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バックスライドの効用!  GP 312  1972年8月

神の上への道は、下に落ちること!

 

  1.質問: バックスライドした後も、再び、以前のように主に近くなる事ができるのでしょうか? 答:前よりももっと近くなれる! 質問: でもイブは、「りんご」を食べた後、悪を知り、再び純真になる事はできなくなったではないですか。答:しかし、彼女はもっと賢く、もっと謙虚になった!もっと信じるようになったし、より信仰を持ち、主が正しかったということを知るようになった!

  2.質問: しかし、エサウは自分の地位を失いました! 答: 上の答と同じだ。失敗は、人に多くのことを教えてくれる。たとえば放蕩息子がそうだ。彼は長子の権利を失ったが、多くの価値あるレッスンを学んだ。主はイシマエルとエサウから、多くの国を作ると約束された。

  3.「りんご」を食べる前の罪のない純真さは失うが、実際にはそれ以上に、知恵と知識のレッスンといったような、もっと価値あるものを得たことになる。質問:しかし、そんなに知識があり、主から離れるのなら、戻るのが難しい事がよくあります。答:ダビデ王にとっても、それは困難な道だった。しかし、その困難さが彼に憐れみを持つ事と、謙虚さ、やさしさを教えたのだった。

  4.バックスライドは、困難な道だ! ヤコブは、ラバンのもとで辛い経験をしただろう。ヤコブはかなりの悪党だったが、結局は自分よりもっと悪党のもとで働かなくてはならなかった! それがとうとう彼を砕いた。その結果、彼が得たものを見てみなさい。どん底に落ちる前、彼はただの「ペテン師ヤコブ」だったが、その後で、「神と民のプリンス」と呼ばれるようになった! 創世記35:10-11。

  5.人々は、自分が罪とは無縁の存在ではなくなると、もう自分は主に近くはないと感じる。それは、人々が、神の義の本当の意味を知らないからだ。彼らが義と考えているものは、神の考える義とはかけ離れている! 自分がとても正しく善い人間だと思っているのは、自己正義であって、神に近いのではなく、自分に近いのだ! それは、「罪のない完全さ」といったような、教会の倒錯した考えである。

  6.ダビデ王は、罪びとになった後の方がもっと義とされた。それ以前は、彼はとても傲漫で独善的な人だった! 私が自分の罪を告白し、みんなに打ち明ける必要があるという理由の一つは、その事が私を謙虚に保ってくれるからだ! そうすることは、自分に正直になり、他の人に正直になり、主に正直になる助けとなる。

  7.私達が罪びとである事を告白し、自分と罪をさらけだすことは、自分が純粋無垢の見本とはかけ離れているという事を思い起こさせる! もう自分が天使のようには感じないかもしれないが、その時、神の考えられる聖人に近いものになったのだ!

  8.世間は、善を神聖さと同じものと考える。独善的な完全さのことを、善や神聖さだと思っているのだ。世間は、罪深い事を悪魔的な事と同じものと考える。しかし、主は、罪のない、完全な人と呼ばれる人よりも、罪びとの方がもっと神に近いと言われた!(ルカ18:9-14を読むこと)酔っ払いや娼婦や、麻薬常習者の方がもっと神に近い。神の上への道は、下に下がる事なのだ!

  9.神は、敗北と見えることから、最大の勝利をもたらして下さる。イエスはこう言われた。「多く愛したから、その多くの罪は許されているのである。」−−ルカ7:47。ダビデはたくさんの罪を犯したが、神は彼をご自分の心にかなった人だと言われた! ダビデは、神の心にかなった人だったのだ! 使徒行伝13:22。

  10.人がイエスにとって悪すぎるという事はない! 良すぎるのは問題だが! 「自分を高くするものは低められ、自分を低くするものは、高められる。」−−マタイ23:12。 放蕩息子は、最初に家にいた時より、堕落し泥沼の中にいた時の方が、もっと父に近くなった。なぜなら、泥沼の中で初めて家を感謝するようになったからだ!

  11.自己正義は、肉の働きだ! 自分が純粋で無垢だった頃が神に近かったというのは、悪魔の惑わしだ!  アダムとイブがエデンの園に住んでいた時の方が、神に近かったというのは嘘だ! 彼らは、主の御前から追い出されたのではなく、実際は主の御前に追いやられたのだった。以前よりも、もっと良く主を知る為に! 彼らはエデンの園から追い出されて生き抜く為に、神に近くならなければならない状況に追いやられたのだ!

  12.聖書の中で最も偉大な人達は、ひどい間違いを犯した人達だった。その間違いによって、自分は罪びとで、神が必要なのだということに目ざめたのだった。間違いをした記録が残っていないのは、ヨセフだけだったと言われている。しかし、私は前にこう思ったのを覚えている。「兄達に、自分の見たあの夢を話すなんて、何という愚か者なのだろう。」と。彼は典型的な甘やかされた子供だった。自分が兄弟の中で一番優れた者になると自慢しなければ、穴に入れられることもなく、奴隷として売られることもなかっただろう!

  13.しかし、主は彼を低めるために、そういう手段を使わなくてはならなかった。主が彼を高め、自分の民を救う者とするためには、まず、彼を奴隷にし、囚人とし、罪びととして謙虚にさせなければならなかった。甘やかされて育った子供だったからだ!

  14.だから、悪魔の考える正義は、神の思われる正義とは全く正反対のものだ。悪魔の考える正義は自己正義であり、他の人達よりも清いと思う偽善だ。いわゆる罪など犯さぬ完全主義者のことだ。

  15.それに比べて、神が義と考えられるのは、かわいそうで、希望がなく、さ迷っていて、愛情深く、謙遜で、罪ばかり犯し、神が必要だということを知っている罪びとである。主はそれらの人々を救うために来られた! 「私がきたのは、義人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」−−マタイ9:13。

  16.だから、神に近い人々こそ、神の考えるところの善人である。つまり、自分は、罪びとで神が必要だと知っていて、ただ主だけが救って下さると信じている人々のことである。自分の善によって自分を救えると思っている、悪魔から出た、教会的で、独善に満ち、偽善的なパリサイ人のことではない。だから、バックスライドは時々、自分が、神なしには希望のない、どうしようもない罪びとだという事に目覚めさせてくれ、良い結果を招く! その時、あなたが神に助けを求めて戻ってくるという希望がある。それと反対に自己正義的な者達は、主の助けなどはいらないと思い、失われたままの状態でいることだろう!

  17.生きている限りは、望みがある。イザヤはこう言っている。「悪しきものはその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。」イザヤ55:7。

  18.神は、敗北と思えるところから、最大の勝利をもたらしてくれる! 神の上への道は、下に落ちる事だ! 自分に失敗し、独善を打ち砕かれ、落ちることだ! そうすれば、十字架での勝利、自己の死という上の道に上って行ける!

  19.自分は敗北し、もう終わりまできてしまったと感じているか? 神に戻りなさい! もうロープの端っこまできてしまったのか?それを離して神にやってもらいなさい! やっていけないと感じるか?神にやってもらうのだ! あなたのピンチは、神が働かれるチャンスなのだから! すべての事を試みてみたか? 神を試してみてはどうか?神はあなたを愛している!