DB804

 

新しい人生!−−新しい愛!

DFO 731  1978年6月

 

前書き

 

  1.神の子供であるイエスを心の中に受け入れると、私達の思考と心と人生において、神の霊の力により、奇跡的、超自然的な変化が即座に起こる。それが非常に顕著なので、神の御言葉ではそれを霊的な生まれ変わりにたとえているほどだ! その後この新しく生まれた神の子は、想像を絶するような神の霊的な御国において、全く新しい人生が待ち構えている全くの新世界に初めて突入するのだ!

  2.このような「生まれ変わり」または「改心」の経験は神の奇跡であって、これは長い歴史を通じてしばしば起こってきた。イエスはそれを神の御霊によって新しく生まれることと呼ばれ、パウロは「古いものは過ぎ去り、すべてのものは新しくなった」、また「あなたがたは、キリスト・イエスにあって新しく造られたものとなった」と言っている! 聖書にも、それは「古いものを脱ぎ捨て、新しいものを着る」とたとえられている。この生まれ変わりの変化は極めて著しく、また人格的変化も非常に明らかであるため、神の御言葉はそれを、「古いものは死んで葬られ、よみがえって新しくなり、全く新しい生き方をするようになる」のだと言っている!−−ヨハネ3:1-8; 2コリ5:17;エペソ4:22-24;ローマ6:3-11。

  3.なぜなら「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」からだ。−−マタイ18:3。だから、あなたは「霊の内で新しく生まれなければならない。」(ヨハネ3:7) それには、まず第一に神の御言葉を信じること。そして次に、罪から救ってくれる救い主が自分に必要であると認めること。それから、はっきりとした自分で決断を下してイエス・キリストご自身の霊を、自分の心の内に受け入れなければならない。そしてイエスを神の御子、あなたの救い主、また主と主の御言葉を信じて受け入れるすべての人々の救い主として、永遠に宣べ広めるのだ。

  4.主が人生に入られると、霊が再生され、浄化され、再び活力を与えられるだけではなく、考え方も一新される。そして頭の中の古い思考回路や反応の仕方が文字通り断ち切られ、頭の配線が除々に組み立て直されて、全く新しいコンピューター・システムとなる。だからあなたは人生と世界に対して全く異なる見解と見方を持ち、まわりのほとんどすべての事に対して全く新しい反応を示すようになるのだ。

  5.だから、実際に今までと違った感覚を持ったり、違った考え方をするようになったり、今までにないほど幸せになったとしても、驚くことはない!

  6.あなたは生まれ変わったのだ。新しい人間、神の新しい子供となったのだ! このようなことが起こると、普通、その新しく生まれた人はしばしば、自分が肉体的にも気分良く感じると証言するものだ。今や人生を直視するのを好み、新しく見いだした家族とのフェロ−シップをすることに最大の楽しみを味わい、また新しく発見した信仰において最大の満足を得るようになる。

  7.その人の人生、性質、精神、心、何もかもが変わった! 普通、人生における見解、欲求、目的のすべてが今までと一変する。私は、ある人々が、実際に芝生がもっと青々と見え、空はより青く、木々はより美しく、太陽はより明るく輝いて黄金の光を照らし、以前住んでいた地獄に比べて全く新しい地上の天国の世界へ入ったような気がすると主張さえするのを、しばしば耳にしたことがある! それほど素晴らしいのだ!

  8.しかしもちろん、すべての新生児と同様、あなたたちにも学ぶことがたくさんあり、多くの成長過程を経なければならない! だからたとえ、新しい人生、これから生きる全く新しい世界、そして大きな新しい家族についてのすべてのことを一度に全部理解できなくても、がっかりしないように。

 

御言葉の乳

 

  9.あなたは、主の聖書のふところから命を与える御言葉の乳を飲めば、信仰と理解において成長し始めるだろう。神の御言葉はこう言っている。「今生まれたばかりの乳飲み子のように混じり気のない御言葉の乳を慕い求めなさい。それによっておい育つためである。」−−1ペテロ2:2。神の御言葉を読み、心に留めるなら、御言葉は「あなたの足のともしび、あなたの道の光」となり、新しい人生、新しい経験、そして新しい人間関係において、あなたの道案内となることだろう。−−詩篇119:105。

  10.聖書は私達の一人一人に宛てた神の個人的な言葉だ。そして聖書の中から、人生のほとんどどんな疑問、どんな悩みに対する答えでも見つける事ができる。ただ神に答えを求め、聖書を調べ、御言葉を通して神に語ってもらいなさい。

  11.御言葉はまた、信仰が生まれてくる所でもある。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」−−ローマ10:17。信仰は突然に生まれるものではない。信仰というものは、神の御言葉を忠実に学ぶことによって築かれるものだ。信仰は神の御言葉を聞くことによって生まれ、育つ。

  12.だから聖書を読みなさい。そうすれば、真理がだんだんと、もっともっと明らかにされるのがわかるだろう。そして、完全で完壁な、最終的にデザインされた、神の素晴らしいパズルのコマの欠けた部分が段々と組み合わされていくのだ!

  13.私の意見では、聖書にとって代わるものは決して何ひとつないと思う! この地上に、神の御言葉より力強いものは何ひとつない。霊感に満ち、美しく、詩的で、神の御言葉そのものより力強いものなど! 私が何かものを書かなければならない唯一の理由があるとすれば、それは他の人々が聖書の御言葉を理解するのを助け、その生活にどう当てはめるかを教えるためだ。

  14.そう、聖書はその当時はそれで十分だった。聖書が元来の預言者たちによって書かれ、新鮮で新しかった頃には、当時の人々が必要としていた真理はそれだけだったのだ。しかし今現在、その真理はすべて説教師たちによってねじ曲げられ、ゆがめられ、誤まった解釈をされてきている。

  15.聖書の中に描かれている神の真の計画と基礎は、諸教会の瓦れきと神を知ることに逆らう人間の伝統によって、ほとんど皆埋没してしまっている。イエスがその当時の宗教の指導者であったパリサイ人にこう言われたように。「あなたがたは人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えに固執している。こうしてあなたがたは、自分達の言伝えによって、神の言を無にしている!」−−マルコ7:7,8,13。

  16.今日の教会はイエスと弟子たちにまつわる話を過去のものとしてしまった。−−それらはおとぎ話扱いされている。−−そういった話には何ら現実性がないとされているのだ。しかし、その話が突如として目前に引き出され、それを現在の状況に当てはめるてみるならどうだろう。つまり主についての様々な事が今日においても起こり得るし、主が今もなお実在のお方であり、今でもなお昔と同じ事、いや、さらにはそれ以上のことさえおできになるという事を聞くと、人々はショックを受け、目覚めるのだ!−−(ヨハネ14:12参照)

  17.そしてそれこそ、私のレターの存在理由だ。私は聖書をどうやって応用するかを、今日の人々の生活にあてはめて説明してきた。私は各レターで、教会の瓦れきを取り除いて、聖書が本当は何を言っているのか、イエスは何を教えられたのか、本当はどう生きられたのか、弟子たちは自分の手本によって本当は何を伝えようとしたのかを、再度示そうと努めてきた。つまり私達は今、そこに底流する神の計画は何であったかを再発見しようとしているのだ! 神の計画は常に存在し、今も以前と同様素晴らしいものだ。しかし、ラビ(教師)達のふりまいたあらゆる瓦れきを取り除くまでは、私達はこの土台の上に何かを築く事はできない!

  18.その上、私達は新しい時代に住んでいる。そしてモーセやイスラエルの子らのように、テントに住んでただあちこちを放浪して回っている訳ではない。だから私はあなた達に、ただ彼らがどのようにやっていたか読みなさい、というわけにはいかないのだ。ただあなた達に一冊の聖書を渡して、「ほら、こうすればいいんだ!」と言うわけにはいかない。−−その多くは、今日のではなく当時の人達のための神のメッセージなのだから。だから私達は、今日の状況下でそれをどう行うかを知らなければならない。そして信じてくれ、神は、私達がメッセージを受け取る以上のスピードで私達にメッセージを与える事がおできになる!

  19.このこともまた思い出してほしい。モーセやダビデ、預言者達そして使徒達の書が新しい聖句であった時代もまたあったのだ。それなのに、今日の教会は新しい聖句や神からの新しいメッセージを何でもかんでも非難している。神はもうこれ以上は語りはしないと言っているも同然だ。だが、そのような神なら死んだ神だと言えるだろう! 神に感謝することには、神は今日もなお語っておられる!

  20.しかし私自身、聖書についてとても狂信的であって、また私自身の言葉を少したりとも書くのをとても恐れていた。しかしそれにもかかわらず、神は超自然的な力でほとんど強制的に私を通して預言を与え、今日の時代のための神の御言葉を私に与えて、聖書が十分ではないことを私に示さなければならなかったのだ!

  21.私が受けた意味深い啓示の多くは、霊の内にあって受けたものだ。だから、私自身は何が起こっているか意識もなく、後で何を語ったのかを聞かなければならなかった。そして他の人々同様、私にとってもそれらの啓示は不思議なものだった。私が知っていたのは、ただ、神がこのようにして私に語られているということと、私は単に主の電報を伝えるメッセンジャー・ボーイにすぎず、語ったことや受けた啓示については必ずしも私に責任があるわけではない、ということだ。それについては、あなた達は神を責めるか、神に感謝するかのどちらかしかないだろう!

  22.神が私に与えられたものの中には、私にさえ少し理解し難いものがある。それは理解しようとはしない者にとっては、明らかに気分を害するものだっただろう。しかし、神は常に預言を成就させてきたし、それらの預言は良い実を実らせている。私は、これからも主が引き続いてそれらの預言を成就させ、良い実を実らせられるのだと心から信じている。主をほめたたえよ! 告白するが、主が言われた幾つかのことで、私達は驚き、ぞっとせんばかりのこともあった。しかし、私は常に即刻神にその真実性を確かめる聖句を求めた。そしてその答を見いだすのを神が助けられなかったことは一度としてない。

  23.だから、神の御言葉を読み、学びなさい。−−「古いものと新しいものを」−−マタイ13:52。あなたを強めるのは、主の愛における御霊による主の御言葉だからだ! どうか御言葉をおろそかにしないでほしい。御言葉は魂の糧であり、戦いのための力を与えてくれるからだ! 御言葉を読み、暗記し、楽しみなさい。そうすれば、魂に力が与えられるだろう! 神があなたを祝福されるように!

 

聖霊の力!

 

  24.その十字架上の死と復活の直前に、イエスは慰め主である聖霊を送って、弟子たちの霊的な生活とイエスとの関係において彼らを強め、権威を与え、導き、案内すると約束された。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせるであろう。‥‥それをあなたがたにつかわそう。‥‥そして真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」−−ヨハネ14:26;16:7,13。

  25.溢れるばかりに塗油を受けること、聖霊に満たされること、つまり聖霊による「バプテスマ」は普通、魂の救い(私達がイエスを信じ、受け入れることを決心する時)に付随して起こる経験だ。だからこそ使徒パウロは、自分が会ったある弟子たちにこう尋ねた。「あなたがたは、信仰にはいった後、聖霊を受けたのか?」−−使徒19:2。聖書にはまたこうも書かれている。「イエスを信じる人々は御霊を受けるであろう」−−ヨハネ7:39。

  26.やさしく温和で、小さな赤ん坊をあやす母親のように、聖霊は、生まれたばかりの神の子供を上から見守り、神の子供を世話し、慰め、授乳し、栄養を与える。だから確かに私達は皆、神の愛と力の洗礼と、神の尊い聖霊で満ち溢れるほどに満たされて、困難を切り抜けるための力を持つことが必要だ。

  27.主の力がなくては主の仕事はできない!−−そして神がご自分の子供達の為に供給されている力とは、神の聖霊の事だ。今日の多くのクリスチャンの問題とは、まだ聖霊を受けていない事だ。彼らには、聖霊が与える力と大胆さを受ける必要が切実にある!−−ちょうどイエスが弟子達にこう言われたように。「聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けて、わたしの証人となるであろう。」−−使徒1:8。

  28.そして、その力を受ける主な目的はこれだ。つまり証し(他の人々に、イエスのことについて話すこと)をするためだ。五旬節の日(初期の弟子たちが聖霊を受けた時)に起きた最大の事件とは、単に霊の賜物による驚くべき顕示があったということだけではなくて、それによって3,000の魂が救われたということだった。(使徒行伝2章を参照)

  29.とはいえ、「霊の賜物」をいやしめたり軽んじたりすべきではない。神の御言葉が私達にそう告げている。「あなたがたは、さらに大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。」−−1コリ2:31。一般的な賜物のほとんどは、コリント人への手紙第12章にあげられている。知恵、知識、信仰、いやし、奇跡、預言、霊を見分ける力、種々の異言、そして異言の解釈。これらはすべて、愛情深い天の父から贈られた、主の単純で小さな子供達への賜物であって、それは主御自身と主の御心を理解するためのコミュニケーションを助けるものだ。そして、それは来るべき栄光ある実物の単なる見本に過ぎない!

  30.というわけで、あなた達が聖霊に満たされる必要があるのは、他の人々に証しをするための力と強さを持つためだけではなく、あなた自身の個人的な主とのコミュニケーションを助けるためでもある。聖霊の洗礼を受けて、異言を語る時、あなたは主に本当に服従していることになる。その時こそ、あなたは我を忘れるほどの霊的な恍惚(こうこつ)感を知るのであり、肉体の恍惚感は単にその象徴にすぎない!−−あなたは、主と、ずっと近い関係を持つだろう!

  31.その時こそ心の底から霊の内で祈ることができる。−−そしてその祈りはより大きな効果を持つだろう。なぜなら、あなたは御霊によって、御霊の力によって祈るからであって、それこそまさに神が御自身の御心と御霊において求めておられるものだからだ。「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、私達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、わたしたちのために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」−−ローマ8:26,27。

  32.聖霊は私達の祈りの力だ。ラジオが電源に接続されていないらメッセージを送ることができないように、あなたが電源である聖霊つまり神の力に接続されていないなら、祈りという送信機は全然パワーを持たないだろう。しかし聖霊と波長を合わせれば、聖霊があなたの祈りに力を与え、導くいてくれる。

  33.あなたが主の導きを必要とする時、主は、あなたに何をすべきか正確に教える為に、超自然的で奇跡的な聖霊の力によって、天から真っすぐと啓示を与える事さえおできになる。「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」−−箴言3:6。だから、「御霊に満たされなさい。」−−エペソ5:18。−−そうすれば、あなたは証しをするための力と大胆さを持つ事ができる。そして、胸踊らせるような光景や音、ビジョン、声、それに異言で語るといったような聖霊に満たされた結果起こる肉体的なスリルを経験できる。−−それに、神御自身が住んでおられる霊の世界の、その他こう惚感を与える歓喜を大いに経験することができるのだ! ハレルヤ!

  34.あなたは信仰に入って以来、奇跡的に聖霊に満たされるという経験をしただろうか? もしまだなら、ただ心を開き心から祈って、御霊で満たして下さるようにイエスにお願いするだけでいい。−−そうすればイエスはその通りにされる。御霊はそのすべての力をもって流入する!−−イエスは言われた、「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者は開けてもらえるからである!」−−(ルカ11:9-13を読むこと。)

 

天国とのコミュニケーション

−−神から聞くこと

 

  35.新しい時代の神の子たちが全員学ばなければならない最大の事は、神に従い、毎日神から新たに聞くことだ。−−毎日、一瞬一瞬、新しい事を何か学びなさい。ただ神のみが常に私達のずっと先に立ち、これから何が起こるかを知っておられ、私達を導き、何をすべきかを示して下さることができるからだ。

  36.毎日が新しい一日、新しい経験、主の声を新たに聞く日であるべきだ。あなたは毎日神の声を聞くことが可能だし、毎日神の声に耳を傾けるべきだ。すでに主を直接知り、神の御心と神の御言葉を知っている神の子供達に対しては、神は彼らが、他の誰かの信仰や祈りを通してではなく、自分で直接に神に触れ、神との直接的な接触を持つことを期待されている。

  37.最も大切なのはこれ、つまり神との交わりであって、主の声を聞くことだ! 事実、それこそ私達、愛のファミリーが今日ここに存在する理由なのだ。−−それは、私達が立ち止まり、静まって神の御言葉を聞き、そして神の指示に従って、あらゆる戦いに勝ったからであって、それは私達が神のやり方に従ってきたからだ!

  38.そういうわけで、一般の人が信じているのとは反対に、祈りとは、ただひざまずいて自分の言いたい事を話すだけではなく、神にもご自身の言い分を話していただくことなのだ!−−そして、主が答えて下さるまで待つことだ! あなたは祈るだけではなくて、御霊の内にも入らねばならない。そうすれば、主はあなたたち一人一人に何をすべきかを語って下さるだろう。

  39.あなたはただ、信仰を持たなければならない。イエスは、いつでも、どんな所ででも語られる。もし信じるならば!−−信じる時にはいつでも! だから主に何かの答えを尋ね求める時には、主は必ず答えて下さると期待をもって求め、最初に与えられることを受け取りなさい。もし心から信じて主に求め、また本当に聞きたい、本当に見たいと思うならば、決して失望することはないだろう! そして、あなたが霊の目で見、霊の耳で聞くもの、それは主からのものだ−−それはあなたにとって何と大きな慰めになるだろう!

  40.神が必ず答えて下さると信じなさい! ただ自分の心を開いて、陽光が差し込むのを受け入れるだけでいい! 主の御声を本当に聞きたいなら、主はあなたに語りかけられるだろう。事実、神は私達が受け取りたいと思う以上に、喜んで与えたいと望まれる! 神はただ、私達が喜んで受け取ろうとしている限り、送り続け、放送を続けられる。

  41.神の力は常に存在しており、メッセージは常に身近にある。神の御霊はちょうど、常時電波を出している放送局のようなものだ。あなたはただ信仰のスイッチを入れて、それに波長を合わせるだけでいい。もし、本当に必死になって心をこめて主に呼ばわり、答えを求めているなら、主は答えて下さる!

  42.別に耳から聞こえる大きな声でなくても良いのだ。それはただあなたの内側で感じるあの「静かな細い声」でよい。−−列王紀上19:12。時にはそれは言葉でさえなく、単にある印象を受けるだけなのだ。神は言葉を使ってコミュニケーションする必要さえない。神はただあなたにある感情、あるいはある光景を頭に思い浮かばせたり、あるいはアイディアを与えることができる。

  43.もしあなたが主の言わんとする事に耳を傾けるならば、主は一日が始まりもしない内に、多くの事を解決して下さるだろう。でも、もしあなたが主に語りかけず、立ち止まって総司令官からの指示を受けもせずに、あらゆる問題やトラブルに突入していくとしたらどうだろう。そうなると、あなたは司令部に耳を傾けず、長官からの機構編成もなしに、自分一人で戦争で戦おうとしている軍人のようになってしまうだろう。あなたは、祈って主に耳を傾けることを学ぶ必要がある。

  44.確かに、神は御自身の兵士たちの教典である聖書に、戦いのための全般的ルールを定められた。しかしまた、神は私達と本部との間に非常に優れた通信手段をも与えられた。それは祈りだ! だから、もし規則書(聖書)の中に、ある特定の状況に対する答えや解決を見い出せなければ、その時はいつでもただ天国に呼びかけるだけでいい。そうすれば、神はどうすべきかを教えて下さるだろう!

  45.神の子供達、神の軍隊は、指令の大部分を聖霊の通信によって天国の指令部から受けなくてはならない。なぜなら、私達の地上の通信は、全く不十分で、たびたび途切れる事もあるからだ! しかしもし主に従えば、決して間違う事はないだろう! 主はすぐそこにあなたと共におり、何をすべきかをはっきり知っておられる。あなたはただ神に尋ねるだけで良い。そうすれば一瞬の内にその答えを得る事ができる!

  46.あなたは最近主から聞いただろうか? 毎日主から聞くことができる。そして、毎日聞くべきだ。主よ、感謝します! 天国と連絡を保ちなさい! イエスは決してあなたを失望させられることはない!

 

祈りの原理

 

  47.祈りは力強い! 私達が祈れば、物事は起こりまた状況は変わっていく。神は祈りに答えられる。神は言われる。「わたしに呼び求めよ。そうすればわたしはあなたに答える!」−−エレミヤ33:3。しかしある時、神はイスラエルに対して、悪い事が起こったのは「みずから励んで、わたしを呼ぶ者はない」からだと言われた!−−イザヤ64:7。

  48.いつの日か私達が天国に行った時、私達は、何か悪いことが起こったのは、あるいは何か良いことが起こらなかったのは、悪魔のせいでも神のせいでもなく、私達のせいであったことを知るだろう。それは、私達が祈らなかったからだ!

  49.神がいかにあなたの祈りに応じて、そしてどれだけ関心を持ち、どれだけ興味を持っているかに応じて動かれるか、それを知るとあなたは驚かされるだろう。神はあなたが物事に関心を持ち、祈り、何を求めるかを明確に表明することを望まれる。もし心から信じるなら、すべての祈りは聞かれ、答えられる。しかし、祈らないなら、答えられないだろう! 多くはあなたにかかっている!

  50.多くの人は怠惰な態度を取り、まるで自分達は何もしなくても主がすべてして下さると考えているようだ。しかし実際には、実に多くのものが私達に、私達の信仰に、私達の祈りに、そして何を成し遂げられるのを望んでいるかに依存している。もし私達が奮起すれば、神も奮起される。あなたの祈り、本心、願いがどれほど真剣なものであるかは、その答えの中にそのまま反映される。

  51.もし中途半端な心で呼び求めれば、中途半端な答えしか返って来ず、必死に呼び求めれば、確かな答えが返って来る。強い信号を送るなら、強い信号が返ってくる。ちょうど光線が鏡に向けて発射されているように、祈りも、発射されたのと同じ強さで返ってくる。最初始められた時の力と全く同じ強さで跳ね返ってくる。

  52.主は、「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが、一心にわたしを尋ね求めるならば」と言われる。−−エレミヤ29:13。私達が短い祈りでも誠実に祈り、本気で祈っている事は、私も知っている。しかしまた、私達には、深刻な状況や、絶望的な祈りを要するものについては、祈りにおいて必死になる必要もある。

  53.イエスは決して私達を失望させられる事はない! 私達が自ら励んで心の底から主を呼び求めるなら、主は常に答えられる。いつもすぐに答えられるとは限らないが、それは往々にして私達の信仰をテストし、私達が霊の内で主により近く引き寄せられるためだ。というのも、私達は、祈りつつ直接的で特別な答えを与えられるのを待っている間、神はすでに何と言われているかを知ろうとして、神の御言葉へと近づくことを余儀なくさせられるからだ。

  54.しかしもし主の近くにとどまっているなら、主は決してあなたを失望させられない。主は決してあなたを捨てられず、決してあなたを失望させられない。神がすぐに答えて下さらなくても、答えるのを拒まれているという意味ではない。主はいつも私達の好むやり方で答えを与えられるとは限らないが、主に信頼し続けなさい。そうすれば、主は決してあなたを失望させられる事はない。「たとい、わたしたちは不義であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである。」−−2テモテ2:13。−−そして神は御自身の言葉を破られる事はできない。−−神はあなたがやり抜くのを最後まで見届けられる!

  55.神は御言葉の中で、多くの約束を与えていられる。だから祈る時には、それらの約束を思い出して下さいと神に求めなさい。御言葉を思い出して下さるように神に求める時、それはあなたが御言葉に対して信仰を持っていることを示す。−−またそれは信仰と御言葉についての知識を積極的に表明することであって、神はそれを喜ばれる。−−(ヘブル11:6参照。)それはちょうど、法廷で弁護士が裁判官に対して、自国の法律を思い起こさせて確認するようなものだ。

  56.「また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、神の性質にあずかる者となるためである。」−−2ペテロ1:4。主は「わたしに命じよ!」「わたしはあなたの心の願いをかなえる。」「主は直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。」「そしてわたしたちの神は、あなたがたのいっさいの必要を、満たして下さるであろう!」とさえも言われる。(イザヤ45:11; 詩篇37:4; 84:11;  ピリピ4:19。)−−だから、その約束を要求しなさい! あなた達にはその権利がある!

  57.あなたは契約(聖書)の条件を、契約者(神)に引用して、主にその約束を守らせなくてはならない! こういう訳で、神の御言葉に親しむのは重要なことだ。信仰は御言葉の上に築かれる。御言葉は契約であり、おきてだ。だからあなたは主に、御自分の約束を果たして下さるように、求め、命じることができる。

  58.主は御言葉を果たす義務を持っておられる! だから、主に御言葉の約束を思い出させなさい。そして、それらの約束にすがりつきなさい。絶えずそれらの約束を暗記し、引用しなさい。神が答えて下さることを一瞬たりとも疑ってはならない。−−そうすれば、神はそうして下さるだろう! 神は答えなければならない! 答えたいのだ! 主に信頼しなさい! 主が答えて下さったことを感謝しなさい!−−たとえ即座にそれを見なくても!

  59.しかし常に、神の側の条件、その契約条件を忘れてはいけない。つまり、それは信仰と従順だ! 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、御自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」−−ヘブル11:6。そして「もし、あなたが快く従うなら、地の良き物を食べる事ができる。」−−イザヤ1:19。

  60.まず信仰を持ち、従順であるならば、神は祈りに答えられる! もし私達が主に従っていて、忠実であり、主に信頼し、その約束を信じているのであれば、神は祝福し、答えなければならない。神はあなたのあらゆる必要を満たすことができるのであり、また満たしたいのだ。しかしもし神がそうされないならば、それは神のせいではない。−−どこかで何かがおかしいのだ。

  61.もしあなたが完全に主に従っていないなら、自分は神に従っていないと知っていながら、神があなたを祝福されるという信仰を持つことはできない。神は不従順を祝福することなどできようか? あなたが神の御心からはずれ、神のもとにある隠れ場、神の陰、神の翼の下から出て勝手に走り回ったりするなら、神はあなたを守り、繁栄させ、または祝福することはできない。(詩篇91を参照)

  62.しかし、あなたが何よりも主によって喜びをなし、神の御心を喜んで行おうと望んでいるなら、神もまた喜んであなたの心の願望をかなえてあげようとされる。なぜならあなたが神を喜ばせている時に、その願望をあなたの心に置かれるのは神だからだ。−−詩篇37:4神は私達がほしいもの、受け取れるという信仰を持っているものを与えて下さる。だから「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすればこれらのものは、全て添えて与えられるであろう。」−−マタイ6:33。ハレルヤ!

 

「戦いをりっぱに戦い抜く」

1テモテ6:12)

 

  63.多くの人々は、イエスを受け入れるとすぐ、自分が完全に幸せになり、問題は全部即座に解決され、もはやどんな困難な問題も決して起こらず、万事が好都合に行くはずだと考えているようだ。

  64.彼らは一つの戦いには勝利した。つまり恵みによる救い、神に与えられた勝利だが、彼らは、それで何らかの永遠の勝利を得たと思っているのだ。確かに、魂のための戦いには勝利を収めてはいる。これは永遠の救いという永続的な勝利であり、そのために再び戦う必要はない。神に感謝せよ!

  65.彼らは救われている。彼らは神を持っている。主を持っている。聖霊を持っている。この世で最も大きな力を持っているのだ! あなたは永遠の命を持っており、地獄にいかずにすむのであり、死ぬことについては何も心配する必要もなく、人生についても何も心配しなくてもいいのだ。主があなたの側にいるのだ。または、あなたが主の側にいると言うべきか。

  66.一度救われると、悪魔はもうあなたを取り戻すことはできない。−−あなたは永遠に主のものだ!−−(ヨハネ6:37; 10:28,29参照)しかし、悪魔は、あなたが神に仕えるのをやめさせようと躍起になり、多くの難儀を投げかけてくる。悪魔は、人がクリスチャンになることをやめさせることができなかったら、手段を変えて、その人が革命的なクリスチャンになることをやめさせようとする。あなたを真に活気に満ちたクリスチャンではなく、死んだクリスチャンにしようとする!

  67.悪魔はあなたを眠らせ、無活動の状態に置こうとする。ちょうど悪魔が教会に対してしたように。そうすれば、少なくともあなたが悪魔を邪魔することはないだろうから! 悪魔は何とかしてあなたが良い、実を結ぶ証人となることを妨げ、あなたに良い証しをさせないように懸命になるだろう。−−悪魔は、あなた自身を破壊することができなければ、あなたの証しを破綻させようとする!

  68.悪魔が試みようとすることで最大のものは、あなたが良い見本となり、他の人達を勝ち取るのを阻止しようとすることだ。なぜなら悪魔は、あなたのせいで自分の手中に持っている他の者達を失うかもしれないと知っているからだ! あなたはすでに主の側にいる。しかし悪魔は、あなたを通して他の者達を失うところだということも知っているのだ!

  69.そして、あなたが何かをやり始める前に悪魔があなたを恐がらすことができれば、あなたは、神が望んでおられることをやり始めることも、達成することも決してできない。だから神のために、また他の人たちとあなた自身のために、悪魔におびえさせたり、脅かさせたりして、神が望まれていることを始めてもいないというのに、悪魔の言うことを聞いてあきらめてはいけない! 始める前というのは悪魔が最も激しく攻撃するのを神が許される時であって、あなたが本気でそれに取り組む決心があるかどうかを主が試しておられる時だからだ。

  70.それは例えて言えば第一次世界大戦のざんごう戦当時のようなものだ。両軍の間にある中間地帯、つまりまだ征服されていない所では、どちらか片方が攻撃をかけようと決めるまでは事態は比較的穏やかで、静かなものだ!−−しかし、ひとたび攻撃が開始されると、相手方は一斉に砲火を放ち、大量の弾丸を浴びせる! あなたがざんごうの上に出た瞬間から、悪魔は攻撃を始める!

  71.言っておくが、主は私達をへりくだらせ、主のみもとに近く保つために、悪魔に私達を攻撃するのを許されるのだ。−−あなた達が敵地に突入して攻撃を始めるまで、敵が真剣に打ち返して来ないのは間違いない事だ! しかし攻撃を始めると、敵も本気で反撃を開始する!

  72,しかし、私達はファイターだ! 私達は戦闘中だ! だから粘り強くなって、悪魔とその軍勢に反撃しなさい。私達が戦い続ければ、悪魔は絶対に勝てない! 悪魔は、あなたが降参する時にだけ勝つ事ができる。あなたがすごすごと引き下がり、あきらめ、あのいまわしい降伏の白旗をあげる時にだけ、悪魔が勝利を収める事ができるのだ!

  73.あなたは、悪魔が「バア!」と言うのを許して、怖がったり逃げ去ったりしてはいけない! 悪魔に対抗して立ち上がり、戦い、攻撃し、立ち向かわなければならない。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去るであろう! 「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう!」−−ヤコブ4:7。

  74.悪魔があなたを引き降ろし、落胆させようとしたら、戦いなさい! 悪魔の声に耳を貸すような事をしてはいけない。まして、降伏などしてはいけない! 悪魔は嘘つき、嘘つきの父、嘘の生みの親だ。イエスがそう言われた。だから、どうして悪魔の言うことなんかに耳を傾けるのか?−−ヨハネ8:44。 悪魔があなたを脅かそうして、ひどいことを言っているというのに、どうしてその疑いや恐れや嘘を聞くのか?

  75.だからただつっ立っていてはいけない。何かをしなさい!−−歌え、叫べ、主を賛美せよ、聖句を引用せよ! 悪魔に御言葉をぶっつけてやりなさい! イエスがされたのもそれだった! 悪魔がイエスを誘惑し、嘘をつこうとした時、イエスはただちに聖書を引用された。「聖書にこう書かれてある!」(マタイ4:1-11参照) 悪魔は嘘つきであり、嘘つきの父である。悪魔は自分でもそれを知っており、御言葉に敵することはできない! 敵に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう!

  76.白熱した聖霊の剣、つまり神の御言葉を取って、悪魔の心臓を貫きなさい! 「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭い!」 降参せずに、攻撃しなさい! そして、こちらから攻撃的な戦いを挑むのだ! 「あなたがたのうちにいますのは、世にある者(悪魔)よりも大いなる者(イエス)なのである。」−−だから、「信仰の戦いをりっぱに戦い抜きなさい。」「また、悪魔に機会を与えてはいけない!」「神の武具で身を固めなさい!」「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう!」−−あきらめるな! (ヘブル4:12; 1ヨハネ4:4;1テモテ6:12; エペソ4:27; 6:11-19;  ローマ16:20)

 

物事がうまく行かない時

 

  77.神は決して失敗されることはないということを私達は知っている。また私達が神を信じ、神に従い、神の御心に従って、神が最善と思っておられる通りにすれば、神は決して私達を失望させられないという事も知っている。だから物事があまりうまくいかなくなったら、きっと神が私達に何かを示そうとしておられるのか、あるいは的のねらいがどこかで外れているのか、または私達のやり方がどこかで間違っているか、あるいは正しい方向に進んでいないかのいずれかなのだ。

  78.心から主を愛し、知っている内で最善の方法で主に仕えている私達には、しばしば、犠牲と、受難と、不便と、不快さと、または不満足が伴うことがある。だが、私達は神が私達を愛して下さること、そして最善をつくして神に協調するようにすれば、神もその最善を尽くして私達を助けて下さることを堅く信じている。

  79.だから物事があまりうまくいかない場合、それは絶対に神の過ちではなく、きっと神からの指示をちゃんと受け取っていないか、あるいは私達の配線がどこかで混線していて、神の御心にかなっていなかったり、神を喜ばせるようになっていないからに違いない。

  80.だから私達がすべき最初の事は、言うまでなく周囲を見回して、自分はどんな過ちを犯しているのかを主に尋ねてみる事だ。そしてそれをよりよくする為にはどうすればいいか、また私達はどんな過ちを犯したので神に従っていない事になるのだろうかと尋ねてみるべきだ。

  81.神は常に何かの理由を持っておられる。そして、神の子には何も偶然には起こらないと私は信じている! 自分の生涯を振り返ってみたり、また他の人々の生活を見ると、すべては神の意図によって動かされているのだ、と言わずにはおれない。−−あることが起こった理由が必ずしもすぐにはっきりするとは限らないが! 神はしばしば、一見失敗と思えるものから最大の勝利を収められる!

  82.時々、私達をより神に近づけるためにこういったことが起きることがある。−−私達をもっと謙虚に、もっと主に頼るようするために。−−例えば、主からの懲らしめ、またはおしおきのように! しかし神はヘブル人への手紙の中でこう言っておられる。「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである。」−−ヘブル12:6。

  83.良い父親なら誰でもそうであるように、主は御自身の子供達を愛しておられるので、彼らが悪いのを見て苦しまれる。主は彼らが悪い事をすれば、自分達に害を及ぼしているとを知っておられる。だから主は、彼らを正そうとされるのだ。私達が神の戒めに従わず、神の愛の警告に注意を払わないと、神は私達をその愚行による滅びから救い出すために、愛のむちによって私達を懲らしめなければならなくなる!

  84.また神の懲らしめは、時には耐え難く感じられる事がある。しかし懲らしめは神の愛のしるしであり、それによってレッスンを学ぶなら、私達のためになる。それによって真理と、信仰と、愛と、悔い改めと、告白と、赦しを通して、神の創造物とお互いに対して、神との調和と幸福がもたらされる。

  85.「正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」−−詩篇34:19。−−そして、これこそ私達が正しい者でいるのを保つ一つのものだ。つまり、多くの災いを受けることだ! 「だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生児であって、本当の子ではない。」 だから、神のむちに感謝しなさい! それは常に私達の益になる。そして「それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」−−ヘブル12:5-13。

 

「あなたがたの信仰はためされて」

(1ペテロ1:7)

 

  86.これらのことが私達の上にふりかかるのを主が許されるもう一つの理由は、私達の信仰を試すためだ。主は私達が実際にどれだけ主を愛し、私達が主に仕えるために、どれだけの代価を払うつもりなのかを見られるのだ。

  87.神は私達の信仰を試し、それが果たして本当に金の信仰であるか、そしてどんな事が起ころうと私達が神を信じ、神に従うかを見られる! 主は言われる。「あなたがたの信仰が試されることは、金よりもはるかに尊い!」−−それがテストされることは!−−「多くの精金よりも」と主は言われる。金は火をくぐっても、それが真の金であるならば、やはり純金として、むしろもっと純度の高い金として出てくる!(1ペテロ1:7参照)

  88.真の金は、どんなに火の熱が高くても、またどんなに長く火の中に置かれても、どんなに高い熱でどんなに長時間精練されても、それはやはり金として出てくる!−−「多くの精金よりも!」 なぜなら、火はすべての浮きかすと不純物を燃やし去るからだ!

  89.真の信仰は試練に耐えることができ、火をくぐっても、前以上のものになって出て来ることができる。ちょうど金のように! しかし、試みに耐えることができない信仰は、全く信仰ではない。火に耐えられないとしたら、それは信仰ではない。純金のようになって出て来ないなら、それは信仰ではない! なぜなら、真の信仰は試練に耐えられるものだからだ。−−たとえどのような試練であっても!

  90.だから、「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。」−−1ペテロ4:12,13。

  91.事態が最悪に見えても、決して下を見てはいけない!−−上を見あげなさい! 決してつぶやいたり、不平を言ったりしてはいけない!−−主をほめたたえ始めなさい。主をほめたたえることによって、悪魔があなたを投げ込もうとしている穴から逃れる事ができるだろう!主は賛美を愛される。いと高き聖なる方は、その民の賛美の中に住まれる。−−詩篇22:3。

  92.疑い、恐れ、失意、つぶやき、これらのものは死を与える!つぶやいた古い世代のイスラエルの末路を見なさい。彼らは信仰の欠如のゆえに、荒野で死んだ! しかし、信仰、信頼、勇気、主への賛美は生命を与える! もし悪魔をやっつけたいなら、たとえ何が起ころうと、ただ、主を賛美し始めなさい! 「すべての事について、感謝しなさい!」−−1テサ5:18。悪魔は賛美には耐えられない! 彼はしっぽを巻いて逃げ去るだろう! 「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう!」

  93.だから、試練と誘惑に耐え得るように努めようではないか。神は、あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、のがれる道も備えて下さると言われる。何かの方法で、主は事態をあなたにとってより易しくされるか、少なくとも、あなたが耐えられるように助けて下さるだろう。

  94.「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」−−1コリ10:13。

  95.信仰の章であるヘブル11章にあるように、あなたの目を絶えず前方に、目標に向けていなさい。信仰によって、信仰によって、信仰によって−−彼らはひたすら前方を見、将来を望み見た! 彼らはこの世の市民であることには満足せず、ひたすら神によって造られた国、天の国、主によって建てられた天の都に目を向けていた!

  96.彼らはあらゆる試練、あらゆる苦難をも、喜んで受ける覚悟でいた。そしてこの世では国を持たない旅人であり寄留者であることに甘んじていた。なぜなら、彼らはやがて来るべき国があることを知っていたからだ!−−そして彼らは、その国のために戦う価値があり、そのために生き、また死ぬ価値があることを知っていた!

  97.だから、神のために進み続けなさい! 何が起ころうと、信じ従い続けなさい! 見通しは常にたやすいとは限らないが、仰ぎ見れば眺めは壮観だ! 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう!」−−黙示録2:10。ハレルヤ!

 

砕きの過程

 

  98.私の母はかつて、偉大な福音伝道師のポール・レイダーにこう尋ねたことがあった。「どうして働き人はこんなにも少ないのですか?」すると彼は賢明にもこう答えた。「それは、そういった人たちは十分早く砕かれることができないからでしょう。そして神は、本当に砕けた心を持つ男女しか使うことができないのです!」 何と真実であろうか! 神は、砕けた心を持つ男女のみを使って下さるのだ。--他の人々を使えないのだ! 他の人々はあまりにも自分自身の肉の力に頼りすぎるのだ!

  99.神は彼らの心を砕き、溶かし、陶工の手の内に再び造り変え、もっと良い器にする必要があるのだ。−−しかし、主はそれを強制はされない! 砕きの過程は、あなたにかかっているのであり、あなたがどれだけ御心に委ねているかであり、また委ねたくなる気持ちがあるかどうか、絶対的な謙遜の心があるかどうかにかかっている。絶対的な謙遜は絶対的な愛と同義語だ。こういう愛があれば、あなたは喜んでいつでもどこにでも行き、誰のためにでもどんな仕事をもして、主を喜ばせ、他の人々を助けるために、名もない人になるだろう!

  100.神は私達の過ちでさえも、私達を謙遜にしておく一つの方法として使われる。そして神はしばしば、一見失敗と思われるものから、最大の勝利を得られる。すなわち、自我を砕いた勝利、謙遜さ、そして主に完全に頼る心だ。真に他の人々を霊感し、導くためには、この心を持たなければならない。

  101.事実、聖書全体を通して、神が用いるために最初に謙遜にされなければならなかった人々は、数え切れないくらいだ。つまり、高い地位に立てられる前に、神が最低の所まで引き降ろさなければならなかったリーダー達だ。神がそうされなければ、彼らは神に栄光を帰することなく、自分たちでその手柄を受け入れたことだろう。神はあなたを本当に偉大な者にするという気になったなら、まずあなたを全くの無にされる。そうすればあなたが無であり、残るのはイエスだけになるからだ!

  102.あなたが、砕かれ、謙虚にされ、卑しめられ、自分の限界に達し、あとは神だけしか残されていないところまで来ない限り、神は決してあなたを期待に沿うような大きな用に用いることができないだろう! しかし、その邪魔にならない所に神があなたを置くことができれば、神が働くチャンスができる!

  103.「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである!」「われわれは、弱い時に強い。なぜなら神の力は、われわれが弱い時に完全に現れるからである。」−−つまり、それは私達ではなく、神であることが明らかになり、神が栄光を受けるためである!−−1コリ4:7;12:10。

  104.あなたが肉の内に弱くなればなるほど、御霊の内にあってはより強くなる。あなたがとても弱く、無力であるとか、無能力だと感じる時には、神は御自身の思いのままに立ち入られ、思い通りのことをなさる機会を持たれる。あなたがただの道具になり、チャンネルになれば−−神は本当にあなたを使うことができる!

  105.すべての栄光をイエスに! 主こそ、すべてを行われる方だ! 私達は単に主の従順な道具であり、陶器師の手にある粘土の器なのだ!−−イザヤ64:8。−−私達は単に主の御心を行い、主の目的を果たしているにすぎない。天地の造られる前から主はそのために私達をあらかじめ定められ、召されたのだから! (エペソ1:3-6参照)

  106.私達に力を与えられるのは神であり、すべてのことをなされたのは神である!−−ピリピ2:13。私達は神の業であり、神の指の業である。だから、すべての栄光を神に帰しなさい! 主をほめよ!

  107.何か成し遂げたことでうぬぼれ始めるやいなや、一貫の終わりだ。神はあなたをプライドから抜け出させるために、あなたを卑しめられるだろう! 神はねたむ神であり、栄光を自分だけに求められる。神はそれにふさわしいお方だからだ。そして神は御前に何ものも神とすることを許されない!−−出エジプト20:5。だから、あなたたちは、自分の肉の腕を誇るようなことはしないほうがよい。そうでなかったら、あなたはその腕を失うことになるだろう! 気をつけなさい! すべての栄光を神に帰しなさい!

  108.聖書の中で語られている最もひどい失敗者とは、人間の知恵でできると考えた大物たちだった。彼らは勝手に進んで行って、完全にしくじってしまった。唯一の危険な時というのは、彼らが自分で勝利を収めていて、自分の力で自分を救い、自分の腕で自分を救っているのだと考えた時だった。

  109.私達が陥りやすい最大の危険の一つは、自分の力で成功を収めていると考えることだ。そうではなくて、すべては神の塗油なのだ。もし神が塗油を取り去られるなら、その途端に、あなたは一文の値打ちもない存在になる。「誇る心は倒れにさきだつ!」−−箴言16:18。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい!」−−1コリント10:12 なぜなら、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるからである!」−−ルカ8:18。

  110.だから神のゆえに、自分に正直になりなさい! 神の助けがなければ、自分がどんなに見込みのない人間であるかを、絶えず自分自身に告白しなさい! 自分に何か良いところがあれば、神に栄光を帰し、悪いところは、自分で非を負いなさい! これは普通、大変良いルールだ。普通その通りだからだ!−−「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。」−−1コリ4:7。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から下って来る。」−−ヤコブ1:17。すべての栄光を神に与えなさい!

  111.常に、あらゆる事に関して、あらゆる場合に、あらゆる小さなことに関して、すべての栄光を主に帰しなさい。そうしたら、神は必ずあなたを繁栄させ、あなたに力を与え、あなたを守られるだろう。

 

聖人であること:偽善的な完全さ 

対 正直な謙遜さ

 

  112.神の目から見れば、聖人であることとは、罪のない完全さや独善ではない。聖人とは、恵みによって救われた罪人であり、自分が全然、完全だとか、正しいとか思ってもいない罪人であり、全く信仰によって神の恵みと愛と憐れみに頼っている者である。信じられないかもしれないが、こういう者たちこそ、唯一の聖人たちだ。−−他の種類の聖人はない!

  113.ダビデ王は、世の中で知られている内でも一番ひどい罪人の中の一人だった。しかし、彼はまた最も偉大な聖人の一人でもあった。なぜなら、彼は、自分は完全に神の愛と憐れみと恵みに頼らなければ赦されないと知っていたからだ。つまり、すべての栄光を神に帰したのだ! 彼は、自分が何か良い事をしたとしたら、その業はすべて主によるのであり、主の助けがなければ自分はだめな人間で、いつもへまばかりやっていることを知っていた。

  114.神はあなたがまったく完全でもなく、完全になることもできず、また完全であることも決してなく、普通は私達みんなと同様にだめな人間であるということをご存じだ。だが、神の義を持っているかどうかという唯一の質問、唯一の基準とは、こうだ。あなたは全く主に頼っているだろうか。主と、主の恵みと、主の愛と、主の憐れみに信頼しているだろうか。そして、すべての栄光とすべての誉れを主に帰しているだろうか?

  115.たいていの人々は、神の義というものが何であるかを、あまり悟ってはいない。彼らが義と考えているものは、神の考える義とかけ離れている! 自分がとても正しく善い人間だと思っているのは、自己正義であって、神に近いのではなく、自分に近いのだ! それは「罪のない完全さ」といったような、教会の倒錯(とうさく)した考えだ。

  116.そしてあなたは自分が正しい、自分が完全だと信じているなら、自分自身の過ちと欠点を告白することなど到底不可能になる。なぜなら、それを告白することは自信を崩すことになり、自己信頼心をほとんど粉々に砕くからだ。それは自分が完全ではないことを証明するからだ。だがその事を自分で認めたがりさえしない。

  117.告白すると自分が謙遜でいるのに本当に役立つ−−これが、私達が心から罪を告白する必要がある一つの理由だ。自分の罪を告白することは、自分自身に正直になるのに役に立つ。そしてもし自分自身に正直になれば、主にも、あなたの愛する者たちにも、そしてまわりの人々にも正直になれるだろう!

  118.それをするには、神のみが与える事のできる種類の謙虚な心が必要だ。なぜなら、肉はそのような事をするのを喜ばないからだ!肉はいつも自己を正当化し、保護し、弁明し、自分にはできると証明しようとするからだ。肉は、自分が全知全能で、何でもやってできないものはないと考えるのが好きだ! なぜなら、自分に栄光を望み、罪を告白する事ができないのは、人間の持って生まれた罪深い特徴だからだ。

  119.そういうわけで、自分の過ちを告白するのに最も困難な相手とは、自分自身だ! 私達は、自分自身の過ち、罪、欠点を認めることさえ嫌う。時にはそうすることはとてもがっかりさせ、自分を低くさせ、謙虚にさせるのである! そこで私達は、自分で自分に言い訳をしようとし、自分から自分を守り、自分自身を直視するのに耐えられるように、自分で自分を免罪にしようとする。

  120.しかし、これは事態をさらに悪化させる。なぜなら、私達が自分に正直ではなく、自分を偽ろうと努めている時、私達は神と他の人々をもいつわろうとすることになり、その結果、ひどい状態を引き起こすことになるからだ。−−あなたは自分の人生を駄目にしてしまい、関係する人すべてを傷つけ、あなたの証しと、あなたを必要としている人々への奉仕を妨げると同様に、何よりも神の心を傷つけてしまう!

  121.私達全員が自分自身に、他の人々に、また神に対して正直になるよう、神が私達を助けられるように! 自分自身に正直になれば、私達は誰にも偽らずにすむ! 虚偽、つまり、恥ずかしいと思うひどい事を隠そうとするのは、プライドの産物だ!

  122.しかし、自分が罪人であることを告白し、自分と罪をさらけ出すことは、自分が純粋無垢の見本とはかけ離れているということを思い起させる。もう自分では天使のようだと感じないかもしれないが、その時こそ、神が考えておられる聖人に近いものになったのだ! 自分が罪人であることを知っているので、自分のしたことの結果として何か良いことが生じたらその栄光をすべて神に帰す人−−こういう人こそ、主が聖人とみなされる人たちなのだ。パウロが言ったように、「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」−−ローマ7:18。私達や、私達の肉に関して良いものは、何一つない。−−良いのは、ただ、主のみだ!

  123.事実、私達は皆だめな人間で、もし私達の目を主に留めていなかったら、私達の運命は敗北と、疑惑と、幻滅と、最終的な失敗に定められている! 私達の内の誰も、自分の姿を見るに耐えられる者はいない! 私達はひどい状態であり、主なしには無だ。ただ主だけにできる。私達がただ主に身を委ねるならば! イエスもこう言われた。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない!」のである。−−ヨハネ15:5。

  124.ペテロは、水の上を歩き、自分自身を見始めた時、沈み始めた! 何をしても無駄だった!−−自分自身を見始め、自分のことばかり考え始めると、すぐにあなたはどんどん沈んでしまう。あなたは悪臭を放っているからだ!−−あなたは自分の目をイエスに留めておかなければならない! 無駄な試みをやめ、神に任せなさい! あなたにはできない! あなたには勝利を得ることはできない!−−ただ神のみが勝利を与えることができる! 勝利を稼いで得たり、働きの代償として受け取ったり、祈り落としたり、勝利を得るまで祈り続けたり、何か罪のない完全な聖人のような存在になったりすることなどできない!

  125.だから、完全になろうという考えを捨てよう!−−私達は決して完全であり得ることなどないのだから! ただ主に従い、私達のできる最善を尽くそうではないか! アァメン?

 

愛によって世界を変える!

 

  126.私達の仕事、つまり神がご自分の子供達の一人一人に与えられている仕事とは、神の御言葉と愛を他の人々に与えること、福音を宣べ伝えること、種を蒔くこと、証しをすることだ!−−これが神が私達を召された理由だ。イエスは弟子たちに命じられた。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音(良き知らせ)を宣べ伝えよ。」−−マルコ16:15。−−そして私達もそれと同じことをしなければならない。なぜなら、「収穫(飢え、探し求めている魂)は多いが、働き人(彼らを集め入れる働き人)が少ない。」−−マタイ9:37。

  127.しかし、おそらくあなたは失望してこう考えるだろう。「でも私が一体何者だというのか? 私一人で何ができるのか? すべてが見込みもなく、不可能に思える! 物事をより良い方へ変えるには、一人の人間ができることなど何もないようだ。だから、そんなことをして何になる、そんなことを試みて何になるのか?」と。−−そこであなたはややもすればあきらめてしまい、「この世界などどうにでもなれ!」と思ってしまう傾向があるかもしれない。それにこの世は時にはどうにでもなって当然だと思える事がある!

  128.さて、あなたには全世界を変えることはできないかもしれないが、自分のいる世界を変えることができる! 闇があまりにも深いので、光なんかほんの少しあっても無駄だというふうに考えてはいけない。なぜなら、たとえ1本のろうそくでも、周囲が暗ければ1マイル先からでも見えるのだから!(マタイ5:12-16参照)

  129.人はみな影響し合っている。あなたの生き方が他の人々に影響する! 「誰も離れ小島のように、孤立している人はいない!」 人は誰でも他の人に影響を与えている。たとえその人が全くの孤独であるように見えても! 「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。」−−ローマ14:7。私達は生きようと死のうと、他の人々と世界に何らかの影響を与えるのだ。−−あなたは他の人々をあなたのレベルまで引き上げるか、あるいは引き下げるかのいずれかだ! それはあなた次第なのだ!

  130.そしてスタート地点は、自分だ! 自分自身の心、自分自身の考え、自分自身の霊、自分自身の生活から変えるのだ。もしあなたがたった一つの人生、それがたとえ自分の人生だとしても、それを変えることができるなら、あなたは世界の一部を変える事ができるのだという可能性を証明したことになる! 神の愛の力で自分を変えるだけでも、まわりの場所や、まわりの雰囲気そのものが変わるだろう!

  131.そうしたら、自分の人生を変えるだけではなく、自分の家庭、自分の家族の人達を変えなさい。そうすれば、あなたは、新しい生活と新しい考え、新しい心、新しい霊を持ち、真理と神の愛、神の生命、神の御言葉で満たされている新しい家庭、新しい家族を持つようになるだろう。そして、あなたの家族も日ごとに触れる人々を変えるように努めることができる。ちょうど私達がしているように。

  132.あなたは、人々が娯楽や慰安や慰めや楽しみを求めて集まる場所に出かけて行って、夜昼かまわず、努力を惜しまずに、寂しい、飢えた、助けを求めている魂に手を差し伸べることもできる。彼らは、自分のあこがれと切望の心を満たすために、必死で愛情を探し、真理を求め、自分でも何を求めているのかわからないがとにかく幸福を探し求めている者たちなのだ。

  133.あなたは自分のまわりに、寂しく愛を切望している多くの人がいることを発見することだろう。彼らはあなたが第一歩を踏み出すのを待っている! 今日非常に多くの人々が純粋な愛を探し求めているが、それを見つける人はめったにいない。それは、神の真の愛を示し、行動によって、つまり人々の肉体的必要を満たしてあげることによってその愛を現そうとする神の人々が、ほとんどいないからだ。

  134.人々の必要としているもの、つまり食物、衣服、泊まるところ、友情などを与えようとせずに、単に「愛している」と言うだけでは十分ではない。これは愛ではない! 確かに、真の愛に対する必要は霊的な必要だ。しかし、その愛は行動によって現されなければならない。−−「愛によって働く信仰」だ!−−ガラテヤ5:6。

  135.人々が見ることのできる神の愛は、あなたの内に見える愛だけだ。目で見て感じることのできる愛を人々に示さないなら、彼らは天におられる自分の知らない方が自分を心から愛して下さることを信じるのに苦労するだろう。

  136.だから信仰によって足を踏み出し、愛について誰かに話しかけ、彼らを幸せにするよう努めなさい! 自分のいる場所で忠実な証人になりなさい。自分に何が起きたか、あなたのために神が何をして下さったかを忠実に伝えなさい。そうすれば、あなたは自分の部分の世界を変え始めることができる!

  137.もし個人伝道の仕方を知りたいなら、ただ福音書を読めばいい。−−イエスのなさった伝道方法は、ほとんどの場合個人伝道だった。ほとんどの場合、イエスは一人一人に証しされたのであり、群衆に向かって伝道されたのは極めてまれだった。主が個人伝道をどのようにされたかを調べてみなさい! どのように質問に答えられたのかを調べるのだ。主の答え方は全く見事だった!

  138.そしてもし私達がキリストと神の愛を人々に宣べ伝え、彼らがそれを受け入れるなら、彼らは救われる!−−そしてあなたが主に勝ち取った人々は、永遠にあなたの友人となることだろう!−−いや、それどころか、彼らは永遠にあなたの兄弟姉妹となるのだ!−−彼らにイエスのことを教え、また主の愛を示したことを、彼らは永遠に渡って、あなたに感謝するだろう!−−ハレルヤ!

  139.そしてどうか忘れないでほしい。すべての人々に必要なのは愛だ! まず最初に彼らに示すべき一番大切な事は、あなたが彼らを愛しているという事だ。全ての必要物の中で最大のものは愛だ。「このうちで最も大いなるものは、愛である。」−−1コリ13:13。−−だから今日誰かを愛しなさい! 愛がどんな奇跡を行えるかを発見しなさい!

  140.あなたは夢にのみ描いていた全く新しい愛の世界を発見するだろう! 愛の驚異が起こり、あなたはそれを誰か寂しい人と共に楽しむことができる。−−もし誰かを愛してみるならば! 愛を与えれば、愛を得るだろう!−−だから、愛しなさい! 「なぜなら、神は愛である。」そして「愛はいつまでも絶えることがない!」−−1ヨハネ4:8; 1コリ13:8。

 

すべてを神に与える

 

  141.あなたが供え物の祭壇にひざまずき、神に自分の人生を捧げ、神にそれを受け取って下さいと頼むなら、神はそうされる。−−そして神は、あなたが求める分だけあなたの人生を使おうとされるだろう。−−ローマ12:1。あなたは主のものであり、主はあなたを愛している。そして主はあなたを、他の人々への主の愛情深い奉仕において役に立つ者にされ、幸せになるようにと最善を尽くされるだろう。それは、あなたがイエスにあって発見した命と幸せを、他の人々にももたらすためだ。そして主は、あなたが生まれてからずっと今まであなたをご自分の奉仕のために用意してこられたので、疑いなく、いつかあなたの隠れた才能をご自分の栄光のために使われるだろう!(マタイ25:14-30参照)

  142.命と自由と他の人々を幸せにすることは、神だけが与え得るものであり、それだけが、あなたの魂を真に満足させ得るものだ! だから、幸せになりたいなら、また、他の人々を幸せにしたいなら、「まず神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」−−マタイ6:33。

  143.神はあなたの愛を求め、あなたが何よりもまず神を愛し、まず御国を求めることを望まれる!−−そしてあなたがそうすれば、神は喜ばれ、他のすべてのものを添えて与えて下さる。−−あなたが主によって喜びをなす限り! 「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる!」−−詩篇37:4。

  144.主が私達に求めておられるのは、御心に身を委ねる事だけだ。その他の事は、全て主がなされる。−−私達に強さや力や知恵や生命や愛を与えられる。それは神にしかできない事だが、私達は心から神に従い、ためらいなく神を第一に求める事を決断しなければならない!

  145.私達はその時にだけ、求めている信仰に満たされることができる!−−完全に従順になる時に、つまり真にすべてを捨て、主についていく時に! 私達が喜んで「自分を捨て、自分の十字架を負うて」(ルカ9:23)プライドを捨て、神に従おうと決心する時、他のすべてのものは添えて与えられる。なぜなら、神に身を委ねれば、神は私達に必要な力を与えられるからだ。

  146.私達はただ神に従わなければならない。神がせよと言われた事をしなければならない! 何よりもまず全てを捨て、神への献身、つまり完全に献身しなければならないのだ。完全に神に身を委ねなければならない。するとあとは神がして下さるだろう。自分にできることをしなさい。そうすれば、神はあなたのできない事をして下さるだろう!

  147.だが、本末転倒してはならない!−−祝福は決して従うことに先行はしない! あなたは「主よ、先に私を祝福し、私のためにこれかあれをして下さい。そうしたら、私はあなたに従います」と言うわけにはいかない。神は最初にあなたをテストし、あなたが従うかどうか見て、その後あなたを祝福することができる。人はよくこの点について間違った考え方をしている!

  148.しかし、もしあなたが、神があなたに望んでおられると知っていることに従えば、神はあなたに真理をもっともっと示されるだろう。そして、あなたがその真理に従えば、神はもう少し示される。一歩また一歩と神に従うにつれて、神はますます示して下さる。多くのクリスチャンの問題は、彼らが今まで持っていた少しの真理に従うのをやめたことだ。その結果、神はそれ以上与えることができなくなったのだ。

  149.主は無から何かを造り出すことができる−−たとえあなたからでも−−もしあなたがただ身を委ね、信頼して従うならば。信頼して従う以外には、イエスにあって幸せになれる方法はないからだ! あなたは喜んでその両方をする気があるか? 片方だけでは成り立たないからだ! 信頼することなしに従うことはできないし、従うことなしに信頼することもできない!

  150.もしあなたが、今あるがままの自分ではなく、神が望んでおられる者になることを決心するなら、神は大いにあなたを使うことができる。事実、従順で、主の御心を喜んでする気のある人を使って神が成し得られることには制限がない! 心の準備はできているか?

  151.「あなたがたの仕える者を、今日、選びなさい! 主が神ならばそれに従いなさい! わたしとわたしの家とは主に仕えます!」−−ヨシュア24:15;  列王紀上18:21。−−そして、もし神に仕えたいのなら、私達の所に来て、私達と共に働き、私達に加わり、共に暮らすか、または、私達を援助してもいいだろう。私達は、あなたを愛し、あなたが神と他の人々のために愛の人生を送るのを助けたいと思っている。どうか今日、私達を訪問するか、私達に手紙を書いて、これらのレターを手に入れて下さい!

  152.決して失うことのない愛を得るために、どっちみち持ち続けることのできない命を捨てるのは愚かなことではない! 「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者はそれを救うであろう!」とイエスは言われた。−−ルカ9:24。神があなたを、神にあって新しい人生と新しい愛によって祝福されるように!