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聖書の預言を解釈すること!  1986年6月編集

−−「真理の言葉を正しく教える!」DFO2210

−−(2テモテ2:15)

 

  1.聖書の預言の中で述べられている、世界と一般的な世界史に対する神の全体的な計画のどれ一つとして、変わるものはない! 主要な出来事と主要な関係者と最終的な結果は、全て定まっている! 「主よ、あなたの御言葉は天においてとこしえに定まり」と彼は語っている。(詩篇119:89) また「主なるわたしは、変わることがない!」(マラキ3:6) 主は変わらない。主の御言葉は変わらない。そして世界に対する主の預言的計画でさえ変わっていないし、これからも変わらない!

  2.だから私たちが確信し、独断的になることのできる詳細があるのだ! 私たちは、イエスが帰って来られること、また主の帰還の後、私たちが天国へ行って、小羊の婚宴とあのゴージャスな天の都を楽しむようになること、その間、地上は地獄であり、神の怒りが、下にいるふてぶてしい反抗的な邪悪な人間の上に注ぎ出されることを知っている! そしてその後はハルマゲドンの戦いが続き、さらにその後に至福千年が続くことを知っている! この全ては、非常にはっきりとしていて、非常に明確である。そして私たちは、至福千年が正確に千年続くことさえ知っている。そのことを考えてみよ。そしてそれがまた別の戦争、すなわちゴグとマゴグの戦いで終わり、その後に新しい天と地が続くことを知っている!

  3.これらは、議論の余地のない事実である!−−聖書の預言や、来たるべき出来事に対するあなたの知識を築き上げる上で、確実な土台である! それらはすべて聖書の中に出ていて、一度ならず、何度も繰り返し、完全にはっきりと明白に書かれてあるので、否定することもできないし、疑う余地もない! だからあなたは、未来のこれらの主要な出来事、または期間に関するあなたの意見を変える事はできないのである。だからラプチャーや救いや、そのような基本的な事を私があなた達に教える時、あなたたちはどうしてもそれを受け入れなくてはならないのである。それだけしかない。ぴったりその通りなのである。否定しようもないのだ!

  4.これらのものが、私たちの知っている明確なことである。そしてそれらの期間に近づけば近づくほど、私たちの知識はより明確に、より正確になっていくのだ! しかしながら、たった今私達は、はるかにもっとぼんやりした事しかわからない期間にいるのであり、正確なタイミングや詳細や年や月や日は、まだそれほども明確にはわからない。だが主に感謝することに、私たちは歴史における極めて重要な転機や、タイムラインの中の変わり目となる特定の出来事を与えられている。そしてそこから私たちは、正確にぴったり、測ることができるのだ。

  5.だから、私たちが神の言葉を学習するにあたって、最初私たちが知る必要のあることは、変わることのない事、多くの聖句によって証明されている、すでに定まっている事実、聖書の預言に対する私たちの解釈のための堅固な土台、変わることのあり得ない特定の事実、それを揺るがす事ができず、疑うことができず、真実だと知っている事実である。あなたは、まず聖書の預言やその解釈に対する概念のこれらの基本的な原則を知らなければ、たとえば私たちの理論や、推定や、タイミングに関する個人的意見のように、何が変わるかもしれず、何が変わる可能性があるかを知ることはできない。

 

「自分勝手な個人的解釈」

 

  6.聖書には、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきではないこと」(2ペテロ1:20)とある。−−言い替えると、それは一般的に受け入れられなくてはならないということだ。そして私があなたたちに教えてきた基本的な原則は、何世紀にも渡って教会に受け入れられている。カトリック教会によってさえもである。そしてあなたたちは、それを証明することができる。なぜなら、次から次へと聖句が確証しているからである!

  7.私は、私たちの預言の解釈全部を、自分から、あるいは主から個人的に受け取った啓示によって得たわけではない。−−だたし、多くの詳細を主に埋めてもらいはしたが。−−だが、私があなたたちに教えたことの大半は、ほとんどの聖書学生や、聖書の預言の学者が同意する事柄であ

る! それはただ、私たちの個人的な教義ではなく、彼らのほとんどの者が同意することなのである。だから私が出来事の順序において、少しの変更や説明を加えたからといって、神の言葉や預言や、神が私たちに与えて下さった全体的な土台の真実を疑い始めてはいけない! 

  8.あなたが、過去の預言の解釈を語っている時、それらの預言の多くはすでに起こり、それらの帝国は起こっては倒れたので、それらが真実であることを証明することができる。その類いの聖書の預言、成就された聖書の預言を教え、それを受け入れるのは難しくない。それはすでに起こったのであり、あなたはそれらが真実であることを知っているからだ。だが、あなたがやっかいな領域に入りこむのは、未来のこと、まだ起こっていない時の期間のことに突っ込み始める時だ。そしてここが、大抵の人々の特定の説や教義や解釈が合わない傾向のあるところである!

  9.だが、その内のあるものがはっきりしていないか、論争を引き起こすようなものであるというだけで、「さて、誰も聖書の預言で同意しないから、ただ全部の聖書の預言を投げ出してしまって、そのことはもう何も話さないでおこう!」と言って、それを実行する人々のような真似をする口実にはならない。神の言葉はこう語っている。「この預言の言葉を聞いて、これを理解する者たちは、さいわいである。」(黙示録1:3) 聖書の預言を理解し、学習し、これらの事柄を考え、解明しようとするには努力を要する。それは大仕事である! 聖句と聖句とを比べ、神の御言葉をあちこち見比べて、一番もっともらしく思われる解釈に到着するには、時々幾年もの学習と研究の年月を要するものである。−−だがもしそうするなら、あなたはさいわいだ (祝福されている)、と神の言葉は語っている!

  10.勿論、あなたが知る必要のある主な事は、ただ2つの節だけであり、それはヨハネ3:16と使徒行伝1:8である!  最初の節はあなたを救い、次のはあなたを忙しくする! あなたは、未来の全ての預言の詳細を知らなくてもいいのである。あなたが知っていようがいまいが、それらは必ず起こる。だから心配するな! しかし、それを知ることは良いことである。主の預言を理解することは良いことである。もしそうなら、あなたは他の人に警告し、教え、導くことができるようになるからだ。そして、何が起きているかを知ることができるようになるからだ。パウロ自身こう言った、「兄弟たちよ、無知でいてもらいたくない!」(1テサロニケ4:13-18) −−私も、あなたたちが不意を襲われて、何が起きているのかも知らないような間抜けでいてほしくはない!

 

解釈する時のガイドライン

 

  11.神の御言葉を解釈する主要なルールは3つある。最初の選択は、もしできるなら、いつもそれを文字通りに解釈することだ。全く書いてある通りの意味に取ることができるなら、解釈する必要もない。そういう場合は、ただその通りに受け取ればよい! それを、何か変わった秘密の意味があるように読みとってはいけない。私は、明らかにそれが何かの象徴であると考えられないものは、いつも文字通りにとった! つまり、もしそれが文字通りに理解できるなら、文字通りに受け取りなさい!

  12.だが、もしそれが道理にかなっておらず、論理的であるように聞こえないか、あるいはそのように解釈することが事実上不可能であるように見えるなら、象徴である場合を考えて、その文を徹底的に研究して、その説明を探しなさい。その章の残りを調べて、それが説明されているかどうかを見てみなさい。これは、ダニエル書で繰り返し出てくることである。ダニエルの像や獣を例に取ってみよう。それらは全て天使か人間によって解釈されているのである。そしてそこには、これらの一つ一つが何を表しているか、何を意味し、象徴しているかが述べられている。だからそれは明らかに象徴的である。そこには、「これはあれで、あれはこれ」などというふうに述べられているのである。あなたたちは、この像の解釈や、これら獣が象徴するものを教えられるのである。

  13.だから、その章の文を徹底的に学習し、説明を読みなさい。例えば、あなたが新しい器具を操作する時には、それの説明書を読む。ただ自分で、それをセットしようとはしない。そうだろう? だから、あなたが神の言葉のミステリーを読む時、自分の代わりに神にそれをセットしてもらいなさい。神に、その全てをセットする方法を示してもらいなさい!

  14.もしそこに説明を見つけることができないなら、聖書のその書の他の部分を学習する必要がある。あるいは、その同じ用語が、どこでどのように使われているか、その使われ方や、他の場所ではそれはどういう意味であるかを知るために、初めから終わりまでずっと神の言葉全部を学習する必要さえある。

 

神は、ミステリーを非常に好まれる!

 

  15.私たちは、完全に独断的になって、多くの預言の聖句の適用、解釈、あるいは分類でさえ、いつも最大限度に正確である事はできない。しばしば預言者は、ずっと先の出来事を山脈のように次から次へと見た。彼らが遠くから見た山脈は、山頂や頂上だけが目立っていたのであり、谷間は幾分わかりにくかった。また、遠い所から山々を見る時に気づいたことがあるかもしれないが、いつも山脈と山脈の区別をつけることができるわけではない。時々、2つか3つの山脈は、遠くからだと一つの山脈に見えるのだ。

  16.預言者は未来をのぞき込んで、一列になった山頂のように、来たるべき出来事を見たのである。その全てを一度に見ることができるのだ。一度に全景を見るように。だが実際には、そこへ行くにつれて、一度にその全ての所に到着しないのである。どんどん近づいていくにつれて、目に映るのは、自分の目の前の一つの山脈だけなのだ。それは、たった一つの山脈であるように見える。−−しかしあなたが、その山を登って行って頂上に立った時、同じ山脈だと思ったそれらの山々の内のあるものは、もう30キロか40キロ離れた所にあるのである! だから聖書が述べているこれらの出来事に対する預言者の見方は、時々、やや混同しているのである!

  17.だから、あなたが少しばかり混乱し、混同し、何かを誤って理解したとしても気まずく思う必要はない! 哀れなダニエル、彼は、主が自分に表して下さっていたことを何一つ理解しなかったのだ! 一生懸命考えることで、悩み、自分の霊は弱っていたと、彼は言った!(ダニエル7:28) 彼は、その全てのことで本当に当惑した。だから、あなたたちだけではないのだ。預言者ダニエル自身もまた、自分自身の預言によって途方にくれたのである! 

  18.神が、ご自身のために隠しておられるミステリーや、私たちがただ未来のいつか、あるいは多分天国で知るためだけに取っておかれるミステリーが沢山ある! これらの啓示の多くを受け取った預言者は、一度もこれらの意味を説明してもらったことがないのである。それは、しばしば彼らが理解することもできなかったからである! 天が地よりも高いように、神の道は私たちの道よりも高い!(イザヤ55:9)  だから私たちは、神が成され、神が持っておられ、神が知っておられる全てのことを理解することを期待されていない! 私たちは、単純で取るに足らない、限界のある人間にすぎない。私たちの理解力は小さい。だから神の全ての不思議やミステリーや未来のこと全部を、理解する事は到底できないのだ!

  19.だから勿論、私たちがあなたたちに与えたものの多くは、筋が通り、主の知恵によって与えられたものであると私たちが考え、私たち自身が確信して信じている私たちの個人的意見、または私たちの個人的啓示に対する個人的解釈、私たち自身の理論や論理や理由なのだと、あなたたちは十分承知していなくてはならない。確かに、私は全ての答えは知らない。だが主に感謝することに、少しずつ私たちはこれらの事の内のいくつかに関して、もう少し多くの光を徐々に受け取ってきている。太陽は、ただ朝に突然ポンと飛び出してくるのではない! 最初に夜明けの長い期間があり、それからだんだんと少しずつ明るくなっていき、最後には、太陽そのものが少しずつ現れてくるのである。だが突然飛び出してきて、真昼の空になることはない! 

  20.神は、物事をゆっくり、完全に、ゆっくりだが、確実に行うことを好まれるように思われる。物事が、あまりにも突然起こることがないようにである。そのように神は、私たちに聖書の預言や解釈を明らかにして下さる。神は、私たちが進んでいくにつれて、だんだんと少しずつより多くの光を与え続けられるのだ。賢い人とは、明日には昨日よりもっと賢くなっているものだ。だから多分主は、私たちがそれほど頭が良くないこと、私たちの頭が一度にあまりにも多くの事を詰め込めないのを知っておられるのだろう!

 

何故、理論を立てるのか?

 

  21.どうしても幾つかの間違いを犯してしまうのは、聖書の預言のあまりにも多くの詳細や、あまりにも多くの細かい点にはまり込んでしまう時である。なぜならそれは、しばしば少しばかり神秘的すぎるので、あまり独断的になれないからだ。

  22.しばしば私たちが、全ての小さな取るに足らない詳細にとても多くの時間を費やす時、それはただの時間の無駄であるように思われる。しかし大切な事は、これらの詳細を知る必要があるということだ。そうすれば、預言が起こり始め、成就し始めた時、「ああ、ほら、確かにこれだ! 今わかるよ!」と言う事ができるからである。私は、自分にはわからず、全ての詳細を完全に理解できるのではないということを真っ先に認めよう。だが私は、そのことについて、あなたたちに考えさせるような提案や推測や理論を述べたのである! いつの日か、あなたたちはこう言うだろう。「ああ、ほら、これだ、これが答えだ! この事を主は言っておられたんだ!」

  23.それは、科学者が研究室で実験しているのと殆ど同じである。あなたは、全ての事を試してみる。全ての可能性を試してみるのである。消去法によってやってみるのである。これではない。あれでもない。他の何かでもないというふうに行い、だんだん減っていって、とうとう突然にそれに当たるのだ。あなたは、それだと気づくのである! 聖書の預言に取り組んでいる時には、その方法で多くのものを見つけるのである。つまり消去法によって。そして、やがてはそれらが実際に起こる事によって。

  24.しかし、もし質問の事を考えていないなら、どうやって答えを見つけるのだろうか? だから私は、これらの事柄や出来事のいくつかに関してあなたたちに質問を与えたのだ。それは、例え今は答えがわからなくても、それが実際に起こった時に、答えに気づくためである! わかったかね? そして聖書の預言の学習の多くもそれなのだ。そこに述べられている全ての事は理解できない。だが理解もできないのに、どうして神はそれを言われたと思うか?それは、それが実際に起こった時に、あなたが、「ああ、これだ! 主は、こういう意味で言っておられたんだ! このことを言っておられたんだ!」と気づくためである。たとえまだ答えがわからなくても、これらの詳細やこれらの質問に興味を持つことがどれだけ大切かわかるだろう? 

  25.時々私は、自分自身の意見以外にも、他に取り得る選択を与える事さえある。それから私は、また自分の意見に戻って、「だが、私はこれこれを信じている。」と言うのである。私がどうしてそうするか知っているか?−−なぜなら私は、とても多くの聖書の教師が、独断的に「これは、これでしかあり得ない。」と教えるのを聞いてきたからだ。彼らは、他の可能性や解釈を決して述べる事さえない! それは、公立学校で進化論が教えられているのと同じである。彼らは、創造や他に考えられる道がある事をほのめかしさえしない。そして私は、多くの聖書の預言の教師が、そのように自分自身の解釈しか教えないのを今まで聞いてきている。

  26.だから、私は公平であろうと努め、多くの色々な預言の解釈を与えてきた。私は沢山の異なった意見を与えているのである。そうすれば、あなた達がそれらの事に通じていて、知っており、ただ一つの意見、つまり私たちが信じている意見だけに固執しないからである。少なくともあなたたちは、他の異なった意見に通じていることになるからだ。

  27.時々私は、ただあなたたちの目を覚ますために、ちょっとした爆弾のように理論を投げて、小さな爆発であなたたちを揺さぶり起こし、あなたたちに考えさせ、御言葉を掘り起こして学習させ、これらのことが真実であるかどうかを調べさせるのである!(使徒行伝17:11) −−そしてこれは良いことである! たとえ答えを見つけなくても、あなたは何かを学ぶのである! 私が、あなたたちの好奇心を引き起こす以外何もしなくても、少なくとも私はあなたたちに知りたいという気持ちを起こさせたのだ。そして、それはどんな教師にとっても戦いの半分なのである! アァメン? PTL!

  28.多分私はショック療法が好きなんだろう! 私は人々にショックを与え、人々に挑戦し、人々を揺り動かし、眠りから覚まし、彼らの無気力状態から抜け出させ、私が言ったことで彼らを爆発さえさせるのが好きなのだ。少なくとも彼らに何らかの行動を起こさせるのである!−−たとえば、昔からよく言われている質問をすることによって、クラスに爆弾を落とした時がそうだ。私はこう言ったのだ、「あなたたちは、何処で永遠を過ごすんだ?−−天国か、それとも地獄か?」 その時私は、普通の平凡で、伝統的で、根本的な答えを与える代わりにこう言ったのだ。「私は、天国にも地獄にも行かない。そして、あなたたちもそうであるように望む!」−−そして私は、私たちが主と共に住むようになる場所は、神の元、つまり天から新しい地に降りてくる天の都であること、そして神の方が降りて来て私たちと共に住み、私たちが神と共に住むようになることを聖書から証明するために、話を続けたのである!

  29.しかし私が、「私は天国へは行かない。」と言った時、私のクラスにいた新しいベーブはびっくりして飛び上がり、こう叫んだ。「あんたは行かないかもしれないが、私は行くんだ!」 そして彼は、足を踏み鳴らして出て行き、「天国が私の方に降りて来るんだ!」という点を証明するチャンスを私に与えてもくれなかったのだ! 私は、彼の伝統的な教会的信条に挑戦することによって、導火線に火をつけたのである。そして彼は、自分の信仰を揺さぶられる事に耐えられなかった! 新しい教義のショックに耐えられなかったのだ!−−それは彼が自分で基準としていた理論や、大事にしていた伝統を粉々にしたのである。そして彼は、彼の信仰と呼ばれるものを脅かす、深い裂け目の縁でよろめいてしまったのだ!それは、彼の素敵なこじんまりとまとまった先入感の概念に、あまりにも大きな穴をあけてしまったのである。そして彼には、それを満たすだけの十分な真実がなかった。だから、彼はその光景にぞっとし、かっとなって出て行ったのである! 少なくともそれは彼に何らかの行動を起こさせたのだ!−−彼は何年間もただじっと教会に座った人であった!それは実際に、彼に考えさせ始めたのである!−−彼に非常に多くを考えさせたので、後で彼は戻って来て謝罪し、もっと多くの事を知りたいので教えてほしいと言ったのだ!−−あなたの伝統的概念が挑戦される時、あなたはどのように反応するのか?!

 

預言が最も重要なものか?

 

  30.これは、私たちの、極度に熱心な、神学上の独断主義者のある者たちにとっては驚きであるかもしれないが、私もあなたも、他の誰も、全ての神学上のささいなつまらない事や技巧的詳細に対してぴったり同じ見解を持つことは、絶対的に必要なことではない。それは、救いや、証しや、魂の獲得や、世界に福音を宣べ伝えることに対して、必要不可欠なものではない、たいしたことのない教義や解釈である! イエスによる救いや神の言葉の根本的な権威や、主の真実を他の人に証しし、主の愛を世界に現し、私たちが見ているようにキリストと彼の奉仕のために、失われた者たちを勝ち取るという私たちの義務などに関して、私たちが同意することだけが必要不可欠なのである!

  31.「福音の単純さから迷い出さないように、気をつけなさい! 幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない!」(2コリント11:3,マタイ18:3) あなたたちは、赤ん坊のようにならなければならない!−−そして赤ん坊は、神学上の理論的、教義的なへりくつに関して口論することで、自分のほとんどの時間を無駄にしない!

  32.ファミリーは、預言の解釈や神学上のささいな細かい事の上に築かれたのではなかった!−−それは、まず何よりも、愛と思いやりと同情と深い憐れみの上に築かれたのである! 私たちが、しばしば言ったように、愛が最も重要なものなのである!

  33.不確かな、あるいは高度な神学上の預言の解釈によってファミリーに勝ち取られた人々は、もしあなたたちの予言が現実に成就しなかったなら、がっかりしてファミリーを去るかもしれない!−−しかし、もし「キリストの愛が、彼らに強く迫って」いて(2コリント5:14)、預言はすたれ、あるいは異言はやみ、知識が消えていこうが、彼らは失敗することも、やめることも、消え去ることもないであろう!−−なぜなら、「愛は決して敗れない!」からだ。 (1コリント13:8)

  34.あなたに預言の賜物があろうが、全てのミステリーと全ての知識を理解しようが、愛がなければ無である!(1コリント13:2) 愛がこの仕事の活力源である!−−神の愛の霊である! だが、誤解しないでほしい。聖書の預言は重要である。そして私は、どうして私たちが未来に関する主の預言に通じているべきなのかということをすでに告げた。だが、もしあなたに愛がないなら、あなたがどれだけよく聖書の預言を理解し、聖書に出てくる全ての獣のことを説明でき、全ての角の名を言うことができてもそれは問題ではない。もしあなたに愛がなければ、それは全く事実と数字の、生命のない、冷たいつららにすぎない。−−暖かさも、熱もないのだ!−−そして、他の誰かを夢中にさせることもできないのだ! だから、覚えておきなさい。聖書の預言は重要だが、愛が最も重要な事なのである!

 

あなたの解釈が正しい事を知る方法!

 

  35.預言について一つ言える事は、それが実際に起こった時に、あなたはそれがどういう意味なのか知るということである! それが真実だ! イエスはこう言われた、「今、私は、そのことが起こらない先に、あなたがたに語った。それは、事が起こった時に、あなたがたが信じるためである!」(ヨハネ14:29) 多くの預言は、あなたたちが未来を理解するのを助けるために与えられているのだが、もし理解できないのなら、おそらくそれが起こった時に、あなたたちがそれだと気付き、その時にあなたたちが理解するために書かれたのであろう! これらの事柄の中には、あまりはっきりしていないものもあるが、少なくとも私が確信している一つの事は、私たちが未来を理解するか、それが起こった時にそれだと気付いて、私たちが高揚させられるために、主がそこに置かれたということである。それが起こる時、私たちは知るであろう。そしてその時、私たちは何が正しい解釈であったかを確信するであろう!

  36.多くの預言は、それが起こった時にそれだと気付くために与えられている。−−必ずしも何が起こるのか、いつ起こるのかを知るためではない。−−そういう場合も沢山ある事はある−−だが、多くの時は、ただ単にそれが起こった時に、あなたがそれだと気付くためであり、あなたが自分がどの時期にいるかを知るためである。

  37.それはちょうど、自分のひざの上に電車の時刻表を置いて電車に乗るのと同じである。私は、自分がいつも正確に何処にいるかがわかるように、時刻表をもって電車に乗ったのである。そして、自分が何処にいるかを、どのように確実に知ったかわかるか? 時刻表によれば、ある一定の時刻に、自分達が当然何処にいることになっているかを知っていたのだ。だが電車は、いつもきっかり時間通りであるとは限らない。電車は、私がそこに着くと思っていた時間に、いつもそこに着いたわけではなかった。だから私たちが、電車で町から町へと順々に通り過ぎて行った時、私がどうやって自分たちがそこにいると確かに知っていたと思うかい?−−sign(しるし、または標識)によってだ。つまり駅にある標識が、現在地を確証したのである! 

  38.だから、あなたがそこに到着する時、その事を知るであろう!しるしを見、それである事に気付き、聖句を思い出すであろう!−−そうでないなら、それはしばしばとても混同させるものになり得、過去の場面や、将来の場面や、何やかやが重なり合っているのだ。主は、故意にそのようにされたと思う。特に、体制や世界が理解できないようにする為である。それはすっかりベールがかけられ、不可解な言葉で書かれているので、ほとんど謎や類型や象徴や、漠然とした形で表現されているようなものである。全て、とても神秘的で、世界が理解できないようにほとんど暗号で書かれてあるようなものである。しかし主は、ダニエル書の中で何と約束されたか?−−賢い者は悟るであろう!(ダニエル12:10) TTL!  だからその全てを理解していなくても心配するな。もしかしたらあなたは賢くないのかもしれない! もしかしたらあなたは、他の私たちのある者たちのように、これらの事柄の幾つかに関して全く頭が悪いのかもしれない−−あるいはまだ時ではないのかもしれない。

  39.しかし、私たちがそれに達した時、確かに知るだろうと私は信じている! 私たちが駅に着いて、窓から「時のしるし」を、駅の標識を見る時、私たちは自分が何処にいるかを知り、預言の時刻表が意味したことを、正確に理解するだろう!(マタイ16:3)だから、多くの預言がとても神秘的で、今はとても理解しにくくても、それらについて思い煩わなくてもいいのである。−−あなたが必要な時に、あるいはそれが起こる時に、知るであろう。アァメン?

  40.終わりに近づけば近づくほど、神はあなたのためにそれをはっきりとして下さる。そしてそれをもっと良く見るし、事実の説明づけや、様々な神の預言のミステリーの解釈はより容易になってくる。私たちがこれらの事柄に近づくにつれて、それに耐えられる事ができ、それを受け取る事ができ、喜んで私たちの古い先入観の幾つかや、誤った解釈を捨てることさえする気持ちを持つにつれ、また喜んで変わることを望み、これらの出来事に関する私たちの見解や解釈を変える新しい事柄を喜んで示してもらう気持ちを持つにつれて、主はそれらがどのように起こるか、正確に私たちに喜んで示す気持ちを持たれるのである。

  41.私たちが進むにつれて、物事は絶えずよりはっきりしてくる!最初はあまりはっきり見えなかった事でも、また幾つかの事が明確になり、はっきりしてくるのである。結局のところ私たちは、生きて学ぶのである! だから、もし私たちが何かが誤っていることを見て、変える必要がある事を知った時、人々は、私たちが時たま教義を変えているように見えるからといって、腹を立てたり、私たちを非難したりすべきではない。実際には、出来事の進行における基本は、本当に何も変わっていないのである。アンチキリストは台頭し、主は来臨されるし、天国はやって来る。だから、主をほめたたえよ!

 

あなた自身をオープンな状態にしておく!

 

  42.私は、物事に関して独断的になって、これはこうでなくてはならない、それはそうでなくてはならないという態度を取らないようにしたのである。なぜなら、時々私は、聖書の中で非常にはっきりと書いてある事を除いては全くわらないからだ。私の意見が間違っていることだってあり得るだろうし、違ったように見えるかもしれない。しかし、主に感謝することに、ほとんどの時、主は私たちが正しい意見を持つのを助けて下さる。PTL!

  43.しかし、私たちはとても多くの預言の詳細に入り込んでいるので、誰も独断的になれない! たとえあなたが自分の見解を実際の明快な聖句によって支持できても、また主から直接の啓示を受け取ったとしても、時が進むにつれて、いつも物事を主に明らかにしてもらったり、部分修正をしてもらったりする余地を残しておいた方がいいだろう。聖句をよく知っていればいるほど、あなたの解釈は正確で、本当に聖書を知っている他の人達によって一般的に受け入れられるという可能性がより高いものだ。使徒が「聖書の預言は、全て自分勝手に解釈すべきではない。」と言っている通りである。(2ペテロ1:20)

  44.だから、あまりにも専門的でつまらない事にこだわろうとするな! ああ、まさにそれこそ、教会が道を踏み外してしまったところなのだ。つまり、世界に福音を宣べ伝えることよりも、神学上の教義のつまらない事や教会の建物を建てることにより多くの興味を持ってしまった時である! だから聖書がはっきりと確かに、正確な数字や実際の日数などを述べている箇所を除いては、幾つかの事に関してとても正確になろうとして物事を断定しようとするな。

  45.主が、私たちに、何か違ったことを示しておられる時に、考えを変えることができないほど、自分たちの解釈に関してとても独断的になるか、考えが決まっているような状態になるべきではない! それが今日の教会の伝統尊重主義者たちの困ったところなのだ。彼らには決まったシステムがあり、自分たちが誤っていることを認めない限りは、変えることができない。勿論彼らには、自分たちが誤っていると認める気などないが。それは、彼らが決して誤らない人間であるということになっているからだ。だから、彼らは決して変わらないし、彼らがどれだけ誤っていようが、彼らを変えることはできないのだ! 彼らは、絶対にそれを認めないであろう。決して変わらないだろう。なぜなら、プライドのゆえに、自分たちが間違いを犯したこと、あるいは誤っていた事を告白するのは彼らには不可能だからである!

  46.もしあなたが、これらの出来事の幾つかに対して、あなたの古い伝統的な解釈にあまりにも自分自身を束縛し、ある一定の決まった予定に自分自身を閉じ込めようとし始めるなら、あなたは、自分自身が自分の神学や、聖書の解釈に閉じ込められ制限されているので、他のどんな事に対しても、主があなたの為に持っておられるどんな新しい事に対しても受け入れる余地がないという状態になってしまうだろう! だからあまりにも独断的になりすぎたり、細かい具体的な事に対してあまりにも考えが決まりすぎたりして、あなた自身が縛られる事は割りに合わない。なぜならあなたは、私が時々発見したように、後で自分の解釈が間違っている事を知るかもしれないからである。

  47.もしあなたが、新しい真実や、また新しい解釈に対してさえ、自分自身をオープンな状態におかないなら−−特に、自分が前に持っていた解釈が単に誰かの推測、あるいは理論、あるいは自分自身の意見でさえあった場合はそうなのだが−−あなたは、わだちにはまってしまい、神があなたに与えようとされる新しいアイディアや考えに抵抗してしまうだろう!−−神は、あなたにわからせることができず、そのあなたの固い頭と殻を割って、あなたがいつも信じていたか、あるいはいつも教えられてきたことに反する新しい考えをたたき込むことはできないだろう!

 

変更に対してオープンであること!

 

  48.もし今まで私が、変更や神からの直接の啓示に対してオープンでなかったなら、あなたたちはここにいることさえなかったであろう! だからあなたたちは、神が私の考えを変えることができたことを、神に感謝したほうがいいだろう。そしてある場合には、彼が私の向きを変えて、私を全く反対方向に進ませる事ができたことを主に感謝したほうがいい!

  49.勿論、あなたが誤っている時にそれを告白することは容易ではないが、誤ったままでいて、偽りの教義を支えようとするよりは、はるかに容易である!−−そしてそれが、ユダヤ人に関して、私のしなければならなかったことだ。ああ、それは全く大きな主題だった! それは、大変な変換であり、全くの正反対のことだったのだ! 神は、私に直接の啓示を与えなければならなかった。私の目を覚ましてその考えを捨てさせるために、私をわざわざイスラエルまで送って、ユダヤ人たちと一緒に住ませなくてはならなかった! それは、大きな啓示だった!

  50.その時まで私は、なおユダヤ人が選ばれた民であり、イスラエルは選ばれた国、エルサレムは栄光のある都市とか何とかかんとかと信じていたのである! 私は、私たちの全ファミリーをイスラエルに移動させる場所を捜す為にそこに行ったのであるが、正反対の事をしたのである!それが神の御心でも神の言葉でもなく、私たちは長い年月の間ユダヤ人の教義によって完全に惑わされていた事を知ったからだ!

  51.それはとても困難であり、私にはきつい経験で、私をほとんど死なすところであった! それは、私の先入観や希望や夢や空想上のおとぎの国を、跡形もなくなるほど粉々に砕いて、吹き飛ばしたのである。私は、それらが全部、偽物であることを知ったのだ! 自分が間違っていた事を告白することは、とても難しく恥入る経験であった。そして私は、神の恵みによってだけそうすることができたのである。私に主がいたという事実がなかったなら、やめて何処かへ逃げて隠れるか、あるいはそのままの状態を続けて、自分を偽って人々をだまし、告白したり、認めたりしないか、何とか言い逃れしたかもしれない。

  52.私が頑固にも自分自身の道に固執していたなら、どうなっていたか?−−私たちは、決して今日の私たちのようにはならなかったであろう。あるいは神が行くように望まれた所に行っていなかったであろう!−−そして神が行くように望まれた場所は、小さな、つまらないイスラエルよりもはるかに広い所である。私たちは、神の「YES」を見つける為に、神の「NO」を受け入れなければならなかった。

  53.だが、間違いにぞっとして私がそれを認めなかったなら、神は決してそうする事はできなかった! 自分が誤っていて、間違ってしまい、誤った軌道を進んでいた事を喜んで認め、自分には助けが必要であり、答えが必要であり、私の問題に対する解決策が必要であることを告白するような状態に自分がなっていなかったなら、神は、奇跡を行って、私を修正するチャンスを持たれなかったであろう!

  54.私がしばしば言うように、偽りの概念や先入観が壊される事を喜んで望まない限り、真実を知る事は決してないし、主の御言葉の真の穀物をあらわにするには、全てのもみがらを吹き飛ばさなくてはならないのだ! だが、これらの事柄の幾つかに対する私たちの解釈において、一つの変更や訂正があるからというだけで、全聖書や私たちの預言の教えの全てを放り捨ててしまわなくてもよい。−−バナナに一つの小さな茶色い点ができていたり、梨かリンゴに一つの小さな点ができているのに気付く時、あなたはリンゴ全部を捨ててしまう事はしない!−−あなたは、ただ小さな茶色くなったところを切り取るだけである。それを訂正してあとの良いところを取っておくのである!

  55.だから私は、教義の何かの点や、預言の解釈の何かの点や、何らかの種類の神学上の確信の点で、プライドと傲慢さと思い上がったエゴの故に変わる事を拒み、神ご自身によって変えられる事を拒むよりも、神が私に何かを示して下さる時に変わって正しくなる方が、確かにずっといい。私は、何でも新しい事に対して自分の抵抗力を強め、「私の考えは決まっている。事実で私を混乱させないでほしい!」という、殆どのクリスチャンや教会のように自分の思いを閉じてしまうよりは、むしろ自分のエゴが打撃を受け、自分のプライドが恥をかく事で苦しみ、正しい見解をもっている事の方がいい。私は、自分の考えを変える事を拒んで誤ったままでいるよりも、自分の考えを変えてその結果を苦しみ、正しくなるほうがいい!

  56.あなたは、喜んで変わり新しい真実を受けたいという気持ちがあるか?−−もしあなたの思いがとても閉じていて考えが決まっているので、事実で混同されたくないと望むのならそうではない! それは、殆どの教会人、殆どのクリスチャン、殆どの聖書の預言の学者や教師がはまり込んでいる、楽な逃げ道である。彼らは、わだちにはまってその中に落ち着いてしまい、邪魔されたくないのである。彼らは、新しい真実が欲しくない。自分たちのわだちの中にはまっていたいのだ! 彼らは、邪魔される事や、くつがえされる事が好きではなく、彼らがすでに信じていた事と、矛盾する何か新しい事によって、突然に対決されることが好きではないのだ! そして、あなたも多分そうなんだろう! 事実、私たちみんながそうなのだ!

  57.だから、もし自分が間違っていることに気付くなら、すべき最善の事は、ただ告白することである!−−私は、正しいと自称して誤っているよりは、自分が間違っていることを告白して正しくなりたいのだ!−−あなたは、そうか?

 

モーレターを解釈すること!

 

  58.愛する者たちよ、あなたたちは、私をどのように解釈するか、気をつけなければならない。私のレターを読む時は気をつけなければならない。時々私は、絶対にそうである事柄を確信をもってきっぱりと述べる。だが、もしやや遠回しの感じで、「さて、はっきりわからないが、これこれのように聞こえる。これこれのように見える。もしかしたら、これこれかもしれないと思う。」というような言いかたをするなら、それは必ずしもそうでなければならないという意味ではない!

  59.私は、しばしば様々な預言の解釈の理論をあなたたちに与える。そしてある人々は、それを絶対間違いのない事実、議論の余地のない不変のものとして信じ込むのである! 彼らは、私が最初に理論や解釈のつもりで述べた事を、そのように受け取らずに、絶対的なものとして受け取るのである。ある人々は、タイムラインや予定や小さなちっぽけな詳細や、私がはっきりとさせていなかったあらゆる種類の事で、何年間も私のレターを絶対的なものに取っていた。私がそれらをはっきりさせていなかった理由は、わからなかったり、確かでなかったりしたからだ! だが、彼らときたら、それを表にしたり、あらゆる事をしたのである。彼らは、私が確信していると一度も言っていない事柄に対してさえ全く確信しているのである! だから時々私は、あなたたちに理論を述べることはあえてしないのである。そうするなら、あなたたちは、絶対にそうだと決めてかかるからだ! 私は、あなたたちの信仰と信頼が大好きであるが、もし私自身でさえ確かでないなら、一体全体どうやってあなたたちが確信を持てるのか?

  60.たとえば私は、一度もイエスが1993年に帰って来られる事を知っているとか、アンチキリストが1986年に台頭し、患難期が1989年に始まることを知っているとか、断言したことは今まで一度もない! あなたはこう言うかもしれない。「お父さん、私は、あなたがそう言ったと思いました! それは時の表の中に出ていますよ。一体どういうことなんですか?」だが、私がこの表を作ったのではない。誰か他の者がしたのだ! けれど私は、そのままにしておいた。

  61.私はこう言った、「さて、これは私の理論である。主が私に示して下さったこと、私が聖書で読んだことに対する、私の解釈である。だが絶対にこれだとは誓わない!」  私は、白い衣を着て屋根の上に立って、イエスが来られる夜を正確に指摘するようなことはしない。それが過去において、哀れな超熱心なクリスチャンの人々がしたことである!−−そして私は、自分が強いられるまで、たった今していることをやめるつもりはない! 私は、ただ1986年がアンチキリストが出てくる年であるかもしれないからというだけで、しっぽを巻いて逃げて行くつもりはない!

  62.私の解釈は間違っている事もあり得る! あなたが本当に頼れるただ一つのものは、神が言われたと私が言った事であり、私がよく知っている事である! しかし私の解釈、私の意見、私の理論は間違っている事もあり得る。私は、つまりそういう意味でもあり得るかもしれないという事を、あなた達が考え祈る為の何かを与える為に、それらの年代を持ち出したのである。だが絶対にそのように起こるとか、ぴったりその年代に起こるとか言ったつもりは一度もない!  それらは私の推測であり、推理であり、理論であり、解釈である! だからお願いだから、私の意見であるのに、神ご自身が言われた、神の信頼できる、絶対間違いのない真実として受け取らないでほしい!  それを事実として読み取らないでほしい。なぜなら、必ずしもそうではないかもしれないからだ! もし私がそう言っただけであって神が言われたわけではないのなら、多少割り引きして受け取るのである。いいかね?

  63.私は何度も言ったが、それが間違いのない時のスケジュールだと、自分の命を賭けたり、全財産を賭けることなどしないのだ! 私は、その類いの事に対しては、非常に疑い深いのだ。その類いのことがうまくいかなかったのを何度も何度も見てきた。あまりにも多くのヒットラーやムッソリーニのような人々がアンチキリストであるということになっていた。また、かなり多くの法王たちもそうであった!

  64.一体、何人の宗教リーダーや聖書の預言の教師達が、年代に関する彼ら自身の預言によって自らの首を絞めてしまったかわからないくらいである! それは、もうちょっとでエホバの証人の活動の終わりとなるところだった。それは親愛なるウィリアム・ミラーの、ミラー派達の最初のアドベンティストの活動の終わりとなった。彼は主がある決められた日にやって来ると予告したのだ。だから、彼に従う者達は皆、シーツをまとい、屋根の上に登り、イエスが来られるのを待ったのである。彼らは、自分達の持っている全てのものを売り払い、全てのものを他の人に与え、一晩中そこに立ち、シーツをまとって主が来るのを待ったのだ。そして主が来られなかった時、彼は信用を失い、それが哀れなミラーの終わりとなったのである! 人々はその後、彼の言う事を何も信じなかったのだ!

  65.エホバの証人も同じことをした。彼らは、イエスが1914年に来ると預言したのである。そして、イエスが姿を現さなかった時、彼らは、「いや、彼は来られたが、私たちはただ彼を見なかっただけだ! 彼は今、何処か空中のそのへんに浮いていて、いろいろな書を調べている!」とか何か、そのようなことを言ったのだ。−−だが、それはかなり弱々しい理論であり、隠蔽 (いんぺい) である!

  66.使徒パウロでさえその時、イエスは、もういつでもすぐに帰って来られるんだと思っていた! 彼はその時、ほとんどいつでもすぐにアンチキリストが姿を現すのを見るのを待っていたのだ! 主が、彼らに言われたことのあるもので、使徒たちが誤って解釈したという証拠が沢山ある。彼らが誤って解釈していたがゆえに、彼らはイエスがいつでもすぐに来られると思っていた! 今日でも、使徒や聖書を非難して、「ほら、彼らはその時に、すぐにイエスが帰って来ると思っていたのだ!」という説教師がいる。(ローマ13:11,12、ヘブル10:25、ヤコブ5:8)

  67.イエスが、全ての時のしるし、主の来臨のしるしの事を語っておられた時、彼はこう言われた、「これらの事がことごとく起こるまでは、この世代は」−−つまり、それらのしるしが実現するのを見る者たち、たとえば今日の私たちの世代は−−「滅びることがない。」(マタイ24:34) だが使徒たちは、明らかに彼が自分たちのことを言っておられるのだと思った。だからそれでわかるように、もし物事を正しく解釈しないなら、どれだけ誤り得るかがわかる! 主が、私達を助けられるように!

  68.だからあなたたちは、私の推測や私の提案を律法として受け取らない事を学ぶべきである。神はご自身のボスである。そして神は、何でもご自分が適していると思われる通りに物事を行う事ができるのである!私が、「信じる」と言う時−−あなたたちに神の祝福があるように−−あなたたちときたらとても信頼しているので、その通りに起こるのだと考えるのである。しかし、私がただそのように起こることを信じているからというだけで、必ずしもその通りに起こるとは限らない!−−私が間違っている事だってある!

  69.私は、そんな風に細かいところまで断定するのを好まない。それはあまりにも危険すぎる! あまりにも多くの人々が、彼らの預言が現実に起こらなかったが故に偽預言者と呼ばれてきた。だから、神ご自身から聞き、神の絶対的な言葉である事柄でない限り、私自身でさえ必ずしもそれを信じる必要はないのである! 神が、直接の啓示、直接のビジョン、直接の預言、直接のメッセージを与えられるのでない限り、また、神が私に御言葉か名前か何かを与えられるのでない限り、私はそのような預言に関してあまりにも限定的な態度を取ることに用心深いのである。

  70.というわけで、私たちが未来に起こり得る可能性としてほのめかしたこれらの出来事の幾つかに関して、それほども確信しきらないでほしい。神が、明確に預言されたこと、あなたたちが御言葉の中ではっきりと読んだこと、私たちが主から受け取った直接の啓示、それだけが私たちが確信しきれることであり、完全に独断的になれることである!−−たとえば、来たるべき一般的な出来事である。

  71.たった今、物事はとても速く変わりつつあり、時は変わりつつあり、出来事は変わりつつあり、時の印はとても速く起こりつつある! だからあなたたちは、自分の考えをとても固定してしまい、自分の流儀においてとても固定してしまい、自分の解釈においてとても固定してしまい、実際にそれが起こった時に、「いや違う。あっちに行ってくれ!−−信じたくない。見たくない。なぜならそれは、私が以前に一度も気付かなかった事柄が真実であるのを証明するからだ!」と言うか、あるいは、「私は、何年間もこの教義を信じ、この小さな決まった考えを持っていたのだ!−−お父さんが私にこれを教えてくれた。だからこれと違う事は何も信じられないんだ!」と言うようにならないよう気をつけたほうがよい。

  72.覚えておきなさい。賢い人は昨日よりも明日、はるかに賢いということを! だから、これらの解釈のどれ一つにおいても、あまりにも独断的になってはいけない。これらの近づく出来事や預言の詳細の幾つかに関して、私たちはたった今、正確に何が起こるのか、正確にいつそれが起こるのか、あるいは正確にどこで起こるのか知らないのである! しかし神は、物事がいかにして起こるのか、どこで起こるのか、どれほどすぐに起こるのかに関するかなり良い見当を私たちが得るために、あるいはそうでなくても、少なくともわずかなヒントを私たちに与えるために、これらの分野に関して確かに十分な情報を与えて下さっている。だが、私たちはたった今、これらの詳細のどれ一つにおいても、全く独断的になれないのだ。今は、その時ではない。たった今は、「その時になればわかる!」という具合である。

  73.たった今この時点では、何であれ、これらの事の幾つかが起こる時と場所と時間を、私達は、正確に、明確には知らない。だが私達は、確かに、これらの出来事が起こる事、またとても近い内に起こる事をかなり大まかに知っているし、間違いなく確実にわかっている! それらが起こり始める時、その時、私たちははるかにもっと明確に、日や、時間や、年や、月などを知るであろう。だがたった今、正確に何が起こるか、いつそれが起こるか、どれが最初に起こるかを知っているとあまりにも確信しきってはいけない! あなたたちは、ただ忍耐強くあり、待ってみたほうがいいだろう。

  74.だから、物事に関してあまりにも独断的になったり、確信しきったりするな! 確実に知るまでは、そのことに関して確信を持ちすぎてはいけない。待ってみなさい! 待って、何が起こるかを見なさい。なぜなら、あなたたちはまだあまり知らないからである。たった今、未来に関する全ての正確な日付を、本当に知ってはいないのである。時だけが、それを教えてくれるだろう! 待ってみなさい!−−だが、予告や、ヒントや、しるしを気をつけて見ていなさい。

  75.そして、それまで待っている間、ただそこに座ってのらくらし、ただ見るのを待っているというのではなくて、忙しくし、当然しているべき事をしなさい! そのことで思い煩うことをやめなさい! これらの預言や神学の熱狂家たちがするように、時間と分と秒と日と月を全て考え出そうとすることをやめなさい! ある人々は、詳細にあまりにも関心を持ちすぎて、それらを預言し、判定し、考え、数学的計算などをしようとしたのである。実際には、そうすることは、早すぎるのに!−−時が来れば、すぐに十分なことを知るであろう! アァメン? TYJ! 神が、私たちを祝福され、終わりまで、私たち全員を神のために忙しく保たれるように!−−あなたは、イエスのために忙しいか?−−私たちは、あなたたちを愛している!

  76.P.S.  私は、あなたたちに、私たちの最優先のものが何であるか、私たちの主要な仕事が何であるかということを思い起こさせたい。最大の戒めは何だ?−−未来を予言することか?−−聖書の預言の全ての詳細に関して、神学の専門家となることか?−−いや、違う! 最大の戒めは、神を愛することである!−−そして、次に最も大きな戒めは、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛することである!(マタイ22:37-39) 人々に警告し、未来のために人々を準備するために、私たちがいつも聖書の預言を教えてきたのは真実である。だが、本当にこのファミリーを始め、若者を勝ち取ったのは、若者たちが彼らの所に行って、イエスの愛を彼らに示した時である!

  77.だから、終末論の詳細や教義や定説にあまりにも目をおいてしまって、私たちが何のためにこの仕事に携わっているのか、ということを見失ってしまうことが決してないように! それは、神の愛の福音によって、世界に手を差し延べるためである!−−これが、私たちがここにいる根本的な目的であり、私たちが存在している理由である! イエスご自身は、未来について全てのことを知っておられたが、彼の主要な任務は、世界を愛することであり、彼の主要なメッセージは、神の愛と救いの良き知らせである! 

  78.イエスが捕まえられて、獄に連れて行かれ、鞭打たれ、十字架にかけられる前の最後の晩餐で、彼が弟子たちに与えられた最後のメッセージは何であったか?−−彼は、彼ら全員に愛のことを語られ、愛が最も重要なことであると言われた!(ヨハネ13:3-7,34,35,15:9-13,17を参照)

  79.彼が、彼らに尋ねた最後の質問は何であったか?−−彼はこう言われた、「私を愛するか?」−−それに対してペテロはこう答えた、「勿論です、主よ。私があなたを愛していることは、御存知でしょう!」 それからイエスは何と言われたか?−−「神学を勉強せよ。」と言われたか?−−「私の来臨の日を正確に指摘しなさい。」であったか?−−いや、違う! 彼は、「わたしの羊を養いなさい!」と言われたのだ。 (ヨハネ21:15-17) −−そして、私たちが本当に主を愛しているなら、これこそ、私たち全員がしなければならない最も大きな、最も重要な仕事なのである! このためにこそ、真にファミリーがあるのである!−−主の羊を養い、神の御言葉を証しし、福音を宣べ伝え、人々に神の愛を告げ、彼らにイエスの愛を示すことである!

  80.だから、神があなたたちを祝福され、あなたたちが全世界に出て行って、全ての造られたものに、彼の愛の良き知らせを宣べ伝え続けるのを助けられるように!−−アァメン? それが、私たちのゴールである。イエスが来られる前に、全世界に手を差し延べることが!−−あなたは、喜んでそうする気持ちがあるか?

  81.イエスと顔を合わせる時に恥じることのないよう、彼が間もなく帰って来られる前に仕事を終わらせよう。−−あるいは、あなたが主の愛を分け合うことをしなかった、数え切れないほど多くの魂と顔を合わせる時に恥じることのないように! アァメン? PTL! 神があなたたちを祝福され、引き続きあなたたちは、何百万人もの人々に対する祝福とされるように!−−そして、もしあなたたちがそうするなら、主がそうして下さることを私は知っている! だから戦いを立派に戦い、信仰を持ち続け、走るべき行程を終えなさい!−−そうすれば、あなたのために冠が用意されているであろう! ハレルヤ! ILY!