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もしそうでなくても!  GP 313  1974年9月

 

  1.まず信仰を持ち、従順でなければならない。それすれば神は祈りに答えられる! とても多くの人達が私達に、「もし神が私を癒してくれるなら、神に仕えよう、神を信じよう」と言ったものである。その事はあなたがまず自分を先に置いている事を意味し、神と取引をしようとしているに他ならない! 「まず神が私に仕えてくれるなら、私は主に仕えよう。神よ、あなたが私のためにまず働いて下さい。それから私はあなたのために働きます!」 しかし主はそのようには働かれない!

  2.主は今も同じお決まりの手順を持っておられる。つまり「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、全て添えて与えられるであろう。」である。--マタイ6:33 祝福は従順の前には来ない。あなたは「主よ、私を祝福して下さい。そうすれば私は従います。」とは言わない。神はまずあなたをテストされ、あなたが従うかどうかを見られ、それから主はあなたを祝福される。そういう点で人々は良く間違ってしまう!

  3.それは真のテストだが、しばしば不平を言うことで終わってしまう。人々は神が彼らを癒して下さらないことに対して恨みを抱くのだ! 「もし主がそうされるなら、私は主に仕えよう。だが主は私のことを愛しておられず、気にかけておられない! 主は私を癒してくれないから!」 物事が正しく運ばないために、私でさえやめてしまいたいような気になってしまうことがよくある。しかし私はやめない! 私はただやり続け、結局、主は物事をうまく取り計らって下さる。

  4.それは「私が最初」といった態度である。「まずあなたが私を癒して下さい。それから私はあなたを信じ、従いましょう。」 それは一種の自己正義である。なぜならそれはプライドだからだ。律法学者や、パリサイ人がイエスに言ったことと同じようなものだ。「私達に奇跡を行って下さい、そうしたら私達は信じましょう!」−ヨハネ6:30。主は色々な奇跡をすでにされたのだが、彼らはそれでも信じなかったのだ! そこで主はこう言われた。「私がすでに言ったことを信じないのだから、私が誰かを死人の中からよみがえらせたとしてもあなたがたはそれでも信じないであろう!」−−ルカ16:31

  5.自分の信仰を、御言葉の代わりに答え次第で決めることは業(わざ)の宗教のようなものだ! それはまるで、「私に示して下さい!私がそれを見る時にそのことを信じます! 見たら信じよう!」と言っているようなものだ。しかし信仰とはそんなものではない。信仰があるなら、見なくても信じる! 信仰があるなら、あなたは盲目的に従うのであり、答えを得るか得ないかには関係ない! あなたは、答えを神に仕えるための条件とすることはできない。

  6.あきれた話だ! ヨブはすべてのものを失ってしまった! 家族も、財産も、そしてついには自分の健康までも、すべてをである! 頭から足の先までできもので覆われていたのに、それでも彼は構わないと言ったのだ! たとえ神が彼を殺されたとしても、構わず主を信頼し続けると言ったのだ! ヨブは生涯を通じて主に仕えてきたのだが、彼に起こったことを考えてみなさい!

  7.あなたは自分の条件で従順になることを決めたり、あなたの思う通りに神が答えられなくてはならないという条件や、すべてがうまく行くことを条件にして従順になることを決めるわけにはいかないのだ。あなたは晴天の時だけの神の友人となるわけにはいかないのだ! あなたは、すべてのものがうまくいかなくても、主に仕え続けなくてはならない! もしすべてのことがうまく運んでいる時だけ、喜んで信じ、従うつもりであるなら、あなたはあまり信じたり、従ったりはしないだろう。なぜなら主に従っている時、多くのことが順調に運ばないからだ!「正しい者には災いが多い!」−詩篇34:19

  8.しかし、聖書の中には人々が主の後を追いかけ、どんなことがあっても主に従ったので、結局のところ最後には癒された例が多くある。主が無視しておられるように見えた時さえ癒された例もある! 盲目の乞食や、病気の娘を持った女や他の者達のようにだ! (マルコ10:46-52,マタイ15:21-28) 癒される前にやめてしまった者達は、勿論、決して癒されなかったのだ!

  9.神はあなたを癒される前にあなたの信仰をテストし、喜んで従うかどうかを見たがっておられる。そしてあなたが決して癒されることはないように思われても、それでも信じ、従うかどうかを見たがっておられるのだ! 癒されることが、信仰と従順にどんな関係があるというのか? 全然関係ない! しかしあなたの信仰と従順はあなたの癒しに大いに関係する! あなたが信じ従うかどうかは、あなたが癒されるか癒されないかとは何の関係もないはずだ!

  10.たとえ、主が決してあなたを癒されなくても、主を信じ、従わなくてはならない! パウロは謙遜であり続けるため、死ぬまで肉体のとげを持っていた! 彼は完全な健康は与えられてはいなかった。なぜなら彼は他の多くの面で主によって栄誉を受けていたために、完全に健康だったらとても高ぶってしまったかもしれないからだ。しかし彼の肉体のとげは、彼が主に仕えることを妨げなかった!−−第二コリント12:7-9, ガラテヤ4:13-15

  11.神に仕え続けることができる限り、主があなたを癒されようが、癒されまいが、それに関係なく主に従い続けなくてはならない! あなたはヨブのようにできもので体全体を覆われている方が、主があなたを癒されるよりもずっと主にとって役立ち、ずっと謙遜で、もっと主を信じる信仰を持つかもしれない!

  12.多くの人達はただ神を利用したいのだ。神があまりにも容易に癒された人達を知っているが、その後彼らは自分の好き勝手な道を行ってしまった! 彼らは、本当は神に対して嘘をついていたのだ。彼らはもし主が癒してくれるなら、主に従うと誓った。しかし主が癒された途端に、そのことはすっかり忘れてしまい、以前よりも悪くなってしまった。より不信仰で、より不従順になったのだ!

  13.神は、何が起ころうともあなたが主を信じ従うかどうかを見るために、あなたの信仰をテストしておられるのかもしれない! しかし少しのテストが来るとその途端に、信じ、従うことをやめてしまう人人がいる。それで決してやり遂げることはできないのだ。

  14.人々が不平っぽい霊の内で、神に問いかけ始めることは、純然たる独善なのだ。なぜなら主はこう言われた。「人は神よりも正しくあろうか?」−−つまり、神と比べているというのか?

  15.そのような独善的な態度を持っている人々はこう言う、「神よ、もし私なら、あなたがするよりももっと良くするでしょう! 私はもっと正しいことでしょう! 私だったら、自分を癒すでしょうに!」といった具合に。言いかえると、「私は神よりも正しい人間だ! 私は神よりも善良だ! 私は神よりも良い! 神は善良ではない。そうでなければこれらのことが起こることを許されなかっただろうから!」

  16.しかし彼らは神を理解していないから、そう言っている。彼らは主が何をしておられるのかや、どうしてそれをしておられるのかがわからないのだ。そして彼らは主が最善を知っておられることを信じる信仰を持つまでは決して理解しないだろう! ちょうど子供がたとえどうして自分がこれやあれをしなくてはならないかや、あるいはしたらいけないかを理解しなくても、あるいはどうしてこのように、あるいはあのように振る舞わなくてはならないかがわからなくても、親に信頼しなくてはならないのと同じである。子供は「お父さんがそう言ったから」という理由でそれをしなくてはならないのだ!

  17.子供は、好む好まざるに拘わらず、信じ、従わなくてはならない。なぜならお父さんが最善を知っているからであり、結局はお父さんが正しかったことがわかるだろう! しかし子供が信じることをせず、従わなくても、お父さんが正しかったことがいずれわかるだろう。困難な方法でである! このように、単純なのだ!

  18.神は私達の信仰が真の金の信仰であって、何が起こっても神を信じ従うかを見るためにそれをテストされるのだ! 主は、「こうして、あなたがたの信仰は試されて、金よりもはるかに尊いものになった!」と言っておられる。信仰が試されてである! 「精練された金よりも」である。第一ペテロ1:7。 金は火を通っても、より精練されて金となって出てくる。もしそれが真の金であるならば!

  19.真の信仰と見せかけの信仰との違いというのは、真の信仰はテストに耐え、火を通っても金のように以前よりもより良いものとなって出てくるという事だ! しかし信仰のように見えるものでも、外見だけが価値のあるものに見えるだけの紙幣のぶたのお金のように、火を通る途端に何も残らないのだ!

  20.神はあなたがどのくらい与えるかによっては裁かれない。神はあなたにどのくらい残っているかによって裁かれる! そして神はあなたが持っていると主張するものによっては判断されず、神があなたをテストし終えられた時にどれだけ残っているかによって判断される!

  21.だからもしあなたに真の信仰があるなら、たとえあなたが死んでも、それでも神のために進み続けるだろう! そしてあなたは実際に死ぬのだ。なぜなら神に仕えることは、自己とプライドと自己正義の死を経験しながら、毎日死ぬことを意味するからだ!

  22.もしあなたは神に面倒をかけるたびに、神がやめられたとしたらどうなるかね? 私達皆が全くの混乱に陥る! もし神が、主の顔である私達にたくさんの醜いおできや、吹き出物や、できものや、ザソウができるたびにやめておられたらどうなるのかね? 私達は主が持っておられる唯一の顔なのだ! もし、私達が時々醜いからというだけで主がやめておられたらどうなるのかね? 私達は主が持っておられる唯一の顔なのであり、どんなに私達が醜くくても、また主の頭が告げたことにも拘わらず、主の体が時々いかに悪く振る舞ったとしても、主はそれでも進み続けていかなくてはならない!

  23.神はそのような種類の体に我慢されなくてはならない! だからどうしてそのような、小さな病に対して不平を言っているのか? 神の体がいかにめちゃくちゃな状態であるかを考えてもみなさい! 御言葉に対する信仰を持ち、それに従うなら、その時、神の愛と恵みと憐れみ、ただそれだけが、神の体を助けることができる。そうでなければ神の体は決してやり遂げることはできないだろう! たとえ神の体が病気で、片輪で、支離滅裂で、耳が聞こえず、おしで、盲目で、醜くかったとしても、それでも自分の子供達を世話するために進み続けなくてはならないのだ! もし神の体がそうするなら、もっと良い仕事をすることができるように多分神は癒してくれることであろう!

  24.「もしそうでなくても」、神の体はそれでも前進し続け、信じ続け、従い続けなくてはならない! ダニエル3章に書かれている炉の中に入っていった三人の神の子供達のように。彼らは、「われらの神は私達を救うことができるが、もし神が救い出されなくても、私達はそれでもあなたがたの忌ま忌ましい体制の偶像を拝みはしない!」と言ったのだ。そしてそれは終わりのように思われた。なぜなら彼らは炉の中に入って行き、死刑執行人さえもその炉で焼け死んでしまったからだ!しかし彼らの信仰と従順のゆえに、神はそこでも彼らと共におられ、彼らは煙の臭いさえつけずに出てきた!

  25.ヨブもそうだ。悪魔がヨブの家族を殺し、財産を奪い、そして殆ど彼自身でさえも殺されようとするのを主は許されたが、ヨブはそれでも悪魔に「参った」とは言わなかった。神を呪って死ねと言った自分の妻にさえもそう言わなかった!−−ヨブ2:8-10。彼は頭からつま先までできものによって覆われて、灰の山の上に座り、壊れた陶器の破片で、膿みやかさぶたや腫れ物を弱々しく削りながらも、ただ信じ、従い続け、「主が私を殺されても、私は彼を信頼する!」と言ったのだ!−ヨブ13:15。あなたもそのように言えるだろうか? ヨブのようなひどい状態に陥らなくて済むことを望む! しかしもしあなたがそのような状態に陥ってしまったとしても、絶対やめないでほしい!

  26.神のために進み続けなさい! どんなことがあろうとも信じ続け、従い続けなさい! 煙の臭いさえつけずに出てくることができるかも知れず、ヨブのようにより大きな家族を得、より金持ちになり、より健康で、幸福で、賢くなるかも知れない。もしあなたがもう少し長く、ヨブがしたようにしがみついて、あきらめないでいるなら!

  27.有名な海軍司令官ジョン・ポール・ジョーンズも、怪我をし、部下の半分は死ぬか、あるいは死にかけており、船に火がついて沈みかけていた時、降参する準備はできているかと敵軍から尋ねられ、彼はこう叫んだ。「とんでもない! 戦いはこれからだ!」 そして最後には勝利したのだ!

  28.あなたは悪魔とまだ本格的に戦い始めてもいないのかもしれない! たぶんあなたはイエスがされたように、十字架の死に至るほどの、血を流す程の抵抗をしたことがないのかも知れない。−−ヘブル12:3-4、ピリピ2:8。しかしたとえそれが彼を殺したとしても、たった三日後に墓から勝利の内によみがえられた! 死さえも主を引き下ろすことはできなかったのだ!

  29.どの程度の試練で、あなたはやめてしまい、兄弟に対する裏切り者になってしまうだろうか! それほど大きな試練を受けなくともそうなる人達もいる! 彼らは容易に裏切り者になり、ユダがしたように「容易な」道を取るのだ! 少なくとも彼はそれが容易な道だと思ったのである。自分の救い主を裏切ったことを悟るまでは! それから彼の良心はひどく傷み、首をつって自殺した!−−マタイ27:3-5。

  30.それともあなたは神の容易な方法を取るのだろうか。つまり否定するのではなく死を選ぶことである! どちらをあなたは選ぶのだろうか? 主は、ご自分を否定する者を父の前で否定すると言っておられる! しかしこの邪悪で罪深い時代にあって、主と、主の御言葉を恥じない者は、主も、神とすべての聖なる御使達の前でその者を告白すると言っておられる。たとえそうすることによって殉教者達が死んだようにあなたが死ぬことがあっても! 殉教者達は永遠に生きている! あなたはそのどちらになるのか? 疑う者、不従順な者、否定する者? それともたとえ死んでも信じる者、従う者、真実を伝える者だろうか!

  31.もしあなたが戻っていくなら、神に吐き気を催させる! しかしたとえあなたが病気であっても進み続けるなら、最後にはあなたは神を幸福にする。たとえそれが地上でのあなたの終わりを意味していても! 教会はいつも、「突然の死は、突然の栄光!」と語っている。彼らはそのようにして死にたいのだ! 痛みもなく、苦しみもなく、日々死ぬこともなく! しかしそれがゆっくりとした死を意味したとしても、永遠の栄光をもたらすのだ!

  32.あなたはどちらを選ぶだろうか? あなたに拷問や十字架刑はおろか、ただいくつかの小さな試練や、問題や、病気があるからと言う理由でやめてしまうのか? それともたとえ自分の信仰と神への従順のための証し人として悪魔があなたを殺すことを許されていても、神と共に進み続けて行くだろうか?

  33.私は、あなたが殉教者となることを望む。なぜなら殉教者という言葉は証し人という意味からだ! そしてイエスのために生き、死ぬことよりも偉大な証しを与えることができるだろうか? 神があなたを祝福し、守られるように! しかし、もし主がそうされなくても−「もしそうでなくても!」−主のために死ぬなら、主は永遠にあなたを守られるであろう! 神はあなたを愛しておられる! どのようなことが起ころうとも、そのことを覚えていなさい! もしあなたが主に従うと主が信頼することができるなら、主はあなたを癒し、助けたいのだ!

  34.「もしそうでなくても」、もし主がまだあなたを癒されず、助けられないのであれば、主が癒されるまで、あるいは死んでしまうまで、神のためにがんばり続けなさい。ヨブも死んでしまうと思った。しかしその代わりに彼は二倍も祝福され、永遠に生きている! 神があなたを祝福され、がんばり続けるよう助けられんことを!