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「神に服従しなさい!」(ヤコブ4:7)

−−「御心に委ね、従いなさい!」−−パート1 DFO 2224 編集1987年4月

 

  1.ずっと前に主は、あのなつかしの黄金の古典的レター、 「ほこりのダイヤモンド」の中で、御心に委ねることとはどんなことであるかについての、美しい例証を与えて下さった。「ほこりのダイヤモンドを見てごらん!それはきらめこうとも、輝こうともしない。ただ自分を通して光が輝くにまかせているだけだ! それは輝いたり動いたりしようとしない。どこかに行こうともしていない。急いではいない! ただ神の空中に静かに浮かんでいるだけだ。神が風を送られる時だけ、舞い上がる。だがその時でも、風が止むと元のところに戻る。」(No.3:17)

  2.「それらは、神の御霊の息に完全に身をまかせ、円を描いたり、回転したりする!−−あの自分の意志が完全にない状態。ただ神の空気の中で浮いているだけだ。回転し、揺れ、きらきら光り、輝き、陽気で、とても美しい!」(No.75:24)

  3.この単純なレターは、またなぜ私たちが、主の御心に委ねる必要があるかを示している。「光そのものは、目に見えない! あの小さなほこりのダイヤモンドの、反射の内にだけ見ることができる! 小さなほこりのダイヤモンドのように、私たちが神を反射する時だけ、神を見ることができる。人々は、私たちの反射の内に神を見るために、私たちを見なくてはならない。神の光は、あなたがそれを反射する時にだけ、見ることができるのだから! だから『あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして人々があなたがたの良い行ないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』(マタイ5:16) もしほこりがそこになかったら、光は見えなかったであろう。また光がそこになかったら、ほこりは見えなかっただろう!その両方がなければならない!」(No.3:9)

  4.それからこのレターは幾分悲しげに次のように説明している。 「あなたは、その小さなほこりのダイヤモンドを二度と見ることはないかもしれない。あるものは光の中に出てきて、ただほんのつかの間だけ輝いて、また暗闇に消えていくからである。彼らが真理に基づいて生きるのは、ほんの束の間でしかない!」 だがこの次に、私達に励ましと希望を与える文が続いている。「だがそれが主の光の内にとどまっていられるなら、それは命が尽きるまで輝く事ができるのだ。完全に燃え尽きてしまうまで、家全体に光を与える一本のろうそくのように! その一粒の小さなほこりは、光の内にとどまるのが長ければ長いほど、長く輝くことができる。長くダイヤモンドでいられるのだ!」−−そしてこのレッスンは、どうやって主の光の内にとどまるかについてである。あなたが主の宝石の一つであり続け、主がご自分の計画と目的を達成されるために思い通りに使えるような、主の御手の内の、服従していて有用な道具であり続けるためには、あなたは主の光の内にとどまらなくてはならないからだ!

  5.神は、ご自分の王国の中で私達一人一人の為に、とても特別な場所を持っておられる。神は、あなたの為に特別な仕事、あなただけしか果たす事のできない独特な任務を持っておられる! しかしあなたが自分の人生に対する神の御心を見つける事のできる方法、ましてやそれを実現する事のできる方法は一つしかない。それは、神の御心に真に委ねることだ! その時にのみ、あなたは 「自分というほこりを、神の美を示すダイヤモンドに変えて」 、できるだけ沢山の人に、主の素晴しい生命と愛と光をもたらす事ができる!

  6.結局のところ、主はまず第一にこの為にご自分の子供達をここに置かれたのである。つまり他の人も、私達がイエスにあって見つけたのと同じ天からの愛と救いを見つけられるように、私達が他の人に証しするためだ! そして素晴しい事に、私達は、自分の力で証ししたり主の仕事をしなくてもいいのである。事実、もし自分の力でしようとするなら、ひどいへまをしてしまうだろう! 私達はただ主の御心に委ね、 「無理に努力するのをやめて神に任せる」 だけである。そうすれば神は私達を通して仕事を行なわれるのである!

  7.人々はあなたを通してイエスが現れるのを見なくてはならない!しかしあなたの証しがあなた自身で満ちているなら、彼らはあなたの言っている事を聞くのは時間の無駄で、色々な人が説教しているのと大して変わらないと考えてしまうだろう。だから主に対して屈服することが、どれだけ大切かわかるだろう。あなたのために、失われた魂のために、神のために大切なのである! だからこそ、主は「(あなたの)権勢によらず、(あなたの)能力によらず、私の霊によるのである」と私達に言われるのである! 私達は、この宝(主と主の愛)を土(肉)の器に持っている。その測り知れない力は神のものであって、私達のものではないことが、あらわれるためである!(ゼカリヤ4:6、2コリント4:7)

  8.イエスは、私達がイエスの為に行なう仕事についてさえ、「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と言われた。(マタイ11:30)だからあまりにも大きな荷を背負うことや引っ張ることさえ心配しなくていいのである。ただイエスの御心に委ねて、イエスが私達を通してご自分のわざを行なわれるのに任せることを学ぶ必要があるだけである! 主がいなければ、私達は無に等しき者である。自分では何一つできない! しかし、「思いわずらいをいっさい、神に委ねる」時、私達は「キリストによって何事でもできる!」 ハレルヤ! (ヨハネ5:30、15:5、1ペテロ5:7、ピリピ4:13)

  9.イエスはこう言われた、「私につながっていなさい。そうすれば私はあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:4,5) これはいつも私のお気にいりの章句の一つだった。私は自分が無に等しい者であり、主がいなければ何もできないが、ただ主につながっているなら、主が実を結ばせて下さること、主にはできることを知っていたからである! PTL!

 

「私の思いのままにではなく、御心のままになさってください!」

 

  10.人生において神の御心を本当に見い出すには、主に完全に委ねていなくてはならない! イエスがゲッセマネの園でひざまずいて祈られた時に、イエスは御心に委ねる事の最もすぐれた手本を私達に示して下さった。主は、まもなくご自分が十字架による恐ろしい、残酷な死に直面する事を知っておられたので、「私の思いのままではなく、御心のままになさって下さい!」と祈られた。(マタイ26:39) 私達が主の御心に委ねず、主のために喜んで自分の命を捨てる気持ちがない限り、主の御心が何か、知る事もできない。服従は、その最初のステップである。だから私達が彼に服従するというそのステップを踏むのをいやがるなら、他のどんなステップも踏むことはできず、神が望んでおられる事を決して成し遂げる事はできないだろう!

  11.神の言葉は次のように語っている。 「兄弟達よ。そういうわけで、あなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な奉仕である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であり、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ12:1,2) だから神の御心を見い出す第一条件は、自分の意志をもたないことである!−−あなたの思いと体と意志を神に完全に明け渡し、無条件に神に委ねることである! そうすれば神の御心を知るであろう! 誰かが 「神の御心を知るのに大切なことは、御心を知る前からでもそれを行なう準備ができていることである!」 と言った通りである。

  12.あなたがクリスチャンで、救われていて、心にイエスがおられるなら、自分が自分のものではないことを悟り、理解することは重要である! イエスはご自分の血という代価を払って、あなたとあなたの救いを買われたので、あなたは自分の好き勝手にするわけにはいかないのである! (1ペテロ1:18,19) あなたは自分のものだけではない。あなたは、主と神の仕事とファミリーのものである!  「あなたがたの体はあなたがたのものでないのを知らないのか? あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、神のものである自分の体と霊をもって、神の栄光をあらわしなさい!」  (1コリント6:19,20)

  13.もしあなたが本当に聖書を信じ、あなたを地獄から救って、あなたに永遠の天的な命を与える為に、イエスが血を流し、十字架の上で死なれたという事を信じているなら、あなたは彼の為にどんな事でも喜んですべきである! 救われた事に対する感謝からだけでも、主の為にどんな事でも通り抜けるべきである! アァメン? あなたの命は主のものである! 主は代価を払ってあなたを買い取られた。だからどうして自分の全てを彼に与えて、自分の意志を彼の御心に明け渡さないでいられようか?

 

何も隠すものがないセクシーな花嫁!

 

  14.イエスはご自分の血という代価を払って私達を買い取られたものの、私達をただご自分の奴隷にするために、つまり彼の命じられた事をしなければならないご自分のしもべにするためだけに、私達を買われたのではない。彼は、「私はあなたがたをしもべと呼ばないで、友と呼んだ!」(ヨハネ15:15)と言われた。イエスは私達が、ただ彼の御心を行なわなければならないからではなくて、私達が彼の御心を行ないたいから、彼を愛しているから、それを行なうような友となる事を望んでおられる。事実、彼は私達が友となるだけではなく、彼の愛する者、彼の花嫁となる事を望んでおられるのである。 「それはあなたがたが、死人の中からよみがえられたかたのものとなり(英語では"‥‥かたと結婚し")、こうして私達が神のために実を結ぶに至るためなのである!」(ローマ7:4)

  15.イエスの救われた子供達、イエスの正真正銘の教会は、イエスの花嫁である。そしてどんな夫でもそうであるように、イエスは、夫の意に従い、服従し、ご自分を愛し、喜ばせることを願う妻を欲しておられる。しかし残念なことに、現在のいわゆるクリスチャンと呼ばれている人達のほとんどは、独立心が強く、反抗的な多くの体制の妻と同じように、主との結婚は名ばかりで、心の中で主と主の愛と主の言葉を捨ててしまっている! 彼らは一週間に一度、教会の建物に行くかもしれないが、本当に主とフェローシップをもつことは決してない。彼といっしょに寝ることもなく、甘美な愛の営みをして、スリリングな霊的エクスタシーに達することもない。さらに彼のためにそれ以上、身ごもって子供を産み、世話をするなどということはもちろんしたくないのである!

  16.それが理由で神は、この終わりの日々にファミリーを、すなわちセクシーな新しい教会を起こされたのである! この教会は、若々しく、エネルギーではちきれそうな新しい花嫁であり、花婿への激しい愛で満ちあふれている! 彼は、ご自分が御霊と御言葉の種と愛とによってファックしまくって、子供を沢山産ませる事のできる花嫁、神の永遠の王国のために、永遠の子供達を産む事のできるような花嫁を欲しておられるのである! イエスは、 「あなたがたが実を豊かに結ぶならば、私の父はそれによって栄光をお受けになるであろう!」と言われた。(ヨハネ15:8)

  17.主が望んでおられるような花嫁になるには、あなたはまず第一に主の愛に対して十分信仰を持っていなくてはならない。信仰を持つ事によって、主に従い、主の元に来て、外見を取りつくろう衣や、あなたをおおい隠しているものや、いつわりの見せかけを全て脱ぎ捨て、あなた自身を主にあらわにし、服従と謙遜の内に完全に自分自身を主に委ねなくてはならないのである。主の前で喜んで衣を脱いで裸になろうとする気持ちがなければならない。あなたは、ただあなたであり、彼が欲しておられるのもそれである。つまりあなたなのだ! 彼はあなたの全てが欲しいのだ!

  18.だからあなたは、何もかもやめて、全てを捨て、主のところに来なくてはならない。喜んで偽りの覆いを全て捨て去って、裸になり、主に対して自分をあらわにしなくてはならない。それからあなたは、彼があなたに愛の営みをし、あなたを彼の霊と、神の御言葉である彼の種によって満たすのに身を任せなければならない。そしてその御言葉の種が、反応しやすい心に宿る時、神の王国のために実を、新しい赤ん坊を生み出すことになるのである! ハレルヤ!

 

神にチャンスを与えなさい!

 

  19.主は、私達が主の御心に委ね、主に従順になればなるほど、その時もっとご自分が私達を使う事ができ、また私達がより幸せになり、他の人にとってより大きな祝福となるのを知っておられる! 魂を救う緊急の仕事は、主がなす事を望まれ、又なされる必要のある仕事であり、常にとても沢山あるのだが、主は自発的な働き人を見つけるのに、苦労しておられる。−−「収穫は多いが、働き人が少ない!」 (マタイ9:37) 主は私達が望む以上に私達を使い、力を与え、油を注ぎ、祝福を私達の上に注ぎたがっておられる。たいてい主は、私達が主の邪魔にならないように、脇にどくのを待っておられるのだ。そうすればご自分が支配する事ができ、ご自分の方法で私達を使って物事を行う事ができるからである! しかし私達が自分の意志を主と主の御心に明け渡し、完全に服従するまでは、使いたいと思っておられるほど、私達を使う事は決してできないのである。

  20.だからおそらく服従と従順が、主が私達の人生で最も教えようとしておられるおもな事であろう。主の御心に服従し、主に対して従順になること、これこそ主が私達の一生涯に渡って、常に私達にさせようとしておられることなのだ。そして服従と従順は事実上、一つであり、同じことである!−−あなたは従順でない限り、あまり主の御心に委ねることができないし、また御心に委ねているのでない限り、従順になることはできない! 両方が必要である!

  21.この世での私達の存在理由は、学校教育のようなもので、私達が主と救いと奉仕と主に対する服従と従順と主の愛情深いルールと愛のおきてを守ることに関して知る必要のあることを、私達が学ぶためである。−−そして主が私達に教えようとしておられる最初の、また最も重要な事は、霊において服従することであり、自発的で服従した心をもつことであり、恨みを抱いた、頑固で反抗的な態度ではなく、御心に委ね、受け入れる態度をもつことなのである!

  22.馬がその良い例である。ある馬は、くつわやたずなや拍車といったような、従わせる為の道具を使わなくとも、人が乗る事ができ、人がさせたい事をさせることができる。馬がよく訓練されていて、主人に慣れていて、服従しているなら、馬の口にくつわをかけなくても、たづなだけで馬をコントロールできる。馬は主人を愛し、喜んで自発的に従って自分の務めや仕事を行なうか、それとも主人の意に従わないで、強情で、勝手に進みたがったり、かみついたり、噛んだり、蹴ったりして、非常にきげんが悪く、「突き棒を蹴り返す」かのどちらかである。(使徒行伝9:5)

  23.だから主は私達にこう言われたのである、「あなたはさとりのない馬のようであってはならない。またらばのようであってはならない。彼らはくつわ、たずなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう!」(詩篇32:9) 主は「喜んで与える者を愛して下さる」(2コリント9:7) だから主が誰かにご自分の意志を強制的に行なわせられるという事は、めったにないのである。事実、私達がイエスを愛しているから、愛の為に主の御心を行なうというのでないなら、主はすぐに、そのように行なう誰か他の者を見つけられるであろう! 主は、ご自分のどんな小さな命令にも喜んで快く服従する志願者を望まれ、又そういう者を好まれる。

  24.しかしもしあなたが強情な馬からばのようであり、頑固にも自分のやり方にしがみつき、主に服従することを拒むなら、神の望んでおられる通りの者になることも、あなたにしてほしいと思っておられる事を成し遂げることも決してないだろう! あなたは「過去にそうだった者」というよりもさらに悪い状態でろう。あなたは「そうなれたはず」 なのに一度もそうならなかった者となるだろう! ある人がかつて次のように言ったとおりである。 「神は、ただ私達が持っているものだけではなく、持ち得たはずのものにしたがって、また、私達が現在どんな者であるかではなく、私達がどんな者になり得たかに従って、私達に責任を問われる。」  しかし、もしあなたがただ主の御心に委ね、主が望んでおられるものが何であっても、喜んでそれを受け入れるなら、心配する必要はない。主はあなたを大いに祝福され、あなたは主が望んでおられる者なら何にでもなるであろう! PTL!

  25.私は、ボストンで無名の日曜学校の教師が、自分が主に導いた貧しい十代の靴セールスマンに向かって言った事を思い出す。彼はこう言ったのだ。 「ドワイト・L・ムーディ、主の御心に委ねていて、それを喜んで行なおうとする者を使って神がなされる事には、限界がないのだ!」ムーディは彼の目を見つめてこう答えた。 「神の恵みによって、私はそのような者になることを決心しました!」  そしてムーディはそのような者になった! 間もなくして、ムーディはシカゴに移り、そこで福音を宣べ伝え、他の人に証しする事を始めた。そしてまもなく他の人々をイエスに導くことができる事に非常に感激し、靴の仕事をやめて、全時間主に仕え始めた! その結果、彼は世界で最も偉大な福音伝道者の一人となって、文字どおり何万もの人々の永遠の魂を勝ち取ったのである!

  26.だがもしムーディが、主の御心に委ねることを決心していなかったら、どうなっていただろうか?−−それは彼自身にとって悲しい損失になっていただけではなくて、彼のミニストリーを通して福音を聞いた文字通り何百万もの人々も失われていた事だろう! だが同じ事が私達一人一人にも言えるのだ。もし私達が、私達の人生における神の御心に委ねず、それを直ちに受け入れる事をせず、主がせよと言われる事は喜んで何でもしようとしないなら、私達は決して神が望んでおられる通りの者にならないだろう!−−さらに私達が、神の望んでおられる通りの者になっていないなら、私達は主が望んでおられる事を決して成し遂げることはできないだろう。そうなる事は、私達自身にとってだけではなくて、主の愛によって私達が何らかの方法で助けるか、手を差し伸べる事を主が望んでおられる全ての人にとっても、非常に残念な事となる。

  27. 「しかし」と、あなたは反論するかもしれない。 「私は絶対にムーディがしたような事を主のためにすることはできない! 私は情熱的な福音伝道者でも、優れた魂の獲得者でもないから!」 だが、ムーディも初めはそのような者ではなかった! 彼はただの貧しい農家の少年で、成績が平均以下の生徒にすぎなかった。彼は農場の生活に飽きたので、大都市に移ったのである。都市での生活が始まって数週間たった後、彼は自分自身に新しいゴールを課した。それは金持ちのビジネスマンになって、10万ドル稼ぐことであった。神の奉仕に自分の人生を捧げることなど、これっぽっちも考えていなかった!

  28.事実、ムーディが救われた時、彼は神の御言葉と真理に関してあまりにも無知だったので、彼が教会の委員会に行って、教会員として受け入れてもらおうとした時に、断られてしまった! 彼の日曜学校の教師は、後で彼のことを次のように書いた。「(私がこれを言う時、私は、神がムーディ氏に賜った大いなる恵みを賛美しているのである。)私は心からこう言うが、私の日曜学校に来た時の彼ほど、霊的な知識のない人、あるいは福音の真理に対する明確できっぱりとした観念を持ったクリスチャンにはまずなれそうにない人、ましてや少しでも社会に対して役に立つとは全く思えない人に私は会ったことがない!」

  29.しかし彼がイエスを見つけ、主がどれだけ多くのものを自分に与えて下さったかを悟っ

た時、彼は主に自分の人生を捧げて、神が自分に求められることは何でもしようと決心したのである。聖書は私達にこう告げている。 「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださるであろう!」(ヤコブ4:8) これはムーディだけではなくて、神がかつて使われた、神のすべての真に偉大な人々が、成功した秘訣なのである。彼らは主に近づき、導きと力と霊感を得るために、ただ主と主の力と御言葉のみに、頼ったのである。

  30.私達のあらゆる欠点や弱さや無力さにもかかわらず、もし私達がただ単に私達の人生を完全に主に引き渡し、主が、望んでおられる通りの者に私達を造り変えられるのに喜んで任せるなら、私達を使って神にできることには限りがない! もちろんそれはとても意味のある 「もし」 である。なぜなら私達は、それぞれ自由意志というものを持っているので、神の御心に委ねて、 「まず神の国と神の義を求める」(マタイ6:33) か、それとも私達自身の願望や計画ややり方を最初に求めるかは、自分で選択できるからである。選択は私達に任されている。そして私達が神の最高の祝福と助けを得られるかどうかは、私達が人生において喜んで神を最優先させるかどうかにかかっている。

  31.しかし今日、殆どのクリスチャンの困ったところは、神が自分にする事を望んでおられることを受け入れようとするよりも、自分がしたい事を神に受け入れさせることに、もっと関心を寄せているようであることだ! 彼らは自分のプログラムを神に受け入れさせようとしている。つまり自分の作成した計画書に神にサインしてもらって、認可してもらおうとしているのである。だが神の御心に委ねることのテストとは以下のことである。つまりあなたは、神のサインを求めて自分の計画を神に差し出すのでもなく、また神が自分のサインを求めて、神の計画を差し出されるのを期待するのでもなく、神の計画が何なのか知らなくとも、喜んで白紙にサインし、それから神にその計画を書き込んでもらう気持ちがあるかということである。

  32.もしあなたが喜んで神が望んでおられる通りの者になるなら−−あるがままのあなたではなく、神が望んでおられる者になるなら、その時神は大いにあなたを使うことができる! あなたが自分ではできないことを、神は知っておられる。あなたはただ自分の人生を、思いを、心を、あなたの全てを主に渡して、あなたのかわりに主にやっていただかなくてはならないだけである! あなたが神に自分を明け渡し、神に任せ、神に委ねるなら、神が介入して行なうチャンスができる! そして神は必ずやり遂げて下さるのだ! ただ神にチャンスを与えなさい!

  33.私達が神の御心に委ねて、私達の全てを主の御手に委ねる時、私達は何も心配する必要はない。私達の全人生が主の御手の中、主の愛情深い世話のもとにあり、敵が手に入れることのできるもの、自分のものだと主張できるようなものは何ひとつない。事実、敵に本当に打ち勝つのに、服従こそ、主が求めておられるものである。主はこう言っておられる。「神に従いなさい(英語では「服従しなさい」)、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば彼はあなたがたから逃げ去るであろう!」 (ヤコブ4:7)

  34.しかしあなたの人生のすみっこに、委ねていない、小さくて暗い部分が一つでもあって、あなたが喜んでそこを主に委ねようとしないなら、つまりあなたが明け渡すことを拒む小さな部分が一つでもあるなら、敵はその小さな事であなたをわずらわせ、悩ませることができるだろう。だから神の言葉は 「悪魔に機会を与えてはいけない。」 と、語っているのである。(エペソ4:27)

  35.私はハッダース・フィールドの話を思い出す。金持ちの地主が一つの村全体を買いたがった。そして彼は、とうとうその地域の全ての土地を買ったのだが、小さな一画だけは別だった! そこには一人の頑固な農夫がいて、自分のちっぽけな土地を売るのをいやがったのだ。何もその農夫の考えを変える事はできなかった。裕福な地主は、そのちっぽけな土地の実際の価値よりもはるかに多くの額のお金を出そうとさえ言ったが、年老いた農夫はその土地が好きで、売る事をきっぱりと断った! 地主はとうとうあきらめたが、「たった一つのちっぽけな土地が手に入らなかったからと言って、どんな違いがあるのか? 私は他の全ての土地を買ったのだから、ハッダース・フィールドは、今私のものだ! 私の土地なんだ!」と言って、自分を慰めようとした。しかし、そのことを耳にした頑固な年寄りの農夫は、こう言った。 「いや、そうじゃない! わし達がハッダース・フィールドを所有しているんだ! ここはわしとあんたのもんだよ!」

  36.あなたのことで、同じことを悪魔が神に言うのを許してはいけない!  「ヘヘー! 神よ、見てみなさい! 彼は全て委ねているが、この一つの小さなことはまだだ! だから彼のほとんどはあんたのものだが、少しはまだ私のものだ!」   「悪しき者に打ち勝つ」 には、また、 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」 をもつには、あなたの全てを主に委ねなければならない。あなたの意志が神の御心と完全に調和している時、あなたは神の翼の陰のもとで安全である。そして主は全き平安と天的な休息を与えてあなたを祝福されるであろう! (第一ヨハネ2:14、ピリピ4:17、詩篇91篇) なつかしい賛美歌に歌われているとおりに。

  「あなたは甘美な安らぎを思いこがれた

  信仰が大きくなることを熱望した

  だから熱心に心から祈った

  だが全てを犠牲の祭壇に置くまでは

  休息することも、全き祝福を受けることもない

 

  あなたの全ては犠牲の祭壇に置かれているか

  御霊があなたの心を支配しているか 

  あなたが身も魂も主に委ねる時にのみ

  あなたは祝福され、平和と甘美な休息をもつ!」

  37.だから今日あなた自身を神に委ねなさい! あなたの人生を犠牲の祭壇に捧げ、それを取って神の栄光の為に使って下さいと、神にお願いしなさい。そうすれば神は必ずそうして下さる! あなたが神に任せれば任せるだけ、神はそうされる! 「それには限界がない!」 あなたは神の子供であり、神はあなたを愛している。そして他の人へのご自分の愛情深い奉仕にあって、あなたを役立つ者とし、幸せにする為にベストを尽くされるだろう! あなたがイエスにあって見出したのと同じ命と幸福を、あなたが他の人にもたらす為に! だから今日、イエスの御心に委ねる事によって、イエスの為にベストを尽くしなさい!−−アァメン? GBY!