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天国のコミュニケーション!

−−主よ、わたしたちに祈ることを教えて下さい!」(ルカ11:1)

 

  1.祈りの内に主に呼ばわるというのは、真に生まれ変わった全ての神の子にとって、ごく自然の行為であるはずだ!神は、本当に神を知っている神の子ら一人一人が、誰か他の人の祈りや信仰を媒介にしてではなく、本人が個人的に神に触れ、神と直接の接触を持つよう望んでおられる。だから私達はおのおの個人的に、祈りという天国とのつながり、つまり私達と天をつなぐ電話を通して、主と個人的で親密な接触を持つ事を学ばなければならない。

  2.たとえ私達の「父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものをご存じ」(マタイ6:8)であっても、主は、私達が問題を自分だけでは全部解決できないことや、私達には主の助けが必要だということを告白するのを好まれる。主は、私達が身を低くして自ら進んで祈り、主の力を認め、主に助けを求めることによって主に対する信仰を示すことを好まれる。それから、当然主は、祈りに答えられるのがお好きだ。それは、ただ私達には主が必要だということを思い出させるためだけではなく、私達が主の助けを感謝し、そのことで主をますます愛するのを好まれるからだ。−−父のように主を愛するのが!

  3.親である私達も、自分の小さな子供に対してそのように感じる。−−私達は、子供の質問に答えてあげたり、子供の問題を解決してあげたり、答えを与えてあげるのが好きだ。−−もし子供が求めるならば! しかし多くの場合、子供はただ自分でやろうとして悪戦苦闘する。私はよく、自分の子供が欲求不満でいらいらしている時に、こう言ったものだ。「まったく、どうして私に助けを求めなかったんだい?」−−そして、それは私達と主との間と同様の状況だ。つまり主は私達が主に助けを求めるのを本当にお好きなのだ。なぜなら、それこそ、主と主の御言葉と、天からの導きと、親のような愛に対する私達の信仰を示すものだからだ。

  4.主は、私達の問題や、質問や、悩みに対して答えを与えるのがお好きだ。主は、何をすべきか、どのようにすべきかを正確に知っておられ、私達が自分で全部解決しようとするのではなく、ただ単純に主に答えを求めるのを望まれる。主はこう言われる。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」(マタイ7:7,8)

  5.主はさらにこう続けられる。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか?」(マタイ7:9-11)

  6.主にとってはすべての答が単純で、すべての解決策は容易なものだ! 私達がしなければならないのは、ただ求める事であって、主は私達が求めたものを受け取ると約束された。心から答を求めるならば、私達は答を見いだす! だから決して、問題全部を自分で解決しようとしたり、決断を全部自分で下そうとしてはいけない。ひざまずいて祈り、神からの答を得なさい! 主はこう言われる。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」(エレ33:3)

  7.「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)しかし、主にあっては、「わたしを強くしてくださるキリストによって、何事でもすることができる!」(ピリピ4:13) だから、本当に助けが必要な時には、イエスに助けを求めなさい! 「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる!神はあなたがたをかえりみて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい!」(詩篇55:22; 1ペテ5:7) イエスはこう言われた。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」−−ただし、これには一つの条件がある−−「わたしのもとに来なさい!」(マタイ11:28-30) あなたが信仰をもって祈り、主のもとに来て答えを求めれば、それを得るだろう。

  8.そして、それこそ祈りの本質だ!−−祈りはただ単なるある種の宗教儀式ではなく、生きた関係なのだ。ちょうど次の小さな歌の歌詞のように。

 

「イエスよ何と素晴らしき友、

罪、悲しみすべてを負いたもう!

すべてを神に祈りで委ねるとは、

何という特権!

ああ、私達は何と容易く平安をなくすことか、

ああ、何という要らぬ痛みを背負うことか、

それはすべて、すべてを神に祈りで委ねていないから。」

 

−−主の肩はどんな荷−−主御自身の荷も含めて、どんな荷も一まとめしたもの−−でも負えるほど広い! だから、あなたが、祈ることと、重荷や試練や必要を主に委ねることを学ぶのは、非常に大切なことだ!

 

天から聞く!

 

  9.たいていの人にとって、祈りとは一方的な会話であって、自分だけがしゃべるものだ。かの幼い子供預言者サムエルが5才にして「主よ、お話し下さい、あなたのしもべは聞いております」(1サム3:10)と言ったのに対して、多くの人は、「主よ、お聞き下さい、あなたのしもべは話しております」と祈る。主があなたに言おうとなさっていることを聞く暇もないほど、自分ばかりまくしたてるよりは、主に耳を傾けた方が、はるかに多くのことを成し遂げることができるだろう。

  10.祈りとは、ただ単にひざまずいて自分の言いたいことを言うだけではなく、神の言い分をも話していただくことだ! だからこそ、私達一人一人が主を個人的に知って、聖霊に満たされ、それによって個人個人が御霊に導かれなければならないのだ。そうすれば、私達は個人的に主を尋ね求め、私達それぞれが個々の状況に対して必要な、自分達のための答を見つけることができる!

  11.これは実際、私達一人一人が学ぶ必要のあるものの中で、一番大きなものだ。−−つまり、神に従い、毎日新しく神から聞くことだ! たった一度霊感されたからといって、それを一生もたせることなどできない! それは、食べることに似ている。一回の食事では一日分すらもたない。まして、何週間や、何か月間はなおさらのことだ!−−そして、毎日食べなければならないように、あなたはまた、毎日霊感されなければならない。あなたには、日々再び霊感されるため、霊の新鮮な食物、御言葉の乳、高きところからの火が必要なのだ!

  12.あなたは毎日神から聞くべきだ! 耳で聞こえる声である必要はない、実際の声でなくてもいいのだ。ただの、内で感じる、「静かな細い声」であってもいい。これは時には言葉でさえもない、ただ自分に受ける印象である。(列王紀上19:12) 神は言葉を使って交信される必要はない。神はただ、あなたにある感情や、画像や、概念を与えることができるのだ。

  13.神の霊は常時放送している放送局のようなもので、あなたはただどうやって波長を合わせるかを学ぶだけでいいのだ! もしあなたのチャンネルが通じていて、波長が合っているならば、主はあなたを満たされるだろう。−−あなたの精神、心、耳、目も! ただ信仰を持つだけでよいのだ。イエスは、あなたが信じるならば、いつでも、どこでも語りかけられる!−−いつでもあなたが信じる時に! だから、主に答を求める時には、答をもらうことを期待し、初めに受けたものを受け入れなさい。

  14.もしあなたが、心から信じて主に求め、聞くか見るかを望んでいるならば、がっかりすることはないだろう! そして、あなたが霊の目や耳で見たり聞いたりすることは、主からのものなのだ。−−それはあなたにとって素晴らしい慰めとなるだろう! 神が答えて下さるのを期待しなさい! ただ心を開き、陽光を入れなさい! もしあなたが本当に必死で、心の底から呼ばわり、神に求めているなら、神は答えて下さる!

 

静かな時!

 

  15.もしあなたがいつも急ぎ、あわて、せかせかし、忍耐を欠いているなら、全神経−−目や、耳や、精神や、心−−を、問題の解決策、問題の答、その状況に対する最善の決断を求めて主に集中することはできない!

  16.静かになって、主に求めようとしない限り、一体どうやって、主から何かを聞くつもりなのか? 主は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。穏やかに信頼しているならば力を得る!」(詩篇46:10;イザヤ30:15) あなたは、主から何かを聞こうというつもりならば、自分で、−−どこかで、どうにかして、いつか−−静かにならなければならない!

  17.モーセからイエスに至るまで、偉大な神の人は一人残らず、深く考え、祈り、神と親しく交わる時間を取るために、しばらくの間一人で山にこもらなければならなかった。何ということだ、もしイエスがそうされなければならなかったのなら、私達は一体どれほどそうしなければならないことか! イエスは、弟子達が起きる前の夜明けに起きて、丘を歩いたり、山を登ったりして、神と二人きりになり、父からその日の命令を受けなければならなかった! (マルコ1:35; ルカ6:12)

  18.だから、一日を正しく始めなさい。主から聞きなさい! あなたにはそれが必要だ。そうでないと、物事はうまく行かないだろう。王国の事情であまりに忙しくしているために王とのフェローシップを怠ると、それはあなたの霊的生命と主との交わりにとって致命傷になるかもしれない! 主の力と導きなしには、主の仕事はできない!−−そして主の力と導きを得るには、主と時間を過ごさなければならない!

  19.だから、一日の仕事が始まる前に、朝早く、短い祈りの時間を取ってみなさい。−−問題に対する解決策を主に求めることは、解決策を知る一番簡単な方法だ。もう少し祈ることに時間を費やせば、物事を成し遂げるために仕事をしたり、試みたりする時間が、ずっと少なくてすむだろう!

  20.もしあなたが主の言い分に耳を傾けるなら、主は、一日が始まる前にさえ、問題の多くを解決して下さることだろう。しかし、もし主と話す時間を取らず、司令官からの指導を得ようともせずに、あらゆる問題や仕事に頭を突っ込むなら、あなたは総司令部の言うことにも耳を傾けず、上層部からの組織化もなしに、一人っきりで戦争を戦おうとする兵士のようになってしまうだろう!

  21.私達は皆、休息の内に、主の御言葉の生ける水を飲んで聖霊で満たされ、祈りの内に主との親密な交わりを持ち、霊において愛の営みをする為の静かな時間が必要だ。これはあなたを再び新しくし、完全に元気づけ、新しいビジョンと新鮮な霊感と、新しい力、休息、平安、喜びを与えてくれる! それは、「主を持ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れる事なく、歩いても弱ることはない」からだ!(イザヤ40:31)

 

「すべての道で主を認めよ!」(箴言3:6)

 

  22.私達は、確かに毎日主との静かな時間−−祈りと主の御言葉を読む時間−−をいくらか取るべきだが、イエスはまた、私達がいつも祈るべきであり、いつでも絶えず、一日中祈るべきで、することすべてにおいて「イエスを仰ぎ見る」べきだとも言われた。(ヘブル12:2)

  23.「人は失望せずに、常に祈るべきである!」(ルカ18:1)主はまたこうも言われた。「絶えず祈りなさい!」(1テサ5:17) そして、「目をさまして祈っていなさい!」(マタイ26:41) 主は、私達がそうしなければならないことをご存じであり、これこそが、私達を主の近くに、絶えず主のみ前にいるようにし、常に主と主の保護に寄り頼むようにする、主の方法の一つなのだ。

  24.祈りとは、他に何をしていようと、常にしているべきものだ! あれやこれがすっかり終わるまで待って、それから祈ろうなどというのではない。祈りとは、活動中に考えているようなものだ!−−または、呼吸のようなものだ!−−常に聖霊を呼吸し、常に主とのコミュニケーションを取っているようなものなのだ。

  25.神はこう言われる。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6)−−これは、特に決断を下す際にしがみつくのに最も素晴らしい聖書の節の一つだ。私達は全ての答を知っている必要はない。自分の考えや知恵に頼る必要はないのだ。ただ、主と、主の導きに頼らなければならないのだ!

  26.ただ仕事をする前に祈ることを覚えてさえいれば、主はあなたの多くの仕事や、問題や、時間を省いて下さることができる! しなければならないことが何であれ、それについて祈りなさい! 主はいつもあなたのすぐそばにいて下さる。−−主はこう言われる。「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)主はいつもそばにおられる! 神が私達のかたわらにおられない時は決してない。祈るのを忘れてどこかに行ってしまい、主を置き去りにし、主のかたわらから離れることがあるのは、私達の方だ。

  27.そして、私達が主の助けを求めて祈らない時、それはただ単に忘れているか、−−そして祈るのを忘れるとは、非常に怠慢なことだ−−または自分では答を知らないのに、主に尋ねなければならないことを認めたくはないかのどちらかだ。そして、どちらにしても、それは間違っている! 祈るのを忘れるのは、祈りたがらないのと同じぐらい悪い! そして、心から祈らずに本当に波長が合わず、主が導いて正しいことをするのを助けて下さるように求めない時、あなたは間違いなくへまや間違いをしでかし、混乱状態を引き起こし、道から外れることになる。

  28.クリスチャンが犯す間違いの中でも最大のものの一つとは、自分では道理にかなっていると思う事に従い、一般知識に頼る事だ! なぜなら、主は通常の期待とは全く正反対で、御霊によってしか明かされないような、全く違った事を御心に抱かれているかもしれないからだ。聖書の中には、人が自分の考えに従って決断を下したものの、主を尋ね求めず、主の御霊によって導かれなかった為に、結果的にそれが全く間違っていた事が分ったという例が沢山載っている。

  29.だから、あなたが直面する多くの問題を、自分の知恵や力や理解力によって解決などできないことを、忘れてはならない。−−イエスはこう言われた。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない!」(ヨハネ15:5)

  30.私達の人生で一番重要なのはイエスであり、イエスに近くとどまることであり、主に私達を導き、指導していただくことだ。主こそ私達を導かなければならない方だ。主だけがそれをできられる方だからだ! 主なしには、私達はどこに向かっているのかもわからないし、どうやってそこに行くかも何もわからない! しかし主は正確にどこか、どのように行ったらいいかを知っておられ、私達はただ後部座席に座って、主に運転していただくだけでよいのだ! 主は行先と、目的地に着く最善の方法を知っておられる!

  31.主は、もし私達がすべての道で主を認めるなら、道を真っすぐにされると言われた! 主はこう言われる。「あなたがたは、そのうしろで、『これは道だ、これに歩め』という言葉を耳に聞く。」(イザヤ30:20) だから、何かをする前に、すべてのことを主に尋ねなさい。−−それが、あなたがするように主が望まれていることだと確かめなさい。すべてについて主を求めなさい。−−すべての問題、すべての決断について。−−そうすれば、主は決して失敗せず、あなたを失望させないだろう!

 

必死の祈りの力!

 

  32.主は私達が幸せであることを望んでおられる。そして主のおかげで私達は普段そうだ。しかし、私達が必要とされている変化のために心から主を求め、主に心を注いで心から必死に祈る時もあるべきだ。主はこう言われる。「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う。」(エレ29:13、14a) もちろん、私達の小さな祈りは皆誠実なものであり、私達は心からそれを祈るが、私達はまた、持ち上がってくるどんな深刻な状況の為にも、必死に祈る事もまた必要なのだ。私達それぞれが問題について主と真剣になり、神は誰を対処されているのか、またなぜ対処されているのかを知る必要がある時もある!

  33.しかし、どちらかと言うと怠惰な態度を持ち、何が起ころうと主がすべて解決して下さると考えているような人達も大勢いる。−−でも、実際には、多くのことが私達にかかっている! 多くの場合、神が何をなさるかは、あなたの意志、あなたの行動、あなたが何を望み、どう祈るかにかかっているのだ! ただ何もしないでいて、神に悪魔と最後まで戦ってもらう、というのではいけない!

  34.聖書には、「主の名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、主によりすがる者はない」ために、ある時イスラエルに悪いことが起こっていたと書いてある!(イザヤ64:7) 主は多くのことを、私達に任せておられる。もし私達が自ら奮い立って求めれば、神も、力を込めて返答される!非常に多くのことが、私達次第で決まる。私達の信仰と、祈りと、私達が何を求めているかにかかっている!

  35.確かに神には何でもできないことはないが、神はあなたを通して働かれるように御自身を制限しておられる。そしてあなたが祈るなら、力あるわざをすることができる! 神は、私達の信仰や祈りといった小さな鍵によって、その全能の車輪を回される! しばしば神はただ、私達が状況を指揮するのを待っておられるのだ。神はこうさえ言われている。「わたしに命じよ!」と。(イザヤ45:11) 神は、ご自身に何をしてほしいかを命じることさえできるような信仰と力を人間に与えられたのだ!

  36.私達は、祈りを通して神の心を変える事すらできる! かつて、主はイスラエルの子らを滅ぼしてしまおうと決意されたが、モーセが一心に祈ったので、神の言葉は、その祈りは主がしようとされていた事の気を変えたと言っている。モーセの祈りにより、神はイスラエルの子を哀れに思い、気を変えられたのだ。(民数14:11-20) 勿論、神の全体的な計画は何一つ変わってはいない。神の全体的な意志は何も変わってはいない。しかし、ある程度の詳細にあっては、あなたは神の心を変える事ができるのだ!−−もし祈りが何も変える事ができないとすれば、祈る事など止めてしまった方がいいではないか!

  37.あなたは神の御手の中にいるが、ある意味では神もまたあなたの手の内におり、アラジンのランプに出て来る魔人のように、あなたの命令次第なのだ。−−「ご主人様の言う通りにいたします!」と。もしあなたが神の霊と神の意志の内におり、神に栄光を与えることのみを願っており、主にあって喜びをなしているならば、何でも願うところを主に命じることができる。なぜなら、あなたが望むものはすべて主の望むことであり、主の栄光のためだからだ。

  38.私は、今まで自分をのっぴきならない立場に置いて、あることを神にしていただくように要求すると、神はいつも必ず何かをして下さった。神がして下さった事は必ずしも私が要求した通りだと限らなかったが−−大半の時は実際に要求した通りだったが−−だが、神はいつも何らかのことをして下さった!−−つまり主が私に答を示して下さったか、または何かの方法を使って答えて下さった。心の底から主に呼ばわる時、主は「あなたに答える」と約束されている! (エレミヤ33:3)

  39.だから、今度あなたがのっぴきならない立場に置かれ、神の助けが本当に必要な時には、向き直って、神に何とかしてもらうよう迫りなさい! 主を呼び求めなさい。そうすれば主を通して、あなたはあらゆるものに勝る力を持つ事ができる! イエスは決して失敗されない! 私達が自らを奮い立たせ、心から主に呼ばわるなら、主は必ず答えて下さる。

 

もっと多くの祈りの原則!

 

  40.良き祈りの生活を送るためにあなたが知る必要のある最も重要なもの一つは、神の御言葉だ。信仰は神の御言葉を忠実に学ぶことによって大きくなる。−−「信仰は神の御言葉を聞くことによって来る。」(ローマ10:17) どちらにしても神は答えることができるのであるが、もしあなたが真に必死の祈りをするつもりならば、御言葉に没頭し、霊感を与えてくれるような御言葉を読む時間を初めに取れば、あなたは霊感され、祈りに対する信仰を与えられることだろう。

  41.神は御言葉の中に数々の約束をされた。そして祈る時には、あなたはそれらの約束を神に思い起すべきだ。御言葉を神に思い起す事は、あなたが御言葉に信仰を持っている事を示しており、信仰と御言葉の知識の積極的な宣言である。神はそれを喜ばれる。しかし「信仰がなくては神に喜ばれることはできない!」(ヘブル11:6)

  42.「またそれらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、神の性質にあずかる者となるためである。」(2ペテ1:4) あなたは契約者(神)に対して契約条件(聖書)を引用し、それを守ってもらわなければならない! 神は御言葉に縛られている! だから、神に約束を思い出していただき、神の約束に固執し、約束を暗記し、引用して、神が答えられるということを一瞬たりとも疑ってはならない。−−そうすれば、神は答えて下さる!

  43.しかし、契約の、神の側の条件をも常に覚えていなさい。信仰と従順である! あなたはまず信仰を持ち、従わなければならない。それから、神は祈りに答えて下さる! もし私達が主に従っており、忠実で、信頼し、信じているならば、神は祝福し、答えなければならない。勿論、時には神は私達の信仰を試したいと思われることもある。−−神は、私達がどれだけ本気で信じているかを見るのを好まれ、すでに私達に告げられた事や示された事に従うまで、答を与えて下さらない事がよくある。

  44.すぐに答えられなくても、神が答えるのを拒否しておられると限らないということを覚えておくのは助けになる。時には私達は神が答えられるという信仰を持ち、答えられるのを待たなければならない。これは普通結果として「信仰がためされることによって、忍耐が生み出される」ことになる。(ヤコブ1:3) 忍耐を学ぶということは、神が最も頻繁に私達に教えようとされる教訓の一つのようだ。しかし、それは私達があまり備えていない美徳でもある。それというのも、忍耐は私達の信仰をとことんまで試し、主と主の御言葉の近くにいるのを余儀なくさせるからだ。

  45.もう一つ、重要な祈りの原則は、主に対して明確になるということだ!−−私達は、祈る際、明確な答えを心から求め、期待する必要がある! 明確であることは、信仰のしるしだ。多くの場合、人々は一般的な祈りをする。それは、どっちにしても祈りが答えられるのを期待していないからだ! だが、もし祈る際に明確であるならば、あなたはその明確な答えを得る事を期待しているという事を示している事になる!−−そして、がっかりする事など予測もしていないのだ! あなたは心から期待しているのだ。そうでなければそんなに明確に祈らなかったことだろう!

  46.覚えておいて下さい。神はあなたの言葉通りに受け止められる! 以前私の知り合いだった牧師は、「主よ、車を与えて下さい。どうしても必要なのです。どんな古い車でも構いません!」と言ったのだが、彼は自分の求めた通りのもの、つまりポンコツ車を受け取った! 「次に祈った時には、はっきりと良い車を下さいと祈った。そうしたら、良い車が手に入ったんだ。」と彼は話してくれた。だから主に何をして下さいと頼むかについては注意深くなければならない。なぜなら、主は言葉通りに受け止められるからだ! 主はあなたが求めた通りのもの、そして言うまでもなく、あなたが、必ずそれは与えられるという信仰を持っているものだけを与えて下さる!

  47.それからものによっては、主に、与えて下さいと言い張らないように注意しなさい。主は、人々に教訓を学ばせるために、たとえ彼らに良くないものでも、それを与えて下さることがあるからだ。主は、イスラエルの民について、「主は彼らにその心の求めるものを与えられたが、彼らの魂はやせ衰えさせられた。」と言われた。−−詩篇106:15 あなたが求めているものが、主の栄光のためであり、主の御心にかなったものであるかどうか気をつけなさい。

  48.もし神の貴い聖霊についての私達のクラス「愛の霊」を読んだなら、聖霊があなたの祈りに、どんなに力強い影響を与えることができるかがわかっただろう。一旦聖霊で満たされたなら、霊の内で祈ることができるのであり、あなたは霊によって祈っているので、祈りはもっと効果を発揮する。「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ8:26)−−あなたはただ聖霊に自分を通して祈ってもらい、異言で語ることができる!

  49.それから、一旦何かについて祈り、それを主に委ねたならば、あなたはただ信仰を持たなければならない。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう!」(マルコ11:24) 信仰は、祈りが答えられた時に驚かない。信仰はそれを信じる! しかし、「信じる」という言葉の今日の使われ方は、当然の強さにとうてい及ばない。−−信仰は、それが起こることを期待している。だから、一旦何かについて祈り、それを主に委ねたならば、それから先は主の問題になるのだ。−−あなたはそれについて心配する必要はない!−−ただ主を信頼し、ほめたたえ、祈りに答えて下さることを感謝しなさい!−−たとえ直ちに答えを目で見ることはなくとも!

  50.事実、あなたの祈りの終わりに主を賛美し感謝するだけでなく、祈りの始めにも、主を賛美し感謝すべきだ! 主の言葉には、「ただ、ことごとに感謝をもって祈りと願いを捧げ、あなたがたの求めるところを神に申しあげるがよい。」とあります。−−(ピリピ4:6)ダビデ王は、私達は、「感謝しつつその門に入り、ほめたたえつつその大庭に入る」べきだと言った。−−(詩篇100:4)  ちょうど、王の前に行く時、敬礼し、王に捧げるにふさわしい尊敬の念と栄誉とを捧げるようなものだ。

  51.たとえ疲れていたり、落胆していたり、あるいは主をほめたたえるような気分ではなかったとしても、主がそうしなさいと言われたし、そうすると主を喜ばすことになるとわかっているというだけの理由から、とにかく主をほめたたえるべきだ! それは、旧式のポンプに水をさすのに似ている。少し注ぎ込むだけで、たくさん出てくる! 信仰によってとにかく主を賛美し、ポンプに呼び水を差し、始動させるなら、すぐにあなたは主にあって幸せになり、主を賛美してよかったと思うことだろう。なぜなら、主があなたの上に主の御霊を注ぎ出され、そのことのゆえにあなたを祝福されるからだ!

  52.だから、たとえ少しばかり気落ちして落ち込んでいても、上を見上げ、祝福を数えなさい! すべての祝福を神に感謝し、主と、良き物に目を留めなさい!(ピリピ4:8参照) PTL! 賛美の内に心を主に引き上げることによって祈りを始めなさい! 「わたしたちはイエスの御名によって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか!」(ヘブル13:15)

  53.また、「一人では千人を追うことができるが、二人なら万人を敗走させることができる」ので、時には、特に試練を味わっている時には、誰かにあなたと一緒に祈ってもらうと大きな助けになるということを覚えていなさい。(申命記32:30)  「ふたり、または三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)「もしあなたがたの内の二人が、どんな願いごとについても地上で心を合わせるなら、天にいます、わたしの父はそれをかなえて下さるであろう。」(マタイ18:19)

  54.団結した祈りには、大きな力がある! だから必要な時には、主を愛し、主に従っている他の人からの助けや祈りを求めることを、決して恥ずかしく思ってはいけない。「互いにあやまちを告白し合い、またいやされるように、お互いのために祈りなさい。」−−ヤコブ5:16

  55.最後になったが、もう一つ言っておきたい大切なことは、イエスの御名によって祈るということだ。新約聖書を通して、主は、イエスの御名で祈ることがどれほど大切かについて話しておられる。イエスの御名で何かを求めること、イエスの御名を使うことの重要さと、祈りにあるイエスの御名の力について私達に語られた。イエスこそ、私達が神に近づくために通らなければならないお方だ。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(1テモ2:5) 人々は、イエスの御名にある力を知る必要がある!−−その名なしには、力は存在しないからだ! イエスはこう言われた。「何事でも私の名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう!」(ヨハネ14:14) PTL!

  56.あなたはイエスを知っていますか? 私達はそう願っている!もし知らないなら、今すぐにイエスに心の中に入って下さるよう求めなさい。−−そうすれば、イエスは心の中に入って下さる! その後あなたは、祈りを通してイエスとフェローシップし、コミュニケートするにつれて、主を個人的に、親密に知ることができる! そして、誰かあなたと一緒に祈ってくれる人か、またはあなたのために祈ってくれる人が必要ならば、この本に載っている宛て先に手紙を下さい。神が良き、明確で、霊感された「天のコミュニケーション」であなたを祝福されるように!