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預言することを軽んじてはならない! GP 244 1973年6月

 

偽の預言について:

  1.預言することを軽んじてはならない! 異言で語ることを禁じてはならない!私は、すべての火を消し、全然火がないよりは、真の火の内に、少しの突飛な火がある方を好む! 預言者が語るのを禁じてはならない。たとえ、彼らが勝利をとっていないとわかっていても! もちろん、常にその霊の自由を利用する者はいるが、人々にチャンスを与えなければならない。御霊が動いている限り、私は人々に続けさせる。だが、私が物事をしっかりコントロールしていたので、人々は、自分が御霊の内にいないなら、預言などしまいと決めていた。なぜなら、私はすぐに彼らを叱責するからだ。

  2.だが、それがひどく聖書から外れていて、害を及ぼしたり、教義上間違っているのでない限り、それが害のない預言で、たとえ肉の内のものであれ、大したことのないものなら、私はただ見過ごし、そのまま続けていった。人々は、私が誰かの預言のことをあまりすごいと思っていない時は、それと察したのだ。私は、確かでないなら、ただ黙っていた。好きなら、私は 「アァメン」と言う! 私が厳しく裁きを下した預言は、聖書から外れているか、教義上偽りであるか、主の御名を利用した、故意の、恨みがこもった、誰かに対する偽りの非難を含む預言だけである! だが、私が教義上偽りだとみなすものや、聖書に反するものや本当に害を及ぼすものや、人々を誤って導きそうなものに対してだけは、私は、 「これは、聖書に基づいているとは思わない。この人は、誤って導かれている、あるいは、だまされ、混乱させられている。あるいは、私が理解しなかったのかもしれない。」と言わなければならない。私は、できるだけ優しく、愛の内に、人々をたしなめようとした。

  3.だが、私は彼らに話させるのを拒んだことはないと思う。なぜなら、彼らが話さないなら、彼らが霊の内にいるかどうかが、どうやってわかるのか? あるいは、どうやって、集まっている者達にわかるのか? そして、彼らが霊からはずれているとしても、みんなにその事をわからせる最善の方法の一つは、彼らに話させることである! 御霊を制限しないように気をつけなさい! だが勿論、御霊の自由を許せば、時には、偽りの霊に対しても扉を開く事にもなり、よく、神のではない霊に霊感されて、霊からはずれた人がいるものである。当人が、ばかで、無知で、だまされ、無知のゆえにしただけだったら、私はいわば、聞き流す。

  4.だが、人が、故意に偽りの預言を語り始め、あることやある人々が神のものでないなどと言うと、私は彼らにぶつけ、みんなの前で公然と彼らを叱責し、その場で彼らに屈辱を与え、こう言った。 「その言葉を取り消すか、さもなければ出て行きなさい! あなたは偽りの預言をしており、取り乱している。だから、悔い改めた方がいい。さもなければ、出て行きなさい。そうしないと、神があなたに裁きを下されるであろう!」 だが、あなたはたくさんの知恵を持ち合わせていなければならない。必ず、誰か、御霊を知っており、それを感知できる人が、ミーティングをコントロールするようにした方がいい。たとえ、預言している人のことをたいした人だとは思わなくても、彼らにもチャンスを与えなければならない。主の霊のあるところには、自由がある。そして自由があると、悪魔は常にそれを利用しようとする。

  5.だが、あなた達は彼らにチャンスを与えなければならない。なぜなら、彼らに話させないなら、あなた達には本当のところがわからないからだ。彼らが偽預言者だということが証明されたら、彼らにくつこをかけ、彼らが身を正すまで、もう預言を許さないようにしなければならない。私は、御霊の自由を信じている。預言することを禁じてはいけない。あなた達は、人々に話させなければならない。それから判断しなさい。なぜなら、そうさせないなら、事を聞く前に、それを判断しているわけで、それは、あなた達にとって恥ずべき事であり、責められるべきことだからだ! そういうミーティングを開くには、多くの信仰が必要で、あなた達は主と波長が合っていなければならない。あなた達は、主が導いて下さり、主が許されない限りは、偽の預言は出ないこと、そして、もし主が偽の預言が起こるのを許されるなら、主は、真実を持ち出すためにそれをしておられるのだということに信頼しなければならない! また、主が、預言を判断する上で導いて下さり、霊からはずれた人に対してどうやって愛の内に戒めを与えるかに関して知恵を与えて下さると、信仰を持ちなさい。

  6.これは責任の重いことだ。だが、これは、多くの教会の犯した間違いである。つまり、突飛な火を恐れたために、教会は全く火を許さなかったのだ! 神でさえ、その御座の前で悪魔に言いたいことを言わせられる。そして昼も夜も悪魔は聖徒を非難する! 神は悪魔にくつこをかけることをなさらない。神は、悪魔に自らをさらけ出させ、悪魔が誰の側についているかをさらけ出させられる。誰でも話す機会を持たなければならない。そうでなかったら、あなた達には、彼がはずれているかどうかもわからない!

 

                         預言について:

 

  7.神からの預言と、悪魔、あるいは自分の霊による預言とを見分ける方法:

  1)聖書に基づいているか?

  2)神に選ばれたリーダーによって認められたか?

  3)何人かの証人の口によって確かめられたか?

  4)成就されたか?

  5)役に立つか?

  8.神は、ご自分のモーセにまず示されるということを覚えておきなさい! モーセも何回か間違いを犯したが、彼がだまされた事は一度もなかった! こう自問しなさい。レターの中で確認できるだろうか?聖書に基づいているか? それは役に立ち、また励ましとなるか?

  9.預言するというのは、最も重大な事の一つである! だから、それが神からだという確信があった方がよい。そうでないなら、口を閉ざしていなさい! それらを判断するために中断することなしに、決して、2つ以上の預言を続けて言わせてはいけない。そうでないと、忘れてしまう! もっと良いのは、預言されるたびに一つ一つ判断することだ。預言を判断する時は、リーダーは、コメントの必要なものは何でも、それを見逃す事のないようにと聖霊に求めるべきである。リーダーは注意深く耳を傾け、注意散漫でいてはならない。

  10.預言者に関しては、こう自問してみなさい。この預言者は、たいてい真の預言者だっただろうか? 過去における彼の預言は、真実だと証明されただろうか? 彼の結ぶ実は良いものだっただろうか? その実によって彼らをみわけるのである! 彼の預言は、私達にとって良いものか? 私達のためになるか?

  11.真の預言はたいてい、とがめだてることはない。聖徒を非難する者は、悪魔である! ナタンがダビデの前でしたように、主が非難されることは希である。だがその場合は、ひどく悪く、みんなを傷つけた場合で、そうでなければ、主はたいてい、そういう非難を公の場で持ち出すことはなさらない。公の場での悔い改めがなされなければならないなら話は別だが!  「すべての人の前で罪を犯した者に対しては、すべての人の前でその罪をとがむべきである!」

  12.大抵、公の場での預言は、大いなる力とインスピレーションが伴い、聖書に基づいており、霊を高め、啓発的で、励ましとなり、精神を昂揚させる! それは、子供達への父からの励ましなのだ! それが叱責であることはめったにない! だが、そうであってもなお、愛の内になされる! GBY! 良き預言があるように!