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主の翼に備えられた、いやしの力!

 

  今日、ほとんどの教会は、イエスと弟子たちの物語をはるか昔にあった、過去の遺物としている。それらの物語はおとぎ話のように思われている。そこには何の現実性もない。『そんな物語は現実とかけ離れている−−神など、現実離れしている。天国など、現実離れしている。イエスはずっと昔に死なれたのだし、すべては現実とかけ離れている』と!

  しかし主の御業は、今日でもなお起こりえる! 主は過去と同様、今でも現実のものであり、今でも昔と同じことができる。また、それ以上のことさえもできる。神は今でも生きておられ、健全であられ、主を信頼する者たちの間では、今までと同様に偉大な力をもって働いておられるのである! 主はこう言われる。「主なるわたしは変わることがない。」(マラキ3章6節) 「イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでも変わることがない!」 (ヘブル13章8節)  また、イエスはこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」(ヨハネ14章12節)「信じる者にはこのようなしるしが伴う‥‥彼らが病人に手を置けばいやされる。」(マルコ16章17、18節)

  だから奇跡の日は過ぎ去ってはいない! 神は今でも、心と精神と霊のいやしはもちろんのこと、いやしを必要とする体をもすっかり変えてしまう、という業をしておられる。−−いやしなど、創造の神である主にとってはささいなことだ! 神は、人の体を創造されたので、それをいやすことができて当然だ! 私たちを造られた方は、私たちをいやすことも、確かにできる。

  神はこう言われる。「わが名を恐れるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼にはいやす力を備えている!」 (マラキ4章2節)

 

苦悩、試練、患難−−それらはどうして起こるのか?

 

  主は、主の子供たちである私たちを、すべての事故や病気、そして苦悩より守って下さるだろうか?−−それとも主はしばしば私たちに、多くの苦悩に悩むのをお許しになるのだろうか? 私達が生身の人間である限り、何の病気もかからないという確かな保証などない。

  主は、私たちが病気や災難を経験しないだろうとは一度も言われなかった。そうではなく、主は、私たちをすべてその中から助け出されると言われたのだ。−−「正しい者には災いが多い、しかし主はすべてその中から彼を助け出される!」(詩篇34篇19節)

  当然私たちは、どうして試練や苦悩が起こるのかたいてい不思議に思ってしまう。しかし、神がそれを許されるのには常に理由があるし、また私は、神の子供たちには、何事も偶然に起こらない、と信じている。いつもその理由がすぐさま明かされるとは限らないが、神がそうされるには、常に目的があるということを、私は自分の経験や、いろいろな人の経験によって知ったのだ!

  主は時々、災難や病気などのものを使って私たちをテストし、主に近づけ、主に呼ばわり、心の底から主を尋ね求めるようにさせる。誰かが一度、こんなことを言った。「神は私達を謙遜にさせるようなことを行なわれ、また別のことをして謙遜にとどめておき、そしてまた別のことをして、私達が今でも謙遜であることを確かめられるのだ」と−−そうでなければ、私達はただ眠り込んだような状態になってしまう傾向があるからだ。そういったことによって私達はもっと主に頼るようになるのだ。

  だから時々、ただいつも私達が主の近くにとどまり、謙遜になり、もっと主に頼るようにするために、様々な事が起こる。−−私達を周囲の人達と近くさせるために起こることもある。また、私達に祈らせるために起こることもある。−−苦悩にさいなまれることでさえ、あらゆる種類の理由があるのだ。

  イエスでさえも、「さまざまの苦しみによって従順を学ばれた!」(ヘブル5章8節)−−私達は、イエスが完全だったということを知っているし、またイエスの上にもたらされたこういった苦しみは、御自身の罪のせいではなかったことはよく知っている。主は、私達の信仰を強めるために、これらの苦悩や試練が起こるのを許されるのだ。

  だから、必ずしもあなたが悪かったから起こったとは限らない出来事もある。例えば、聖書の中に出て来るあの盲の男のように。その男は生れつき盲だった。イエスは、彼が盲なのは、彼自身の罪のせいでも、彼の両親の罪のせいでもなく、「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」と言われた。そしてそれを証明するために即座に彼をいやされた。(ヨハネ9章を参照)

  たとえあなたが悪くなかったとしても、また病気になって当然であるような事を犯さなかったとしても、それが証しとなるために、病気になることが時々あるのだろう。そうすれば、神は奇跡を行って、あなたをいやすことができるからだ。たぶん神は、いやすことができるということを示し、また御自分の力を実際に証明して、いやすことができるように、あなたを病気にすることも時々あるのだろう。

  しかし理由が何であれ、神が行なわれることは何でも、神はそれを愛の内に行なわれるという事をいつも覚えていなさい。−−そして「神は神を愛する者たちにとって‥‥万事が共に働いて益となるようにして下さる‥‥。」(ローマ8章28節)  神は、あなたの益になる以外のものは、どんなことも神の子供であり、神を愛しているあなたの身に起こることを許されないだろう。しかし、こう言う人もいるかもしれない。「でも私に益になるように思われないことがたくさん起こります!」−−さて私は、遅かれ早かれ、何かの方法で、結局それが良いものであるとわかるようになると、あえて言おう−−またはこれから先それがわかるようになるだろう! これが理由で、ダビデ王は詩篇でこう言った。「苦しみにあったことはわたしにとって良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今は (彼が苦しんだ後) 御言葉を守ります。」(詩篇119篇71、67節) ハレルヤ!  だから苦悩や患難でさえも私たちにとって良いものなのだ。−−主よ、感謝します! 神は最善を知っている! たとえ時には、その理由を知るまで何週間も、何カ月も、あるいは何年もかかることがあっても、その時は来る。あなたは神が正いこと、また正しい事をされたとわかるだろう!

 

いやしはあなたのために!

 

  「正しい者には災いが多い。」  けれども主は、「すべてその中からあなたを助け出される」 (詩篇34篇19節) だろう。−−災いがどんなに多くとも、あるいはどんな災いであろうとも! す・べ・て、すべて!−−「ただこれぐらい」とか、「少し」とか、「ほとんど」とか、「多く」とかではなく、すべてなのだ!−−それらすべての中から助け出される! 私たちは神の言葉の通りに、自分たちが助け出されることを神に期待することができるのだ!

  神はあなたの為に癒しを用意しておられる! 私達一人一人に宛てた神の個人的御言葉である聖書全体を通じて、いやしについての聖句は沢山ある。神は、御言葉の中で約束をしておられる。私達は神にそれらの約束を果たして下さるようにと要求できるし、成就していただくように期待できる。「尊く大いなる約束が、私達の為に与えられている。これらのものによって(神の約束)、あなたがたが神の性質にあずかるものとなるためである。」(第2ペテロ1章4節)

  信仰は御言葉から来る。信仰は神の言葉を聞く事により、御言葉から来て成長するものだ。突然バーンと起こるものではない。「信仰は聞く事によるのであり、聞く事は神の言葉から来るのである。」(ローマ10章17節)−それが信仰の法則だ。

  しかし人が御言葉を知らない為の信仰の欠如が何とよくある事だろうか! もし、「ああ、神がいやして下さるという信仰をあまり持っていない!」と感じているなら、それは御言葉を持っていないからだ。信仰は御言葉の上に築かれる。御言葉を祈り深く読んで、信仰を強めてもらうよう求めなさい。神はいつも飢えた心に答えて下さる。神の言葉は癒しの為の信仰を与えて下さるだろう。

  神は癒す事ができるだけではなく、癒す事を望んでおられる! 哀れならい病人がイエスの所に来た時、こう言った。「主よ、御心でしたら、清めていただけるですが。」 そして聖句にはこう書かれてある。「イエスは、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう、清くなれ』と言われた。するとらい病人はただちに清められた。」(マタイ8章2、3節)−−神は私たちが受け取りたいと思う以上に、喜んで与えようとされる!

  神が私達から求められるものは、神の言葉と神の約束を信じること、信仰をもっている事によって神に名誉を与える事だけだ。「信仰がなくては神に喜ばれる事はできない。なぜなら神に来る者は神のいますことと、御自身を求める者に報いて下さる事を必ず信じるはずだからである!」(ヘブル11章6節)  主に信頼しなさい!−−「主はその良き約束はみな一つもたがわなかった!」(列王紀上8章56節)

 

『彼の打たれた傷によって‥‥』(イザヤ53章5節)

 

  肉体と霊、その両方のために救いがある。イエスの血が私たちの霊の救いのために流されたのと全く同様に、イエスの体は私たちの体のいやしのために砕かれた。イエスが死なれたのは私達の救いのためだが、苦しまれたのは、いやしのためなのだ。

  「彼は私たちのわずらいを身に受け、私たちの病を負うて、十字架にかかられた。」(マタイ8章17節; 第1ペテロ2章24節) 「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けてわれわれに平安を与え、その打たれた傷によってわれわれはいやされた。」(イザヤ53章5節)

  「その打たれた傷によってわれわれはいやされた」とはどういう意味なのだろうか?−−私達の病気のためにでさえ、ある種のあがないがある、ということだ。イエスは、御自身の苦しみによってその代価を支払われた。だから私達はイエスのあがないの一部としてでさえも、いやしを要求できるのだ。イエスが支払われたものの一つとしていやしを要求できるのだ。いやしは、求めるだけですでに私達のものになるのだ。

  「偉大な医師である同情に溢れたイエスが今、近くにおられる。彼は意気消沈の心を元気づけるために語る。ああ! イエスの声を聞きなさい!」

  個人的にイエスを心の中に受け入れた私達は、主のいやしを通していやしの力をすでに持っており、その力は私達の体に現れている。(ローマ8章11節参照。) しかし、死や病気がもはや何の力も持たず、何ものにも奪われない永遠に朽ちない超自然の不滅の体を持つまでは、いやしは本当の意味で完全にはならない。

  いやしとは救いと同様に、サンプルなのだ。私達が救いを経験する時には、永遠の救いと、天国がどのようなものになるかという、ちょっとしたサンプルを得るわけだ。私達の心の中にはすでに小さな天国があるのだ! 神の言葉に書かれているように、私達は、「天よりの賜物を味わい、来たるべき世の力とを味わった」のだ。(ヘブル6章4、5節)  そのように、いやされる時、私達は、神が後の日々になされる事の小さなサンプルを得るのだ。その時には、神は新しい部品一つ下さるとか、少し直してくれたり、修理して下さるだけではなく、全く新しい天的なモデルを与えられる! (第1コリント15章42−58節)

  しかしそれまでは、私達は未だに堕落しやすい肉的な人間の体に縛られている。そしていやしを通して神が今、行なわれていることは、私達の体がもう少し長持ちするようにと、体に継ぎあてをしておられる、ということなのだ。古い車にするように、神はあなたに継ぎあてをし、修理し続けられる。−−そしてこれがこの教訓の要点だ。それは、しばしば挫折して私達に苦悩を与えるこの古き死ぬべき体を持っている間、私達がどのようにして神のいやしと、その「修繕サービス」を受け入れるかということだ。

 

祈りの力!

 

  「信仰による祈りは病んでいる人を救い、そして主はその人を立ち上がらせて下さる。かつその人が罪を犯していたならそれもゆるされる。」(ヤコブ5章15節)

  祈りは力強い! 祈ると、物事が起こり、物事が変わる。神は祈りに答えられる。しかし神はある時、イスラエルに悪い事が起きている理由は、「みずから励んであなたを呼ぶ者はない」からだと言われた。(イザヤ64章7節)

  しかし、必死になって心の底から主に呼び求めているなら、主は答えて下さる! 主はこう言われる。「あなたがたは、わたしをたずね求めてわたしに会う。もしあなたが一心にわたしを尋ね求めるならば‥‥。」(エレミヤ29章13節) そして「わたしに呼び求めよ。そうすればわたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されていることをあなたに示す。」(エレミヤ33章3節)

  そして、あなたは全聖書の中のすべての約束の成就を要求できることを覚えていなさい!−−「尊く大いなる約束!」(第2ペテロ1章4節)だから祈る時には、それらの約束を携えるようにしなさい。神に、御言葉を思い起こさせる時、それはあなたがその言葉に信仰を持っているという事を示している。それは、御言葉に対する信仰と知識の積極的な宣言なのであり、それは神を喜ばせるものなのだ。(コロサイ1章10節、ヘブル11章6節、第1ヨハネ3章22節、参照。)

  「これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いてあふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい。」(マラキ3章10節)あなたにはまだその祝福が見えない。どうしたら、主がその祝福を注ぎ出されるかどうかわかるのだろうか? ただ、主の御言葉があるだけだ。−−あなたは主を試みなければならない! 試してみなくてはならない。文字通り、テストしなければならない。神に挑戦しなければならない。

  主は私達にこう言われた。「わたしの手のわざについて、わたしに命ぜよ!」(イザヤ45章11節)−−だから主に、主の言葉を守っていただきなさい! 答を要求して、そうなると期待しなさい! 主がそう約束されたのだ! あなたの信仰を主に置き、ちょうどイエスがされたように、聖句を引用して要求しなさい。(マタイ4章4、7、10節参照)  御言葉の上に立ちなさい!−−あのがっしりとした真理の岩の土台の上に!

  主は御言葉を果たす義務がある! だから主にそれを思い起こさせなさい。主の約束にしがみつき、それらの約束を常に暗記して引用し、神が答えられるということを一瞬たりとも疑ってはならない。−−そうすれば主は答えられるだろう! 主はそうしなければならない! 主は答えたがっておられる! 主に信頼しなさい!

  イエスはこう言われる。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」(マルコ11章24節) 「わたしたちが神に対して持っている確信はこうである。すなわち、私たちが何事でも、神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。そして私たちが願い求めることは、なんでも聞き入れて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを知るのである。」(第1ヨハネ5章14、15節)−−私達がしなくてはならないのは、ただ主の約束を信じて祈り、何かの答えを得るのを期待することだけだ。

  主は助けることのできるお方であり、主には何でもできないことはない。主は「わたしたちが求め、また思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができる。」(エペソ3章20節)  私達はただ主を信じて信頼し、いやしのために祈るだけだ。「人にはできないことも、神にはできる。そして信ずる者にはどんなことでもできる!」(ルカ18章27節、マルコ9章23節)  ハレルヤ!

 

「火の燃える炉」

 

  しかし時々、主がすぐに答えられるとは限らない事もある。祈りがすぐに答えられないと、私達の信仰がテストされ、私達は、主と、主の御言葉に近づかざるを得なくなるので、御霊の内に主にもっと近づくようになる。その逆に、主がすぐに祈りに答えられると、私達は主に対して、あまり多くの時間と関心を注がない事もあるからだ。

  使徒パウロは、死に際に至るまで、わざわいとか、「肉体のとげ」とか呼ばれるものを持っていた! そして、それはパウロを謙遜にさせたのだ。パウロは、多くの面において主から誉を与えられており、それによって彼はおそらくあまりにもプライドでいっぱいになってしまう可能性もあった。それで、主はパウロに完全な健康を与えることができなかった。

  パウロはこう言った。「そこで高慢にならないように、私の肉体にひとつのとげ*が与えられた。このことについて、私はそれを取り去って下さるようにと、三度も主に祈った。ところが主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。』」(第2コリント12章7−9節)

   ―――――

*ここで 「とげ」 という言葉は原文のギリシャ語の直訳は、 「身体的に厄介なもの、あるいは不自由さ」 という意味になっている。−−ストロングの聖書コンコルダンスより。

   ―――――

  私達も皆、自分の「肉体のとげ」である弱さを持っている。もしこういった弱さを一つも持っておらず、あまりにも完全であったなら、あまり他の人を助ける事だってできなかっただろう。又、もし私達が非常に独善的で潔白だとしたら、他の人に同情したり、哀れんだりする事もきできなかっただろう。彼らを理解する事さえできなかっただろう。だから、自分で災いや弱さを持っていた方が、主にとってもっと役立つ事もある。主が癒して下さるよりも、肉体のとげを持っていた方が、もっと謙遜になり、主を信じるようになるのだろう。

  パウロが持っていた肉体のとげは、主に仕える妨げにはならなかった! それはパウロの神への奉仕を無効にはしなかった! パウロは、ただ肉体に少しのとげを持っているからといって、その奉仕をやめたり、あきらめたりはしなかった。(彼は目が悪かったようだ。)(ガテヤ4章13−15節参照)

  神は、あなたをいやす前にあなたの信仰を試し、あなたが喜んで従うかどうかテストしたがっておられる。そしてまた、たとえあなたが絶対にいやされないだろうと思っていても、それでも主を信じて従うかどうか見たがっておられる! あなたが信仰を持って主に名誉を与えていないのに、主がいやしという報酬をあなたに与えなければならない理由はないだろう? たとえ主が決していやされなくとも、主を信じて従わなければならないのだ!

  例えば、信仰を放棄する事を拒み、またバビロンの王の偶像にひれ伏す事を拒んだ為に、あの燃える火の炉の中に入って行った3人のヘブル人の子供達のように。彼らはこう言った。「もしそんな事になれば、私達の仕えている神はその火から、私達を救い出す事ができます。また王よ、あなたの手から私達を救い出されます。たとえそうでなくても、王よ、御承知下さい。私達はあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の偶像を拝みません!」(ダニエル3章17、18節)

  それで一貫の終わりのように見えた。彼らは炉に入って行ったからだ。その炎は死刑執行人でさえも殺してしまうほど熱かった! しかしその3人の信仰と従順のゆえに、神は炉の中でも彼らと共におられ、彼らは火の臭いもつかずに出て来たのだ! (ダニエル3章参照)

  信仰と従順が先に来てこそ、神は祈りに答えられる! 「こうしてあなたがたの信仰はためされて、金よりも多くの精金よりもはるかに尊いのである。あなたがたが火をくぐって来た時、あなたがたは金のようになって出て来るであろう。それゆえすべての人の働きは、試されるであろう。その事は、それが木、草、わらであるのか、それとも金や銀や宝石のように尊い物であるかを明らかにさせるのである。そして役に立たないものは焼き尽くされ、尊いものは、ながらえるのである。」(第1ペテロ1章7節、第1コリント3章12−15節)

  主はこう言われる。「見よ。わたしはあなたを練った、しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた」と。(イザヤ48章10節)  だから「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことはない。」(第1ペテロ4章12節)  一見いかにもそうなりそうなことでも、神の奇跡を生む力があれば、必ずしもそうならずにすむ事がある。−−−ちょうど3人のヘブル人の子供のようになるのだ。あなたは火を通らなければならないかもしれないが、主は煙の臭いもつけないで、あなたを簡単に救出する事ができる! 主は言われる。「見よ、わたしは主である。すべて命ある者の神である。わたしにできないことがあろうか。」(エレミヤ32章27節)

 

賛美の力!

 

  たいてい、災いや病気というものは真のテストとなるが、しばしば苦さとつぶやきに終わってしまう事がある。人は、神がいやして下さらないと言って、それを根に持って神に敵対するようになるのだ!−−「神が私をいやして下さるなら、私は神に仕えよう。−−でも神はいやして下さらない。神は私を愛して下さらず、私のことを思って下さらないんだ!」

  そのような疑い、恐れ、失望、不平は死に至らせる! 信仰の欠如のゆえに荒野で死んでしまった、不平を言っていたイスラエルの年老いた世代の事を考えてみなさい! 彼らは「とても多くのものを苦しんだが、無駄でおわってしまった。」(ガラテヤ3章4節)彼らはさんざん苦しんだのに、不平のゆえに、その恩恵を全く楽しむことがなかった! 戦いのことで不平を言って、勝利がもたらされる寸前にやめてしまうような人は、決して勝利の喜びを味わうことができない!

  しかし、信仰、信頼、勇気、主への賛美は命を与える! もし悪魔をやっつけたいなら、何が起ころうとただ主を賛美し始めなさい!悪魔は賛美には全く耐えられない! 悪魔はしっぽを巻いて逃げるだろう! 「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば彼はあなたがたから逃げ去るであろう。完全な愛は恐れを取り除く。神が私達に下さったのは臆する霊ではなく、力と愛と健全な思いとの霊なのである! あなたは全き平安を持ってあなたにその思いを留めている者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである!」( ヤコブ4章7節、第1ヨハネ4章18節、第2テモテ1章7節、イザヤ26章3節) ハレルヤ!

  神は敗北と見えるものの中から最大の勝利をおさめられる。そして神はしばしば、それまであまりしなかったこと、つまり主を賛美することによって勝利をもたらされる! だから、物事が最も暗く見えても、下を向いてはいけない!−−上を見上げなさい! つぶやきや不平を言ってはならない!−−主を賛美し始めなさい。そうすればあなたは、悪魔があなたを投げ込もうとしているその穴から、賛美することによって出て来るだろう!

  賛美は信仰の声!

 

いやしのためのさらに多くの条件

−−またいやされた状態でいるための条件!

 

  この人生の幸福と健康と祝福は、神に対する私達の従順にかかっている。私達が、いやしのために神が要求しておられる代価を喜んで払おうとしないなら、主は私達をいやそうとはされない! 従順な人達だけがいやしていただけるのだ。いやしは従順でいたことに対する報酬なのだ。健康は特別な神の祝福であって、私達は、従順でいる時にだけ、いやしを要求することができる! しかし、もし不従順であれば、何も要求はできない。

  神にはいやす事ができ、また癒すことを望んでおられるのだが、まず私達が喜んで神の御心に服従し、いやされるために神が要求する事を何でもするという決断をしなければならない! 最初に何か霊的な問題があれば、それを正さなければならない。−−そして祈り、従順でいて、完全に神に信頼すれば、必ず成果を得ることができる!

  時には、そもそもこの理由のために病気になることもある。つまり、何かが原因で神が私達を懲らしめておられ、おしおきをしておられるのだ。私達が何か悪いことをしたから、神は罰しておられる。−−いつもそうとは限らないが、時々そういうこともある。神は私達を愛しておられ、私達の悪さが自らを傷つけることになるのをご存じなので、人が悪くふるまうと、それは神の心を傷つける事になるのだ。だから神は、私達が真理を受け入れ、悔い改め、告白するように、私達を正そうとされるのだ。

 

  しかしおしおきでさえも神の愛の証明であり、神はそれを愛の内に行なわれる!−−「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子をむち打たれるのである!」(ヘブル12章6節) そして私たちの罪のゆえに私たちが病気になる時でさえ、この同じ章の13節で、「むしろいやされるように」と書かれている。

  神は憐れみ深い。神は愛情深い神、憐れみ深い神だ。−−「天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜るいつくしみは大きい。父がその子供を哀れむように、主はおのれを恐れる者を哀れまれる。主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりである事を覚えていられるからである。」(詩篇103篇11-14節)

  「主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、また憐れみをたれられる。彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。」(哀歌3章31−33節)

  だから、神が教えようとしていられる教訓を私達が学んだか、あるいは状況的に、神が望んでおられる結果になる準備が整った場合には、神は「むしろいやされるように」と言われる。神はむしろいやすのを好まれるのである。−−もし私達が、いやしを受けるのに信頼が置け、また神が示そうとしておられることを私達が学び、そしていやされることが、神の目的を成し遂げるようになるならば!

  この原理はまた、私達が癒しを受け取った後でも適用する。−−もし私達が従いもせず、神の御心に留まらず、癒された事で常に神に栄光を与えもせず、また癒された状態でいる事で、常に神を信頼し続けないのなら、神はたぶん病気、あるいは災いを私達の上に戻されるだろう。それは私達の恩知らずと不従順のせいだ。勿論、もし私達が悔い改めれば、神はもう一度私達を赦し、そしていやす事もできる。「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」(詩篇136篇)

  主のいやしは救いとは違って特別の祝福であり、極めて貴重な特権なのだ。もしあなたがいやしに関して主に信頼し続けず、いやして下さったことで主に栄光を帰さないなら、主はいやしを取り去ることもできる。だからあなたがいやされた状態でいたいのなら、主に従ったほうがいい。−−ちょうど主から余分の命を借りているようなものだ。いやされたのなら、主に近くとどまった方が良いだろう。主は、あなたがある目的を成し遂げるようにいやされたのだから、その目的を果たしなさい。いやしによって神が与えられた力を、主の栄光のために使いなさい!−−アァメン?

 

まとめ

 

  勿論、癒しを作り出す最大の要因の一つは信仰だ。つまり神が自分を愛して下さり、自分を思いやって下さり、何があろうとも神が自分を世話して下さると堅く信じる事だ。信仰は、恐れや緊張という、疾患や思わしくない健康状態の最大の原因を除去する事さえできる。

  信仰があれば、平安を持つ事ができ、主が全ての面倒を見て下さると知り、ただ主にあって休息できるからだ。神に信仰と信頼を持っていれば、体の休息、心の平安、心の満足を感じ、良い霊的状態でいる事ができる。この全てがあなたの健康状態を大いに向上させる。

  あなたは神と神の愛に信仰を持っているだろうか?−−その偉大な医者に、個人的に会ったことがあるだろうか?−−「翼にはいやす力を備えている」主に? もしまだなら、ただ、神の御子であるイエスを自分の救い主として受け入れ、心の中に入って下さるようにお願いするだけでいい! 今すぐにでもそうできる。もしあなたが、すべての問題に対する神の答えを望み、また心を満たす神の愛と幸福と「言葉につくせない栄光に満ちた喜び」(第1ペテロ1章8節) のある人生を望むのであれば!

  主は、今まであなたが欲しがっていたものすべてを与えることができる! 罪の赦し、神への信仰、キリストにあっての愛、真の生きがい、働くための真の目的、心の平安、健康な体、喜び、幸福、愛、永遠に続く笑いも! 主はあなたが必要なものすべてを満たして下さり、すべての問題を解決して下さる! 主はそんなにも素晴しい。とても簡単なことなのだ! 主を試してみてはどうだろう?

  「なおりたいのか?」(ヨハネ5章6節) −−体と思いと霊において。−−それならば、イエスを今受け入れなさい! ただ、自分には罪を赦して下さる救い主が必要であると認め、イエス・キリスト御自身の霊を個人的に心の中に受け入れるように、はっきりとした個人的決断をしなさい。主はこう言われる。「見よ、わたしは (あなたの心の) 戸の外に立ってたたいている。  誰でもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼の中に入ろう。」(黙示録3章20節) −−ただ心を開いて、太陽を中に輝かせなさい!

  そしてどうかこのことを覚えていなさい。「1オンスの予防は1ポンドの治療にまさる! 今日の一針は明日の十針!」ということを! いやされなくてはならなくなるより、健康でいることの方がずっといい。だから、神の健康の法則を守って、病気を予防するために最善を尽くしなさい。正しい食事、正しい運動、正しい休息、正しい生活を守れば、ほとんどどんな人でも健康でいることができるだろう。

  しかし、主にいやしてもらうことを必要とする時は、主はあなたのためにいやしを用意しておられるというのを覚えていなさい! ただ、自分の信仰の手を伸ばし、いやしを受け取るだけでいいのだ。「主はあなたのすべての病をいやし!」(詩篇103篇3節)−−それには例外はない! 主は何でもいやすことができる! 「わたしは主であってあなたをいやす者である!」」( 出エジプト15章26節)

  必死に祈りなさい。−−そして奇跡を期待しなさい!「信じなさい、そうすればその通りになるであろう!」(マルコ11章24節)  あなたが自分のすべき事をするなら、残りは神に任されている。神があなたを祝福し守るように! 奇跡を期待しなさい!−−そうすればイエスの御名によって、あなたの身に奇跡が起こるだろう!