであり、そもそも主と他の人達への愛の欠如が原因だと言えるだろう。  18.心にはびこる小さな根には様々な種類がある。苦い根、嫉妬の根、憤りの根、傷ついた気持ちの根、それらはどれも苦々しいものになり得、あなたが許すなら、大きくなって、あなたを内側から蝕み始める。そしてその内に、表に出て非常に明らかになり、肉体的に現れさえする。

  19.医師達によれば、心が恨みや憎しみで満ちている人は、心の安らいだ人よりも関節炎にかかる場合がはるかに多いそうだ。同様に、多くの恐れ−−心配、緊張、恐怖など−−を抱いている人には、精神病や胃腸の病気、心臓病がはるかに多いことがわかっている。

  20.信仰によって恐れを取り除くことで、心の平安、胃腸や心臓の休息が得られ、病気の原因となる様々な物が血液から取り除かれることを神に感謝せよ。つまり、あなたの心や思いの状態が実際に体を毒するということだ。この事は科学的に知られており、証明されている。

 

D.苦い根は多くの他の人達を傷つけ、「汚す」!

 

  21.どのようにして一個人の恨みが「多くの人を汚す」のか? 幾つか考えられる。一つには、一つの事でひどい苦い根を抱いている人は、他の事でも容易に苦い根を抱きやすいということだ。そういった人は普通、何か事がうまく行かないたびに、自分のせいにはせず、いつも他人のせいにするからだ。全く自分で責めを負うことをしない独善的な偽善者のように。

  22.不満や不平があり、憤慨し、批判的な人というのは普通、自分の言い分を他の人に納得させない限り満足することがない。悲嘆は仲間が大好きで、そういった人は他の人に同感してもらいたくてしようがないものだ。そして悲しいことに、普通そういった仲間を見つけるのは難しくはない。ぐちや不平やぶつぶつ言うのは、人間の非常に一般的な病気で、容易に陥ってしまうものだ。だが神から見れば、それは絶対に容認できない罪である。さまよい続けたイスラエルの民の話を読みさえすれば、つぶやきや不平のために神はシナイ砂漠で何百万もの人々を腐れさせたことがわかる! 彼らは結局、約束の地に入る事はできなかった。(民数記32:11-13。)

  23.苦い根や不平は、非常に伝染性の高い霊の病気であり、悪魔的で、そのままにしておくなら、素早く広がって他の人を毒してしまう。一つの腐ったりんごは、あっという間に他のりんごまで腐らせてしまうのだ! 聖書は私達にこう警告している。「あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくまらせることを知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい!」−−第一コリント5:6,7。ほんの一つまみのイーストが粉の「かたまり」全体に広まって、全体がふくらむように、苦い根の行き渡っている人は、他の人にとって重荷でしかなく、気のめいるような影響を与え、他の皆を弱め、皆の霊を引き下げる。こういう人は常に否定的な考えを持ち、常に批判し、不平を言うのである。

 

U.何故人は苦い根を

  持つようになるのか?

  24.主が自分のしてほしいように物事を進めて下さらない場合、主に対して恨みを抱く人がいる。彼らは、主が自分の思い通りの事をして下さらなかったので、主に対して憤慨し、怒るのだ。明らかに彼らは信仰に欠け、神に信頼していない。主が最善をご存じだと信頼していないのだ。

  25.神の御言葉はこう言っている。「心を尽くして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道を導かれる。」−−箴言3:5,6。だが、神を見る代わりに状況を見ているなら、問題を抱えることになる! あなたは自分の目を神に留めなければならない。主を見なければならない。神を見、「見えるものによらないで、信仰によって歩かなければならない」のだ!−−第二コリント5:7。 モーセは、困難を通っていた時、「見えない方を見ているようにして、忍び通した。」とある。−−ヘブル11:27。

  26.私達の人生において、主は時々、色々な事をされ、色々な物事が起こるのを許されるが、それは私達の信仰をテストし、私達を主に近付けるためだ。主は私達を愛しておられ、私達の事を気にかけておられる。また、私達が地上の物事ではなく、主や永遠に渡る天国的な価値にしがみつくようになるために何かが起こるのを許されることがよくある。でももし私達が主のしておられることを受け入れず、それらを拒絶し、受け入れることを拒むなら、私達はかたくなになり、御言葉、つまり神の真理でさえも私達に対する効力を失ってしまう。

  27.人は、変化を拒み、変化に順応することや、何かを捨てることや、砕きを拒否すると、利己的になり、かつて持っていたものを現在持っていないことに対して憤りや恨みを抱くようになる事がある。「自分の財産が奪われても喜んでそれを忍ぶ」ことをしたがらず(ヘブル10:34)、自分が何かを失ってでも神が教えようとしておられる事を学びたい、とは思わないのだ。

  28.困難な試練やテストは、あなたの心を溶かすか、かたくなにするかのいずれかだ!−−だからこそ、自分がかたくなになったり、恨みや憎しみを抱くようになっていないかに気を付け、絶えず努力して気を配っていなければならないのだ! もし試練によって謙遜になり、心が溶かされるなら、あなたはずっと幸せになり、主の愛を新しく親密な方法で知ることができる。しかし、プライドのゆえに自分の心をかたくなにし、「インヴィクティス」の詩に書かれているように、「私は自分の運命の支配者であり、自分の魂の主である! 頭から血が流れようとも頭を下げることはしない」と言うなら、道から外れ、神は本当にあなたに失望される!

  29.人が恨みを抱くのはプライドのせいだ! 人が試練を通して、主の御心に委ね、砕かれ、柔らかくなる代わりに、恨みを持つようになるのは、プライドがあるからだ。主に頭を下げ、完全に降伏することを拒むのは、プライドがあるからなのだ!

  30.というわけで、苦い根は一種のプライドである。苦い根を持っている人は、普通、誰かが−−それが神であれ人であれ−−自分を不当に扱ったと感じる。彼らは自分がもっと良い待遇を受けるに値すると感じるから、恨みを抱くのだ。彼らは自分が酷使され、虐待されていると感じ、自分が受けているものは不当だと考える。自分はそれよりも良い人間だと感じるわけだ。

  31.人が人生のめぐり合わせについて苦い根を持つ、もう一つの理由は、彼らが主から目を離して人に目を向けるからだ。そして「仲間同士で互いに比べ合う」のだが、それは「知恵のない」事だ!−−第二コリント10:12。他人と自分を比べ合う時、あるいは主が自分を扱っておられる方法と他の人を扱っておられる方法を比べる時、敵は簡単に嫉妬や恨みや疑いなどであなたを誘惑する事ができる。

  32.例えば、あなたが成長し、主の御仕事において実り豊かであり続けるために、主が自分のメイトや子供達や地位などを犠牲にすることを要求されたとする。あなたが愚かにも、自分の状況と、自分と同じ犠牲を払う事を要求されていない他の人を比べるなら、簡単に不満を抱き、憤慨するようになる。−−「自分はこれやあれや全てを手離さなければならなかったのに、どうして彼らはしなくてもいいんだ?」と。

  33.自分と他人を比べ合うという落とし穴に落ちてしまうと、主は私達全員をそれぞれ異なった方法で扱われ、あなたにとっては良いことでも、他の人にとっては良くないかもしれないということに気づかない! 主は何が私達に最善かを知っておられ、主が私達に与えられるものは、私達がそれぞれ最も成長し、主が教えようとしておられる特定の教訓を学ぶ助けになると知っておられるものである。

  34.使徒ペテロは、主から自分が殉教するだろうと言われた時、イエスにこう尋ねた。「ヨハネはどうなのですか? 彼には何が起こるのですか?」と。するとイエスはヨハネの事を心配しないようにと彼を優しくたしなめて、こう答えられた。「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたはわたしに従ってきなさい!」−−ヨハネ21:22。 主が他の人をどう扱われようと、あなたの心配すべき事ではない。「あなたには何の係わりがあるか?」

  35.「私達ひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」−−ローマ14:12。−−あなたが一番気にしていることが、「でも主よ、私にこれら全ての事を要求されているのでしたら、ここにいる私の兄弟はどうなのですか?−−彼には何を要求されるつもりなのですか?」というものであるべきではない。ただ主を信頼し、「あなたはイエスに従い」、主のために最善を尽くすのみだ! なぜなら、神があなたを扱っておられる方法と、他の人を扱っておられる方法を比べ始めるなら、敵の考えに、つまり不満や不平、恨みや苦い根などに広く扉を開けてしまう事になるだけだからです。−−聖書が、比べ合う事は「知恵のない」ことだと言っているのも不思議ではない!

  36.人によっては長期間に渡って苦い根の問題を持っている。彼らは、謙遜になって、主の御心を受け入れ、自分の人生において神がされようとしておられることを受け入れたり、誰かが彼らにした事が何であれ、それを赦して忘れることを拒んだので、心の中にずっと昔に小さな苦い根が生えはじめ、どんどん大きくなっている。そしてやがてはそれが大木(たいぼく)となるのだ!

  37.強情にも、神があなたの人生に対処されていることを受け入れないというのは、「多くの事を無駄に経験すること」である−−ガラテヤ3:4。大きな試練やテストを通りながら、神がそれを通してあなたに教えようとしておられる教訓を学ばないとは、何と悲しい事だろうか。御言葉はこう言っている。「すべての訓練は、当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者には、平安な義の実を結ばせるようになる。」−−ヘブル12:11。だが悲しいことに、全ての人の試練がいつも「平安な義の実」を結ばせるわけではない。時には、恨みを抱くようになってしまう事もあるのだ。それは彼らがそれによって「鍛えられる」事を拒んだからであり、彼らが教訓を学ぼうとしないからだ!

 

A.火のような試練:あなたをより良くするか、

恨みを抱かせるか?

 

  38.「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけない事が起こったかのように驚きあやしんではいけない。あなたがたの信仰は試されて、火で精練されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊い事が明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変わるであろう。」−−第一ペテロ4:12;1:7。

  39.主は時々、私達には理解出来ない事を起こして、私達をテストし、試みられる事がある。私達を主の試練やテストという精練の火にかけられ、すべての不純物が表面に現れ、きれいに取り除かれるようにされるのだ。火はそのためにある−−私達の中にある悪いものを出し、取り除くために。

  40.苦しみやつらい経験は、神の触媒であり、試験管である。私達が信仰によってそれを受け入れる恵みを既に持っていることを明らかにしてくれるか、私達を恵みに導き、神を呼び求め、主の憐れみと愛と救出を探し求めるきっかけとなるかのどちらかなのだ。もちろん、場合によっては、苦しみを経ることによって、反抗的で主の御心に委ねていない人がますます反抗的になることもあるが!

  41.苦しみを経験する事によって、あなたは優しくなるか恨みを抱くかのどちらかで、そのどちらかの両極端になる。−−それはあなた次第だ。謙遜になるか、かたくなになるかのどちらかなのだ。

  42.これは老人によく見られる。年を経るにつれ、どんどんどちらか一方に傾いていき、静止していることはない。ますます円熟し、穏やかで、優しく、柔らかくなるか、よりかたくなになってしまうかのいずれかなのだ。私の母はよくこう言ったものだ。「ある老人はうまく保存されてきているけれど、ある老人は保存が悪く台無しになってしまっている」と! つまり、意地悪で、陰気で、惨めで、不幸せになってしまっているのだ。

  43.あなたの経験する悲しみや苦しみ、犠牲や嘆きは、あなたの内にある最善のものを引き出してくれる。−−優しさや憐れみ、愛、柔らかで砕かれた心、他の人への愛と思いやりなどを。−−あなたが主を愛し、それらの試練を通っている時に主に助けを求めるならば。主はこう言っておられる。「神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善を行い、そして真実であられる創造者に、自分の魂をゆだねるがよい。」−−第一ペテロ4:19。

  44.もちろん、そのような試練やテストを通っている時は、決して「喜ばしいものと思われず、むしろ悲しいものに思われる。」−−悪魔はあらゆる手段を使って、神はあなたを愛しておられず、祈りにも答えられないとあなたを説得しようとすることだろう!−−だが実際には、主は、あなたの信仰が試されるのを許し、あなたがどれだけ本当に主を愛し、主に仕えるためにどれほどの代価を喜んで払うつもりかを見ておられるのだ!

  45.魂が試される厳しいテストを通過している時、私達はよく主に対して疑問を抱くことがある。「なぜ私なんですか、主よ! どうしてこんなことが私に起こるのを許されるのですか?」と。私達は御言葉からこのことを知っている。つまり、主がこのような試練を許されるのは、私達の信仰や愛をテストするためだと。ちょうど主がヨブにされたように。このようなテストによって実際、私達の信仰は強められ、どんなことがあろうと神を愛し信じ、何が起ころうとも疑わなくなるのだ。−−ヨブがついに「たとえ主が私を殺そうとも、それでも私は主を信頼する!」と言ったように。−−ヨブ13:15。 そして彼は、ついにそのような立場を取った時、勝利を得た。悪魔は、たとえヨブを殺しても彼を止めることはできないとわかり、あきらめたのだ。

  46.ヨブの妻でさえ彼に「何て惨めな男なの。神を呪って死んだらいいわ!」と言った。考えてもみなさい。彼は自分の妻からの愛や尊敬まで失ったのだ。自分の子供達を失い、財産や健康を失い、ついに妻まで失ったのだ! ヨブが灰の中に座り、惨めにも腫れ物を陶器の破片でこすっていた時、彼女はこうあざけった。「さっさと神を呪って死んだらどうなの!」 しかし、彼は妻を叱責してこう言った。「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。何だって? 我々は神から幸いを受けるのだから、災いをも、受けるべきではないか。」 御言葉はこう続く。「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。」−−ヨブ2:7-10。

  47.その前には、サタン自身が神に「ヨブが地位や財産を失ったら、彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたを呪うでしょう。」と言った。(ヨブ1:11、2:5) しかし、親愛なるヨブに次々と災難が降りかかった時、ヨブはテストに合格し、悪魔が嘘つきだということを証明した! 彼は心をかたくなにしたり、妻の口を通して語られた悪魔の声に耳を傾けることもなく、神を逆恨みしたりもしなかったのだ。そうではなく、「ヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った。『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな!』 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言いませんでした。」−−ヨブ1:20-22。

  48.だが人によっては、謙遜になって神が自分に対処しておられることを受け入れるに至るまでに、実に多くの事を通らなければならないようだ。実際、決して要点をつかむこともなく、謙遜にもならず、自分の強情な意志や高ぶった独立的な霊を決して神に服従させない人もいる! そういう人は、救出を求めて主に呼ばわろうともしない。自分の力では出来ないことを絶対に認めないのだ。あくまで自分自身のやり方でしようとし、絶対に「参った!」とか、「主よ、私の負けです。降参します!」などとは言わない。

  49.自分に対処しておられることのゆえに神に対して怒る人さえいるほどだ! 彼らは怒り、利己的になり、神を呪うので、その結果、主が彼らをテストしたり、まともな人間にしようと対処される前の状態よりもひどい状態になってしまう!

  50.しかし主は、あなたが謙遜になり、御心に委ね、主に近づくよう強制されたりはしない! 砕きの過程は、あなた次第であり、あなたがどれだけ御心に委ねているか、何でも喜んでする人になるよう作り変えられたいという気持ちがあるかどうかにかかっている! だから、テストや試みを、罪を犯さず、反抗したり、不平を言ったり、苦い根を持ったりせずに受け入れるようにしなさい! 主はあなたが耐えられないような試練に合わせることは決してなく、必ず逃れる道も備えて下さると約束されている。(第一コリント10:13) 主は何とかして、それをあなたにとって簡単なものにして下さるか、少なくともあなたがそれに耐えられるよう助けて下さる。だから、「あなたの心をかたくなにせず」、「あなたの荷を主に委ねなさい。そうすれば主はあなたを支えられる!」−−ヘブル3:8、詩篇55:22。

  51.自分の人生において主がされようとしておられることをただ受け入れるなら、物事はずっと容易になる。砕きや懲らしめや教訓をただ受け入れ、それらに抵抗せず、ただ主を求め、主の御心に委ねるなら。覚えていなさい。主はあなたを愛しておられ、主ご自身の子供であるあなたに対しては、何をなさるにしても、愛の内になさる。−−つまり、あなたの益となるように。だから神のために、また自分のためにも、「神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。」(第一ペテロ5:6)、そしてかたくなになったり、恨んではいけない! より良くなりなさい、苦い根を持ってはならない!−−アァメン?

 

B.神を非難する!

 

  52.独善的な人々はいつも、自分の問題や災難を、自分のせいではなく、神のせいにする。そして試練を、神が何かの理由で送られたものとして受け入れることをしない。非常に独善的な人々は、「どうして神は私をこんな目にあわせるんだろう? 私は神にこんなに良くしているのに、どうして主は私をこんなふうに扱うのだろう?」と不思議がる。彼らは、神が自分を扱うそのやり方に憤慨しているのだ。

  53.あなたが神よりもほんの少しでも義であると考え始めるなら、つまり、「神は私のことを、こんな風に、あるいはあんな風に扱うべきじゃない」と考え始めるなら、それは実際にはあらゆる罪の中でも最悪のものの一つである! このような態度こそ、不平の種、または根そのものなのだ! 主に対して疑問を抱き、このように不平を言うのは、実際のところ、自分は神よりも−−あるいは他の人達より−−義であると言っているも同然である!−−つまり、もし私がボスなら、こんな事を起こさせはしなかったし、私はもっとうまくこの場を収めていたし、こんなことはしなかっただろうし、あれもしなかっただろうと言っているも同然なのだ!

  54.私達の誰でも、このような危機、窮地、テスト、試練、困難、剥奪、迫害−−災難や問題が何であれ−−に直面した場合、最初にしなければならない事は何か?−−不平を鳴らすことか、不平を言うことか? 気分を害し、物事が自分の望むように行われていないことで怒るのか?−−もちろんそうではない!

  55.しかし、物事がすべて悪い方向に進んでいるように思える時、多くの人がする最初の事とは、祈って、「主よ、どうしたのですか?」と尋ねることである。−−そしてある人にこの質問を尋ねる時、彼らが本当に意味する所は、「あなたのどこが悪いのですか、神よ? どうしてあなたは私の期待を裏切ったのですか?」ということである。私達が本当に祈るべきことは、「主よ、私のどこが間違っているのでしょうか? 私の行動に何か悪い所があるのですか? 私が何かあなたを悲しませたのでしょうか?−−私が何かあなたに対して失敗したり、不従順だったりしたのでしょうか? 私はあなたの御心からはずれていたのですか? まず、主よ、私自身の、あるいは、私の状況のどこが間違っているのでしょうか? 何が間違っているのですか?−−それともあなたはただ私をテストしているだけなのですか?」である。

  56.多くの人は、問題や試練を抱え込むと、神が何か間違いをしたのではないかと考えるが、それとは裏腹に、神には何も間違った所はない! 神、神の愛、神の子供達を取り扱うそのやり方に何も間違いはない! 問題は普通、私達にある。−−御言葉でそう言っているように、「ただあなたがたの不義が、あなたがたとあなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」−−イザヤ59:2。

  57.主は「私はつんぼではない。私はあなたの祈りを聞くことができるし、私は聞いているのだ!−−そして私の腕が短くまたは弱いために、あなたを救い、助けることができないのではない。問題は天上にあるのではなく、地上のあなたにある!」と言っておられる。−−私達であって、神ではない! だからあなたの災難、問題、危機、困難のゆえに、神を非難したり、神に憤慨してはいけない! それは神のせいではないのだ! 神には何も悪い所はない!「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。」−−ローマ3:4。

  58.試練の時期にあってあなたがすべき最も重要な事とは、ぶつぶつ言い、不平を鳴らし、愚痴をこぼし、神のいわゆる失敗や酷使、手落ち、虐待、残酷さ、耳を貸さず、無関心であることに対して恨みを持つことではない!−−なぜならそれは全く真実ではないからだ! あなたは、イスラエルの子らが荒野でしたのとは正反対の事をしなければならない。つまり、じっくり状況について考え、祈ってみる事である。

  59.「神よ、私のどこが間違っているのでしょう? 私の行動、または私のしたやり方のどこが間違っているのでしょうか? 私が何をした為に、あなたが悲しみ、私に祝福を与える事ができないでいるのでしょう? わざと、頑固に不従順であったにしろ、知らず知らずの内に不従順を犯したにしろ、あるいは単にどこか至らない所があって、徹底的に従順ではなかったのにしろ、私はどんな不従順を犯したのでしょう? または、私が十分聞いていなかったか、あなたの声と導きに十分従っていなかったからかもしれません。−−それとも、あなたはただ私の信仰をテストしておられるのですか? または私を謙遜にさせ、あなたにもっと近づけようとしておられるのですか?」

 

C.他の人を非難する!

 

  60.自分の問題をまわりにいる誰かのせいにするというのは、人間の常である。「責任を誰かになすりつける」のは、エデンの園に始まっており、人は、自分が困った羽目に陥りそうになると、自己弁護のためにまず最初に、人に責任をなすりつけようとする。

  61.エデンの園で何が起こったか、少し考えてみなさい。罪が暴かれた時にアダムが神に言った最初の事は、「それは私の妻のせいです。彼女がしたのです!」であった。そしてイブは、「それはへびのせいです。全部へびがしたのです!」と言い、そしてへびも、「それは神がしたのだ。すべて神のせいだ!」と言ったも同然だった。(創世記3:12-13) 「責任を誰かになすりつける」ことと誰かを非難することは、多くの人々がみせる全く無意識な反応であり、自己防衛の手段なのである。

  62.恨みを持っていて、苦い根の霊がある人々は、特にこのような傾向がある。彼らはいつも、自分達の間違いや悩みや失敗全部を誰か他の人のせいにするのである。自分の問題はいつも誰か他の人のせいなのだ。

  63.もし何かこの面で問題や弱さがあるなら、悪魔は「聖徒を非難する者」であることを覚えておくと賢明であろう。(黙示録12:10) 自分の問題をいつも誰か他の人のせいにすることは、悪魔自身の策略なのである! 「主よ、どうして私なのですか? 私はそんなことしませんでした。彼らが私にしたのです!それは私のせいではありません。彼のせいです。彼女のせいです! 彼らが非難を浴びるべきです! 彼らが私にそれをさせたのです!」 自分の問題をすべて誰か他の人のせいにする方が、もっと簡単で都合が良いと考えている人々がいるのだ!−−「それは私が一緒に住まなければならない全くひどいあの人のせいです。または、あのひどいボスのせいです。」−−またはこれやあれやと言ってくるのである!

  64.これは全く典型的な悪魔の策略である。悪魔はいつも聖徒を非難し、いつもあなたに他の人がしていることを大げさに見せる。そして他の人が言った事やした事を偽って、それがあなたから見て、実際よりもずっとひどいことに思えるようにするのだ。−−悪魔はあなたについてさえも神に同じ事をする! 悪魔は、見つけられる限りの小さな事や欠点などあら捜しする専門家である。そして常に誰かを非難して、悪い事全部を誰かのせいにさせようとするのだ!

  65.しかしもしあなたが自分の問題に対する責任を取ろうとせず、いつも誰か他の人のせいにしているなら、何の勝利や進歩もないまま生涯を終えてしまうことになるであろう! あなたが独善的に自分に起こった悪い事すべてを、誰か他の人のせいにしているなら、一体どうやって霊的に成長し、主から何かのレッスンを学べるというのか?

  66.たとえあなたが真に誰かから虐待され、誤解されたなどと感じてきたとしても、むっつりして、ふくれっつらをし、自分のことをかわいそうに思う代わりに、もっと深く物事を見て、自分が虐待されたとか、誤解されたと感じていた事よりも、もっと深刻な点を主があなたにわからせようとしておられるという事を見る方がもっと有益である! 物事を早まって判断して、誰かを非難してはならない。自分自身の目から梁を取り除く必要がある時に、兄弟の目のちりを気にしてはならない。アァメン?

 

 D.恨みや憎しみに満ちた思い:悪魔の邪悪な種!

 

  67.「人の心の中から、悪い思いが出て来る。」(マルコ7:21)とは言え、私達は、恨みや憎しみ、憤慨した思いもまた神の子供達を常に攻撃してくる「悪魔の策略」(第二コリント2:11)であるという事実に無知であってはならない。私達の霊的な敵はいつも私達の守りに付け入る道、弱みを狙っている。敵は常に、私達の親交のやぐらに「火の矢」を放とうとしており、意見の衝突や嫉妬、妬み、口論、利己的さ、内部での不和などの邪悪な種を撒き散らそうとしているのだ。

  68.だから私達は皆、他の人に対するそのような思いに気をつけ、防御していなければならない。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」−−第一ペテロ5:8。

  69.恨みや憎しみに満ちた思いをもって、あなたを毒し「汚そう」とする時、敵は普通とてもずる賢いやり方をする。やつは自分の毒をとても魅力的に見せ、あなたがほしい物であるかのようにそれを提供する。悪魔はたいてい、その薬をほど良い真実の砂糖にくるみ、それを信じて飲み込めばいいと考える人々を欺くのだ。

  70.私が小さかった時、薬やカプセルをキャンディーでくるみ始めたので、子供達は喜んでそれを飲み込んだ。彼らはキャンディーだと思ったからだ。しかし中身は苦く、ひどい味の薬であった。そしてそれは、悪魔の嘘と全く同じである。どんなに悪魔が砂糖がけをして誘惑してきたとしても、またはそれがあなたの好みに合っていたとしても、どんなにたくさんの真実を使って、誰かに対するあなたの苦い思いをそのままにさせておこうとしたとしても、悪魔の思いは飲み込むには苦い薬であり、もし飲み込むなら、あなた自身が苦くなるのだ!

  71.だからこそ、たとえ小さな苦い根、憤りまたは批判的な霊でも入り込ませるのはとても危険である。敵はそれを足掛かりとして使う事ができるのだ。特にそれが嫉妬や、プライド、あるいは、復讐したい、あだを討ちたい、自分を哀れみたい、弁解したいという動機から来ている場合はなおさらだ。「ああ、ただの小さな種じゃあないか。彼らに対するほんの少しの恨みや不平だけだ。そんなに悪い事じゃないさ。それに彼らは、そうやって悪く思われるに値する!」と思うかもしれない。しかしその霊的な武具の小さな割れ目こそ、まさに悪魔が入り込もうとする場所であり、そこから悪魔の偽りのガスがあなたの思いを毒し始めるようになる。というのも、あなたが悪魔に対して扉を開けてしまったからだ。そしてすぐにあなたは霊から完全にはずれてしまう!

  72.窓を開けっ放しにしているなら、部屋にたくさんいるハエを全部追い払ってしまうことはできない。同じように、悪魔とそのわずらわしさも、強制的に外に出し、扉または窓を閉め、もう入ってこれないようにするまでは、完全に取り除くことはできない!あなたが苦い根や憎しみを人生の内にそのままにしておくなら、敵を中に入れていることになり、扉を開けっ放しにしているも同然なのである。

  73.私の母がよく言っていたものだが、ある人々は、悪魔が扉をたたいてくると、構わず扉を開けて、「いらっしゃい、悪魔さん。中にどうぞ。悪魔婦人と小さな疑い全部もどうぞ中に入って下さい! この椅子は座り心地がいいですよ。座って語り合い、楽しい時間を過ごしましょう。あなたがたの言いたいことを全部聞きましょう!」と言う。だが本当は、自分の思いや心の中で、最初に敵が扉をたたく音が聞こえ、それが誰かわかるや否や、敵の顔に向かって扉をすばやくぴしゃっと閉めて、敵に入るすきを与えないようにすべきである! 敵の最初の疑い、「火の矢」である最初の邪悪な思いに耳を傾けるべきではない!

  74.イブはそこで間違いを犯した。彼女の最初の間違いとは、立ち止まって悪魔に耳を傾けたことだった。悪魔が否定的または批判的な思い、疑いに満ちた思いをあなたの心に植え付けようとしてきても、それに耳を傾けることさえしてはいけない。悪魔に立ち向かいなさい! 悪魔をイエスの御名によって叱責し、神をほめたたえ、あなたのすべての祝福を主に感謝しなさい! 悪魔の否定的な考え方を拒み、肯定的なことを考えなさい! イブは、立ち止まって耳を傾けると、すぐに悪魔を信じるようになった。だから悪魔になど耳を貸そうともするな!−−「悪魔に機会を与えてはならない!」−−エペソ4:27。イエスに耳を傾け、御言葉を読み、勉強し、暗記し、主を賛美しなさい。そうすれば敵は逃げ去るであろう!

 

E.苦い根の声:不平!

 

  75.物事に関して不平や苦情を言っているように感じる時には気をつけよ! このような感謝していない、疑い深い、否定的な態度は、苦い根の徴候であるばかりではなく、バックスライディングでもある!たとえ実際に主に対して背を向けてはいないにしろ、心の中では、疑いや不平や誰かに対する批判的な思いを許した時点ですでに主に背を向けているのだ。人々が他の人のあら捜しを始め、自分自身のあらを隠し、不平を言い、すべての事に対して文句を言い、持っている物のゆえに主を賛美する代わりに不満を言うなら、それは危険な罪である!

  76.たとえあなたが完全にバックスライドする所まで行かなかったとしても、もしそのように不満や恨みを声に出して回っているなら、あなたは確実にインスピレーションや主の塗油を失う事になるだろう。何かに対する不満や批判や不平を言い続けながら、同時に自分の仕事のために神の聖霊を保ち続けることはできない。それは全く不可能である。あなたは聖霊が離れ去った後のサウルのようになってしまう。彼は実に心をかたくなにし、冷淡になり、塗油がなくなってしまったことさえ知らなかった! それをなくしたことさえわからなかったのである。

  77.誰かが不平を言って回り、常に何かに対して批判的であるなら、その人は、悪魔の嘘を思いと心に迎え入れているということだ。「心からあふれることを、口が語るものである。」−−マタイ12:34。それからその人は悪魔の証人となる。もしあなたの心が否定的な思いで一杯なら、近い内にあなたはそれを口に出すようになり、それは他の人を本当に引き下げることにもなる。

  78.人が不平不満を言い、批判的になる一つの理由は、自分が全く良くやっておらず、勝利を得ていないと知っているからである。−−そういう人は自分が御心に委ねず、反抗的なために失敗しているとわかっている。そこで、良くやっていけるよう努力し、これ以上失敗しないようにし、良くなろうとする代わりに、自分を正当化し、言い逃れを言い、自分が正しいことを立証する何かを探し始めるのである。こういった人は常に、自分の責任や失敗を誰か他の人のせいにし、非難するのである。

  79.このような不平は事実上、敵とその疑いの声であり、こういう批判的な霊は、意見の衝突、不和、兄弟間の内輪もめの種を蒔く! これは神が忌み嫌われる7つのものの一つである!−−箴言6:16−19。だから確かに、自分がそのようなひどい状態に陥ることを許す人々を、神は祝福することはしないし、またできないのだ。

  80.事実、もしあなたが神に対して不平を言い、人生の巡り合わせに不満を抱き、自分のいる状況や状態について愚痴をこぼし、苦情を言い、神やシェパードや兄弟に対して不平を言うという罪を犯しているなら、神は最初に計画されていたよりも長い間、あなたをその状態に留まらせるであろう!−−ちょうどイスラエル人が神に対して不平を言った時に神がされたように!−−感謝し、忍耐を持つのを学ぶまで、あなたをその状態に留まらせるのだ! 「患難は忍耐を生み出す!」−−ローマ5:3。

  81.あなたの試練や困難がどんなに大きなものであっても、またそれがいかに悪い状態であっても、もし、神がこの困難な時期から自分を救い出して下さると信頼する信仰があるなら、あなたは不平や不満を言ったりはしないであろう! あなたは喜び、神を賛美し、試練までも感謝することであろう。神があなたを救い、解放して下さると知っているからである!−−そして神はそうして下さる! PTL!

 

V.苦い根が生えるのを

  どう避けるか!

 

  82.苦い根、あるいはその他の深刻な霊的問題を持たずに済む最善の方法は、「主にあって、その偉大な力によって強く」あり続けること−−エペソ6:10−−そして、御言葉と祈りと霊の内にいることだ! あなたが主に信仰を持っていて、御言葉にあって強く、主に信頼しているなら、主はあなたがそれらの問題で敵にやられるのを許されはしない。

  83.しかし、主に近くいるというのは、祈ったり、御言葉を読む時にだけすることではない。そうではなく、主との個人的な接触や関係を持つことであり、それは、日常生活においても持っていなければならないものである。次のセクションは、主との歩み、また他の人との歩みにおいて、苦い根から解放されるのを助ける具体的なステップを示すものである。

 

A.最も大切なものは愛!

 

  84.聖書には、「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」とある。−−第一ペテロ4:8。愛は愛しにくい者でさえ愛し、数え切れない罪にベールを投げ掛ける! 愛していない人の長所を見付けることは難しい。でも誰かを本当に愛するなら、彼らの間違いを見逃し、赦すことはずっと簡単になる。

  85.あなたが主の愛を持ち、他の人に対して愛情深いなら、物事の明るい面を見ようとするだろう。楽観的になり、人の長所を引き出し、良い点を見ようとするのだ。他の人に愛情深くしたり親切にしようとするなら、彼らに対してきつくなったり、批判的になったり、恨みを抱いたりはしない。でも彼らを愛していないなら、彼らがあなたの前を横切るだけで、何か欠点を見付けてしまうものだ!

  86.あなたが他の人に対して真の愛を持っていれば、物事を見過ごすことはずっと簡単である。学校では、一つの学年から次の学年へ進むことを及第(訳注:英語では「pass」で大目にみるという意味もある)と言う。車で旅をしていると、色々な物が通り過ぎていく(pass)のが見えるので、自分が動いているとわかる! というわけで、物が通り過ぎていく(pass)なら、自分が進歩しているとわかるのだ。

  87.自分の霊的生活でも同じことだ。物事を見過ごして(pass)、それほど心配しないなら、それはあなたが進歩を遂げている証拠だ。他の人がした根拠のない批判や、愚かなこと、言ったことに対して、極端に繊細になったり、ひどく怒ったり、恨みを抱いたりしないなら、あなたは物事を見過ごし、受け流しているということだ。「愛は、多くの罪をおおうもの」で、物事をただ見過ごすための恵みと力を与えてくれ、他の人を赦すための恵みと力も与えてくれる。自分にも赦しが必要だと知っているからだ。私の母の詩「受け流しなさい」のこの一節は、この点を明確にしている。

 

  真に偉大な人物は、人が無礼な事をしてきても

  ただそれを軽く受け流す。

  心に深く突き刺さるような

  きつく辛らつな言葉をも

  ただ軽く受け流す。

  彼らはそれを気にも留めないほど偉大なのだ。

  微笑みをもって、あるいは目を輝かせさえして

  ただ軽く受け流す。

  結局はその方が良いと学んだのだ。

  だから友よ、ただ微笑んで、

  受け流しなさい。

 

  88.主と主の愛は、苦い根と憎しみという毒の解毒剤である。主とその聖霊は、聖徒を責める悪魔をいつも叱責し、敵対してくれる。主の御霊は、否定的なものを強調して他人を非難するのではなく、他の人の良い所を示してくれる。私達が主に近くある時には、自分も含めて誰も完壁な人などいないことを主が忠実に示して下さる。結局のところ、私達は皆人間なのだ。そのことは、私達が他の人達に愛や憐れみを持ち、赦すのを助けてくれる。なぜなら、自分も完壁でないと知っているからだ。

  89.私達は皆、本当に謙遜になって、他の人に憐れみを持てるよう助けて下さいと主に求めなければならない。私達自身、多くの罪を赦してもらう必要があるのだから。自分がどんなに罪人で、どれだけ多くの間違いを犯してきたかを覚えておくことは、私達を謙遜に保ち、他の人達を批判したり非難する独善的なプライドの霊を持たないようにするのに本当に役立つ。私達は「神がキリストにあって私達をゆるして下さったように、互いに許し合う」必要がある。−−エペソ4:32。愛を求めて祈りなさい!

  90.自分を忘れて、もっと他の人のことを考え、彼らを助けようと真に努力し、彼らのために祈り、愛するなら、あなた自身の問題の殆どは解決されることに気付くことだろう! あなたの思いを自分の問題から離して、他の人に向けるなら、真の喜びと幸福が味わえるとわかるだろう。これこそが喜びを見いだすための原則なのだ。イエスを第一に、そして他の人のことを思い、自分のことは最後に!まず、あなたの思いをイエスに留めなさい。そうすれば、主はあなたの思いを他の人に向けるのを助けて下さる。そしてその人を自分のように愛するのを助けて下さるのだ。PTL!

 

B.「互いに罪を告白し合いなさい!」

−−ヤコブ5:16

 

  91.あなたが主に仕えていて、主のために最善を尽くしていても、いつもすべての事が完全というわけではない。時には自分の思うようにいかないことも起こるものだ。でもそのような事が起こった時には、あなたとその人との間で、あるいはあなたと主との間で物事を正すように努めるべきである。あるいは、少なくともあなたのシェパード達にそれを話すこと。自分の心の中にしまい込んだり、陰で不平や愚痴を言って回ってはいけない!

  92.主は、そのような「気分を害するもの」にしがみつくなら、あなたが傷つき、自分を引き下げるだけであることを知っておられる。−−だからこそ、主はこう言っておられるのだ。「憤ったままで日が暮れるようであってはならない」−−エペソ4:26。怒ったままでベッドに入り、眠りにつくまでその怒りや不満を持ち続けるなら、ただそれを長引かせるだけである。勝利を得ずに、誰かに対して怒ったり恨みを抱いた、そういうムードで寝るなどというのは、ひどいことだ。実にひどいことだ。

  93.イエスは、自分が傷ついたり、誰かに腹を立てたり、怒ったりしている時には何をすべきかをとても明確にされた。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。」−−マタイ18:15。そして、あなたがその原因を作っている側であれば、やはり兄弟の所へ行くべきである。「互いに罪を告白し合い、また、癒されるようにお互いのために祈りなさい。」−−ヤコブ5:16。勿論、そのような「恨み事」のために誰かの所へ行く時には、自分が愛と謙遜の内に行き、また相手が心に持っているかもしれない不満や「恨み事」を喜んで素直に聞くことが出来るよう、主に助けを求めるのを忘れないように。

  94.自分が誰かに対して怒っている時にそれを認められないほどプライドが高いなら、また、プライドのゆえに、それを告白したり、謙遜になって赦しを求めたり、主の解決策を探し求めることが出来ないなら、それは簡単にあなたの心の中で小さな苦い根となってしまう。−−そして成長して、癌のようにあなたをむしばむのである。

  95.霊的にも、そのような小さな事を心の中に溜め込んでしまい、それを出してしまわなかったり、主やそれにかかわる人に告白し、それを根こそぎ抜く助けを求めないなら、癌のようにあなたをむしばんでしまう! 普通それは小さな繊維、小さな根として始まるが、どんどん大きくなり、あなたをどんどんむしばみ、最後にはあなたを食い尽くしてしまうのだ!

  96.それが、あなたが他の人や主に対してでさえ持つ問題や不満の種の行き着く所である。−−何かのことで腹が立ったり、怒ったりした時に、それを溜め込んだり、プライドのゆえに正直にそれを告白しないなら、それはどんどん化膿し、悪化し、問題を引き起こす。正直になるには謙遜にならなければならない。

  97.もし私達がそれらの「恨み事」や不満の種を心に宿らせるなら、どんな問題を引き起こすかを、主はご存じである。主がこう言われたのもこのためだ。「また、立って祈る時、誰かに対して、何か恨み事があるならば、赦してやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを赦して下さるであろう。」−−マルコ11:25。

  98.主は私達に、誰に対しても絶対に恨みを抱かないようにと言われただけではなく、自分に対して誰かが恨みを抱いていると感じたら、それを正す為に最善を尽くすようにとも言われた。「だから祭壇に供え物を捧げようとする場合、兄弟が自分に対して何か恨みを抱いている事を、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて供え物を捧げる事にしなさい。」−−マタイ5:23、24。

  99.つまり、うっ積した否定的な感情を取り除く事はとても重要なのである。あなたに助けや祈りが必要な時には、それらを取り除いて謙遜になって告白する必要がある。心に溜め込んで何も言わないよりは、謙遜になり他の人に告白する方がずっといい。何も言わなければ容易に心の中で不平を言ったり、恨みや不満を抱いたりしてしまうからだ。

 

 C.前向きな、感謝に満ちた態度を保ちなさい!

 

  100.人が学べる事の内、世界で最も偉大な事の一つは、どんな状況にも満足することである。富むことにも、乏しいことにも満足することである。−−ピリピ4:11、12。それは正に、何年にも渡る主への奉仕の中で私達が学んできたことである。時にはひどく貧しい生活をしたこともあったが、最近は以前の貧しさに比べると本当に富んでいると思われる。人生の苦楽を味わい、主が与えて下さるものは何でも感謝していただくことを学んだのだ。状況のせいで恨みを持つようなことはしなかった!

  101.私達は皆、祝福を数えることを学ぶ必要がある! 主は、私達が良いものに思いを留め、否定的なことや試練、疑いや恐れや敵や問題、患難や災いなどで悪魔が私達の頭を一杯にしようとするのを拒否することを望んでおられる。あなたはこのあらゆる否定的なものから目を外し、自分の持つ多くの祝福について考えるべきである!

  102.自分の持つ、ほんの少しの小さくささいな問題や試練について不平を言う代わりに、もっと自分の多くの祝福について神に感謝する習慣をつけるなら、神はそれらの小さな問題からもあなたを救い出して下さるかもしれない! でも、もし素晴らしい洋服や、鮮やかな赤いネクタイを見もしないで、マットのベストのボタンの取れている所だけを見るなら、主が怒られるのも無理はない!(ML#1492、民数記11:1、第一コリント10:10を参照!)

  103.主は、私達はこれらの否定的なものの事を全く考えるべきでないと言われている! 「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべて誉れあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心に留めなさい。」−−ピリピ4:8。いつでも、否定的な考えや、批判、憤りなどが自分の思いの中に入ってきたら、すぐに敵を叱責してこう言うべきだ。「サタンよ、お前をイエスの御名で叱責する! 聖徒を責める者よ、お前に敵対する、イエスの御名で! イエスよ、これらのことを考えないよう、助けて下さい!」 主をほめたたえ、聖句を引用し、主を賛美する歌を歌い、主に呼ばわれば、悪魔は逃げ去るであろう!

  104.ヨナがついに「救いは主にある!」と叫んだ時、彼を飲み込んだ大きな鯨は耐えられず、ヨナを吐き出した!(ヨナ2:9,10) だから、悪魔が多くの問題を送ってあなたを飲み込むのを神がお許しになったとしても、あなたはただ、主への賛美を叫び続けなければならないのだ! 悪魔はそれに耐えられない。問題もそれに耐えられないのであり、神は必ずあなたを救い出して下さるであろう!しかし、あなたがダンプスに陥り、不平を言い、いつまでもぶつぶつと言って、不満や疑いや何であれ、それらを言って回るなら、深い海の底へどんどん沈んでしまうだけである。

  105.だから、敵があなたを落ち込ませ、何かについて批判的になったり、不満を言うように誘惑してきたら、主を賛美することや祝福を数えることによって反撃に出なさい! 神の王国とファミリーの中でのあなたの場所に満足し、感謝することが出来るよう、主に助けを求めるのだ。また悪魔がやってきて、他の人と比べて自分のほうが劣っていると考えさせたり、自分や自分のしていることを過小評価させようとしたら、ただ主を賛美し始め、自分の祝福について主に感謝し始めよ。そうすれば、敵はしっぽを巻いて逃げ去るであろう!

  106.それが何であれ、主のファミリーの中でのあなたの仕事や場所について、神に感謝し、主を賛美しなさい! あなたが床を掃いていようが、トイレを掃除していようが、料理や使い走りをしようが、維持の仕事をしていようが、何であれ、自分が主の家におり、それらをイエスのために出来ることで神に感謝せよ! 「わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います!」−−詩篇84:10。

  107.富んでいようが、貧しかろうが、自分達の持っているものに感謝すべきである。そしてそれらのゆえに神に感謝すべきだ。それよりも良いものはないからだ! 主にあっての私達の生活の中で正に「最悪」のものですら、神を敬わない体制が与える「最高」のものよりもはるかに優っている! 私達はこの世で最高の人生という祝福を受け、この世で最高の仕事を持ち、この世で最高の愛を持ち、この世で最高の主がいて下さるのだ−−最高に素晴らしい主が! 神の愛と御言葉と御仕事と働き人達と彼らとのフェローシップ以上に素晴らしいものはない。そして神の王国において主と魂のために生き、共に働き、愛し合うこと以上に素晴らしいものは!−−この世には、それらに優るものなどないのだ、PTL! そして今十分に幸せでなくても、天国において私達の働きの永遠に渡る結果を見るなら、その時には絶対に十分に幸せになるだろう!

  108.気分が良い時でも、あなたはそのことについて、主に十分に感謝したり、賛美したりしていないかもしれない! 「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ!」−−詩篇150:6。私達は皆、もっと主を賛美し、もっと積極的になることができる! あなたの健康を主に感謝せよ! 自分が丈夫であること、全くの不具者ではないこと、致命的なけがや病気などをしていないことで主に感謝せよ! いろいろな事があなたに起こったかもしれないのだ。だから自分の持っている祝福を主に感謝せよ! PTL!−−常に前向きで、感謝に満ち、イエスへの賛美で満ちていよう!

 

D.自分の思いを防御せよ!

 

  109.自分の庭にあるものが生えないようにする最も簡単な方法は、初めからその種を蒔いたり、それを植えたりしないことだ! 自分の人生において、苦い根が生えないようにする最善の方法とは、自分の思いや心の庭に、恨みや批判的で否定的な種が入って来ないようにすることである。−−だから、自分の思いを防御し、悪魔がその邪悪な種や思いをあなたの内に蒔こうとしたら、抵抗しなければならない!

  110.私達は皆、時に、主ではなく敵の声に耳を傾けるという経験をする。実際、主は私達が悪魔の声や思いを聞くのを許される。−−ただ、私達がそれを受け入れるか、拒否するかを見るテストのためだけだったとしても。

  111.すべてが神からの声ではない。あなたは自分が聞いているのが主からのものであることを確認するために、「霊をためす」(第一ヨハネ4:1)ことを学ばなければならない。それが御言葉に沿ったものでないなら、あるいは、あなたに不満や恨みを抱かせるものや、満足せず、不幸せで自分や他の人に対して批判的にさせるものであるなら、これらのものは、主からではないので、これらの否定的な思いによって敵があなたを誘惑しようとするなら、イエスの御名で敵を叱責しなければならない。

  112.悪魔が、あなたに何かを告げたり、他の人に対して、あるいは主に対してでさえ、批判的な思いや恨み事をあなたに抱かせようと誘惑してくるのを止めることはできない。敵はいつもあなたに語りかけ、自分の邪悪な意志を通そうと努めることだろう。しかし、時には敵の声を聞かないようにすることが出来なくても、あなたはいつも、敵の言いなりにならないことは出来るのだ。

  113.多くの人は、自分が愛情深くない事や、罪深い事を思うことで、自分はひどく邪悪であるに違いないと考え、きまり悪く感じるようだ。しかし私の母がよく言っていたように、「頭のまわりを鳥が飛ぶのは止められなくても、頭の中に巣を作らせないようにすることは出来る!」 悪魔があなたを誘惑し、「火の矢」をあびせ、話し掛けてくるのを止められなくても、敵に返事をし、ドアを開けて、悪魔や小悪魔や疑いを招き入れる必要はない!

  114.敵があなたを批判的で、憎悪に満ち、不親切で疑い深く、恐れに満ちた思いで攻撃したり、誘惑してくるなら、それに敵対して攻撃的に戦ったらいい! それらの思いを叱責し、前向きに考えなさい! 節を引用したり、賛美歌や福音の歌を歌って、思いを声に出しなさい。節を引用したり、前向きな事を話したり、大声で歌ったりしながら、同時に否定的な思いが頭の中を巡っていることなどできないのだ!

  115.部屋が暗い時、暗闇を部屋から追い出そうとして追いかけ回すことはしない。−−ただ、光を内に入れて、光に闇を追い出させる! 誘惑や否定的な思いを取り除くには、良い事、つまり神の御心に沿った事を考える事だ。聖書を読み、祈り、イエスについて考えなさい。そうすれば他の事を考える時間すらないだろう。−−だからイザヤはこう言ったのだ。「あなたは全き平安を持って、その思いをあなたに留めている者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである。」−−イザヤ26:3。あなたの思いをイエスに留めているなら、他の事を考えている暇はない!−−歌いなさい!

  116.あなたの思いを力強く素晴らしい、神の御言葉で満たしなさい。そうすれば暗闇が入る隙などなくなる! あなたの思いを神の御言葉という光で満たしなさい。そうすれば暗闇は逃げ去るであろう! 悪魔の嘘に耳を傾けてはいけない!−−そうするなら、イブに起こった事があなたにも起こるようになるからだ! 悪魔の疑いや恐れや、落胆、誘惑それら一切のものに耳を傾けるな! 神の御言葉を敵にぶつけてやりなさい!

  117.兄弟姉妹に対して、否定的な思い、あるいは怒りに満ち、批判的で憎悪に満ちた思いを抱く誘惑に駆られたら、悪魔は「聖徒を責める者」であって、必ず他の人を責め、あなたに対して彼らの失敗を誇張してくるという事を覚えておきなさい。敵はちょっとした何気ない批評や行動をねじまげ、実際よりもずっと悪く聞こえるようにしさえする。しかし、一旦、その否定的で批判的な考えが、主におけるあなたの兄弟姉妹とあなたを引き離すための敵の攻撃であると認識するなら、そういう思いに対してドアをバタンと閉め、確固たる前向きな立場を取って対抗することができる。

  118.神と御言葉に信仰を持っているなら、悪魔が嘘つきであることを知る。そして、それらの邪悪な恨みが自分の思いの中に入ってくる時、悪魔があなたに語りかけていることを知るのだ。だからただこう言いなさい。「サタンよ、イエスの御名によって、お前に立ち向かう! お前に敵対する!」神の御言葉はもし敵に立ち向かうなら、彼は私達から逃げ去ると言っているからだ!−−ヤコブ4:7。一旦それがサタンの声であると認識したら、払いのけることができるのだ。「これ以上、お前に耳を傾けないぞ! 嘘つきで、欺く者、だます者に聴き入るつもりはない! それは真実ではない、まったくの嘘だ!(もしくは、誇張であり、誤解か半分の真実だ。など)」

  119.悪魔が、他の人や主に対して、あなたに恨みを抱かせようとしたり、憤慨させようとしてきたら、前向きになって敵と戦いなさい! 賛美歌やイエスについての歌を歌い始め、祈り、神の御言葉を引用するのだ! ただ光を内に入れるなら、暗闇は必ず逃げ去る! 否定的な思いや、批判的な思いによって誘惑されたり、攻撃を受けたら、ただ前向きになって反撃に出なくてはならない! 意識的に努力して悪魔を叱責し、代わりに前向きな良い思いを考えるようにしなくてはならない。アァメン?

  120.自分の思いや言葉に気を付け、心と思いとを主や御言葉で満たすなら、あなたはしっかり守られ、防備を固められ、保護のための神の天使達に囲まれるだろう。つまり神から送られる守護天使に守られ、敵の批判的で混乱を招くいざこざや、否定的な訴えや疑いから解放されるのだ。一日を通して、あなたがするすべての事において、何をするのであれ、人生におけるどんな行動も、あなたがするどんな事、言う事、あるいは考える事においてでさえも、絶えず防御していられるように主に助けを求めなさい。ちょうどビデオをモニターするように、自分の思いや言葉や行動を監視したらいい! そうすれば、いつも善を選び、悪を退ける事ができる。(ローマ12:9)

 

E.物事を主からとして受け取る!−−ローマ8:28

 

  121.すべての道で主を認め、起こったすべての事において主のことを考えるようにするなら、状況がどんなに悪く、どんなにひどく、またどんなに苦しいものに思えても、あなたは神がそれをコントロールしておられるとわかる。神があなたを愛していて、あなたを耐えられないような試練に合わせることはないとわかるのだ!(第一コリント10:13) そしてあなたが神の子供であり、神の御手があなたの人生に置かれていると知っているなら、どうして神に対して恨みを持ったり、怒ったりするのか?「彼がした事は、何もかもすばらしい」(マルコ7:37)のであり、神の愛する子供であるあなたを扱う神のやり方には決して間違いがないと知っているのだから。神はすべての事を、愛の内に行われる。

  122.もしあなたがすべての事を主に関連づけて考えるなら、あなたは正しい見解、神の論理、天国的な知恵、「上からの知恵」−−ヤコブ3:17−−を得ることができる。あなたの状況のすべてを主に関連づけて考えるなら、すべての事には目的があり、何か理由があって、それも良い理由があって、神がそれをなさったことに気づくであろう!

  123.目をイエスに向け、「見えるものによらないで、信仰によって歩いている」(第二コリント5:7)なら、あなたの偉大なシェパードである主が一緒にいて、全ての事を治めておられると常に知っている。−−そして勿論この事を知っているなら、主があなたの人生にどんな事を起こされても、それをもっと容易に受け入れる事ができるようになる。

  124.主は私達に、「神を愛する者たちにとって、万事が共に働いて益となるようにして下さる!」と約束された。−−ローマ8:28。この節を本当に信じるなら、主は決して、何かの良い目的もなしに、見たところ悪い事が起こるのを許されはしない。主は良い理由のためだけに、そのような事が起こるのを許される。−−時々私達が悪かったり、コレクションが必要な場合や、または私達は良くやっているれど、テストを通じて私達をより良くしたいと主が考えておられる場合である。よく言ったことだが、時々神は私達を謙遜にさせるために何かが起こるのを許される。そして後で神は、私達がまだ謙遜であるかどうか確かめるために、何かが起こるのを許されるのだ。

  125.神の許可なしには、何事も起こらない。−−また、あなたの許可がない限りは、とも言わせてもらおう! 言い代えるなら、時々あなたは、不従順を犯したり、主に委ねていなかったり、主の御心からどういうわけか外れてしまったことによって、自分自身を災難へと落とし入れてしまうのである。神は私達にレッスンを教えるために、その災難に落ち入らせる! 時々は自分自身を苦境に陥れてしまう。その結果に苦しむのは、私達自身のせいなのだ。

  126.主はしばしば、誰かを使って私達をテストする。誰かが私達に対して問題を引起こすのを許されるのだ。というのも、主は、私達がどんな信仰を持っており、主にどれぐらい近くとどまり、主にどれぐらい堅くしがみつくかを見ようとテストしておられるからだ。主は、問題のせいで私達が動揺するかどうか、また私達の信仰が、他の人々やリーダーや状況の上ではなく、岩であるイエス・キリストの上に築かれているかどうかを見たいのである。そして同時に、主は私達を強めておられるのだ。

  127.誰かが私達を虐待しても、主が私達を愛していて、私達の人生を支配しておられると本当に信じているなら、神が間違いを犯したとか、間違いが起こるのを許されたなどと言うことができるだろうか? つまるところ、もしあなたの人生で起きた大きな間違いを誰かのせいにするなら、あなたはそれを主のせいにしなければならなくなる。そうだろう? もし本当に主がすべてを支配しておられると信じるなら、あなたは主を非難しなくてはいけなくなる。そうだろう? 主がすべてを支配しておられる事や、このファミリーを導いておられるのを信じないなら、一体どうして私達はファミリーにいて、主に仕える事さえしているのだ?

  128.人々が本当に主を愛しているなら、何が起こったとしても、主が彼らに教えることのできるレッスンは沢山ある。−−たとえ一見、「不公平」に破門されたように思えてもだ!−−または彼らがベーブの状態に置かれたり、宣教の畑から追い出されたり、何であっても! もし主を真に愛しており、イエスに仕えるためにファミリーにいて、心が正しい状態にあるなら、すっかり憤慨して、苦い根を持ち、バックスライドすることはない! 主は、彼らにとってとても困難な経験を、彼らの益のために使うのであり、悪い理由があって使うのではない。そして彼らはレッスンを学び、主にもっと近くなり、最後には勝利を収めるのだ!

  129.リーダーシップはあなたに対して間違いを犯すかもしれないが、主は間違いを犯す事がない。たとえあなたが破門になるのを許されたとしても、主は何かの理由があってそれをなさったのだ。真に神の御言葉を信じ、主は主の子供達の人生において、彼らの益になる事しか起こるのを許されないと信じるなら、あなたは主が間違いを犯されないと知っている。主が主の子供達の人生に何かが起こるのを許されるのは、彼らに必要なレッスンを教える為であり、そのレッスンはおそらく、その出来事がなかったら学ぶ事のできなかったものなのだろう!

  130.私達の人生において、主が災難のように思える事が起きるのを許される理由は沢山ある。しかしいつも私達の益の為にそれを行われる! もしそれを信じないなら、初めっからファミリーになどジョインすべきではなかった! 主がいつも間違いを犯していて、何が最善かをご存じでないなら、私達はやめてしまうばかりか、主を愛する事も信頼する事も、仕える事もやめた方がいいだろう。そのような神に誰が仕えたいだろうか? あなたは主の御手を自分の人生の内に見なければならない。そして「間違い」や、誰かから不当に扱われた事など、あなたが受け入れるのが難しいのが何であろうと、それからでさえも自分のレッスンを学ぶ必要がある!−−そして、それまで以上により良く、より献身的で、より犠牲的に主に仕えようと決意しなさい!

  131.全てが主の支配下にあり、主が全てを素晴らしくコントロールしておられる事を本当に知り、真に納得するなら、あなたはとても素晴らしい解放感を覚える! あなたのリーダーがする事も、悪魔とその悪鬼どもがする事でさえも、神の許可なしには何も起こらないのである。敵はあなたの髪の毛にも触る事ができないし、神が許される事以外は何もできない。ダビデ王は、「すべてのものは、あなたから出ます。」と言った。良いものであっても悪いものであってもである!−−歴代志上29:14。

  132.だから主の愛情深い世話と、素晴らしいコントロールを感謝しよう! 私達には主があり、主の愛があり、命があり、信仰があるので、私達にはより良いもの、最善のものための望みがある。そして最後には必ず物事がうまくいくと知っているのだ。PTL!

 

W.どのようにして

  苦い根を取り除くか!

  133.「わかったよ。どのように恨みを持つのを避けるかについてのこのカウンセルは良かったし、ためになった。でももう既に恨みを持っていて、苦い根を心に生えるのを許してしまった私のような者はどうしたらいいんだ?−−どうやってそれを取り除くことができるんだ?」と言う人もいるであろう。それが、このセクションで話そうとしていることだ。どのようにして「すべての苦い根、憤り、怒り、騒ぎ、そしりを捨て去る」事ができるかについてである!−−エペソ4:31。

  134.一度神が霊的な問題に焦点を当て、答を与え、その治療法を与えてくれたなら、あなたはそれを実行しなければならない。それは普通、一番困難な事で、霊的な手術である。しかし苦い根のような問題の場合、もし悪意に満ちた根を根こそぎにしないなら、その苦い根はあなたを殺す事になる!もちろん根こそぎにするのは痛みが伴い、容易な事ではない。もし草抜きをした事があるなら、私の言っている意味がわかるだろう。雑草を抜くと、土壌の一部も引き抜いてしまう事があり、それはあなたの心の一部を引き抜いてしまうのに似ている。

  135.どのような人になるか、またはならないかは、あなた次第である。根深い問題に勝利を取るには、多くの事が自分自身の意志や願望にかかっている。あなたは自分で真に変わりたいという決意をしなければならない。もしその決意をしないなら、変わることはないからだ! もちろん神だけが、苦い根やその病的な効力から完全に解放してくれるのであるが、あなた自身も喜んで神に委ね、無条件で解放されたいという決心をしなくてはならない!−−その選択はあなた次第である!

 

A.自分に苦い根がある事を告白しなさい!

 

  136.苦い根のような深刻な霊的な病にかかっているとわかった時にはいつでも、その事実を直視し、その問題がある事を認めなければならない。もし直視して、問題を認める事をしないなら、それについて勝利を得ることは決してできないだろう。敵の策略を認識し、暴露しないなら、どうやって敵を打ち負かし、勝利を得ることができるのか?

  137.主は解放と勝利を約束されたし、御言葉の中で神はあらゆる言葉を使って、問題から解放される信仰を持つようにと励ましておられる! しかし従順で、正直になり、喜んで自分の不義や、罪や、失敗を告白しない限り、それから救い出されることはないし、そのための信仰を持つことさえできないだろう!

  138.自分に問題がある事を否定し、何事もなく、すべてがうまくいっていると言い続けているなら、決してその問題を正したり、解決法を見いだす事はない。−−それは問題を解決することには全くならない。事実、事態を悪化させているだけだ!正直に直視し、告白しない限り、そのような問題に対して勝利を収めることは決してできないのだ。神の御言葉は、「言い表してこれを離れる者は、あわれみをうける」、しかし「その罪を隠す者は栄えることがない!」と言っている−−箴言28:13。だから告白して、主や他の人に対して抱いていたかもしれない苦い根を赦していただくように主に求めなさい! あなたが喜んで問題を認識し、直視するならば、攻撃に出て、勝利を持つことができる!

  139.もし「苦い根」がいかに致命的なものであるかに気づくなら、きっと、それを告白し、捨て、取り除きたいと思うことであろう!−−それをするのにどんな代価がかかろうとも! 主を愛し、主の素晴らしい生命を与える愛と憐れみの実を、自分の人生と心に「築き、植え」たいと思うなら、自分にできるあらゆる事をして主に協力し、いかなる、または心の中にある敵の邪悪で死をもたらす雑草、種、苦い根をすべて、「抜き、こわし、滅ぼし、倒す」(エレミヤ1:10)ことだろう!

  140.「主を愛する者は、悪を憎む!」(日本語聖書は少し訳が異なっています)−−詩篇97:10。良い庭師は花を愛するだけではなく、雑草を憎む必要もあると言われている。この原理は、あなたとあなたの心の「庭」にもうまく当てはまる。あなたが、どんなに過去の痛みや恨みや傷を持って当然だと感じても、賢い庭師であるなら、偉大な庭師からの手引きや苦い根についての断固たる警告を信じるであろうし、できるだけの事をしてこの死に至らせる根を取り除かなければならない事に気づくであろう! それをしないなら、あなたの庭は完全に荒廃し、破壊され、このひどい、しつこく苦しめ、生命を詰まらせる「雑草」によって汚染されてしまう。

 

B.攻撃、攻撃、攻撃!

 

  141.いったん、自分に苦い根の問題があることに気づき、問題がある事を認めそれを告白したなら、非常に積極的で好戦的な態度に出なくてはならない。神の言葉は私達に、「悪魔の策略に無知であってはならない。」と言っており、有毒の苦い根が実は、魂を惑わし死に至らしめるための悪魔の策略であることに気づくなら、あなたは敵に勢いよく霊的な総攻撃をかけなくてはならない!

  142.他の人や神に敵対する悪魔の邪悪な思いに少しでも機会を与えたりして、悪魔とかかわりを持ってはならない! 悪魔とかかわるとしたら、その唯一の方法は、敵対することである!−−悪魔と戦い、呪い、神に悪魔を叱責してもらい、自分を救い出していただくのだ! 悪魔を取り除きなさい! それが、悪魔の邪悪な「鳥」があなたの髪の毛の中に苦い根の巣を作ってしまった時にしなくてはならない事だ!

  143.あなたは真に攻撃に出て、積極的になり、敵に立ち向かわなくてはならない! 悪魔が心や思いに領地を持つのを絶対に許さないようにしなさい。悪魔を叱責し、あなたが他の人、あるいは主に対して持っていたいかなる批判的な霊や恨み、プライド、独善的な態度もすべてなくなるように祈りなさい!

  144.敵がもたらしてきた、それらの忌ま忌ましい疑いや恐れ、文句、悪意、不平、恨み、悪魔的な重荷はすべて捨て去らなければならない。そして全身全霊でもっと主にしがみつくのだ! あなたの荷車を主の星につなぐなら、つまり主に望みを抱くなら、何ものもあなたを止めることはできない!しかし悪魔が乗せたがる色々な石であなたの荷車を重くしてしまうなら、つまり、「重荷とからみつく罪」で重くしてしまうなら、確実に沈んでしまう!「重荷をかなぐり捨て」、ただそれらを捨てて、荷車から振り落とさなければならない。あなたは主と共に進んでいき、そういう重荷は後に残していかなければならないのだ!

  145.もちろん団結した祈りには偉大な力がある! だから「教会の長老たちを招き」、他の人達にあなたと一緒にあなたのために祈ってもらい、「地上で心を合わせる」ために共に集まり、敵とその邪悪な苦い根を縛り、あなたをそのひどい悪の効力から「解き放し」自由にしてもらいなさい! 「一人では千人を追えるが、ふたりでは万人を敗ることができる!」

  146.そして一度自分の問題を告白し、それに敵対して団結して祈ってもらい、敵を叱責し、罪を捨てたなら、あなたは戦い続ける準備をしなければならない! 一度苦い根が成長するのを許し、ある一定の期間それが広がるのを許してしまったなら、普通は、すべての否定的な考えのパターンやそれから起こった悪い習慣などを完全に断ち切るには時間がかかる。たとえ一番の原因だった「根」はもうなくなったとしてもである。

  147.そのような問題に対する勝利はいつも容易に手元に落ちてくるとは限らない。信仰によって勝利を持ってはいるが、普通はそのために戦わなければならず、ただ要求する以上のことをしなければならない。勝利を得たものとして行動し、勝利を自分のものとしなければならない。そうすれば敵はその内に、あなたが勝利を手放したりはしないことを知るであろう。また、あなたがその勝利を保持し、真に心から勝利をほしがっており、決して勝利を投げ出したりはしないと知るであろう。

 

C.「私達が他の者を赦すように、

私達の罪をもお赦し下さい。」

 

  148.「赦しは、憤りや憎しみの束縛から解放してくれる鍵であり、苦い根の鎖や、利己主義の足かせをこわす力である。」とは知恵ある言葉だ。

  149.主と主の愛と赦しとは、苦い根の命取りの毒に対する解毒剤なのだ! 小さな愛でも実に大きな力があり、苦い根の問題の原因が何であろうとも、愛は、責めを受けるべき側の多くのとがを覆うことができる。自分とある人との間の問題が何かあなたには正確にわからなくても、主はそれをご存じだ!−−そして問題が何であろうと、その答えは愛である!

  150.「愛は敗れず。」(第一コリント13:8) そして過去の不和や心の傷や苦い思いはすべて、謙遜と愛と御霊の油によって癒される。「高ぶりはただ争いを生じる」(箴言13:10)が、愛と謙遜と祈りはすべての問題を解決する! 決して失敗に終わることはない!

  151.愛は、数え切れない罪を覆う!−−愛は、あなたやあなたの問題の相手のすべての過去の罪や過ちを覆うことができる。天与の超自然的、奇跡的、無限の、驚くべき神の愛は、赦すに十分な愛なのだ! 事実、赦せるだけの愛がないなら、あなたに愛はない−−赦すことは愛だからだ! だから赦せないなら、真の愛や謙遜も持てない!−−憐れみもないことになる。愛は赦しであり、憐れみだからだ!

  152.すでに指摘したように、自分の過ちや問題のすべてを全面的に他の人のせいにするのは、私達にとっていとも容易なことだ。「彼らは私を侮辱し、不当に扱った!」とか、「私が規則を守って正しい事をするのを助けてくれなかった。彼らが私が間違いを犯すのを許したんだ!」と。しかし、他の人を赦す時、私達はもはや彼らをとがめたりしない。

  153.苦い根が心にはびこる機会を得るや、苦い根を持つ相手に対して愛に欠けた、きつい態度を取るのは実に容易なことだ。そうなると、あなたの霊はかたくなで、容赦しない、忍耐のないものになってしまう。他の人にとって事を容易にするかわりに、あなたの批判的、非難的態度によって事を困難なものにしてしまうのだ。あなたがこのような態度を取っていたなら、恨みを抱いていた相手に、あなたが愛のない批判的な態度をとっていたことで赦しを求め、大手を広げてその人を受け入れ、自分が独善的で、批判的で、心が固く、愛情深くなかったことで赦しを求めた方がいいだろう!

  154.自分の苦い根を捨て、取り除きたいと思うなら、あなたは赦さなければならない。−−そして真に誰かを赦すとは、相手に対して心の中で思い巡らしていた悪感情をもう抱かなくなることだ。赦しはするけれど、決して忘れることはできない、とは言えない。まだ相手を非難していることになるからだ。

  155.自分は赦していると言うが、そのことを忘れない人々は皆、和解して斧を埋めておきながら、後で素早くつかめるように、その柄が見えるように出しているも同然である。苦い根の問題があるなら、相手に対する過去のすべての恨みつらみを完全に手放し、捨て去らなければならない。「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばす」必要があるのだ−−ピリピ3:13。

  156.ある文筆家は、恨みと赦しについて次のように語っているが、これは非常に的をついている。「恨みを抱き続けるなら、結局は必ず人生に敗北することになる。それは究極的な挫折だ。最初の心の痛みよりももっと多くの苦痛を残すからだ。不当な扱いを受けた痛み、だまされたり、信望を落とされたりした傷を思い出すなら、そういった記憶は、激しい怒りの炎を再び煽るものではないか? あなたを不当に扱った人達の記憶がよみがえる度に、あなたはその心の痛みを感じはしないか? 自分自身の記憶が、魂に組み込まれたビデオテープとなり、昔の辛い出来事を無限に再生し続ける。これはあなた自身にとって正当なことか−−赦さないという、この悲惨な正義は?

  157.自然に治ることのない傷みを癒す唯一の方法は、傷つけた相手を赦す事だ。自分を傷つけた相手を赦すなら、過去の出来事に対する見方も変わり、いつまでもその出来事を、つらく苦々しい出来事として思い出すことがなくなる。過ちを犯した者に対して恨みを抱くのをやめ、その人を過ちから解放するというのは、心の奥底にある悪質な腫ようを切り取るようなものだ。あなたは囚人を自由にしてやるわけだ−−つまりあなたを。」−−ルイス・B.スミディス

  158.主は負債のある者を赦すよう命じておられ、それは、私達がもはやその人を責められないことを意味している。面倒や問題を起こした事で、相手に初めは責任があっても、相手を真に赦すなら、自分の問題でその人を責め続けることはできない。誰かが自分を不当に扱った事で問題が起きても、その問題が続くなら、それは自分の責任なのだ。主は私達にそれを克服する力を与えて下さっているからだ。

  159.主は、私達がそういった人達を赦し、それらの問題から解放されるよう求めることを望んでおられる。私達が解放され、そういった妨げから自由になるために。主は私達が自分で責任を取ることを望んでおられる。御自身の力や解放を示し、過去に何が起きようとも、それが私達の全生涯にまで影響を及ぼす必要のない事を示されたいからだ!私達はそういった荷を生涯背負い続ける必要はない。

  160.御言葉は「私達一人一人は、神に対して自分の言い開きをすべきである!」と言っている。−−ローマ14:12。しかし自分の今の問題の責任を認め、それらを他の人のせいにするのをやめないなら、あなたは結局のところ、生涯を通じて勝利を得たり、霊的に進歩を遂げる事もないだろう。自分に起きた全ての悪い事を独善的にも他人のせいにするなら、一体どうやって成長したり、学んだりする事ができようか?

  161.自分の苦い根に固執し、他人を赦す事を拒むなら、主はあまりあなたを赦したり、助けたりできない! イエスは言われた。「あなた方が人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父も、あなた方を赦して下さるであろう。もし赦さないならば、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦して下さらないであろう。」−−マタイ6:14,15。主は、あなたが人を赦すのを助けられ、しかも喜んで助けて下さり、あなたが心から主に求め、固執しているすべての恨みや憤りを素直に心から捨て去る気があるなら、その苦い根を取り除くのを助けて下さるだろう。

  162.あなたが過去に何かの過ちのゆえに苦しんだとしても、その責任の一部があなたにもあったのなら、正直にその事を告白しなければならない。そうすれば主はあなたを癒し、解放し、赦して下さる。御言葉はこう言っている。「もし私達が自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦して下さる」と−−第一ヨハネ1:9。しかし私達が罪の告白をせず、ある事は自分のせいだとは考えもしないなら、主はどうして私達をお赦しになれようか?

  163.過去に受けた不当な扱いが全く自分のせいでなくても、それに対して苦い根を抱いたことで私達は罪を犯している。誰かの何か過去の過ちのために自分の現在の問題があると、人のせいにするなら、自分が間違っている。自分の現在の問題は自分のせいだからだ。

  164.あなたの心の願いが、真に主を愛し、主に仕え、「霊とまこととをもって」(ヨハネ4:24)主を拝する事であるなら、自分の問題を他人のせいにばかりするのをやめ、あなたが持ち続けてきた、苦い根や非難という重荷を取り除く必要がある。そうしないと、あなたは主のために決して多くを成し遂げることはできない。自分の今の問題を人のせいにするのは、全くのつぶやきであり、不平である!これからは、あなたが自分のする事に責任がある!

  165.あなたは自分の問題を人のせいにしているか? あなたは自分を過去に傷つけた人達を心から赦しているか? それとも、それを自分の現在の問題の口実にしているか? 「私達一人一人は、神に対して自分の言い開きをすべきである」ということを覚えていなさい。−−ローマ14:12。あなたは自分の行動に責任がある! だからどうか、あなたに負債のある者を赦すように。そうすれば主があなたの負債を赦されるだろう! 「後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めなさい!」−−ピリピ3:13,14。

 

D.霊的な再生!

 

  166.あなたが苦い根のような霊的な問題を完全に捨てる決意をし、全身全霊で主を呼び求め、解放されるよう求める時、聖霊の実に強力な一息吹で、悪魔の古い回路を完全に焼き尽くすことができる。−−神の偉大な電気のような力だ!

  167.解放して下さるよう、あなたが心から主に求めるなら、主は御自身の分を果たされ、約束を成就される。「わたしは新しい心をあなた方に与え、新しい霊をあなた方に授ける」−−エゼキエル36:26。だが、あなたが新しく造られた者になっても、古い自分はなおその頭をもたげようとする! あなたは悪魔と、古い自分と、以前の悪癖に対して毎日戦う必要がある! だから毎日、戦闘に備えていなさい。−−特にあなたのからみつく罪との戦いに。−−「一切の重荷と、からみつく罪」−−ヘブル12:1。

  168.主は忠実に祈りに答え、御自身の分を果たして下さる。しかし、その後は、以前の否定的な思考パターンや悪癖を捨て、「脱ぎ捨てる」努力をして、自分の分を果たさなければならない。主の御言葉はこう言っている。「すなわちあなた方は、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とを備えた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」−−エペソ4:22-24。

  169.あなたは自分の築いてしまった苦い根のいかなる悪癖をも治すために、実際に主にしっかり協力する必要があり、恨みを抱いていた相手に対する見方や態度を完全に変えていただくよう主に求めなければならない。

  170.こういった事柄は必ずしも1日で克服できるとは限らず、時にはしばらくかかることもある。敵は、自分が支配していた領域をそう簡単にあきらめはしない。弱点があり、以前にその機会を敵に与えてしまったことがあれば、敵はできることならその陣地を取り戻そうとする。だから、主が解放して下さり、全き勝利を与え、思考の回路を完全に変えて下さるよう祈り続けなければならない!

  171.あなたの思考回路は、完全に新しくされ、神の御霊によって変換される必要がある。そしてコンピューターの回路を変え、プログラムし直すには普通時間がかかるものだ! 新しい思考パターンは、古いものが完全に消されるまで確立されないとは、心理学者が皆言う事だが、私達の場合には、神の奇跡によってしか確立されない!

  172.新しい思いを入れて下さるよう、主に求めなさい。つまり、「キリスト・イエスによっていだいているのと同じ思いを」−−ピリピ2:5。主が完全に自分を支配しておられることを確かにし、悪魔の以前の回路を完全に壊すようにするには、正真正銘の霊的な再生、すべての神経や中枢などの真の切り替えを要する!

  173.そして、あなたが勝利を得るために真に大きな戦いを戦わなければならないとしたら、主はあなたにもっと多くの功績とはるかに多くの報酬を与えて下さるだろう。勝利のために真に困難な戦いや奮闘を経験するなら、それはおそらく、あなたがどれだけ真剣に勝利を望んでいるかを主がテストされているからだ。勝利の報酬を与えられる前に、主は、あなたにどれだけ喜んで戦う気持ちがあるかを見ておられるのだ。だが、あなたが自分の分を果たせば、主は完全に主の分を果たして下さり、あなたは勝利を得る!−−だから、あきらめてはならない! PTL!

 

X.苦い根に対する

  解放の祈り!

 

  174.主イエスよ、あなたの御言葉は、私達があなたを仰ぎ見る時、光を得ると言っています。そうすれば、私達は、恥じて顔を赤くすることはないと。−−そして、この苦しむ者が呼ばわった時、あなたは聞いて、私をすべての悩みから救い出されると!(詩篇34:5,6)

  175.ですから主よ、私は今、心からあなたを呼び求め、私の祈りを聞いて、答え、私を解放して下さるよう求めます。イエスの御名で! 主よ、こういった苦い根は命取りの傷のようなものだとわかります。ですからそれをたった今根こそぎにし、完全に取り去って下さい! 主よ、どうかどんな疑いや恐れ、憤り、過去や今起きている事についても傷ついて感じている事を取り去り、それをすべてあなたに任せるための信仰を与えて下さい。−−自分の思い煩いを、一切あなたに委ねるための信仰を。あなたは私を顧みていて下さるからです!(第一ペテロ5:7。)

  176.私がそのような苦い根を心の奥底で手放さないでいるなら、主よ、悪魔がそれに付け込んで、それを大きくさせることを知っています。ですから、この苦い根とあなたに対する信頼の欠如において、敵を制し、主よ、あなたに委ねていないいかなる事をも叱責します! イエスよ、ただあなたに委ねた器になり、「何ゆえ私をこのように造られたのか?」とか「なぜ私にこのような事をなし、このような扱いをし、私が憤慨するような事が起きるのを許されたのか?」−−とか「何ゆえ今私にこのような事をされるのですか?」と陶器師に向かって言う粘土のようにならないように助けて下さい。私がすべてを委ね、身を任せた、心の砕けた器になれるように、主よ、あなたのために喜んで何でもする器になれるよう助けて下さい! 私がただあなたに委ね、すべてを委ねた砕けた器になるよう助けて下さい。主よ、あなたのために何でも喜んでする器に!

  177.私の全ての罪を赦して下さい、主よ。そしてあなたやあなたが私の人生で行われる事に対して批判的にならないように助けて下さい。いかなる点においても、自分の方があなたよりも正しいと考えたり、あなたよりも自分の方がもっと良くできたなどと考える事のないように助けて下さい。私のすべてのつぶやきと疑いを赦して下さい! 主よ、それは本当に恐ろしい罪です。私の苦い根は実際にはあなたに対するものだからです! どうか私がそれをやめるのを助けて下さい!

  178.つぶやきというのは、実際にはあなたが間違った事を行っているという不平です。それは自分ならもっとよくできる、自分の方があなたより正しいという意味であり、それは独善です。そして主よ、それは実にひどい罪です。私を赦し、私があなたをもっと信頼するよう助けて下さい。あなたはすべての事において最善をご存じであり、御心を行って下さり、長い目で見れば、万事が私にとって最善の結果をもたらします。それは、私があなたを愛しているからです。イエスの御名で。

  179.ですから、主よ私のすべてのつぶやきや不平や不満やぶつぶつ言うことや批判を赦して下さい! 私が真に感謝し、「すべての事について感謝する」(第一テサロニケ5:18)のを助けて下さい。そしてすべての事であなたを賛美し、自分にあるのものに感謝できるよう助けて下さい。物事は確かにもっとひどくなり得るからです!

  180.主よ、あなたが私に与えて下さった人生のゆえに、あなたをほめたたえます!−−あなたの愛と、あなたのファミリーにいれることを! 私がもっと良く扱われ、もっと受けて当然と考えて、これやあれやについてつぶやき、不平を鳴らし、ぶつぶつ言ったことを赦して下さい。主よ、私を赦して下さい! あなたが許される小さなテストや試練のことでつぶやいたり、不平を鳴らす代わりに、あなたのすべての優しさや憐れみのゆえに、もっと感謝し、あなたを賛美するのを助けて下さい。

  181.主よ、常にあなたを賛美するよう助けて下さい!−−悪魔が不平や不満と共にやって来ても、賛美をもって立ち向かい、主よ、あなたに向かって叫び、歌うのを助けて下さい。あなたのすべての優しさ、憐れみ、愛、供給、保護に感謝し、あなたと他の人々のために生きるよう、あなたが私に与えて下さった素晴らしい人生に感謝するのを。−−これはこの世での最高の人生であり、天国で最大の報酬を受けるものです。イエスの御名で! TYL! PTL!

  182.主よ、この素晴らしい人生、素晴らしい世界、この上ない仕事を感謝します! このすべてを、イエスよ、感謝します! 私がつぶやいたり、不平を鳴らしたり、愚痴をこぼしたりして、他の人を毒する事の決してないように助けて下さい!あなたはそういった事やそういった人々に本当にうんざりされており、主よ、あなたがそれに我慢されないことを私は御言葉から知っています! あなたはそのような者達を荒野で何百万人も滅ぼされ、子供達にだけ御国を継がせられました!

  183.どうか主よ、私が真に敵に立ち向かって戦えるように、あなたの御言葉とあなたの御霊の剣をもって私を強めて下さい! 邪悪な者の放つすべての火の矢、疑いや批判や嘘や不平や憤りや自己憐びんやその他すべての悪魔の極悪な火の矢に対して、私がちゃんと武具で身を固めているのを助けて下さい!

  184.そして主よ、私を砕き、謙遜にし、あなたに近く保つために、あなたが用いられるものが何であれ、それに逆らったり、拒んだりすることがないように助けて下さい。私から見て最善の事に思えない時にも、主よ、あなたは私にとって何が最善かをご存知です! あなたは、私が喜んであなたを信頼し、信じ、「あなたを愛する者にとって万事が共に働いて益となる」ことを信じるかどうかを見たいだけなのです!−−ローマ8:28。

  185.あなたが私の過去においてなされた事、又、たった今なされている事を受け入れさえすれば、物事ははるかに容易になる事を私は知っています。砕きや懲らしめや教訓やこれら全ての事を受け入れ、逆らわずにただ服従するなら、その方がはるかに容易な事を知っています。イエスよ、私が悪魔にほんの少しのすきも与えないよう、心に少しの根や横枝も残るのを許さないように助けて下さい!

  186.霊的な思考においても、私があなたから逃げ、あなたの御心から外れる時、あなたの祝福や保護を期待できないことを知っています。ですから、あなたとあなたの御言葉についての純粋で肯定的な思いによって、私をあなたに近く保って下さい。イエスの御名で!

  187.私が自分の思考や言葉に気をつけ、思いと心をあなたやあなたの御言葉で満たすのを助けて下さい。十分に保護され、強化され、あなたの子供達を常に世話してくれる、あなたの守護天使に囲まれていることができるようにです。

  188.そして主よ、あなたの素晴らしい愛の御霊によって、私を新しくして下さい! 主よ、あなたの聖霊で満たし、あなたの愛でいっぱいの心を持てるようにして下さい。あなたの御言葉は、「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい」と言っています。−−第一ペテロ4:8。プライドや独善によって、他の人を非難したり、裁いたりすることのないように助けて下さい。

  189.あなたの愛と忍耐と謙遜をもっと与えて下さい。謙遜は愛と同義語であり、自らを小さく見ることです。他の人達に対する優しさと愛を与えて下さい。あなたに与えていただきたいように、他の人に与えるのを助けて下さい。あなたが私を赦されるように、他の人の罪を赦し、あなたが私を憐れまれるように、他の人を憐れむのを助けて下さい。

  190.食い尽くすべきものを求めて歩き回る、ほえたけるししのような悪魔から私を守って下さい。悪魔こそ日夜あなたの前に立ち、あなたの聖徒を批判し、分裂させ、堕落させ、プロパガンダや嘘を広め、疑いや恐れを抱かせ、憎しみや憤りの火の矢を投げている者であるのを私は知っています。

  191.主イエスよ、もっとあなたのようになるのを助けて下さい!−−そして敵のようにならないように、つまり聖徒を批判する者、きつく、残酷な、食い尽くす者のようにはならないよう助けて下さい! 私が赦しに満ち、忍耐強くなり、自分が憐れまれたいように憐れみ、過ちを犯した時に、自分があなたから望むような扱いを、他の人に対してもしてあげられるよう助けて下さい!

  192.私が気を害されたり、憤りや恨みを感じたことのあるすべての人達を心から赦すのを助けて下さい。主よ、私の気を損ねたり、期待に背いたり、過ちを犯したり、何かで私を悲しませたり、傷つけたり、いらだたせたりしたすべての人達に関して、今心から祈ります。どうか、私がそういう人達を赦すのを助けて下さい。どうか私を赦して下さい。「私に罪を犯した者を赦しますから、私の罪をもお赦し下さい。」−−ルカ11:4。

  193.主よ、私がもっと単純になり、これらの事において子供のようになるのを助けて下さい!あなたの御言葉はこう言っています。「悪事については幼な子となり、考え方では、大人となりなさい。」−−第一コリント14:20。ですから時には気を損ねることがあっても、すぐにそれを捨てて、忘れるのを助けて下さい。人々に対して恨みを抱かず、気を害された状態に留どまっていることのないよう助けて下さい! これらの繊細な思いを、いかなる種類の苦い根にもなる前に、切り捨てるのを助けて下さい。私が真に赦し、忘れ、愛するのを助けて下さい。主よ、自らをできるだけ単純に保ち、単純に生き、複雑にならず、誰かが自分の気を損ねた記録を常に付けておくような事をしないように助けて下さい。

  194.主よ、今私を助け、解放し、苦い根や妬みや憎しみのすべての種や根を、根こそぎにして下さい!−−救出され、自由になり、あなたが私を召された仕事をより大きな確信をもって行うために、完全に解放して下さい!−−私が「いっさいの重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てて」、あなたの競走を、あなたの栄光のために、真に走り抜くのを助けて下さい。イエスの御名で!

  195.主よ、これは一度切りで済ませられるものではなく、心の中のこれらの誘惑や否定的な思いや古いやり方すべてを絶えず捨て続け、すべての重荷や妨げをかなぐり捨て続けなければならないと知っています。主よ、私は毎日、私を古いやり方や古い習慣や束縛に呼び戻し、再びそれに引き込もうとする悪魔の声や誘惑を捨てなければなりません。ですから、私がそれをして、戦い続けるのを助けて下さい! 主よ、私を解放して下さったことを感謝します!−−イエスの御名で、アァメン!

 

    ◆    

 

  196.「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼に憐れみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かに赦しを与えられる。」−−イザヤ55:7。

  197.「苦い根の生える野に住まわるよりは、あなたの主のみ声に聞く方が良い! 人の言葉に従うよりは、あなたの神に従う方が良い。」

BITTERNESS!--THE DEADLY ROOT THAT DEVOURS & DESTROYS!”--Japanese