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ベルと本とろうそく! GP 203  1973年2月

 (マルコ10:17-27に出てくる、支配階級の裕福な若者のような若い青年の為に祈っていた時、受けた預言−−それとも、その青年は、あなたのようなのかもしれないが?)

 

  1.どちらの場合にしてもそれはプライドだ。パウロがしたように女を全く断とうとするのも、全くのプライドのなせる業だ。一方、失敗することを恐れて、結婚することを拒むことも、プライドなのだ。プライドと失敗への恐れが混ざっているのだ。

  2. (ダビデが彼の為に祈り、そして、こう語る:) それはちょうど、彼が私に話しているのが、突然見えるようだった。でもその言葉は彼がしゃべっているように、私の口から出てきていた。−−その言葉は彼の思いであり、彼の考えていることだった。

  3.全体的には、このような感じだった。 「彼女は私をそのような非利己的な愛で、犠牲的に愛してくれているが、私はその愛に値しないし、その愛を受けることは利己的に思える。だから、それを受けるのを恥ずかしく思っている。」  彼女が彼を愛することは、自分を辱めているようなものなのだ。それは、プライドにかかわる事なのだ。恥ずかしいと思うこと−−辱められる、恥をかかされる−−というのはプライドの反対である。そして、そのことは彼を本当に恥ずかしい思いにさせるので、彼は、プライドのせいでそれを受け入れるのを拒否するのだ。

  4.彼のプライドと育ちが、自分は彼女にはもったいないということを語りかける。自分の家族に何と言われるだろうかと、他人の意見を気にしているのだ。−−又、そのため、あまりよく知らない女の子と恋に陥っていることで、少し恥に思っているのだ。彼自身、正直なところ、自分のことを恥に思っているのだ。なぜなら、心の内では、彼女の愛は彼よりも純粋で、もっと非利己的で、犠牲的だと知っているからだ。他人の意見は、その人達の前で彼を恥ずかしい思いにさせるが、真実は、彼女の前で彼を辱める。

  5.主よ、彼は、プライドと愛の間で張り裂けそうです。あなたの愛、そして彼女の愛との間で。人間には不可能でも、神に不可能なことはない! (ダッドがビジョンを見る:)

   6.私は、ぶどう園が黄金の太陽の光で暖まっているのが見える。私の見ているこの黄金の太陽の光のように、主は、すべての疑いを消し去ってくれることができる。−−敵の疑いと恐れと嘘のすべてを。そして暖かさと、実り豊かさを、母のふところのような地に運んできてくれ、こうして多くの実を結ぶ事ができるように−−多くのぶどうの樹とその枝、たくさんの実を結ぶ為に。なんて美しい!−−美しいぶどう園−−熟しそうになっているぶどう。黄金の土、−−美しい金色に光る陽光! ちょうど、主が太陽で、私達がぶどう園であるかのように。主は私達の上に光り輝き、すべての影や疑い、恐れや寒さを取り除き、地のふところで暖めて下さり、実を結ぶことができるようにしてくれる。−−私達のふところ、私達の実、主の太陽。

  7.力が足りない事は、プライドから来る恐れの結果だ。成功しないかもしれないという恐れ、恥ずかしい目にあうかもしれないという恐れ、屈辱に合うかもしれないという恐れ、このような恐れは、常にプライドが原因で起こる。なぜなら、プライドの高い者は、失敗することを恐れるからだ。裕福な者、権力のある者は世界中で一番恐れを持った人達なのだ。

  8.高ぶる心には安らぎはない。プライドの高い者は常に恐れを持っている。しかし、謙遜でいるなら、完全な平安がある。なぜなら、謙遜には、愛と信仰が伴い、恐れはないからだ。プライドは、失敗するかもしれないという恐れを引き起こす。その結果、実際に失敗を引き起こすことになる。プライドは失敗するかもしれないという恐れを引き起こし、その恐れがあなたを弱くし、不能にしてしまう。だから、実際に失敗してしまうのだ!−−十分の力を持てなくなる。失敗するかもしれないという恐れが失敗を確定する。なぜなら、信仰だけが成功をもたらすものだからだ。

  9.恐れは信仰の反対であり、信仰がなくては、力を持つことはできない。不能者は、霊の力を十分持ってはいない。彼らは差し控えており、すべてを与える気持ちになっていない。彼らは、主の御前に、裸になって横たわり、主に力を注入してもらうという気持ちがないのだ。来て、従い、外側の衣を脱ぎ捨てて、覆いを捨て、偽りの面を捨て去り、主に自分をさらけ出して、謙遜の内に完全に主に自分の身を委ねるには、神の愛に対して信仰を持つ必要がある。

  10.そうやって自分の役を果たした時、初めて、主は御自身の役割を果たして下さり、あなたを霊感し、主の霊で満たして下さって、あなたが実を結ぶことを可能にして下さるだろう。主のインスピレーションのスパイヤー(尖ったもの)は霊的なオルガズムに到達させ、それは、あなたを主の御霊で満たし、神の御言葉の種がほとばしり出て、感応的な心に受け入れられた時に実を結ぶのだ。その実とは、神の御国へと生まれた新しいベーブなのだ! 主の霊は、不能も、主の花嫁の不感症も癒し、主の御言葉の種を受胎する力を与える。そして、神のもとへ子供を産むのだ。

  11.しかし、もしプライドがあるなら、その人は弱い。なぜなら、神に信頼し、神の恵みによって神に物事をしてもらうかわりに、自分のプライドのゆえに自分の肉の力で物事をしようとするからだ。そして、その人に信仰がなく、神を信頼して十分な力を得ることができない理由は、まだ、自分が身を委ねていないと知っているからだ。特にプライドを捨てていないのだ。しかし、彼が、自分のプライドを主に委ねる時が来たら、主は、すべての事において、彼に必要な力を与えて下さるだろう。しかし、彼はまだたくさんのプライドを持っており、主に完全に従ってはいない。そして、主に従っていないのなら、神があなたを祝福してくれるという信仰を持つことはできないだろう。神が不従順な者をどうして祝福することができるだろうか?

  12.彼が探している至上の信仰は、彼が真にすべてを捨て、あなたに従い始める、あの完全な従順の内にこそ、見つけることができるのです! 彼が本気で自分の十字架を取って、自分を否定して、プライドや強情な意志をあなたに委ねて、従う時に、必要な力はすべて与えられるでしょう。なぜなら、彼があなたに降伏すれば、あなたは、彼に力を与えられるからです。

  13.主は、彼が自分の名前を署名するように、本を開いておられる。彼の名前を署名することが、完全に身を捧げることでもあるかのように。彼は、そこで、ためらいと迷いの内に立っているが、主は永遠には待たれない。その決断は、完全に彼に任されている。それはちょうど神がこう言っておられるようなものだった。 「あなた次第だ、息子よ、もし署名しないなら、私はこの本を閉じなくてはならない。」 そして、彼を自由にしたはずのキスが、炎を消すキスになるかもしれない。

  14.ある人達は、本当に近くまで来るのに、そんなにもかけ離れている! あの金持ちの支配階級の若者は、主のもとへと走って来て、どうしたらいいのか聞いた。−−マルコ 10:17-22。 彼はもう少しという所まできていたのに−−ほとんどと言っていいほど。でも敗れたのだ! ちょうどその炎は愛で−−主が彼に与えようとしている愛の生活のようだった。主は、本とろうそくの両方を持っておられる。でも彼が署名しないのなら、神は、そのろうそくを吹き消してしまわなければならない! 愛を持って優しくされるが、神は必ず吹き消されるのだ! それが彼の命を吹き消す事を意味していないように願っている。しかし、もし人々が正しい決断をしないのなら、多くの場合主は、彼らが主に背を向けるままにするよりも、命の炎を吹き消してしまわれるのだ。静止状態ということはあり得ない。決断の時に迫られたのなら、主と共に進むか、背を向けるかのどちらかしかない。背を向けるなら、時に、ひどくバックスライドしてしまい、神の仕事に損害をもたらすまでになることもある。

  15.主は、私達のかわりに決断して下さることはできない! 私達が自分で決断しなければならないのだ。主は他のすべての事をして下さる。−−力を与え、強さ、知恵、命、愛を与えて下さる。彼が望んでおられるのは、私達が自分自身を捧げることだけなのだ。

  16.神は私達に選択を任せておられる! 私達には選択ができるのだ! 悪魔は、私達が選択することを邪魔することはできない。悪魔が何をしようとも、決断だけはできるのだ。−−私達には選択ができるのだ! もし選択する意志があるのなら、選択できるのだ。その本は、ちょうどその青年が人生を綴って行く人生記の本を象徴しているようで、もし署名するなら、書き込むことができるようである。それは彼の人生記のようなものだ。ろうそくは光と、光と愛の霊を象徴している。神は、彼がサインすることができるように、光と愛の霊で本を照らしておられるのだ。しかし、彼が書かないのなら、ベルは時を告げ、神は本を閉じられ、ろうそくを吹き消される。青年は自分で、彼に反して戦っている霊的な力を拒もうという選択をしなければならない。そうしなければ、彼は暗闇にとり残されてしまうだろう!

  17.主よ、語って下さって感謝します! あなたは、すべての事の答えを持っておられます。私達は、あなたの示して下さること以外は、何も知らないのです。だから、ただあなたに尋ねればいいのです。あなたは、与えられるだろうということを約束して下さいました。戸をたたいたら、開けてもらえました。その中を見て、全体像を見ることができます! 私達が心から答えを探すなら、見い出すことができます。

  18.神はすべての事を、愛の内にされます。与える事も、取られる事もされる。でもどちらにしても、両方を愛の内にされる。あなたは神の道を選んでいるか?−−それとも自分自身の道を選んでいるのか?