DB810

 

自己正義!

1986年3月編集された  DFO 2140

−−「パリサイ人のパン種に気をつけなさい!」(ルカ12:1)

 

  1.「自分を義人だと自称して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまた、このたとえをお話しになった。ふたりの人が、祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、ひとりでこう祈った、『神よ、私は、他の人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。私は一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人の私をお許し下さい』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて、自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は、高くされるであろう。」(ルカ18:9-14)

  2.その日、そこの宮にいた一番の義人は、律法を細かい点までことごとく守り、自分の庭から、はっかやいのんどを摘んで、その10%をとって、きちんと十分の一税を収めている事を確かめたり、そういった事を行った自己正義の、全く「我、汝より清し」という態度を取った、偽善的な律法学者やパリサイ人ではなかったのだ。(マタイ23:23)イエスはご自分の弟子たちにこう言わなければならなかった、「この一見、義人と見えるパリサイ人が、一番の義人ではない!−−そうではなくて、この二人の内で、より義とされる者は、この哀れな取税人、罪人である!」−−取税人は、ユダヤ人にとって、彼らが思いつくことのできる内で最悪の類いの人間であった! 彼らは、たいてい暴利をむさぼる者であり、詐欺師であり、貧乏人から略奪する者であった!−−ローマ人のために税金を集める特権を与えられていた取税人は、彼らの同胞にとっては裏切り者と考えられていた! ローマ人は彼らに、いくら税を必要としているか、人々がカイザルにどれだけ払わなければならないかを告げたのである。そして彼らは、自分たち自身の収入として、それ以外に、いくらでも欲しいだけ、人々から取ることができたのである。だから彼らは、ユダヤ人の同胞から憎まれ、人間のくずとみなされていたのだ!

  3.というわけで、宮でこの哀れな取税人が祈っていた、「主よ、罪人のわたしを憐れんで下さい!」 そしてイエスは、ユダヤ人の弟子たちに何と言われたか? 「最も義とされたのは、どちらか?−−自分が罪人であることを知っていて、許しを求めているこの哀れな取税人である!」

  4.神の目から見れば、独善的な宗教的プライドよりも、ひどいプライドはない!−−独善的で、パリサイ人的で、高ぶっていて、他の男性、または女性が、自分ほど多くの信仰をもっておらず、彼らがこれやあれをしないが故に、自分が彼らのような人間ではないことを神に感謝し、彼らを見下げる宗教人の持つプライドよりもひどいプライドはないのだ!−−それらの自己正義の高ぶった偽善者は、自分たち自身の成功や正しさをとても誇っていて、他の者たちを見下げるのである! 彼らは、あなたが恐らく出会うことのある人の内で、最も無情で、寛容でない人々である! 彼らは、本当にうまくやれず、成功のできない哀れな人々に対して、何の憐れみも同情もないのである。

  5.そのような自己正義の偽善者は、イエスを非常に激怒させたので、彼らを公然と非難されたのである、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ、あなたがたはわざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中で最も重要な、公平と憐れみと忠実とを逃している。それもしなければならないが、これも見逃してはならない! 盲目な案内者よ、あなたがたはぶよは漉(こ)しているが、らくだは飲み込んでいる!」(マタイ23:23,24)

  6.自己正義はプライドである。そしてプライドは自己正義である!−−自分が神よりも正しいと考える事は! もしあなたが自分自身の義を誇っているなら、あなたは神の義に反抗しているのである。なぜならあなたは、自分が神よりも正しいと言っているからである。だからあなたは、神に反抗しているのである!−−そしてそれは、まさに純然たるプライド以外の何ものでもない! 律法尊重主義のパリサイ的なユダヤ人は、この面で大きな問題を抱えていた。そして今もそうなのである。パウロは、彼らのことをこう書いた、「なぜなら彼らは、神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである!」(ローマ10:3)

  7.偽善と自己正義、あの自己を他人よりも清しとする態度、あの自己善良さは、すべての罪の内で最大かつ最悪の罪である。神はこれをどんなものよりもひどく憎んでおられる。なぜなら神以外には、善良さはないからである!(マタイ19:17) 神が唯一の善良な方である。そして人々が善良であるように装うことを、神は非常に嫌われる。神は、彼らが皆、悪いことを知っておられるからである!(ローマ3:23)

  8.信仰と神の善良さと、神の愛と神の義を持っている者を除いては、全ての者が悪いのである! 神の言葉は、他の全ての義、人間の義、あなた自身の義、あなた自身の善良さは、汚ならしい、むかつくような月経の布のようなものであると言っている! 「われわれは、みな汚れたものと同じであり、われわれの正しい行ないは、ことごとく汚れた衣のようである!」(イザヤ64:6)−−言い替えると、まことの善良さ、真の清さ、本当の愛、真の憐れみであるところの、神の善良さがないなら、あなたは無であり、無以上に悪いということである!−−あなたは汚れた衣である!

  9.キング・ジェームス訳の聖書で、「汚れた」と訳されているヘブル語の「AYD」という言葉を私が調べた時、それは文字通り、「月経の流出によって、汚れるか、汚くなっている事」という意味である事を知った! 言い替えると、神の言葉は実際にあなたの義、あなたの善良さは、汚れた月経の布のようなものだと言っているのである!−−女性が使った生理用ナプキンのようだと!−−そのように、いわゆる「善良」な人々、他人よりも自分が良い人間だと、自分を誇る人々のことを、見ておられるのである:「私は善良な人間だ。あなたよりも良いのだ。これをしないし、あれをしない!」 人間自身の義、自己正義、人間の独善さというのは、女性の生理ナプキンのように、神の鼻には悪臭を放つのである! 神は、それほども悪く聞こえるものにされたのである!

  10.だからイエスの時代で、本当に最も汚れた罪人は、誰だったのか?−−哀れな汚い取税人、「主よ、罪人の私を憐れんで下さい!」と祈った「悪い」人々か、それとも「私たちはきれいにする必要はない!」と言って、自分たちのすっかりうまく隠しておいた汚れを暴露したことで、イエスを十字架にかけてしまった偽善的で、パリサイ的な宗教体制であるか!−−彼らこそ、全ての人の内で最も汚れた人々である!−−そして同じことが今日にも当てはまる!−−神の目に、最もひどい汚れとして映るのは、いまいましい自己正義と偽善である!

  11.イエスは、律法学者やパリサイ人に、彼らこそ、彼らの軽蔑する酔っ払いや売春婦や取税人や罪人よりも悪いと言われた。そして自分の罪を告白しようとしないだけではなくて、自分の罪を見ることもできなかったこれらの自己正義の偽善者よりも、罪人の方が救われるチャンスがもっとあると、彼らに言われたのである! 彼らは、自分たちのどこがひどく間違っているかということを見ることもできず、わかりもしなかった! 彼らは、実に長い間、真理に逆らい、神の御声に対して心をとても堅くしていたので、みじめにも完全に「知力は暗くなり、神の命から遠く離れ」てしまったのである!(エペソ4:18,19)

  12.彼は、面と向かって、彼らにこう言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国に入る!」(マタイ21:31) そして主は、ご自身の弟子に言われた、「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に入ることはできない!」(マタイ5:20)−−言い替えると、あなたが彼らよりも良くなければ決して天国に入れないということである! そして彼らよりも良くなれる唯一の方法は、キリストの義を持つことである。彼らは、主の助けなしに、人間の力で善良になり得るほど善良だったからである。そしてそのような善良さこそ、かなり悪いことであった!

  13.そのような自己正義は、まさに見せかけ以外の何ものでもなく、絶えず非常に義人であり、正しい振りをしている。イエスはこの見せかけ、この偽善をとても憎まれたので、彼らに向かって公けにこう言われた、「偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである。杯と皿との外側は清めるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ、まず杯の内側を清めるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは災いである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は正しく見えるが、内側は偽善と不法でいっぱいである!」(マタイ23:25-28)

  14.どうして律法学者やパリサイ人たちは、それほども自己正義で、偽善的だったのか?−−なぜなら彼らは、とても自尊心を持っていたので、自分達が他の皆と同じように罪人である事を、また自分たちには、何か誤っている所がある事を、告白したくなかったからである。彼らは絶対にそれを認めたり、気づいたりもしなかった。だから「盲人を導く盲人のリーダー」となって、みんな穴に落ちてしまい、許される事のない罪を犯したのである。それは自己正義の罪であり、彼らの救いへの希望であるイエス・キリストの拒絶であった!(マタイ15:14)

  15.自分が悪いと知ること、自分が良くないと認めることはほとんど、良い気分にさせてくれるくらいである。結局のところ、神はそう言われたのだ。誰も良い者はいないと! だからこそ、神の目から見て最悪の類いの人々は、善良であるように見せかけ、他の全ての人を見下げる自己正義の偽善者なのである!

  16.「義人はいない、一人もいない!」「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、誰も誇ることがないためなのである!」(ローマ3:10,エペソ2:8,9) この原則は、全てのことにあてはまる! だから私たちは、自分自身で、善良になろうと努力することをあきらめて、「私は全く良くない、私は悪い、罪人だ。もちろん間違いを犯す!」と認める必要があるだけである。

 

真の義!

 

  17.悪魔は本当に世界を洗脳してしまった! 世界が義と考えるものが義についての神の考えと全く正反対になるまで、悪魔は世界を洗脳してしまったのである! 悲しいことじゃないかね! 彼らは、神の義が何なのかわからないのである! 彼らの考えは、神の考えとは、とても異なっている!

  18.義に関する悪魔の考えは、神の考えとは完全に反対である!−−悪魔の考えは自己正義であり、他人よりも自分が清いという偽善であり、一見して罪のない完全主義者である!

  19.それに反して、義に関する神の考えは、自分には神が必要だと知っている、哀れで、望みのない、失われた、謙遜な、罪深い罪人である!−−主は、そのような人を救うために来られた! 「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである!」(マタイ9:13) だから善良さ(goodness)についての神の考えは、神から来るもの(Godliness)、ということである。つまり、神が必要であると知っていて、救いのために神に頼る罪人であって、自分の善良さによって、自分自身を救えると考える悪魔の教会的、自己正義の偽善的パリサイ人ではないのである!

  20.聖徒らしさについての神の考えは、罪のない完璧さ、自己正義ではない。それは恵みによって救われた罪人であり、自分自身の完璧さや義は全く持っておらず、信仰によって完全に神の恵みと愛と憐れみに頼る罪人である! 驚くなかれ、そのような人々が唯一の聖徒であり、他にはいない!

  21.神は、あなたが全く完璧ではなく、完璧になれず、これからも完璧にはならないことを知っておられる。そしてあなたは、残りの私たちのように、大抵、かなりひどい状態である! だからただひとつの質問、ただひとつの基準とは:あなたは、完全に主に頼っているか、主と主の恵みと主の愛と主の憐れみを完全に信頼し、彼に全ての栄光と全ての功績を与えるか? あなたがした事で良い事が一つでもあるなら、主に栄光を与えているか? 「イエスに感謝してほしい。私に感謝しないでくれ! 主に感謝しよう。全て主なのだから!」と言っているか?

  22.それこそ聖徒らしさとして、主が見られる事である。つまり自分が罪人である事を知っていて、それ故にもし自分のした事で何か良い事があるなら、神に全ての栄光を与える人である。パウロが次のように言ったとおりである、「わたしのうちに、すなわち、わたしの肉のうちには、善なるものが宿っていない事を、わたしは知っている!」(ローマ7:18) 私や私の肉のうちには、何も良いものはない。何も良いものはない。何でも良い事は、主だけである!−−それこそ聖徒である!

 

ダビデ!−−罪を犯す聖徒!

 

  23.聖書の中の一番の偉人は、ひどい間違いを犯し、自分が罪人であり、自分には、神が必要だと知った者たちであった。だが私は、エノクのようなとても完璧であった者たちから、あまり多くの励ましを受けたことは、一度もない。エノクは、とても神の近くを歩んだので、人間との接触がなくなってしまった。だから神は、この世から彼を連れ出さなければならなかったのである。なぜなら彼は、もはや人にとって役に立たない存在だったからである。私は、愛と憐れみを求めて、イエスのところに来た酔っ払いや売春婦や取税人や罪人の感動的な話からはるかにもっと多くの励ましを得る。

  24.事実、聖書の中の最悪の人物のひとりは、私にとって最大の励ましだった!−−彼は、全聖書の中で最も邪悪な人の一人であった。人殺しであり、姦淫を行なう者であり、嘘つきであったが、神が変えられ、御自分の心にかなう者と呼ばれた。それはダビデ王である!(使徒行伝13:22)

  25.ダビデの手本に関して、最も励まされることは、彼の完璧さではなくて、彼の人間的な失敗や罪や欠点である。そしてそれが、神が全ての栄光を受けるチャンスを与えるのであり、私にも、そしてあなたにも希望があるということを示している! 私は、神がダビデほど悪い人さえ許すことができるなら、間違いなく神は、私を許すことができるといつも考えたのだ! ダビデ王は、多くの人々にとって、励ましになってきたと思う。−−もし本当にダビデのように悔い改めるなら、神がどれだけ多くの憐れみとどれだけ多くの許しをもっておられ、どれほど良くして下さるかを知ることは、全くの励ましである!

  26.彼は、聖書の中で最大の罪人の一人であり、最もひどい事の幾つかを犯した! だが、主が本当に彼を謙遜にされた時、彼の内に何と驚異的な変化が起きたかを見てみなさい。−−それは、彼の霊的なプライドをくじかれる経験を通して、起こったのである。

  27.しかし彼は、完全に暴露されなければならなかった。−−彼の邪悪さや罪や弱さが暴露されなければならなかったのだ。彼は、自分の王座に、とても高慢に座っていたのであり、とても完璧に見えていて、自己正義だったのだ。預言者ナタンはやって来て、彼に指をさし、「あなたがその人です!」と言った。(サムエル記下12章) 「あなたこそ、その悪人であり、罪人です!」−−それから神の裁きが下り始め、彼は全てのものを失ったのである。バテシバを除いては何もかも。彼女はひたすら彼と共にいたのである。彼は、他の全ての妻を失った。数人の忠誠な友人や家来を除いては、完全に奪い取られたのである。

  28.誰も、ダビデ王ほどひどい敗北にまで落ちぶれることはできなかったであろう! そして彼の全ての罪で最悪だったのは、彼が自己正義の偽善者になったことである。なぜなら彼は、自分の他の全ての罪を覆い隠して、とても善人であるように見せかけて、他の人の問題を裁いていたからである。そしてその時に、預言者がやって来て、彼を暴露したのである!

  29.だからダビデは、本当に多くの試練を通ったのだ。彼にはくじかれなければならなかった多くの霊的プライドがあったようだ。なぜなら彼は、初めから何という素晴しい英雄だったか見てみなさい! 少年の時でさえ、彼は素晴しい英雄だった! 自分の羊を守るためにライオンや熊と戦って、殺すことさえしたのである!(サムエル記上17:34-37) それから、彼が巨人のゴリアテを殺した時、彼が偉大な英雄であることを全イスラエルは知ったのである! 彼らは、サウル王以上に彼の名前をほめたたえ、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した!」と言った。(サムエル記上18:7-9) だから彼がかなり高ぶっていたということもあり得る−−それが理由で、疑いもなく、主がとうとう本当に彼を謙遜にし、本当にどん底まで落とされなければならなかったのだ。彼が最後に本当に謙遜になり、他の人に同情心を持ち、あの実に素晴しい詩篇を書く前に、主はそうされなければならなかったのだ!

  30.だからダビデは、超一流の悪い手本だが、それでいて、偉人の素晴しい手本なのだ。彼がしばらくの間、明らかにプライドをもって高ぶり、それによって大きな罪を犯してしまい、それ故に謙遜にされる大きな砕きを、大きな裁きを、大きな告白を、何もかも本当にひどく奪われてしまう経験を、通らなければならなかったからだ。

  31.彼の罪は大きな罪で、彼の不義の故に、彼に対する神の大きな懲らしめがあったが、また大きな悔い改めも生じたのである。そしてその結果、大きな許しが与えられた。しかしそれには、彼が最も愛した女性、彼にとって最もいとしい妻であるバテシバの子供を失うという代価がかかったのである! しかし神をほめたたえよ。バテシバのその最初の子供を失うという彼の魂の苦悩を通って、彼が悔い改めた結果、神は許され、神の憐れみの内に、彼にもう一人のソロモンという名の子供を与えられたのである。その子供は、非常に偉大な王となり、イスラエルがかつて知った内で最も賢く、最も裕福な王となったのである!

  32.それらは、大きな罪であったものの、彼の悔い改めは大きかった。それ故に、神は彼に対して、大きな許しを与えられた。なぜなら全てのことにもかかわらず、彼らはお互いに対して、大きな愛をもっていたからである!−−そしてそのダビデの人生が圧搾され、ねじられることによって詩篇という甘美な蜜と、主の憐れみのゆえに主をほめたたえるという賛美の芳香が生まれたのである!それは、全て神であって、全て恵みであった。彼自身や彼自身の義では、全くなかった!−−それは、それ以来、あなたや私のような他の大きな罪人に対して、励ましとなってきた教訓である! PTL!

 

サウルの手本!

 

  33.ダビデとサウルの違いは、サウルは罪を犯しているところを再三再四見つかり、その度に叱責を受け、暴露さえされ、いつも悪かったと思って泣くのだが、またすぐに元に戻って、同じ罪を犯した事だ!だがダビデの方は、心から悔い改め、謙虚にされ、変わったのであり、神に許しを求めたのである。そして主は許して下さった。だが彼が何かの罰を苦しむことなしに、神が彼をそのまま見逃すことはさせないということを、人々に知らせるために、彼はなおいくらかの罰を受けなくてはならなかったのだ。彼はそれを受けて、当然だったからである。

  34.ダビデは、自分が無であることを知っていた。そして神のおかげでないなら、自分がまたどこかの丘の羊飼いになっていたことを知っていた。彼をその時の彼に造りあげたのは、神であり、彼はそのことを知っていた。サウルもまた、最初、そのことを知っていた:彼はとても内気で、サムエルが彼を塗油しにやって来た時、彼は、頭と肩が彼の兄弟よりも抜きん出ていたものの、荷物の間に隠れたのである。(サムエル記上10:21-23)

  35.しかししばらく後に、彼はそれが神であることを忘れてしまい、プライドの内に高ぶるようになった。それは彼を自惚れさせ、彼がその時にあった地位に彼自身を立てたのは、自分だと思ったのだ。そして自分自身の腕が、自分を救い、自分自身の才気が、自分を王にしたのだと思った。だから神は、彼にこう言われた、「あなたが自分では小さいと思った時に、私はあなたを高くあげた!」(サムエル記上15:17) けれども彼が、サウル自身の目に高いものと映った時、神は彼を低くされたのである。(ルカ14:11)−−それが、ダビデとサウルの違いである!

  36.それでそれが本当にサウルの転落を招いたものなのである。彼は、自分がとても頭が良いので、主なしでやっていけると考えた。そして彼は、自分自身の力と知恵と義とによって進んで行き、自分自身の理解力にあまりにも頼りすぎ、主に対して不従順を行ったので、主はとうとう彼を叱責し、懲らしめ、彼の不従順の結果として、彼が王国を失うようになると彼に言わなければならなかったのである!

  37.サウルは、とても反抗的で、不従順だったので、最後には、自己正義の内に、もったいぶって、神に犠牲を捧げる事さえしたのである! 彼は、戦いの前に主に犠牲を捧げて、神の祝福を求めるために、祭壇を作ったのである。彼は義人であるふりをしたのである。しかしそれは、純然たる自己正義だった。なぜなら彼は、主に従ってもいなかったし、預言者の声にも従っていなかったし、神と神の声を待つこともしなかった。だからサムエルは、こう言った、「聞きなさい。従うことは犠牲にまさる! 神の声に耳を傾けて、心に留めることは、自己正義の燔祭で雄羊の脂肪を燃やすことにまさる!」(サムエル記上15:22)

  38.とうとう哀れなサウルは、あまりにも正道からはずれてしまったので、神の霊が自分から去ってしまった事にさえ気づかなった!彼は、状況が今までのようではなく、自分がもはや今までと同じ人ではなく、神の祝福が去ってしまったという事もわからなかったのである!彼はひたすら自分が王で、正しくて、全力を尽くしていて、正しい事を行っているふりをし続けた。彼の態度はこうだった。「だが、どうして神は、これが起こるのを許されるのだ? どうして神はこうなるのを許されるのだ? どうして神は、私や、私の家族や私の兵士たちや私の国が敗北するのを許されるのだ?」−−自分自身や自分自身の反抗的で邪悪な心や邪悪な不従順や、古い偶像崇拝の罪にも等しいひどい、そむく事の罪を責めるかわりに、神を責めていた!(サムエル記上15:23)

 

すべての罪の根源−−プライド!

 

  39.プライドはひどいものだ。それはあなたを地獄に落とし得る! クリスチャンにトラブルを引き起こす最大の原因である!−−つまりプライドだ! そしてサウルの手本で分かるように、神の言葉の中で最大の失敗者とは、自分が全てのことを知っていると考え、出て行って、ばったりとうつぶせに倒れた大物たちであった。彼らは自分自身の肉の知恵でやっていけると思って、外に出て行き、自分の剣の上に倒れたのである!(サムエル記上31:3-6)

  40.もちろん、この世では、プライドは、普通、かなりの美徳である。だから人々は、それを信じるように洗脳され、育てられる。しかし主の奉仕においてや、霊的には、それは非常に悪く、あなたが本当に戦って克服しようとしなければならないことなのである。

  41.プライドと自己正義によって束縛されることは、あなたの霊的進歩と主における「成長」を大いに妨げることができるのである。あなたが本当に主に譲渡し、必死になり、喜んでそれを捨て、喜んで救い出されることを望むに至る時にのみ、あなたは本当に成長し、成熟する立場にあるのだ。霊的成熟度は、ただ年月や時間の問題が関係するだけでなく、それはしばしば役に立つものの、あなたの主との結びつき、あなたの従順や謙遜さも大いに関係しているのである。

  42.しかしプライドは、私たち全員が本当に持っている問題なのである。それは、私達の主要な誘惑の一つである。私達全員がその誘惑を持っている! サタンを堕落させた原因は、何であったか?−−プライドである! プライドは、サタンを堕落させたので、それは、全ての悪の根源のようである! プライドは、全ての悪の始まりであった!

  43.事実、ほぼ全ての罪の根源はプライドである! そしてプライドは本当にあなたの邪魔をし、あなたを妨げ、あなたが成長しないようにする。神があなたに教えたいと望んでおられることを学ばないようにし、主が望んでおられる者にあなたがならないようにするのである。

  44.主は富んでいる者を、即ち自分が物事をわきまえていて、自分自身の事をとても正しい人間だと考え、自分自身の考えで一杯になっている者達を帰らされると言われる。(ルカ1:53) 高ぶっていて、自己満足している者が決して霊的に成長しないように思われる一つの理由は、例え御言葉を読んでもそれがアヒルの背に水が落ちる時のように、ただ転がり落ちてしまう! 彼らは、絶縁、あるいは防水状態になっているので、御言葉の水は、もはや染み込む事ができないのである!

  45.彼らは、すでに自己正義のニスに厚く覆われ、御言葉に対して防水状態になっている!−−独善と、ひとりよがりの従順と、見せかけの奉仕と犠牲という、うすい塗装がされているのである!−−すっかり絶縁され、防水されているので、御言葉はもはや染み込むことさえないのだ! 彼らはまた、聖霊の電気ショックに対してとてもよく絶縁されているので、もはやそれを感じる事もない!−−盲目であるために、自分のひどい霊的状態を見ることも、それに気づくこともできない! そして、もし彼らが自分自身を低くして、心から主に委ねないなら、彼らの心はすぐにとても堅くなり、知力はすっかり暗くなり、神の命から遠く離れて、無感覚になってしまうのである!(エペソ4:18,19)

  46.私達は前に、落胆は悪魔のお気に入りの武器であると言ったが、本当に落胆の背後にあるのは、大抵私達のプライドであり、悪魔は、私達を落胆させるために、そのプライドを使うのである。だからプライドは本当に悪魔のお気に入りの武器である! 彼はいつもそういった事を使って、私達を高ぶらせ、自惚れさせようと誘惑するのである。

  47.しかし私たちがその誘惑を受けても、それは私たちの誤りではない。敵がそれをしているからである。敵は、私たち全員に対してそのように誘惑するからである。けれども、敵が私たちに対してその戦法を試すたびに、私たちが彼の声に耳を傾けて、それに従い、いろいろな事に対する功績と栄光を自分のものにして、彼を攻撃したり、反撃しない時は、私たちの誤りである! だからどんな事でも、私たちがする事で、私たちを高ぶらせ、功績を自分のものにさせようと、敵が誘惑する時、私たちは本当に戦わなくてはならないのである!−−必要な限り、懸命に戦い、本当に敵を叱り、こう言ってやりなさい。「サタンよ、後ろに下がれ!−−それは私ではない、ただ主だけだ! 私は、これに対する手柄を自分のものとはしない。私はただ、イエスに栄光を与えるだけだ! 私がしているからこうだ、というわけではないんだ。誰か他の人も、同じくらい上手にできただろう! それはすべて、主のされた事なのだ!」 彼に反撃し、聖句を引用し、真に攻撃に出なさい!

  48.だが、自分でよくやった、と思い始めるその瞬間から注意しなさい。神は、あなたをそれから抜け出させるために、必ずあなたが謙遜にされることを見届けられるだろう! だから、一瞬たりとも、あなたのした一つの小さな事でも自分自身に手柄を与えてはいけない。それは、あなたが持っている最大の危険の一つである。つまり、自分がしたと考えることが。−−それは、神の塗油である。そして、もし神が、それを取り去られるなら、あなたは以前そうだったようにパワーの抜けた者となるのである!

  49.神だけが、功績を得ることを望まれる方である! 神こそ、栄光を得る事を望まれる方である。そして、神が、それをすることのできる唯一の方である! それから神は、神がそれをなされたがゆえに、あなたが神を賛美し、神に感謝し、神に栄光を帰することを望まれるのである。なぜなら、もしあなたにそれをすることができたなら、あなたは、自分がよくやったと思ってこう言うであろう。

  50.「ほら、私がしたことを見てごらんよ! 私がどれだけ偉大かを見て! 私が、どれだけ素晴しくやっているか、見てみなさい!」あなたがそのように話す時には、気をつけなさい。あなたは、トラブルを抱える運命にあるのだ! 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい!」(1コリント10:12)あなたは、いつもこう言った方がいいだろう。「わあ、神がして下さったことを見てごらんよ! 主が、今しておられることを見て! 主がどれほど素晴しく働いておられるかを見てみなさい!」

  51.あなたが、自分の持っている大きな才能や容姿や、何でも自分がとても優れていると思っている事をただ見せびらかしたいなら、それは、私たちの中の誰にとっても、そのような態度や動機を持つことは非常に誤っている!−−愛と関心を手に入れるために、何か素晴しいことをしたいとか、人を引きつけるような魅力的な人になりたいと思うことは、つまりただ主に栄光を与える代わりに、自分自身に栄光を与えたいと望むことは、あの自己正義の「肉のわざ」の一部である!

  52.だからお願いだから、神なしでは自分がどれだけ望みのない人間であるかを、絶えず、自分自身と他の人に告白しなさい! あなたに関して何か良い事があるなら、すべての栄光を神に与えなさい。また何か悪い事は、すべてあなた自身のせいにしなさい! 大抵の場合、その通りなので、普通それはかなり良いルールである!−−「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか?」(1コリント4:7)「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から下って来る」(ヤコブ1:17) だから、すべての栄光を神に与えなさい!

 

過敏さ!

 

  53.プライドのもう一つの徴候は、私たちがあまりにも過敏である時だ。私たちは、素早く鋭い口調で言い返したり、傷つけられたと感じるのである。そのような過敏さは、確かにプライドから生まれたものであり、プライドは敵からのものである! だから私たちは皆、この悪しき者のたくらみから救い出されるように、主に求めるべきである! これは、とても多くの人々にとって、非常に強い誘惑である。

  54.ある人々は、実際に過敏であることを誇っているのであり、過敏であることは良いことだと考えている! しかし非常に過敏で、非常に容易に傷ついてしまうことによって、彼らが本当に、ただどれだけプライドが高いかがわかる。−−それは、主と主の御霊に対して過敏であるのではなくて、自分自身に対して過敏なのである! 私たちは皆、時々そのように感じる傾向があるが、私たちは、その事に注意すべきであり、本当に傷つかないくらいとても多くの愛と謙遜を持とうとすべきである。なぜなら、プライドだけが傷つくからである!−−謙遜は、あまり何も感じないのである。本当にそれを感じ、本当に傷ついてしまうのは、プライドと高ぶった霊なのである。

  55.それと同じような事なのだが、人々が簡単に気を害してしまう時、たいてい彼らがあまり強くなく、かなり霊的ではないという事がわかる。しばしば気を害して他の人に腹を立てる時、彼らは独善的になり、自分が正しく、相手が間違っているか、相手が自分に対して不公平か不正な態度を取っていると思うのである。そしてそれは、彼らのプライドを養うのだ。しかしこのファミリーで、誰かが他の人から提案を受ける事にも耐えられず、ましてや訂正を受けるなど到底できないほど非常に高ぶり、うぬぼれが強くなる時、その人はかなり悪い状態にある!

  56.人々がそのような状態になる時、それは、ただ彼らが主にしがみついていないという事を示している!−−そして何でも、誰でも、どんな事でも、彼らを気落ちさせてしまうのである! 事実、ほとんど何でもないことでさえだめなのだ!−−全く、ほんのわずかの小さな刺激でも、ほんのわずかの小さな誇張でも、ほんのわずかの小さな当てこすりでも、ほんのわずかの小さな意見でも、彼らには十分なのだ! 彼らの皮はとても薄くて、それに耐えられないのだ。−−彼らの表面加工は、とても薄くて、とても簡単に傷がついてしまう。−−そして彼らの持っている、その素敵なクリスチャンの光沢は、うわべだけしかないことがわかるのである! ただ一回、ほんの少しひっかくだけで、すべての人がその下にあるひどい様を見ることができるのである!−−あるいは、彼らの霊的バランスはとてもデリケートで、誰も彼らに触れることなどとてもできないのである。もしそうするなら、バランスを崩して、どちらかの方に倒れ、つぶれてしまうのである!

  57.ある人々は、全くデリケートで、どんなことにも耐えられない! ほんの少しの圧力にも耐えられない! 彼らは、しっかりと主につかまっていないので、つぶれてしまうのである。彼らは、御言葉の上に立っていない。神の約束を信じていないのである!−−彼らは、彼ら自身のいまいましい自己正義、自分が持っていると考えている腐敗した偉大さに頼っているのである! そして言わせてもらうが、そのような聖人ぶった偽善は、悪魔のショック療法にはひとたまりもない! それは、とても簡単に、粉々に砕けてしまう! その時、すべての人が、その中にあるすべてのひどい様を見てしまうのである。それは、彼らが、本当にしっかりと主につかまっていなかったからであり、自分の目を天に留めておかなかったからである!

  58.時々そのようなプライドは、自分が、自分の罪や間違いを許すのをより困難にさえする。神は許してくれるとわかっていても! あなたが、自分の犯した間違いのことでひどく悪く感じるなら、時々それはプライドである! しかし、主が、あなたのプライドに働きかけたいと思っておられる場合には、あなたが倒れたり、いつも成功するとは限らないのは良いことである。なぜならその時、あなたは、どんな事でも主にだけできるのであり、実際にあなたが成功する時には、自分ではなく、主だけだということに気づ付くからである! 時々主は、主こそ成功することのできる唯一の方であることを示すために、あなたが失敗するのを許されなくてはならないことがある!

 

「その石の上に落ちる者は、打ち砕かれる!」

(マタイ21:44)

 

  59.それは、すべて主でなくてはならない。そして主は、それをしたいのである。それに対する功績と栄光を得たいのである。そして、どんな面でも、あなたがそのことのゆえに幾らかの手柄を得られると少しでも考え、それをどのようにしたか、どのようにやり遂げたか、またどれだけ信仰をもっていたかとか、そういった事に関して自慢することができると考えるなら、主は、あなたをノックダウンして、誰がボスであるかを示し、あなたに主だけを見るようにさせられるだろう。

  60.あなたが自惚れたり、のぼせあがったり、自信を持ちすぎたり、誤った安心感をあまりにも持ったりしないように、主はあなたの行動を制御し、抑える方法を知っておられる! 主は、あなたが的をはずさないように、あなたの行動を制御し、あなたを正常な状態に保ち、規制通りに従わせる方法を本当に知っておられるのである! そしてしばしば、もし私たちがかなり高ぶっていて、かなり自己正義で、かなり信心ぶりすぎているなら、主は、私たちをそれから抜け出させるために、私たちが必要としているぴったりのものを私たちに与えられる。つまり真の砕きや、真に謙遜にさせる経験である!

  61.神は、御自分が望んでおられることを、私たちにさせたり、私たちを御自分が望んでおられる者にするために、時々、自分はこういう者だと考えていることや、自分はこうなるべきだと考えているイメージや、自分はこうあるべきだ、こうするべきだと考えている考え方を壊されなければならない。ハレルヤ! (異言と預言)「陶器師の手の中で壊され、砕かれたあの器を、彼は柔らかくし、再びそれを使って造り始められた。そしてその創造主は、それをさらに優れた器に造られた!」 イエスよ、感謝します! 主をほめたたえよ! ハレルヤ!

  62.陶器師が、しばしばそれをする事を知っていたか?−−彼らが粘土を使って働いている時、彼らが器を造り上げた時、あるいは半分ぐらいまで終わった時でさえ、欠点を見つけるか、間違いか、固まりか、傷のあるところを見つけるなら、彼らは、その同じ粘土を手に取ってつぶし、再び水を加え、再びそれを柔らかにし、再びこねて、もう一度造り直すのである−−再び、柔らかい粘土になるまでそれをつぶし、砕き、にぎりつぶす−−それから彼らは、それを新しい器やより良い器に造り直すのである。もし、初めの器があまりうまくできていないなら。(エレミヤ18:4)

  63.神は一見敗北のように見えるものの中から、御自分の最大の勝利の幾つかを得られる。−−砕かれた心や、謙遜さや、また主に対するより完全な依存という勝利である。そしてあなたが他の人を導き、霊感するつもりであるなら、その全てが必要なのだ! 私の母はある時、偉大な福音伝道者ポール・レーダーにこう尋ねたことがある。「どうして働き人はいつもとても少ないのでしょうか?」すると彼は、賢く答えた。「多分神は、彼らを十分早く砕く事ができないのでしょう!」 何と真実なことか!

  64.神は、心の砕けた男女だけを使われる。−−それ以外の人は使われない! 他の人々は、彼ら自身の肉において自信を持ちすぎている!神は、彼らをより良い器にするために、彼らを砕き、溶かし、陶器師の手の中で形造らなくてはならない。しかし主はそれを強制されない! その砕きはあなたと、服従でも何でも喜んで行なうあなたの自発性、つまり完全な愛と同義語である、完全な謙遜とに依存している。−−そうすれば、あなたが喜んで、いつでも、何処へでも行き、誰のためでも何でも行い、名もない者となって、主を喜ばせ、他の人を助けるようになるからである!

  65.それが主である事をあなたが知り、全ての栄光と全ての功績を主に与え、あなたを自惚れさせたり、高ぶらせたりしないように、本当にあなたを謙遜にし、砕くまでは、主は、大きな重要な仕事や、素晴しい重要なテスティモニーや、あるいは大きな重要な責任、つまりあなたをプライドの内に本当に高ぶらせるかもしれないような何かを、あなたに任せる事はおできにならないようだ! だからこそ、新約聖書には、新しい信者に大きな責任ある地位や指導者の地位を与えてはいけないと書いてあるのだ。新しい信者がプライドの内に高ぶって、主による、悪魔の審判 (裁きまたは処置) を受けないためである。(1テモテ3:6) 言い替えると、もしあなたが、悪魔を堕落させた、あの同じひどいプライドの罪の内にすっかり高ぶってしまうなら、気をつけなさいという事だ! あなたは、悪魔が受けたのと同じ裁きを受け、あなたも倒れるであろう。主は、あなたが愚か者になり、へまをするのを許されるであろう。そしてあなたは、ばったりとうつ伏せに倒れ、謙遜にされ、恥をかかせられるであろう! 

  66.神が、あなたの霊を砕く事ができない限り、あなたは主にとって真に有用な者となる事は決してないのである! もしあなたに、高ぶった傲慢な霊、利己的な霊、服従しておらず、頑固で、放棄しようとしない霊があるなら、あなたは主によって大いに使われることが決してないであろう! そして、あなた自身が大へまをいくつかやらかし、ひどい間違いをしてしまい、いくつかの罪を犯し、しくじらない限り、本当に優れたリーダー、賢い謙遜なリーダーになることさえできないと私は思う! 一つの理由は、あなたは、決して十分に謙遜になることはないからである!

  67.だから、あなたが間違いを犯すのは良い事である。それは、あなたを謙遜に保ってくれる! 私は多くの間違いをする! もし間違いを犯さなかったなら、私はおそらく本当に高ぶっていただろうし、自分のことを完全に聖別された人間であって、罪を犯すことなどないと考えたであろう! 私はおそらく、本当に自分の聖人ぶった清さを誇るようになっていたであろう! しかし主は、私を謙遜に保つために、世界で最大の間違いを犯す者の一人にされたように思われる! 

  68.主は、おそらくあなたが、自分自身のことをあまりにも高く評価して、自分が全てのことを知っていると考えないように、時々あなたが失敗することを望まれるのであろう。時々失敗する事は、本当にあなたを謙遜にし、あなたをもっと主に頼らせ続けるのである。時々主は、あなたを謙遜な霊に保っておくために、あなたが失敗し、間違いを犯すのを許されなくてはならないのだ! アァメン?

  69.だからあなたは、自分の失敗を肯定的なものと見なし、肯定的な観点から見る事さえできる。−−主があなたを踏み付けようとしておられ、敵があなたをこてんぱんにやっつけるのを許しておられるというふうに取るのではなく、主がこれらの事を起こるのを許して、あなたにこれらの重要なレッスンを教えることによって、実際にあなたに誉れを与えておられると取るべきである! あなたは、その事の故に本当に主に感謝しているべきである! あなたは気まずく感じるかもしれないが、主に感謝すべきである。なぜなら、あなたが成長するのを助けるこれらのレッスンを学ぶことができるのは、素晴しい事だからである! 時々、倒れることさえ祝福だ。なぜなら、しばしば私たちは、敗北と見えるものから最大の勝利を収めるからだ。

 70.神が対処され、私も含めて、人々を謙遜にされるのはとても素晴しいことである。なぜなら私は、名もない者であり、イエスはそのことを知っておられる。あなたは、神があなたを砕かれ、謙遜にされ、自分が無であると悟るまでは決して成功しないのである!

 71.神は、憐れみの内に私たちを砕かれる。−−そして私たちを砕かれることにおいて、憐れみをもたれる。アァメン、主をほめたたえよ! 主よ、私たち全員を助けて下さい!−−それは、あなたの仕事に少しでも役立つ者たちにとって事実です。あなたは私たちに、多くの謙遜にする経験や柔軟にされること、低くされ、造り直され、変えられ、また、より良い器に造り替えられるといった体験をさせられました。つまり、かつての私たちよりも良い者に、自分でこうだと思っていたよりも良い者に、そして、あなたの王国にとってはるかに有用な者に造り替えるために! イエスよ感謝します、イエスの御名によって、アァメン。

 

「つぶやいてはならない!」

(1コリント10:10)

 

  72.私達を砕き、謙遜にするような事を神が行なわれる多くの時、それは真のテストである。しかし残念ながら、しばしばそれはつぶやきに終わっている。そして人々は、そのことで神に恨みをもつのである! 自分の悩みや病気や何であれ、神が許された事から、神が自分に学んでほしい教訓を本当に学ぶ代わりに、「主よ、どうして私は、これを受けるのに値したのでしょうか? どうして私には、これが必要だったのでしょうか?」と聞く代わりに、彼らはこう聞くのである、「神よ、どうしてあなたは私にこんな事をされたのですか?」 彼らは、神が自分を対処しておられることに気づく代わりに、神がそれを許されたことでほとんど神に腹を立てるくらいである。私はただ、自分がその全てを一つ残らず受けるのに値し、またそれよりもはるかに多くのものを受けるのに値し、おそらく自分は軽い罰で許してもらってきたと考えるのである。 

  73.しかしある人々は、かなり独善的にこう思うのである。「一体神は、どうして私にこんな事ができるのか? 私が、神に対してこんなにも良く尽くしているのに、どうして神は私をこんなふうに扱うのか?」 実際にその事で憤慨するのである。ヨブが最初にそうしたように。彼がとうとう謙遜にされ、自分が神よりも正しくない事を告白するまで、主が何という経験を彼に通らせなければならなかったかを見てみなさい!

  74.自己正義の者は、自分自身のせいにする代わりに、あるいは神が許されたのがどんな理由であるにせよ、それを受け入れる代わりに、その全てをいつも神のせいにするのである。マイアミの私達の学校には、何かの皮膚の災いをもっていた女の子がいたのを私は覚えている。彼女はいつも、「なぜ? なぜなの? なぜ神は私にこんな事をされたの? どうして私をこんなふうに苦しめるの? あなた達の学校に来て、あなた達の仲間に入ったら、神は癒して下さると思ったのに、私はまだ苦しんでいるわ! 神はまだ私を癒して下さらないわ! どうしてなの?」 さて、人がそのような霊で神に尋ね始める時、それは純然たる自己正義である!

  75.人が、そのような自己正義の態度を持つ時、彼らはこう言っているも同然だ、「さて神よ、もし私があなただったら、あなたがしているよりももっとうまくするでしょう! 私の方がもっと正しい事をしていたでしょう! 私だったら、私を癒していたでしょう!」全く、あの最近の流行歌と同じである:「もし私が王だったら!」という言葉で始まり、もし私が王だったら、これら全ての悪い事が世界で起こるのを許さなかっただろうという歌詞が続くのだ! つまりこう言っているのだ。「私は神よりも正しい! 神よりも良い! 神よりも善意がある。神は善良ではない。善良であったら、これら全ての事が起こるのを許されなかったであろう!」

  76.それが、多くのクリスチャンの言うことだ。彼らはこう言う。「主よ、私は試みました。良くなろうと試みたのです! クリスチャンになろうと試みたのです、主よ。あなたに仕えようと試みたのです、主よ。私は、宣教の畑へと行くことさえしました。そこに到着さえしたのです。けれどもあなたが私を助けて下さらなかったので、私はやり遂げることができませんでした。あなたは、私を最後まで助けてくれませんでした。祈りに答えてくれませんでした!−−それは全てあなたの責任です!」

  77.ユダヤ人はそれの専門家である! 「どうして私なのですか、神よ? 私がこんなに善良で、こんなに正しい人間で、毎週金曜日の晩には会堂に行き、どんな小さなモーセの律法にも従ているのに、どうして私はこんなに苦しまなければならないのですか?」 自己正義にかけては、全く彼らの右に出る者はいない! そして、ちょっと考えてみなさい。彼らは2千年間もそのように抵抗し、なお信じる事を拒んでいるのである!

  78.自分が神よりもほんの少し正しく、神がこれやあれを自分にすべきではなかったとほんの少しでも考えることさえ、罪の中でも最悪なものである! それが何か知っているか? それは、まさにつぶやきの種や根っこそのものなのだ! わかるかね? あなたがつぶやく時、不平を言う時、何かのことでぶつぶつ言う時、あなたは、自分が神や他の人よりも正しいと言っているのだ!−−そして、もし自分がボスだったら、自分にそんな事をさせなかっただろうし、もっとうまくそれをしたであろうし、こんな事やあんな事をしなかっただろうと言っているのだ!

  79.いつもあなたに、あなたの全ての問題を他の全ての人のせいにさせようとするのは、悪魔自身の戦法である! 「どうして私ですか、主よ? 私はしませんでした。彼らが私にしたのです! 私の責任ではなかったのです。彼の責任です。彼女の責任です! 彼らこそ、責められるべき人です。彼らこそ、私をこのような気持ちにさせた人です!」 多くの人々の問題は、彼らが自分の抱える全てのトラブルを、誰か他の人のせいにすることである!−−「それは、私が一緒に住まなければならないあの人のせいなのです。私が一緒に寝なければならない、あのひどい人のせいなのです。私が、その下で働かなければならないあのリーダーのせいなのです。」−−あるいは、これやあれのせいにするのである!

  80.多くの人々は、自分の両親や、自分と共に働く人や、自分のボスに対して自己正義的な態度を取る! 彼らはこう言うのである、「もし私に任せられていたなら、私はそんなふうにしなかっただろう!」 ジェスロは、よくそんな態度を取った。彼は、こう言ったものである。「ダッドのことを知ってるだろう!−−私だったらそのようにはしなかっただろう。でも、それがダッドなのさ!」 それが、アブサロムのしたことである。彼は、すべての人にこう言った、「あなたたちは、私の父、王座に座る私の父、ダビデ王から全く公平な扱いを受けていない。私のところに来なさい! 私がそれを正してあげよう。なぜなら私は、ダビデ王よりも正しいからだ! 私はアブサロム、あなたの友達だ! 不当行為の矯正なら、私のところに来なさい! 満足を求めるなら、私のところに来なさい! 私のところに来て、自分の言い分を述べなさい。そうすれば、あなたの有利なように私が取り計らってあげよう!」−−そして彼は、人にへつらうプライドによって国民の心を勝ち取った! (サムエル記下15:2-6)

   81.だが、言わせてもらうが、もしあなたが神と戦い、口論するなら、誰が正しく、誰が誤っているかは、一目瞭然である! 私には、神に対するそれだけの信仰はある。たとえ、神が私にされた事や、私の身に起こるのを許された事や、他の人の身に起こるのを許された事を、私がいつも理解したとは限らなくても。−−私は、それらを理解できなかったし、この日に至るまでなお理解できなでいる。−−だが一つはっきりわかっている事は、神こそ正しかったお方だということだ!

  82.神は、そのようなつぶやきを憎まれる。そして神は、ユダヤ人がつぶやいて、また神よりも自分たちの方が正しいという振りをする事の故に、5百万か、6百万人ほどからなるユダヤ人の一世代全部をシナイ砂漠で一掃された! 「神よ、私達が神だったら、こんな事をしなかったでしょうに!神よ、あなたはどうして私たちにこんな事をされたのですか?神よ、私たちだったら、あなたよりも善をなしていた事でしょう! 私たちは、あなたよりも善良なのです!」−−そして神は、彼らのこの独善的な態度からだけでも、彼らの邪悪な汚れた悪意のある心がどれだけ悪く、どれだけ堕落していて、欠陥があり、不正であるか知っておられたので、彼らに対して激怒しておられたのである! 彼らが、他の全ての戒めや、テントや幕屋や全ての崇拝に関する全ての形式ばった手順や全てのモーセの律法を守っていたとしても関係なかった!

  83.彼らが、神よりも正しいと考え、神がこれやあれをして下さらなかったがゆえに、神に恨みを抱くか、「神は私をいやして下さらない。だから私はそのことのゆえに、今、神を恨む」と言うなら、その態度そのものが、あなたを殺し得るのである! 神は、他のほとんどどんなものよりも、その態度を憎まれる! それは、純然たる自己正義であり、神が正しくないと言って、神を非難しているのである! 「人は、神よりも正しくあり得ようか?」−−いや、絶対にあり得ない! 神が、どんな事をされようとも、それは人間にできるどんな事よりも正しいのである!−−そして人がどんな事をしようとも、絶対に神ほど正しくある事はできない!

  84.だから主よ、私達がつぶやいた事を許して下さい。そして私達が、決してあなたや、またあなたの物事のやり方を非難しないように助けて下さい。そして、自分があなたより正しいと考えないようにして下さい! 主よ、つぶやく事は全くひどい罪です。それは、本当はあなたが物事を誤ってしておられると不平を言う事であり、自分の方がもっとうまくできると考え、あなたよりも正しいと考える事です。そして主よ、それは自己正義であり、ひどい罪です! 主よ、どうか私達全員を許して下さい。そしてイエスの御名によって、私達があなたを信頼するのを助けて下さい。これら全ての事について、あなたは最善を知っておられます。そしてあなたは、あなたの御心をなされ、最後には結局すべての事が、あなたを愛する私達全員のために最善となるのです。イエスの御名によって。

 

ヨブ!−−自己正義の教訓!

 

  85.多くの人は、ヨブの忍耐のことを語るが、私がヨブから得る主要な教訓は−−そしてそれは、彼の助言者によって指摘されているのであり、彼らの言ったことは本当に正しかった。−−その教訓とは、ヨブが自分自身の義を主張し続けた事であった!「主よ、どうしてあなたは、私にこんな事をされたのですか? 私は、何一つ悪い事をしていません。」などと言ったのである。

  86.結局は、ヨブは、すべての罪の内で最悪の罪を犯していたという事がわかったのである! しかし初めは、彼は本当に自分がとても良い人間だと思ったのである。そして実際に彼は、とても善良な人であった。主でさえ、悪魔にこう言われた、「この人ほど良い人を見た事があるか?見よ、我が僕ヨブを!」 悪魔は言った、「そうですかね、それじゃあ、私にちょっと圧力をかけさせて下さい。そしてどうなるか見てみようじゃありませんか!」(ヨブ1:8-12)

  87.悪魔は、検察官のようであり、実際にはヨブがそれほど正しい人ではないということを神に見せようとしていたのだ。もし、悪魔が、十分な圧力を加えるなら、彼が参ってしまうことを神に示そうとしていたのだ。そして、ある面では、彼は参ってしまったのだ! ある意味では、信じようが信じまいが、悪魔は本当に正しかった。なぜなら、悪魔は、ヨブの義がかなり自己正義であることを示したからである。というのも、本当に苦しんでいた時、彼はそのすべてを神のせいにしたからだ!

  88.彼は、その苦しみが好きではなかった。その事で不平を言い、つぶやいたのである。彼は、苦しみたくなかった。そして神に向かってさえ、不平を言ったのである、「主よ、どうしてですか? なぜあなたは、私をこのように苦しませられるのですか?」 主は、本当に彼にその苦しみを通らせられたのである。彼の家族や友人の軽蔑や、彼自身の妻のあざけりを受け、彼の健康を含めたすべてのものを失ったのである。そしてとうとう、彼は、灰の山の上に座って、砕けた陶器のかけらで自分のできものをかいていたのである!

  89.主が、ヨブの弱点を知っておられたがゆえに−−また悪魔もそれを知っていたのだが−−主は、ヨブが最も攻撃を受けやすいところに、悪魔が攻撃をかけるのを許されたのである。そしてそのところとは、彼自身のプライドと自己正義であった! 彼は、自分がとても完璧だと思っていたのである! 「なぜ、私がこのような仕打ちを受けるのですか? 私がどれだけ完璧な人間であるかを見て下さい!」 そしてまさにそれが理由で、神は、全く彼の予想に反した意外な事を行なわれ、悪魔が、彼にあらゆる種類の事を行うのを許されたのである。それはただ彼が、他の全ての人と変わらず、全く同じくらいの罪人であり、もしかしたら他の人以上の罪人であるということを示すためだったのである。なぜなら彼は、神の義の内に正しいのではなく、忌ま忌ましいほどの自己正義だったからである!

  90.ヨブは、自己正義の罪人、宗教臭い罪人、信心深い様子をした、聖人ぶった自己正義の偽善者の申し分のない手本である。人々はいつも彼の忍耐のことで彼をほめているし、「でも、どうして神は、そのような良い人にそのすべてのことをされたのか?」と、不思議に思うのである。自分だったら、悪魔が彼にそのようなことをするのを許さなかったであろうと! ヨブがそんなにも良い人なのに、どうして主は悪魔にそのすべてのことをヨブにされたのだろうかと思っていた多くの人に、私は教会の中で出会った!

  91.さて主が、彼にそれが起こるのを許されたのは、彼が非常に悪い人だったからだ。そして彼が、良い人である振りをしていただけだからである! もしその話を全部読むなら、その教訓は、非常にはっきりとしている。それは、きわめてはっきりとしているのだ。そして彼のいわゆる慰め人たち−−教会や牧師は、公然と彼らのことを非難するのであるが−−彼らの非難や、彼について彼らが言ったことは正しかったのである! だが彼は、そのことで議論し、彼らが告げていた真実に抵抗していたのである。彼は、それを受け入れようとしなかったのだ! それを信じようとはしなかった! 彼は、プライドが高すぎて、自己正義であって、それを告白したくなかったのである!

  92.だから、例えヨブが完璧な人間であるように見え、また自分で自分のことを一度も罪を犯したことのない人間だと考え、完全に義人で、完璧な人間だと考えても、彼の大きな罪は、自分が完璧だと思ったことであり、また自分が完璧な人間だと断言したことである! 彼は、神と自分の助言者たちに向かって、自分が完璧な人間であると抗議した。「主よ、何故あなたは、私にこんなことをされたのですか? 私は完全です。何一つ間違ったことはしていません! 何故あなたは、こんな事をされたのですか?」と。

  93.ヨブは、自分自身の良い業を自慢してこう言った、「私は、助けを求める貧しい者を救い、またみなしご及び助ける人のない者を救ったからである。今にも滅びようとした者の祝福が私に来た。私はまた、やもめの心をして喜び歌わせた。私は正義を着、正義は私をおおった。私の公義は上着のごとく、また冠のようであった。私はめしいの目となり、足なえの足となり、貧しい者の父となり、知らない人の訴えの理由を調べてやった。」(ヨブ29:12-16)

  94.忍耐の典型であるヨブ、偉大な忍耐の手本、義人、善人の手本として、教会と世の中の両方から引き合いに出されるヨブは、実際には、世界最悪の手本であり、教会最悪の手本であり、神がかつて世界に与えられた自己正義の人の中で最大の手本だったのである! 彼は、神の目から見れば、実際には邪悪で、堕落していて、汚れていて、不正で、不従順な罪人だったのである。自分が義人であるとさえ考え、完璧であるとさえ考えたからである! とうとう、彼を訴える者の一人が、図星をさした。「人は、神の前に正しくあり得ようか!」と。(ヨブ4:17,9:2)

  95.神に反対するヨブのすべての言い分を聞いた後、ヨブの友人たちは、「このようにヨブが、彼自身の目から自分が正しいことを主張したので、これら3人の者はヨブに答えるのをやめた。その時、エリフは、怒りを起こした。すなわちヨブが、神よりも自分の正しい事を主張するので、彼は、ヨブに向かって怒りを起こした!」とある。(ヨブ32:1,2)

  96.エリフはその時、彼に思いっきりぶっつけて、正当にこう言った、「確かに、あなたは私の聞くところで言った、私はあなたの言葉の声を聞いた。あなたは言う、『私はいさぎよく、とがはない。私は清く、不義はない。見よ、彼は、私を攻める口実を見つけ、私を自分の敵とみなし、私の足をかせにはめ、私の全ての行いに目をとめられる』と。見よ、あなたは、この事において正しくない。神は、人よりも大いなる者だ。あなたは、何故彼に向かって言い争うのか。言い開きをするのは神の務めではない。」(ヨブ33:8-13)

  97.「ヨブは言った、『私は正しい、神は私の公義を奪われた。』それであなたがた理解ある人々よ、私に聞け。神は、断じて悪を行う事なく、全能者は断じて不義を行うことはない。神は、人々のわざに従ってその身に報い、おのおのの道に従って、その身に降りかからせられる。まことに神は、悪しき事を行なわれない。全能者は、裁きを曲げられない!」(ヨブ34:5,10-12)

  98.「王たる者に向かって、『よこしまな者』と言い、つかさたる者に向かって、『悪しき者』と言うことができるであろうか。神は、君たる者をもかたより見られる事なく、富める者を貧しき者にまさって顧みられることはない。彼らは皆、御手の業だからである。」(ヨブ34:18,19)

  99.「確かに、神に向かってこう言うのはふさわしい。『私は懲らしめを受け入れました。もはや罪を犯しません。私の見ないものを教えて下さい。私が不義を行ったならもはやしません。』 エリフは言葉を続け、ヨブに言った、「あなたは、『私の義は神にまさる』と言うのは、正しいと思うのか?」

  100.それからとうとう神が、彼にぶっつけられたのだ!−−「主はまたヨブに答えて言われた、『全能者と争う者が、全能者に教えようとするのか、神と論ずる者はこれに答えよ。』 そこでヨブは、主に答えて言った、『見よ、私はまことに卑しい者です。何とあなたに答えましょうか。ただ、手を口に当てるのみです!』」(ヨブ40:1-4)

  101.ヨブは、自分自身の義を信じ、それに非常に頼っていたのである。しかし自分自身の義は、何の役にも立たず、主に信頼しなければならないという事をとうとう悟ったのである! その時まで、彼が自分自身をかなり信頼していた事は非常に明白である。なぜなら彼は、とても善良であり、とても正しく、

とても律法を尊重し、すべてのおきてに従い、神の前に正しい人間であると思っていたからである。しかしとうとう彼は、一番最後に屈して、神だけが本当に正しいお方であり、彼自身の内には何の義もないことを、告白したのである!

  102.というわけで、ヨブは、単に忍耐における大きな教訓であるということに反して−−いや、結局は忍耐を持つには信仰を要するということを示す教訓が、実際にはあったのだが−−それよりも自己正義に対する大きな教訓であったのである!

  103.親愛なるヨブは、とうとう要点を得て、自分の罪が自己正義だということに気づいたのである! 彼の罪は自己の完璧さであった。彼の罪は、自分には何の罪もないと思ったことである。だからなぜ神がこの全てのことを自分にしておられるのか、理解できなかったのだ。そして彼がとうとう自分は義人ではなく、卑しい人間であり、主だけが良いと告白した時、いやされ、救い出されたのである。TTL!

 

「私が好むのは、憐れみであって、いけにえではない!」

(マタイ12:7)

 

  104.「それからイエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちが来て、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか。』 イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。』 わたしが好むのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か学んできなさい。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:10-13)

  105.イエスは、「わたしが好むのは憐れみであって、いけにえではない。」(ホセア6:6)と神が言われたのはどういう意味か、戻って行って学んで来なさいと言われた。言い替えると、彼が本当に言っておられた事は、「わたしはあなたたちが犠牲的で、義務的な律法を守る行為、すなわち燔祭や義務を行うよりも、愛を持つのを見たいのだ−−ただそんなにも自己正義であるよりも、あなた達が他の人を愛するのを見たいのだ!」

  106.私たちは皆、これを私達自身に適用する必要があると思う。私たち全員が、それがどういう意味なのか、学ぶ必要がある! 私たち全員が、自分自身もまた多くの罪を許してもらわなければならない事を知って、私たちが他の人に憐れみを持つのを主が助けて下さるように、全くの謙遜さをもって、主に求める必要がある! 私たちが何という罪人であるか、またどれだけ多くの間違いを犯したかを、絶えず覚えておくことは、私たちを謙遜に保ち、批判的になったり、他の人を非難させたりするあの自己正義のプライドの霊を避けるのに、大いに役に立つ。

  107.自分も含めて、誰も完璧ではないことを覚えておくなら、あなたは自分が他の人が自分にそうしてほしいと望むとおり、他の人が彼らにできる最善を尽くすのを助けるであろう! 私たち全員が罪人であり、私たち全員が間違いを犯し、「神がキリストの故に私たちを許して下さったように、私たちもお互いに許し合う」(エペソ4:32)ことをしなければならないと、いつでも覚えておくことは助けになる。

  108.私たちが他の人に対して、忍耐をもてるただ一つの方法は、自分自身が何という望みのない人間であるかを知ることである! あなた自身、どれだけ多くの憐れみを必要としているかに気づくなら、あなたは他の人に対してはるかにもっと憐れみ深くなるであろう! 言っておくが、あなたに多くの許しと多くの憐れみを必要とする時、それは確かに、あなたがそれを他の人にまで広げるのに、役に立つであろう!

  109.イエスは、こう祈るように、私たちに教えられた。「わたしたちに負債のある者を許しましたように、わたしたちの負債をもお許し下さい!」 (マタイ6:12-15)  もし私たちが、他の人を許すようにしか、私たちも許されず、私たちが他の人に示す憐れみしか、私たちに憐れみが示されないなら、ある人々はかなり苦しい立場に立つであろう。特に教会や自己正義の教会的クリスチャンである。彼らは、私がかつて会ったうちで最も人を許さない人々であるも同然だからだ! 取税人や罪人や酔っ払いや売春婦の方がもっと理解があり、もっと人を許す者である。なぜなら彼らは、自分たちがそんな人間であり、どうしようもないことを知っているからだ。そして、もっと憐れみ深くあり、自分たち自身、許されたいと望むので、もっと他の人を許すのである!

  110.しかしある人々は、いまいましいほどひどく自己正義的で、間違いなど絶対に犯さないと考えるのだ! 彼らはいつも正しいのだから、どうして許される必要があるのか? また、どうして他の人々を許さなくてはならないのか? しかし許すことができないなら、真の愛や真の謙遜など、とても持つことはできないのだ! そういう人々には、憐れみがない。なぜなら、愛とは許しと憐れみだからである!

  111.あなたは、どちらの種類の人間か?−−正しくて、人を許さず、愛情深くなく、頑固で、無情で、プライドの高い、自己正義の人か?−−それとも憐れみ深く、愛情があり、主に服従していて、人を許し、謙遜で、神の恵みによってだけ救われた、正しくない罪人であるか!−−後者は天国へ、前者は地獄へ行く!−−イエスがそう言われた!−−あなたはそのどちらか?

 

「なぜ兄弟の目にあるちりを見るのか?!」

(マタイ7:1-5)

 

  112.批判的な霊や人を非難するような厳しい態度は、自己正義から来ている! だが、自分がひどい人間であると分かっているなら、あちこちで人を見下げたり、他の人の間違いを非難したりしない。しかし、自分がとても正しい人間だと考えるなら、その時に他の人のあら捜しをし始めるのである。

  113.ある人々は、誰かが間違いを犯すや否や、その人のすべての過去や、その人が今まで行ってきた全ての良いことや、彼らが為したすべての立派な仕事のことを忘れてしまうように思われる! 彼らは、人の悪いところを一つ見つけるなら、その人の過去の忠誠さや過去の忠実さをすっかり忘れてしまい、彼を許して、忍耐をもってあげる代わりに、彼を非難して、放り出したいと思うのである。私たちがみんな、学校にいて学んでいるということを覚えておきなさい。そして私たちの中に、学ぶべきことが沢山ある人々がいる!−−特に私である。なぜなら私は多くのことを知れば知るほど、もっと自分が知らないということを知るからだ!

  114.古い鎖に属していた多くの者、とりわけジェスロ、デボラ、レイチェルは、よく他の人に対してとてもきつい非難的な態度をしていた。そして陰に隠れて、他の人のことをとても厳しく語ったり、他の人を笑い物にしたり、他の人の悪口を言ったりしたのだ! 彼らが文字通り、人々を笑い物にし、人々の陰でその人たちの悪口をさんざん言い、少しの愛しか、あるいは少しの愛も、少しの真の理解も示さなかったと聞いたことは、私の心を悩ませ、悲しませた。私たち自身のファミリー・メンバーが、このような態度をとり、自己正義的に人々の悪口を言ったり、笑い物にしたり、からかったりするというのは、ひどいことだ!

  115.それは、私の母について言える一つのことだ。彼女は、いつも人々の事を良く言おうと努めた。彼女は数えきれない程多くの罪にベールを投げた人々の一人であった。(1ヨハネ4:8) だが残念な事に多くの人々は、雄山羊のようであって、いつもバッティング (「角を突き当てる」と「でもを言う」をかけている。) しているのだ! もしあなたが誰かの事について、何か良いことを言うなら、彼らはいつも、「ええ、でも、そうですね、でも−−あなたは彼らのことをもっと知っておくべきですよ」とか、「ええ、でもあなたは彼らのした事を見るべきですよ」、「はい、でもあなたは私の聞いたことを聞いておくべきですよ!」と言うのである。

  116.だが私の母の態度は、もし彼女が誰かの批判を耳にしたり、誰かが悪口を言われているのを聞くなら、彼女はいつも反対のサイドから、「でも」を言おうとしたのである。彼女はこう言った。「ええ、でも知っていますか? 彼はいい人なんですよ。忠実でね」とか、「ええ、でも彼は最善を尽くしています。できる限りの事をしているんです!」と。だからお願いだから、人々を激しく批判したり、傷つけたりするような、残酷な鎖がしていたような習慣の虜にならないでほしい。時々、あなたの言うことは正しいかもしれないが、もしそれを誤った言い方で言うなら、当然もっているべき愛をもたないで言うなら、本当に他の人を傷つけ、言葉で現せない程大きな傷と害を引き起こすことにもなるのだ!

  117.だから他の人々に対して、少しの同情心、少しの共感を持ち、自分自身を他の人々の立場に置き、自分がそこにいたらどんな気持ちがするか考えようとすべきである。「愛は多くの罪を覆うものである!」という聖句を覚えていなさい。(1ペテロ4:8)  中には、美しいネクタイではなくて、ただベストのボタンが取れている事しか見えない人もいる!彼らはいつも、ドーナツではなくて穴を見ている! あなたは、何でも自分の気に入らないものは角で押して回り、「でもこれ、でもあれ」と言って、真っ向からそれを押しつぶしてしまうような雄山羊にはなりたくないだろう? 同情、愛、憐れみを持ち、「互いに重荷を負い合う」方がどれだけはるかにいいだろうか。「そうすればあなたがたは、キリストの律法を全うするであろう!」(ガラテヤ6:2)

  118.厳しく、独善的で、頑固で、人を赦さない、批判的、非難的な教会のリーダーたちは、完璧でなければ地獄に行くと言い、人々に堪え難い程の宗教的な重荷を与えたが(マタイ23:4)、酔っ払いや売春婦や取税人や罪人たちは、彼らのところではなく、イエスのところに、愛と憐れみと許しと励ましと忍耐を求めて来たのだった!−−そしてイエスは、それらの者たちを優しく親切に、赦しをもって扱われ、彼らに希望と愛と力を与えられたのである!−−あなたはそうしているか?

  119.しかしファミリーのある者たちは、自分たち自身、プライドや嫉妬や霊的な罪のような、はるかにもっと悪いことで罪があるのに、病気をもった人々やハンディキャップの人々に対してさえ、批判的で人を見下すような態度を取ってきたのである。

  120.もし健康な者が、「ああ神よ、私がこの男のような人間ではないことを、あなたに感謝します。」と言ったパリサイ人のように、災いのある人々よりも自分が優れていると感じ、それらの人々を見下すなら、その、我、汝より清しという独善的な態度そのものが、哀れにも病んでいたり、体に支障があったり、それに悩んでいる人よりもはるかに罪深いのである!

  121.だから私達全員が本当に必要としているものは、もっと多くの愛である!−−そしてプライドを少なくする事だ! 愛は謙遜である!愛こそ、謙遜さである!−−そして謙遜さは、批判的な自己正義のプライドとは、完全に正反対である! あなたは、プライドを持っているので、同時に真の愛を持つ事ができない!−−そして真の愛を持っているのに、同時にプライドを持つ事はあり得ない。−−あなたは、そのどちらを持っているか? プライドは、悪魔の霊である!−−愛は神の霊である!−−あなたはどちらの霊を持っているか?−−両方を持つ事はできない!

  122.あなたはある人々にとって、批判的で、愛情深くなく、きつく、冷淡で、容赦なく、忍耐がないだろうか?−−愛情深く、他の人にとって物事を容易にしてあげる代わりに、あなたの批判や批判的な霊や頑なな心や、人を許さない態度や無情さや、喜んで寛容になり、教え、訓練したいという気持ちの無さによって、彼らにとって物事をより困難にしているか?−−もしそうであるなら、あなたには愛と憐れみと赦しと忍耐と寛容さと寛大さの面で、学ぶべきレッスンが幾つかある!

  123.あなたは謙遜になって、自分が悪い事をした相手の人に、愛の腕を広げた方がいいだろう。そして自分の忍耐のなさと、心の頑なさと寛容さの欠如と、愛情深くない批判的な霊を許して欲しいと、彼らに赦しを求めた方がいいだろう! 腕を大きく広げて彼らを迎え入れ、それほども自己正義で、批判的で、心が固く、愛情深くなく、忍耐がなかった事を許してほしいと、彼らに願うのである!

  124.結局のところ、あなた自身が慰められたその同じ慰めによって、他の人を慰められない事があろうか? (2コリント1:4)  主があなたに示して下さったその同じ憐れみを示せない事があろうか? 全ての人に必要なものは、愛である!−−もし彼らがここで見つけないなら、どこでそれを見つけるだろうか?  彼らは、一体他の誰の所へ行く事ができるだろうか?−−永遠の命の言葉を持ち、現在、最悪の者達さえ含めた、ありとあらゆる人達に奉仕を行なっているのは、私達ぐらいなものだからだ!

  125.ああ、主イエスよ!−−どうか、私たちの人々が、ただの自己正義ではなく、真の愛を持つのを助けて下さい! 私たち全員が、真の愛が何であるのかを学ぶのを助けて下さい、主よ! 真の愛は、謙遜であることです、そして謙遜である事は、愛です。そこには、何の違いもありません。だから主よ、私たちの愛が本当に謙虚ではなく、真に謙遜でないなら、それは真の愛ではありません!

  126.主よ、どうか私たちに愛を与えて下さい! 「何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。」(1ペテロ4:8)  私たちがプライドの内に裁き合わないように助けて下さい。私たちが律法学者やパリサイ人のようにならないように、助けて下さい。「ああ神よ、私がこの男(つまり取税人や罪人)のようでないことを感謝します」と。もし私たちがプライドの内に高ぶり、自分が罪人のようではない事を嬉しく思うなら、主よ、その時、私たちは彼らよりも悪いのです! 私たちは自己正義で、偽善的だからです! 主よ、あなたの恵みがなければ、私たちは今、ここにいることさえなかったことを知るのを助けて下さい! あなたの愛と、あなたの憐れみと、あなたの恵みがなければ、私たちは、見下げたくなる誘惑にかられるそれらの人たちよりもひどい状態なのです!

  127.あなたは、「私が好むのは憐れみであって、いけにえではない。」と言われました。私たちは、これがどういう意味なのか学ぶために、あなたと二人だけの時間を取らなくてはなりません! 私たちに、大いなる愛と忍耐と謙虚さを与えて下さい。そして私達自身の目には、小さい者となるのを助けて下さい。あなたが私達に分け与えられたように、私達が他の人のふところに分け与えるのを助けて下さい。あなたが私達を許されたように、私たちが他の人の罪を許すのを助けて下さい。そしてあなたが私たちに憐れみをかけて下さったように、私たちが他の人に憐れみをかけるのを助けて下さい。

  128.主イエスよ、私達があなたのようになるのを助けて下さい! 敵のような者に、すなわち聖徒を訴える者、厳しく冷酷な食いつくす者のようにならないように助けて下さい。そうではなく、小さな優しい神の小羊のようになるのを助けて下さい! 私達は、他の人々に対してとても多くの訓練を行うので、私達は時々、あまりにもきつい態度を取ったり、当然もっているべき忍耐をもっていなかったりします。私たちが他の人を許す者となり、忍耐を持つのを助けて下さい。また私たちが憐れみを与えられるのを望むように、他の人に対して憐れみを持ち、私たちが間違った時に、あなたに扱ってもらいたいように、他の人が間違った時にも、それと同じ扱いを、私たちが彼らにするのを助けて下さい! あなたは偉大な羊飼いです! 私たちが頑なにならないように、愛しい主よ、あなたのように優しく親切な者となるのを助けて下さい! イエスの御名によって祈ります。アァメン。

 

「もし私たちが自分の罪を告白するなら‥‥」

(1ヨハネ1:9)

 

  129.いったん神が霊的問題をはっきりさせ、答えを与えられ、治療法を指定されたなら、私たちはただそれを実行に移す必要がある。−−そしてそれは、たいてい最も困難な部分である。手術だからである。しかし、癌を切り取らなければ、患者が死んでしまう場合もある! 根を引き抜くことは、痛々しいものになり得るし、あまり簡単な仕事ではない。もしあなたが、植物の根を引き抜いたことがあるなら、私の言う意味がわかるだろう。時々それによって、土もいくらかむしり取られてしまう。ちょうど、あなたの心の中の一部を抜き取るのと同じである。

  130.それが存在していることを否定し、何もかも問題なく、完全に申し分ない状態だと言い続ける限り、あなたは決して問題を矯正することも、解決を見つけることもできないであろう。−−それでは、全く問題を解決することにはならない。事実、それは問題をもっとひどくさせる! あなたが、正直にそれに直面し、告白しない限り、そのような問題に対して、勝利を得ることは決してできない。「その罪を言いあらわしてこれを離れる者は、憐れみを受ける」と、神の御言葉は語っている。しかし「その罪を隠す者は栄えることがない!」(箴言28:13)と。

  131.拒絶された真理は、人の思いに対する力を失うということを覚えていなさい! もしあなたが、御霊を消し続けるなら、間もなく、彼女は語るのをやめるのである! だから、神の真理に譲渡するのを、拒むことに気をつけなさい! イエスは、ユダヤ人にこう言われた、「わたしは、いくたびあなたたちを集めようとしたことであろう。それだのに、あなたたちは、応じようとしなかった!」(マタイ23:37)  神は、ご自分を誰にも強制されはしない。ご自分を押し付けることをされないのだ。あなたには、自由選択の至上権がある。そしてあなたは、真理と勝利を切望し、喜んで欲し、求めなくてはならないのである!

  132.勿論、誰も自分のすべての過ちや失敗を他の人に告白するのを、本当に好みはしないが、もし告白するなら、それはあなたを強めるであろう!−−主に告げることは確かに役立つ! もし私たちが、心から答えを欲し、主の御心を求めているなら、私たちは正直になって、主に対して私たちの心を開く必要がある! 主は全ての事を知っておられるが、私たちはなお、主に対して正直にならなければならないのである! たとえ、主がそのすべてを知っておられ、私たちの問題が何であるか知っておられ、私たちの心の奥底にある思いが何であるかを知っておられ、また私たちの失敗についてすべての事を知っておられても、私たちがただ、「さて主よ、あなたはすでに、私について全て知っておられます。」と言うだけではなくて、なお私たちが主に対して正直になることを、主は望んでおられるのである。主は、私たちが主にそのことを言い、問題を述べ、主の助けを求めることを望まれるのである!

  133.あなたが、罪人である事を告白する事に関する、もう一つの良い事は、それが本当にあなたの自己とあなたの罪を暴露し、あなたが、潔白で罪のない人物では全くないという事を思い起こさせる事だ!−−そして、あなたはもはや、自分がそれほど天使的であるようには感じないものの、聖徒らしさについての神の考えによると、あなたはずっとはるかに聖徒らしいのである!

  134.しかし、もしあなたが自分自身の義や完璧さにかなり確信しているなら、正直になり、謙遜になって、自分自身の誤りや問題や間違いや欠点を告白するのは殆ど不可能だ。それは、あなたの自信を殆ど粉々に壊し、あなたが完璧でないことを証明するからだ。そしてそれは、自己正義の人が自分でも認めたくないことなのだ! これはまた、あなたがとても自己正義である時に抱える、大きな問題の一つでもある!−−主にとって、あなたに何かを伝えたり、何かを納得させる事がとても困難なのである! たとえ誰か他の人があなたと同じ問題を持っていて、あなたがそれについて全部読んでも、それを自分自身にあてはめることがないのだ。

  135.本当に自己正義の人々は、ほとんど個人的に、直接に、彼ら自身に向かってそれを正確に指摘されなければならないくらいだ。そうでないと、彼らは、しばしば要点さえ得ないのである!  彼らは、本当にそれを突きつけられなければならず、彼らが自己正義だということを告げられなければならない。そうでないと、彼らは、決してそれを見ないかもしれない! 彼らは、それによってとても盲目になっているので、御言葉の中でそれを読んでも、あるいは誰か他の人のテスティモニーでそれを読んでも、彼らの個人的な問題や個人的な状況を直接突き付けられ、はっきり具体的に説明されない限り、決してわからないのである!

  136.だが、自分の問題に気づいて、それを直視さえすれば、彼らはそれに対して攻撃し、前進することができる! 神だけが、勝利を与えることができるが、彼らは喜んでそうする気持ちがなければならず、主に服従しなければならないのだ。そして、無条件で救い出されたいという決断を下さなければならないのである!

  137.私たちがすでに述べたように、自己正義は、すべての罪の内で最大の罪である。しかし困った事は、人々がしばしば、それに気づかない事だ。彼らは、それによってとても盲目にされているので、彼ら自身の自己正義、彼ら自身の正しい生活、自らを正しいとすること、そういったすべてが、自分の人生の中で最大の罪であり、妨げであるという事実を見ることができないように思われる!

  138.そして罪とは、霊的病いである! それは、霊的ハンディキャップなのだ! 悪魔の霊的災いである。だから、叱責される必要があり、ちょうど肉体的な病やハンディキャップと同じように、それについて必死になり、祈り、それから救い出される必要があるのだ!

  139.それは、らい病のようなものだ! 最初それは、小さな一点、小さな煩わしいかゆみ、小さな異常のある一点のようにしか見えず、ああ、こんなのあまりたいしたことはないとあなたは考えるかもしれないだろう。だがそれはどんどん広がっていって、とうとう感覚を失い、役に立たず、神経が麻痺してしまうので、もはや何も感じる事ができなくなってしまうのだ。たとえ、それであなたの手足の指や耳や鼻が抜け落ちても、もう感じることはできないのであり、全く何の感覚もなく、神経が麻痺しているのである。

  140.だから、ただそれを覆い隠し、軽視し、見くびる代わりに、真実と向き合って、真っ向からそれを直視することによって、本当に、真に、罪を自覚する必要がある!−−誰かが、そのことをはっきりと告げ、本当に、彼らのどこが間違っているかを告げてあげるか、あるいは神の鏡で、自分自身を正直に見て、自分が本当に何というめちゃくちゃな人間であるかを知る事によって、真実を直視し、自分の罪を悟るのである!(ヤコブ1:22-25)

  141.しかし、もし彼らが、病気に気づかず、自分のどこが悪いのかわからず、それを見てショックを受けたり、それによってぞっとし、揺さぶられて目を覚まし、衝撃を受け、そのことを気にかけ、その事で必死になり、それを認め、それを見、それを告白し、神の御言葉によって暴露され、神の真理の光によって他の人に対してと同様に、自分自身に対してもそれをあらわにしないなら、彼らは、決して自分の必要を見ないし、自分には癒しや変わることや、自分の罪を悟ることや、告白することや、悔い改めることが必要とさえ感じないであろう!

  142.しかしもし彼らが、単にそのことに気づき、自分には、あるいは自分の内には、良いところなど何一つなく、恵みによって救われた罪人にすぎず、救い出されることと悔い改めのために、なお神に助けを求め続ける必要があり、また主により良く仕えることができるように、自分の罪と霊的病いを取り除く必要があることを本当に悟り、正直に告白するなら、主は救って下さるであろう! それは、御言葉の中にある! 主は何にもましてはっきりと、彼らがむしろいやされることを望むと語っておられる! (ヘブル12:13)

  143.彼らは、ただ光の中に出て来て、神が見られるように自分自身を見て、彼らが良い人間ではなく、悪いということに気づく必要がある! 彼らは、主なしでは、邪悪で罪深く、利己的で、霊的に倒錯しているのである! 彼らは、これらの罪に気づき、それを直視し、それを見、それを聞き、そのことで確信し、自分にそれらの問題があることを認め、これらの霊的病を持っていることを認める必要がある。彼らは、救い出されるために、それに気づき、それを見、それを信じ、それを告白し、それを悔い改めなくてはならない!

  144.それに関して正直な者たちは、希望がある! たとえ心の中で主や神に告白するだけでも、分岐点に達したのであり、そこから上へ抜け出させる道があるからだ。それは、救われるためにも、最初に行なわなければならない事だ。つまり、自分が罪人であることを見、それに気づき、それを告白することである。−−自分の罪を告白するというのは、自分が罪人であるのを信じるということだ。しかし、自分が罪人であると信じさえしないなら、いったいどうやってそれを告白するのか? それを悟りさえしないなら、救い出されるために、どうして必死に祈るだろうか?

  145.だが生きている内は、希望がある! 「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば主は彼に憐れみを施される。われわれの神に帰れ。主は豊かに許しを与えられる!」(イザヤ55:7) 主は、あなたを赦して下さるだろう。主は、あなたの全ての過去や、全ての間違いや、全ての欠点や、全ての失敗さえ忘れて下さるであろう。あなたが本当に悔い改め、主に戻るなら!(ヘブル8:12)

 

あなたではない!

 

  146.肝心な事は、すべての人が悪いということだ! すべての人がおしおきや罰を受けるに値するのだ。それが神の責めておられることではない。神は、あなたが神に助けを呼び求めないことで、あなたが悔い改めない事で、神に変えていただかない事で、神にしてもらわない事で、あなたを責められる! あなたは自分ではできない! ただ自分の人生、自分の思いと心を、何もかも全てのものを、主に引き渡して、主にしていただかなくてはならない! とうとう人々が本当にあきらめて、神に任せ、神に委ねる状態になった時、その時、神は入って来て、それを行うチャンスを持たれるのだ! 主はそれをしたいのであり、あなたにはできない事を示したいのである。そして、ご自分が栄光を得る事を望まれるのだ!

  147.それが大事な点なのだ。全ては神の栄光のためである、ということが!−−もちろん、あなたにはできない。あなたには自分自身を救えない。あなたはクリスチャンの人生を生きることはできない。あなたは善良にはなれない。あなたは、イエスがいなければ、何もできないのである! 彼ご自身がこう言われた、「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない!」(ヨハネ15:5)−−何一つとして!

  148.もしかしたら、そういうわけで主は、ついに私を使うことができたのだろう。マザー・イヴが長い年月の間知っており、マリヤが今も知っているように、私はいつも自分が全くひどい罪人で、まともではないひどい人間のように感じているからだ! 私は、今までとても多くのことを間違ってやったように感じるし、とても多くの間違いを犯し、はっきり決断したり、自分の意志を決めたりするのに、とても苦労するのだ。自分が望みのない人間だと感じているのだ! 時々、自分自身や自分の誤りを見ると、がっかりしてしまい、いったいどうして主は、私を少しでも使うことができるのだろうかと思うのである!

  149.だが私達全員が、一人残らずめちゃくちゃであり、自分の目を主に、また自分の思いを主の御言葉に留めておかないなら、私達は、敗北、疑い、幻滅、最終的失敗に定められているという事を直視しよう! 私たちの内の誰一人として、自分自身のひどい様を見るのに耐えられる者はいない! 私達はめちゃくちゃであり、主なしでは無である。そして私館方だ主に服従すれば、主だけがそれを行うことができるのである。

  150.ペテロが自分を見始めた時、沈み始めた!(マタイ14:28-31)自分を見ることは、何の役にも立たなかった! 自分自身を見始めるなら、自分のことを考え、考え、考える時、あなたは、沈む、沈む、沈む。なぜならあなたは悪臭を放って、臭い、臭い、臭いからだ! あなたは、いつも自分の目をイエスに留めておかなければならない!

  151.あなたの愚かな自己や、いまいましい罪もみんなくそっくらえだ! それらが出て来たところの地獄へ送ってしまおう! ただイエスだけを引き上げよう! イエスについて話そう! イエスがなされた事だけ聞こう!−−あなたの内で、あなたを通して、あなたによって、あなたについて、あなたに対して、あなたのことで、あなたのためにされた事を!−−ただ、イエスのことだけを!

  152.あなたは決してやり遂げることはない!−−しかし神は、あなたの内でやり遂げて下さる! 「あなたがたの内に働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは、神であって、それは神のよしとされるところだからである! あなたがたはすでに死んだものである。あなたがたのうちに生きておられるのはキリストであり、栄光の望みである!」(ピリピ2:13,コロサイ3:3,ガラテヤ2:20,コロサイ1:27) −−アァメン? 分かるかね? それが一番大事なことなのだ! 「罪の増し加わった所には、恵みもますます満ちあふれた!」(ローマ5:20)

  153.それは、すべて神の恵みであり、奇跡でなくてはならない!それはすべて奇跡ではなくてはならない!−−主のためのあなたの仕事、主のために、あなたが毎日行う務め、主と他の人に対するあなたの思いやりと愛、非利己的さ、犠牲、人に仕える生活、そのすべてが神の奇跡である! それは、神の仕事である!

  154.神は、あなたがすることを求めておられない。神があなたに求めておられる事は、ただ信頼し、従い、譲渡する事だけである。そうすれば主はあなたを通して行って下さるであろう! 私が無であり、何も知らず、何一つできない事を、神は知っておられる。そしてあなたも同じである! 私達は、チャンネルであり、主の手にある道具にすぎない。それだけの事だ。神が必要なのは、ただご自分の栄光のために、ご自分がそれを通して働く事のできる何か、ご自分がそれを使って働くことのできる何かだけなのである!

  155.もしあなたが自分が何者でもなく、何も知らず、自分はもうおしまいという状態に来たのなら、その時こそ、神が入って来て、状況を支配し、ご自分の好きなように物事を行われるチャンスをもたれる時である!−−だからこそ私は、この世で、私も含めてほとんどの人にとって最善の事は、自分があるがままの自分よりも良いと考えるよりも、自分があるがままの自分よりも悪いと考える方がはるかに良いということを知ったのである! 「もしある人が事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである!」(ガラテヤ6:3)

  156.人が自分自身の事をかなり良い人間であり、強い人間だと考え、自分の目から見て、良いように映る時、普通自己正義になりがちである。人が自分自身にあって、とても良い時、彼らはたいていあまり弱くないのである。そして彼らが、彼ら自身によってとても強いので、主が必要であることに気づかないのである。

  157.主が私達のうちに強くなる事ができるように、私達自身は、弱くある方がはるかに良い! 「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は、神のものであって、わたしたちから出たものでないことがあらわれるためである!」(2コリント4:7) 私達が弱ければ弱いほど、もっと主の力を、その測り知れない力を、主の強さを、このようなとても弱い器の内に、あらわす事ができるのである! PTL! (2コリント12:9)

  158.「わが希望は、イエスの血と義の上に築かれし!(自分自身の義にではなく!) いとやさしき人ありても頼らず。イエスの名前にのみ頼る! ああ、我は堅き岩、キリストの上に立つ。他の地は、沈みゆく砂なり! 他の地は、沈みゆく砂なり!」アァメン?

 

イエスだけ!

 

  159.神の御言葉は、このことをはっきりとさせている。「義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており!」(ローマ3:10,23)あなたたちが私よりも良いのではないし、私があなたたちよりも良いのではない。イエス以外には、私たちよりも良い人はいない! 彼は、良い人であり得るただひとりの方である。そして彼なしには、あなたは無である!−−あなたは、からっぽであり、ゼロであり、無、完全な無である! イエスがいなければ、良くなることはできない。だから、どうして努力し続けるのだ? どうして良くなろうと努め続けるのか? あなたは、良くなることはできないのだ。義人となる事はできない。勝利を得られないのだ。それを克服できないのだ!

  160.あなたには、勝利を得ることはできない!あなたが勝利を得るのは、不可能である! キリストにだけできる! あなたは、自分でできないのだ! 「決して、行いによるのではない。それは誰も誇ることがないためなのである。あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である!」(エペソ2:8,9)−− 神だけが、それを与えることができる! それを肉の業で手に入れることはできない、そのために働くことはできない。骨折って得ることはできない。祈り落とすことはできない。祈り抜いて勝利することはできない。そして完全に聖別され、何かの罪のない聖徒になることはできないのである!

  161.あなたには、キリストの義以外の誰の義もないのである。そして主だけが、それをあなたに与えることのできる唯一の方である! あなた自身の義は、悪臭を放つ! それは「汚れた月経の布!」である。だから試みるのをやめなさい! 神にしていただきなさい! 光を内に入れなさい!−−そうすれば暗闇は自ら逃げて行くであろう! イエスを内に入れなさい。そうすれば、彼は、全問題を解決して下さるであろう! イエスを内に入れ、キリストの命をあなたの内に輝かせなさい!

  162.勿論あなたは、プライドや自己正義に関して、完全で永久的な勝利を得ることは、おそらく決してないであろう。なぜならプライドは、私たち全員が絶えず戦わなければならないものだからである。しかしあなたは、それが自分に対して、それほどの強い支配力や占有力を持たない状態まで、勝利を得ることができる! そしてもしプライドがあなたの人生において、絶え間なくつきまとう大きな妨げる問題であると本当に感じているなら、それに敵対する団結した祈りを行いなさい! 主には可能である!−−主は私たちを救われたのであり、今も私達をどんなものからでも救い出すことができるのである!

  163.そしてこのことを覚えておきなさい。山を登っている時には、あなたは即座に山の頂上に着くのではないのである。あなたは一度に一歩ずつ上に向かって、前進しなければならない。一度に一つずつ、それぞれの障害物を乗り越えていかなければならないのである。だからたとえトラブルや試練をもっているとしても、たゆまなく前に向かって進み続けなさい!勝利を得るように試み続けなさい。たとえそれが半分の勝利であっても、少なくともあなたは前進しているのである! 少なくともあなたはなお戦っているのである! だからあきらめるな! 気落ちするな! 主と主の仕事のために忙しくし続け、あなたの必要とする全ての勝利を手にするのを助けて下さると、主に信頼しなさい!−−「主は、あなたのために御心を全うされる!」(詩篇138:8)

  164.ただ主に信頼し、進み続けなさい! 主は、あなたが耐えられないような試みに会わせることはない! (1コリント10:13)  すべての問題には、終わりが来るのであり、また主を愛する者のために共に働いて益となるのである!(ローマ8:28)−−アァメン?  PTL! 主は決して失敗されない!

  165.だからあなたが解決したり、祈りで除去したり、祈りで勝利を獲得したりしなくてもいいことを、主に感謝しなさい!−−ただ全てを放棄して、神に任せること以外は、何一つしなくていいのである! あなたが実際にはそうではないし、決してそうなることのできない者になろうと試みるのを止めなさい。そしてそれが義なのである! イエスだけがあなたを正しい者にすることができる! ただイエスにそれをしてもらいなさい! あの古い歌にあるように、「あなたの心を天に向かって上げよ。そうすれば栄光が、あなたの心に入る! あなたの心を天に向かって上げよ。栄光が、あなたの心に入る!イエスのものとなれ。彼は、あなたの罪からあなたを救う! あなたの心を天に向かって上げよ。栄光があなたの心に入る!」 ハレルヤ!

  166.アァメン、主よ、私たちは、私たち自身をあなたの手の中に置きます。あなたの御心がなされますように! 主よ、私たちがあなたに委ねて、あなたがあなたの御心をなされるのに任せるのを助けて下さい。主よ、イエスの御名によって、それがもはや単に私たちではなくて、私たちの内に生きておられるキリストとなるように、私たちを助けて下さい!−−私たち自身の砕けやすく、プライドの高い、自己正義の頑固な意志ではなくて、柔らかくて、譲渡し、陶器師の中で容易に形作られる器、自分の意志を持たない粘土、陶器師の意志と計画と目的とに応じて、彼の手によってでき上がるものが何であれ、どんな形のものであれ、それを喜び、感謝する粘土となりますように!

  167.私たち一人一人が誠実にあなたの御言葉を自分のものとして要求し、心からこう言えますように。「私はさらに進んで、私の主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故にいっさいのもの」−−私たち自身の意志とプライドも含めていっさいのもの−−「を損と思っている。キリストの故に、私は全てを失ったが、それらのものを糞土のように思っている。それは、私がキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストの内に自分を見出すようになる為である!」(ピリピ3:8,9)と。−−イエスの御名によって! アァメン。