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続・信仰! GP T 1969年7月

 

  1.「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」−−マタイ9:29。 もしあなたにある事についての信仰があるなら、神がそれを為される。そして信仰とはただ望んだり、信じたり、また単に期待するだけではなく、信仰とは知っていることである。

--一点の疑いもなく知っていること!

  2.今日の私達にとって、信仰は意味のないものとなってしまった。今日では信仰という言葉はただ漠然と何かを信じているというだけで、その本来の意味を失ってしまっているが、神の御言葉の中では信仰はそれ以上の意味を持っている。しかし今日のほとんどのクリスチャンにとって、信仰はあまり意味のないものとなってしまった。信仰とは確信することであり、ギリシャ語でヒューポスタシス、つまり権利証書のことだ!

  3.ヘブル書の第11章で「確信」と翻訳されている言葉についてだが、約400年前に(欽定訳の)新約聖書がギリシャ語から初めて翻訳された時、翻訳者達は「ヒューポスタシス」という言葉がどういう意味なのかが分からずにいた。ギリシャ語の文学でこの言葉「ヒューポスタシス」の使われ方からすると、この言葉は明らかに何か実体のある、かなり確かで、何らかの非常に確かな証拠のあるものだと翻訳者達は知っていた。だからその言葉を「substance (実体)」(註:日本語の聖書では、確信)と訳した。

  4.だが、数年前に北方イスラエルで考古学者が宿屋の焼け跡の残骸を発掘した。そこで鉄でできている小さな収納箱を見つけ、その中にはその当時イスラエルを旅行していたローマ人の貴族の女性のものと思える重要書類が入っていた。この小さな収納箱のほとんどの書類の上には大きく「ヒューポスタシス」という文字が大きく書かれてあった。その当時のビジネスはギリシャ語で為されていて、ローマ人が世界を治めていたものの、当時ビジネスと文化においてはギリシャ語が世界共通の言語だった。

  5.「ヒューポスタシス」と大きくその上に書かれてある書類はいったい何だったと思うかね? 彼女の所有地の権利証書だったのだ!だが、これは欽定訳が翻訳されたずっと後のことだったので、翻訳者達はこの発見での益をこうむることができなかったのだ。

  6.ヘブル11章の「確信」という言葉が充分にその意味を伝えていて、私としてはそれで充分であると思うが、もしそれをよりはっきりとしたものにしたいならその「確信」という言葉の上に括弧をつけて「権利証書」と書き込めば良い。さて、信仰とは何かね?−−権利証書だ!

  7.実際のところこのように書き込むことができる。「さて、信仰とは望んでいる事柄の権利証書であり、まだ見ていない事実の証拠である。」 このローマ人の女性はおそらく自分がイスラエルで購入した土地を一度も見たことがなかったのかも知れないが、彼女はその土地を所有していたことを知っており、実際にその土地を自分では目にしたことがなかったとしてもその土地に対する所有権を証明することができた。

  8.もし真の信仰があるなら、まだ答えをその目で見ていなくても、その権利証書を持っているのだ! それはあなたのものだし、あなたの名前が記されており、いつかそれを見るようになる−−それこそ信仰なのだ! つまり自分の手に権利書証を持っているのだ。神をほめたたえよ! それはもう為されたことなのだ!

  9.真の信仰とは知っている事だ。つまり信仰において求めたことが必ずかなえられるようになると知っている事だ! だが、警告しておくが、時々ある人達は信仰を持っているからではなくて、プライドのゆえに自分の眼鏡を捨ててしまう。彼らは自分達が癒しのための信仰を持ち合わせていないのを告白するのを恥じていて、信仰を持っている事を証明したがるのだ。それで神が癒されるという信仰を持っていないのに自分の眼鏡を踏み付けるか、海の中に捨ててしまうのだ。気の毒だが、この革命の中にまだコウモリのように目が見えない者達がいるのは、癒しのための信仰を持つ前に自分達の眼鏡を捨ててしまったからだ。

  10.たった今警告させてもらうが、あなたは自分自身で信仰を持った方が良い。−−神はイエスのための真の革命家としてあなた自身で信仰を持つことを望んでおられ、誰か他の人の信仰に頼っていることはできない。あなたはこの革命の中でリーダー、あるいは教師、士官になり、多くの人達を指導するようになるのだから、それをどのようにするか自分で知る必要がある−−そうする信仰を持ち合わせていないなら、あなたはリーダーにはなれない。だから誰か他の人にあなたに代わって信仰を持ってもらうように期待してはいけない。

  11.誰かがある事をするようにあなたに言って、その人がその事に信仰があってもあなた自身に信仰がないなら、それをしてはいけない。−−他の人の信仰通りに行動してはいけない! あなたは自分自身でそれに対する信仰を持っている必要がある。あなたが全くのベーブで何をして良いのか分からず、何もできず、緊急の状態であるのでない限り。時々神は身代わりの信仰をベーブに与えられる。その場合不思議な話だが、それは人に対する信仰のようなもので、人々はあなたに対して信仰を持つのだ。

  12.救いは贈り物だし聖霊も贈り物だ。だが癒しは贈り物であるものの、従うことによって獲得しなくてはならない。癒しを働きの業によって得ることはできないが、それを受けるにふさわしい者にならなくてはならない。ずっと癒されたままでいたいなら、従順でいた方がいい−−それはローンのようなもので、命拾いをした後の余分の人生を生きるようなものなのだ。癒された後は主に近くとどまり、主があなたを癒された目的を行なった方が良い。

  13.あなたは神が癒しにおいて与えられる力を神の栄光のために使った方が良い。そうでないなら主はあなたからそれを取り去られる。これは全くの贈り物である救いや聖霊には当てはまらない。私がこのように言うべきかどうかわからない。なぜなら自分が受けるにふさわしくない多くの癒しを受けてきているからだ。しかし癒しを受け取るにはそれにふさわしい行いや働きをし、従わなくてはならない。癒しは主からの余分のボーナスなのだ。それは余分の祝福であり、財政と似ている。−−自分の好き勝手に生活し、神に援助してもらおうと思っているなら大間違いだ!

  14.信仰によって生き、神に世話してもらおうと思っているのなら、あなたは主に従い、主の御心の真ん中にとどまり、神があなたにするように望まれることをした方が良い。分かるかね?

  15.神は奇跡をすることができる! 主は、あなたが自分にできることをするように期待されているが、自分ではどうしてもできないという者達を助けられる。主はあなたに代わって食べ物を口に入れてやったり、顔を洗ってやったり、歯を磨いてやったり、石を動かしてやったりなどされないが、主はあなたを癒したり、食物を供給したりされるのだ。だが普通の場合あなたに料理させる。

  16.主に信頼し、従順であるなら、神はどんなことでもされる。さて、従うことと信仰とのつながりはこうだ。あなたが不従順なら信仰を持つことは難しい。実際のところ、不従順なら何に対しても神を信じることは不可能だが、主を喜ばそうと最善を尽くし、主に従っていると自分で分かっているなら、ほとんどどんなことでも神にしてもらうように期待することができる。神はあなたのためにどんなことでもして下さり、想像を絶するような驚くべきことをされる! 私がただ主を愛し、主を喜ばそうと最善を尽くし、主に従い、御仕事をしたがゆえに、神が私のためにして下さった素晴らしいことを話してあげられるが、おそらくあなたには信じることさえできないだろう。

  17.主はおそらくあなた達がよく思わないようなことさえ私にして下さった。私の父は母によくこのように言っていたものだ。「君は主のお気に入りだ。主は君の好きなようにさせられる!」 なぜなら私の母は本当に主を愛し、すべてのことをし、いろんな犠牲を払い、主と交信を取り、主に真に使え、主に従っていたからだ。それで主は彼女が望む物は何でも与えられた。彼女が主に求めるどんな物であれ、心の願いをすべて与えられた。彼女がスロットマシンに25セントを入れて、それが大当たりしたことを話したことがある。私の場合、主は、私があれこれ見たかったものを見せて下さったり、あるいはある所へ行かせたり、あなた達が贅沢で、多少不必要なことと考えるようなものを与えて下さったりもしたのだ。

  18.だが、私がしたように何年間も主に仕えてきた後で、主は求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えて供給され、おし入れ、ゆすり入れ、溢れ出るまでに量を良くしてあなたの必要以上に、少し贅沢だと思われるくらいの物まで供給して下さるかも知れない。−−エペソ3:20、 ルカ6:38

  19.さあ、良く考えてごらん! あなた達はたった今本当には必要としない物を持っているだろう。主に従ったから主はあなたに良くして下さり、それをあなたに与えられた。契約書の中で主は食物と衣服だけを私達に供給することを約束されている。主は食物と衣服と、主の栄光の富みの中からあなたのすべての必要物だけを供給することを保証されている。ただあなたの必要とする物だけを保証されているのだが、もしあなたが主を喜ばせるなら、主は普通、ただあなたを幸せに保つためにあれこれの物をつけ足されるのだ。

  20.家族の父親たる者は自分の家族を扶養し、必要なものを供給し、食物や衣服や住まいを与える義務がある。もし父親がそれを怠るなら法律によって裁かれることになる。だがもし彼が本当に自分の子供達を愛しており、また子供達が父親を喜ばし、従うなら、父親はしばしば小さな余分の贈り物やおもちゃやプレゼントを家に持って帰るものだ。

  21.あなたがたった今いる状態はおそらくどん底の状態となることだろう。なぜなら最初に主は25セントや、50セントや、1 ドルやあるいは百ドル、 千ドルを与えられる前にあなたが5セントをどのように使うかを見届けられるのだ。主は御自分があなたに何か多くの物を与えられる前に、あなたがほんの少しの物で信頼することができるかどうかを見ることを望まれるのだ。もしわずかなものに忠実なら、主はあなたに多くのものを管理させられる。主は贅沢品を与えられる前に、あなたがまず必需品に忠実であるかどうかを見られる。

  22.さて、神が自分達の必要を供給されて当然という偉そうな考えを持っている人々がいる。彼らは、最高の物に囲まれ、素敵で見栄えが良く、最も高価な物を持っているべきだと考えている。「神のしもべにとって良すぎる物などない」と。私もそれに賛成する。何もあなたにとって良すぎる物などないのだが、それはあなたのためにならないかも知れない。謙遜にする代わりにかえってあなたのプライドを養うことになるかも知れない。

  23.神のなされる方法は必ずしも私達のやり方と同じではない。富裕の教義を信じている人達がいて、クリスチャンは貧しくあるべきでなく、クリスチャンは病気になるべきでなく、評判が良く、最高の富、最高の健康、最高の人気を持っているべきだと考えている。

  24.どういう訳か私はそのような事を使徒パウロの書簡の中で見つけ出す事ができないようだ。どういう訳かイエスはそのパターンに当てはまらないようだ。またイエスの汚れた、裸足で、長衣をまとい、長髪で、髭をはやしたヒッピーの弟子達の事もそのパターンに当てはまらないようだ。パウロでさえ、そのような富裕な社会に入れなかったのだから、私もそのような社会に合わないと思う! しかし主は時々、使徒パウロにされたより私達にもっと良くして下さるようだが。多分それが理由で使徒パウロはより多くの栄光と報酬を得るのだと思う。

  25.神はあなたが求めるものを与えられる。神はまさにあなたの求める通りに答えられる。主に求めるものを明確に知らせなさい! 主はこう言われる。「わたしに命じよ!」と。−−イザヤ書45:11  主はあなたが求めるもの、もしくはあなたが与えられると信仰を持っているものを与えられる! 主を信頼し、主を喜ばし、主に従い、主があなたにしてもらいたいことをし、主があなたに達成してもらいたいことを達成するなら、主はあなたのほしい物を与えて祝福される。

  26.しかし気をつけなさい! 時々物質的な祝福は罠になり、悪魔の落とし穴に成り得る。あなたがここそこで少し妥協するなら、悪魔は沢山の物をあなたにどっさりと与えることができる。

  27.妥協することに気をつけなさい! 利益を得るためや財政のためや、保護を得るためや安全のためや、それが何であろうと、妥協したり手抜きをしたりすることがないように気をつけなさい。メッサージに対して忠実でありなさい。私達の方法に対して忠実でありなさい。御言葉に対して忠実でありなさい。神の声に対して忠実でありなさい。主の革命に対して、あるいは主があなたを召されたその特定のミニストリーに対して忠実でありなさい。忠誠を尽くしなさい! いかなる軍隊においても要求される事とは何かね? 忠誠心だ! たとえその人が最高の士官ではなく、他の人が持っているような資格を持っていないとしても、その人が忠誠心を持っているなら、その人を信頼する事ができる!

  28.忠誠心こそ最も必要とされるものだ。あなたがどんなにタレントに恵まれていても、芸術的才能や教養があっても、美しくても、またたくましいとしてもそんなのは関係ない。どのような資質に恵まれていようとも、100%の忠誠心を持っていないなら、神はあなたを使うことはできない。あなたを信頼することができないのだ! 主が与えられたものであなたを信頼することができないなら、主はあなたを使うことはできない。神に100%所属しないなら、あなたを使うことはできない。

  29.私はむしろ、何の才能も持ち合わせていなくても、必要とあればいつでも仕事に取り掛かるような小者の方を置いておきたい。そのような人は、助けが必要な時は指を鳴らすだけですぐにやってきてその仕事を為し、理由が分からなくても言われたことをやり、リーダーにそれをするように言われたからというだけでそれを行い、リーダーへの信仰を持っており、忠誠心があり、従順なのだ。大物は自分がすべてのことに通じていて、リーダーよりも少し賢いと思っている。必ずしもリーダーが言われた通りにしなくてもいいと思っている。

  30.小さな事柄、どのよにして小さな事を扱うかは、主にとってとても重要なのだ。「小さい事の日をいやしめてはならない」と聖書は語っている。−−ゼカリヤ4:10。少しのことを忠実にやることは大切なことだ。「皿を洗ったり、床を磨いたり、モップをかけたり、料理なんてごめんだね。もっと重要な仕事がほしい」などとあなたが言うかもしれないが、言わせてもらうが、それこそ重要な仕事であって、それなしにはこの軍隊はやっていけない。偉すぎてそれができないということはない! 重要な仕事を得るようになる者とは、床をきちんと掃いたり、皿を洗ったり、使いばしりなどの仕事がちゃんと任せられるような者達なのだ。小さな仕事がちゃんと任せられるようになるまでは大きな仕事はあげられない。

  31.たった今言っておくが、私達は今、ある状況において問題を抱えているところなのだ。ある人物が下から段階的に上がってこなかったために、今その弱みが出始めている。どん底から始めて、行程を走り抜き、何度か打ちのめされながらも、自分を立証してきたわけではなかったのだ。その人はトップから始めたから、今その弱みが現れてきている。じっくりと教え込まれて、洗脳されてこなかったからだ。あらかじめ真価が立証されていたわけではなく、メッセージや、革命のやり方に忠誠を尽くすかをテストされてこなかったので今になって私達はその結果に悩まされている。そういうわけで神の方法が最善なのだ。つまりどん底から始めることだ。とても的をついた昔からの格言がある。これは実際の聖句ではないが、とても聖書的な格言だ。

  32.「神の上への道は下に下がること。」 多くの聖句では、「先の者が後になり、後の者が先になる。」「だから、 あなたがたは神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時がくれば神はあなたがたを高くして下さるであろう」と書いてある。−−マタイ20:16、第一ペテロ5:6、箴言15:33。その他の多くの聖句がへりくだること、そしてその後に神があなたを高くして下さることを語っている。砕かれている必要があるのだ! 神の上がる道は下がること! スタートを切るのに最善の場所はどん底だ!

  33.このことだけは覚えておきなさい。「信仰とは望んでいる事柄の権利証書であり、まだ見ていない事実の証拠である!」−−ヘブル11:1。 「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」−−ヘブル11:6。だから信仰なしにやっていけると思ってはならない! イエスはこう言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか?」−−マタイ14:31

  34.それではこのような信仰を得るにはどのようにしたら良いのか? 「信仰は神の御言葉を聞くことから来る!」−−ローマ10:17 御言葉を聞き、読みなさい! 将来は神の約束のように明るい!