DB815

 

服従に関する神の教育! 編集 1987年4月

−−「御心に委ね、従いなさい!」−−パート2  DFO 2225

 

  1.あなたは、一晩のうちに主に対する服従を完全に学ぶわけではない。それには、時間がかかる。砕かれ、苦しみを経る事を要し、レッスンと経験を要する。そうしたことを経ることによって、あなたは自分の力ではできないことを悟り、主に近くなる! 大抵主は、あなたを使う計画をしている時、あなたに真のテストと試練を通らせる。イエスはこう言われた、 「実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである!」−−ヨハネ15:2

  2.私達はよくそのようなテストや試練を通るが、それは私達を清め、よりすぐれた器にするためであり、主の奉仕にもっと適した者にし、もっと謙遜で愛情深い者にするためである。(2テモテ2:12) 主は、私達のくずを燃やし尽くすために火をくぐらせ、私達のかすを吹き飛ばすために嵐を通り抜けさせ、また私達が泳ぐことを学ぶように、深い水を通らせられる! (イザヤ43:2)主はまたそうしたことを使って私達にレッスンを教えられ、私達が学んだレッスンを他の人に教え、 「私達自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難にある人々を慰めることができるように」して下さるのである。−−2コリント1:4

  3.主はそのようなテストを使って、一見敗北と見えるものからでさえ、私達に大きな勝利を与えて下さる。なぜなら試練を経る事によって、私達は神により近くなり、神に叫び求め、まさに全心で主を求めるようになるからである。(エレミヤ29:13) そのような試練がないと、私達はただ毎日惰性で進んでいく傾向があるのだ。そのような試練は、主にもっと頼らせる。そして試練を通る度に、あなたは前よりも少し強くなり、次の試練を通る事ができるようになるのである。

  4.嵐や火や試練や患難は全て、あなたの強さと決意をテストし、あなたに悪魔と戦うチャンスを与え、あなたが投げ出して信仰を失ってしまうか、それとも戦い続け、主を信頼し続けるかをみるためのものである!主は度々、あなたがどれだけ真剣に奮い立って、助けと強さを求めて主を呼び求めるかを見るために、あなたの信仰や忍耐がテストされるのを許される。−−イザヤ64:7

  5.神がアブラハムの信仰を、どのようにテストされたかみてみなさい! イサクは約束の子孫、約束の息子であり、彼が百歳の時に神が彼に与えた奇跡の子供であった。彼の妻サラは、90歳代であった。そこにはこう書かれてある、 「サラは女の月のものが、すでに止まっていた。」(創世記18:11) 彼女の生理は止まっていて、子宮は子供の産めない状態だった! しかしサラは奇跡的に、 「年老いていたが、種を宿す力を与えられて、子を産んだ。」−−ヘブル11:11 主は、この奇跡の息子イサクを通して、サラが 「国々、王達、もろもろの民の母」となることをアブラハムに約束された。−−創世記17:16

  6.しかし神は、アブラハムをテストして、たとえイサクを手放さなければならなくとも、彼がなお主に従い、主を崇拝し、主に仕えるかどうかを見ることを望まれたのである。アブラハムがどれだけ忠誠心を持ち、忠実であるかを見るために、そして神の御心が何であろうと、彼がそれに喜んで服従するかどうかを見るために、神は、彼に厳しい試練を与えたのである! 主は彼にこう言われた。 「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、私が示す山で彼を燔祭としてささげなさい。」−−創世記22:2

  7.しかし親愛なるアブラハムは従った。彼はイサクをモリヤに連れて行き、そこでイサクを祭壇に置いて、実際にイサクを放棄することを決心していた。聖書には、アブラハムにとってイサクは 「死んだと同様な人」であったと書いてある。−−ヘブル11:12 しかし、アブラハムがナイフをもった手を頭上にあげて、自分の愛する息子を殺そうとした時、主の天使は叫んで言った。 「アブラハムよ! わらべに手をかけてはならない。私は、あなたが、あなたのひとり子をさえ惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを、今、知った!」−−創世記22:10-12

  8.アブラハムはテストに合格した。神はイサクの命を救われた。そしてそのことによってアブラハムは、全ての忠実な者の父となり、神が彼のために持っておられた数々の大きな祝福を受けるための準備ができたのだった! 主はよくそのように、私達をテストされる。主は必ずしも、私達の 「イサク」、つまり私達にとって一番いとしい愛する者や物を、永久的に主のために放棄することを求められるわけではないが、私達の全てを主の祭壇に喜んで捧げようという、御心に委ねる態度を求められることは確かである。主は、私達が主を最も愛していて、主を第一に置いているということを示すことを求められるのだ!

  9.聖書には、イエスでさえ、 「御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学ばれた。」とある。−−ヘブル5:8 厳しい試練、テスト、苦しみは、誰にとっても辛い事だが、それらは主の御心に委ねる事、服従、従順という貴重なレッスンを教えてくれる。人生の中で最も暗い時というのは、夜明けの寸前であることがよくある! 神は、あなたに上を向かせる為に、まず一番下にまで引き降ろさなければならないこともあるのだ! あなたは、主から学ぶ最も貴重なレッスンの幾つかは、暗いどん底の経験から生まれるということが、分かるようになるだろう。

  10.だから、なぜそのような試練を通っているのか、いつもあなたにはっきり理解できるわけではなくとも、神は御自分が最善のことをしていると、知っておられるということを覚えておきなさい! 神はそれぞれのテストと、試練と、災いなどの背後にある、全ての目的と理由を知っておられる。しばしば、私達をただ謙遜にさせるためかもしれないし、他に何の理由もなくとも、それによって主ともっと近くなるのである。

  11.主はこう約束された。 「神を愛する者にとっては、万事が共に働いて益となる。」−−ローマ8:28。主は御自分の子供である、あなたにとって益となること以外、何も起こることを許されない! あなたはこんなふうに思うかもしれない。 「ああ、何てことだ! 私にはあまり益とは思われないようなことが、沢山起こっている!」 だが、遅かれ早かれ、最後にはどうにかして、それがあなたにとって良いことだったということが、あなたにもわかった。あるいはこれからわかるであろうと、私はあえて言おう!(以下は実話で、この素晴しい真理をわかりやすく説明するのに、良い例である。)

 

  何年も前、早朝、ニューファンドランド島の東海岸にある小さな港から数隻の漁船が出て行った。午後になって大嵐になった。夜になっても、一隻として港に戻る事ができなかった。妻や母や子供や恋人は、一晩中、風の吹きすさぶ海岸を行ったり来たりしながら、手を握りしめ、愛する者を救ってくださいと神に呼び求めていた。さらに悪いことに、民家の一つが火事になった。男たちがみんな出ていたので、火を消して家を救うのは不可能だった。

  誰もが喜んだことに、夜が明けると全漁船が無事に港に帰ってきた。しかし一人の女の人の顔には、失意の色が見えた。それは、火事で家が焼けてしまった男の妻であった。自分の夫が陸に上がって来ると、彼女は泣いてこう言った。 「あなた、私達はもうおしまいですよ! 家も何もかも火事で焼けてしまったんです!」 しかし驚いたことに、男は喜びの声をあげてこう言ったのだ。 「その火事を神に感謝しよう! 全漁船を無事に港まで導いたのは、燃えていた私達の家の炎だったんだ!」

 

  12.どんな試練があっても、確かに全ての事は、主を愛する者にとって、本当に共に働いて益となる!その時には、必ずしもあなたにとって良いものに見えなくても、神は、一見敗北のように見えるものの中から最大の勝利を収められる事があるということを忘れてはいけない。−−御心に委ね、砕かれた心を持ち、謙遜になり、主に、さらにより頼むようになるという勝利である。あなたが神の望んでおられる者になるつもりなら、そのことが絶対に必要である! PTL!

 

つえを神に感謝しよう!

−− 「あなたのつえとむちは私を慰めます!」

(詩篇23:4)

 

  13.私達が軌道をはずし、主の御心のまっすぐで狭い道からそれ始めた時、主が私達を対処される一つの確かな方法は、懲らしめである! もし私達が反抗的で、強情であるなら、主は、私達が本当に御心にゆだね、謙遜になり、もっと従順で、悔い改めた心を持ち、主に服従するように、私達をよくおしおきされる! さまよう羊が正しい道からはずれないようにするには、あるいは誤った道からさまよい出ていった羊を連れ戻すには、時々、羊飼いが杖でピシャリと羊を打つことが必要なこともある。

  14.勿論、私達の殆どは、たいてい、お仕置きされるのはあまり嬉しい事だとは考えないが、主にとっては違うようだ。 「主は愛する者を訓練し、受け入れる全ての者を、むち打たれるのである。全ての訓練は当座は喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」−−ヘブル12:6,11。それを受ける時は確かに嬉しい事のようには思えないが、それはあなたの益になるのである。そしてあなたの益になることは良いことなのである! 主はあなたを愛しておられるので、懲らしめを使われる。あなたを正しい状態に保ち、あなたが自分の務めを行ない、的をはずさないようにするには懲らしめが必要だということを主は御存知なのである!

  15.主が次のように私達に警告された時のことを、私は決して忘れないだろう。 「不従順と反抗によって、私の御心からはずれて、私が保護できる安全な場所の外を走り回っていてはいけない!」 なぜならそうすると、主御自身のおきてがあるので、主があなたを守ることが出来なくなるからである。あなたが 「主よ、私を導いて下さい。主よ、私を助けて下さい。主よ、どうしたらいいか教えて下さい!」と絶えず神の御心を求めることをせず、不従順で、反抗的で、ふてぶてしく、自分の知恵や知識や理解力に頼って進み、自分勝手な道を行きたい放題にしているなら、主は大抵あなたを止めようとなさるであろう!

  16.主は、どんな事でも私を見逃して下さらないように思える! 私は、主の御心のまっすぐで狭い道からわずかでもはずれるといつも、主から厳しいおしおきをもらう! ほんの少しでも道をはずすと、私は突然に病気にかかったりするのだ! そうなる時というのは、ほとんどいつも私があまり主に献身していないか、主の御心を行なおうとすることに専念せず、心を尽くして誠実に仕え、従い、他の人を助け、証しをして魂を勝ち取ろうとすることに全力を注いでいない時だったということを、私は告白しよう。

  17.神は、ただ私達の注意を引くためにいろいろな事を起こされることもある! 私達があまりにも注意をそらされ、あまりにも他の多くの事、この世の思い煩いや、「いばら」などの事を考えていて、考えているべき事を考えていないなら、主はただ私達の注意を引くために何か劇的な事をしなければならない!−−ルカ8:14 私達がいろいろな事をあれこれ心配し、重荷や思い煩いを主に委ねず、主のことを考えないで、重荷のことを考えているなら、主はしばしば、私達をいわば強く揺さぶって、真に価値あるもの、すなわち主と主の御心と主の仕事に対して目を開かせる!

  18. 「正しい者には災いが多い」というのは真実だが、私が今までよく言ったように、主は 「私達を全ての災いから救い出され」、また、まさに主が与えて下さる多くの災いが、私達を本当に正しい者に保ってくれるのである!−−詩篇34:9 なぜなら真に正しい人がほんのわずかでも道を踏みはずすたびに、主は、その人を正しい道に戻すために、その人に一発くらわされるか、時々とても深刻な場合には、敵が一発その人に強打を浴びせるのを許される。私はどんな小さな罪でも罰を受けないで済んだことはないように思う。主は必ず私を本当に懲らしめられるのだ!

  19.だからこそ私は、クリスチャンにとって偶然などというものはないと言うのである。−−クリスチャンには偶然はない! クリスチャンにいわゆる 「偶然の出来事」 が起こったとしても、それは、何かの理由があって神がそれを許されたから起こったのである。あなたが病気なら、あなたにレッスンを学ばせるためか、おしおきを与えるためか、またはその両方の理由で、あるいはヨブの場合のように、あなたをテストするために、神がそれを許されたのである! もしかしたらあなたは、すべきではなかったことをしたために、不思議な力で守られている神の保護の領域を出てしまい、神のルールを破ったために、そうした行ないの当然の結果として災いを被るか、あるいは主から直接、懲らしめを受けなければならないのである!

  20.私達にとって物事はただ偶然に起こらない。それらは大抵、私達の問題か、罪か、欠点か、失敗か、ルール違反によって引き起こされたのだ。あるいは時には、ただ私達をテストし、私達の信仰や忍耐や我慢強さを試すために起こることもある。神がそれらの事を許されるのである!(ヨブ23:10,ヤコブ1:2-4)−−まさにそれが、あなたをそんなにも正しい者に保ってくれるのである! 災いや問題は、あなたを主と近い状態に保ってくれる! ダビデは次のように言った。 「私は苦しまない前には迷いました。しかし災いにあった時、主に叫び求めました!」−−詩篇119:67

 

神の子供達に、物事はただ偶然には起こらない。

それらはすばらしい計画の一部。

困難、不運、悲しみ、懲らしめを受けることは

偉大なる彫刻家の手による一削り!

神の子供達に、 物事はただ偶然には起こらない。

青写真は主の御手によって作られた。

主は、御自分の御子にならって、

全ての詳細を計画された。

だから、全ての出来事は計画されたもの。

何であれ、「主の者」 と呼ばれる者に起こる事は、

それがひどくても、すばらしくても、

人生で出くわすあらゆる試練でさえも、

主が主の御座から送られるもの。

物事は偶然には起こらない。

それは計画されている!

−−作者不明

 

他の人に対する服従!

 

  21.主が、どれだけ多くの事をあなたに語られても、聖書の中の御言葉やレターの中にどれだけ私達のすべき事が示されていても、もし何らかの目に見える直接の監督がないなら、あなたは結局、必ず何らかの形で軌道をはずしてしまう! きっとこれが理由で、主は常に御自分の民にリーダーを与えておられるのだと思う。彼らは明らかに自分達の力では主に従うことができなかったのだろう。だから主は彼らに預言者や王や羊飼い、すなわち彼らを教え、助言を与え、主の御心を行なうよう命じる人間を与えられたのである!

  22.主だけでも、あなたにいろいろな事をさせることができるが、もし実際にそうされたら、あなにとってもっときついかもしれない! 主には、効果的に御自分の言いたい事をあなたにわからせるために、空から稲妻を送られたり、あなたが事故か何かにあうのを許されたりすることもできる。しかし主は、憐れみを持って、たいていあなた達に人間のリーダーを与えて下さる。おそらく人間のリーダーは、あなたにいろいろな事をさせたり、主の御心を悟らせたりするのに、それほどきつくないのだ。

  23.神が私達にリーダーを与えて下さる一つの理由は、私達のほとんどが、自分の欠点を告げてくれる人を必要としているからである! そうでなければ私達は怠慢で、だらしなく、不注意で、憐れみを持たず、人を許さない者になる傾向がある! たとえ私達がどんなによくやっていても、私達全員が時折、どのように改善するかに関する少しの提案を受ければ、それを役立てることができると思う。−−あなた達は、自分が完全ではなく、時々助けを必要としていて、父親らしい助言や、母親らしい、または兄らしい、姉らしい助言を必要としいているということを知る必要がある!だからあなたはそのように正される事を感謝すべきであり、それを受け入れて、それを役立てるようにすべきである! たとえ不当に正されたと感じても、そうすべきなのだ。

  24.しかし、とてもプライドが高く、とても頭がいいので、他の人から正されるのはもちろん、提案

を受けることさえ耐えられない人々がいる! さて、そのような人々はかなりひどい状態にある! 何度も言ったように、私達は主のための軍隊である!−−そしてどの兵士も学ばなければならないことがあるとすれば、それは自分の間違いに対する司令官の厳しい叱責を受け入れ、次のように言えるようになることである。 「イエス・サー、サンキュー・サー、次は何ですか?」 たとえプライドが傷ついても! これは戦争である。神経過敏になったり、私達の傷や傷ついた感情をいたわるような時間はほとんどないのだ! 私達は戦い続けなければならない!−−アァメン?

  25.たとえ自分には正されることが必要で、正されて当然だということがわかっていても、なお私達の多くの者は他の人に正されるのを受け入れるのに苦労する。私達が誤っているということを認めたくないというのもあるが、また、正されるのを受け入れるというのは、主に服従するだけではなく、正している人にも服従するということだからである。そしてそのような服従は、かなり私達を謙遜にし、私達のプライドにとってきついものなのである!

  26.これは主の御心に委ねることと服従に関するもう一つの非常に大切なポイントである。多くの人々はこんなふうに感じる。 「わかった。主に服従すればいいのでしょう。」 だがどうやって主に服従することを学ぶのか? 主はいつも大きな声をとどろかせて、何かすごい事を宣言されるとは限らない。主はたいてい私達のリーダーを通して、さらには共に働く人たちを通してでさえ、私達に服従を教えられる。

  27.聖書には 「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。」と書いてある。−−ローマ12:10 これは、従順になる為に他の人に服従するのではなく、愛の故にもそうすべきであるという事だ。時々主は、私達が個人的に好むのとは異なったふうに物事を行ないたがる人と一緒に働くといった状況に私達を置くことによって、私達に愛や服従や謙遜さを教えようとされる。「進んで互いに尊敬し合いなさい」〈注…英語では「互いに相手のほうを優先させなさい」〉というのは、相手の意志に従うのをいとわないということであり、そうする理由は自分がそうしなくてはならないからではなくて、ただ相手を愛していて、主を愛していて、和合を保ち、思いやりを持ちたいからである。−−ただし、もちろん彼らの意志が、神の御心と御言葉に一致していたらの話だが!

  28.正されるのを受け入れるということに戻るが、もし私達が服従の霊を持っているなら、リーダーから正されても、それに抵抗して戦わないので、受け入れるのがはるかに容易になる。従い、受け入れ、それから学ぶであろう。そして勿論、服従するようになること、主に服従するようになることこそ、主が私達にさせようとしておられることである。だから主はしばしば、そうしたレッスンを教えるために、私達が人にたくさん正されるようにされる。だから正されることは、服従の訓練となり、私達に、人の意に従うことを教えるので、私達のためになる。正されることは、主への服従だけではなくて、他の人に対する服従を学ぶ上で必要なことなのだ。主の言葉は次のように語っている。 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また皆、謙遜を身につけて、互いに服従し合いなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをたまうからである。」−−1ペテロ5:5

  29.時々、あなたが何かのことで正され、あなたを正しているリーダーの言っている事柄の詳細が全て正確ではないとすると、その細かい事柄の一つを使って、懲らしめや叱責を受け入れるのを拒む言い訳にしようという誘惑にかられるかもしれない。しかしそのようなことをすると、間違っている点は重要なことではないのに、あなたがそれを取り上げて自分を正当化しようとしているということが明白である! (ヨブ9:20) 「でも、それらの詳細が真実ではないので、私はあなたの結論を受け入れるのを拒みます。」と言う時は、おそらく、正している人の言っていることの主要なポイントは真実なのに、それを受け入れたくないからそう言っているのだろう。

  30.だからもしあなたが誰かに正され、その人の分析のある部分が少し間違っていても、全てのことがきっちり事実に合っていないからといって、その人の言っていることを何もかも即座にはねつけるべきではない。相手の差し出した事実の詳細に取るに足らない少しの間違いがあるだけのことで、すっかり自己正義的になったり、その人を責めたりすべきではない。なぜなら、あなたが実際にはどれだけ悪いかをその人が知っていたなら、その人はおそらくそれよりもはるかに悪い事であなたを責めることができたからである! あなたに完全に責任があるとは言えない事であなたがとがめられ、少なくとも今回はあなたに全ての責任がなくても、あなたは以前、何度も同じ事で責任があったのかもしれない!−−それは、私の最初の妻が信号無視などしなかったと言い張った時に、警察官が彼女に言ったセリフに似ている。 「いや、奥さん、この反則チケットは、今まであなたが信号無視してもつかまらなかった時の分を全部合わせたものですよ!」

  31.もしあなたが不当にとがめられていると感じることがあるなら、たぶんもう少し深く見て、自分に大きな罪のある、より深刻な他の問題のことを、主があなたにわからせようとしておられるのではないかと考えてみるべきである。全ての小さな詳細のことはあまり気にせず、ただ一番肝心な原則だけを心に受け入れなさい。重要でもない詳細は、気にとめない事だ。 「賢い者はこれに聞いて学に進む!」−−箴言1:5

  32.あなたは主の子供であり、主に奉仕しているのだから、あなたに起こる全ての事は何らかの形であなたの益となるということを忘れてはいけない! (ローマ8:28) だから、たとえ自分の監督者や共に働いている者たちからあまり良い扱いを受けていなくても、主は、忍耐や服従や謙遜や従順というあなたが学ぶ必要のあるレッスンを教えるために、それを許されているのかもしれないのだ。−−パロの下にいたヨセフ、サウロの下にいたダビデ、ネブカデネザルの下にいたダニエルなど、どれだれ多くの神の偉大な男や預言者が、いろいろな不正な、あるいは神を敬いもしないリーダーの下で訓練され、卑しめられ、自分の任務のために準備されたか、見てごらんなさい!

  33.神に感謝することに、私達のリーダーのほとんどは、本当に羊を愛する良い羊飼いや女羊飼いである。しかし誰かがあなたを誤った方法で、または短気に、あるいは苛酷に扱たっとしたら、その人達の方が、間違いなく裁きを受けることであろう。 (ヤコブ3:1) しかし実際にたまたまあなたが彼らの手のうちでそのような試練にあったとしたら、主は、あなたをもっとスイートで、謙遜にし、主の御心にゆだねさせるために、その試練を使ってあなたにとても大事なレッスンを教えておられるのかもしれない!  「悪い事をして打ちたたかれ、それを忍んだしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行なって苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。」−−1ペテロ2:20

  34.だからあなたがアブラハムのように、信仰のテストや試練を経験していようと、またはヨブのように、災いや病気や 「事故」などにあっていようと、あるいはまた、あなたがリーダーから頻繁に正され、どの羊もそうであるように、羊飼いに頻繁に指図を受けようと、あなたは主の子供であり、主はあなたを愛していて、あなたの人生は主の御手の内にあるという事を覚えておきなさい! そして主はおそらく、服従を学ぶ主の偉大なる学校において、あなたが学ぶ必要のあるレッスンを幾つか教えておられるのだろう! その学校には、私達全員がこの人生から卒業するまで入っているのだ! だから学び続け、前進し続け、あなたの偉大で愛情深い校長先生があなたに教えておられる、御心に委ねる事と服従のレッスンを心に深く刻みなさい。そうすれば主はあなたを大いに祝福し、主の栄光のためにあなたを使われるであろう!--アァメン?--GBY!