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詩篇68篇! GP 83 1971年7月

 

  1.それは1968年1月頃のことであった。場所は、カリフォルニアのグランドマザーの小さな家の、小さなリビングルームだった。私達の小さな家族は、テキサスからそこを訪問しに来ていたのである。私達はそこに約1カ月ぐらい前、ちょうどクリスマス直前に来ていた。私達がそこに来たのは、彼女が招待したためであり、また、その前の年に、主がフロリダで私達に与えられた預言に応じるためであった。

  2.私達は、祖母の小さな家の、小さなリビングルームに座っていた。そこに到着してから1カ月あまりたった頃であった。私達はうちひしがれ、気落ちし、意気消沈していた。開かれた扉は一つもなく、教会からの集会の予約もなく、金もほとんどなかった。私達は全部で十人くらいで、裏通りに面した祖母の3部屋きりの家にしがみついていた。誰も、貧しいテキサスからのティーンエージャー達−−素人音楽家達に演奏を頼もうという者はなかった。南カリフォルニアの教会は、一流の演奏家達のいる優れた教会演奏団を持っており、必要があれば、いつでもそれを呼べるのであった! 私達は全く無名であった。彼らは、私達のことを聞いたこともなかった。私達は、主以外のどんなものにも属していなかった。どんな信任状も持っておらず、どんな宗派の連携もなかった。だから私達を呼んでくれるのは祖母の友人たちのほんの数人だけであった。

  3.カリフォルニアでは、私達はほとんど集会を持つことができず、そのためにほとんど無一文になり、1カ月かそこらで、私達は実質的に、82歳になるグランドマザーの少ない年金によって養われる以外には、方法がなくなった! 私達はすっかり気落ちして憂うつになり、ほとんどあきらめてカリフォルニアを去り、私達をもっと受け入れてくれた東部へ、また帰ろうかと思った。その晩、私達が彼女の家の床に座っていた時、主は語り始められた。私達の心を励まし、私達に将来を教え、忍耐を持つように言われた!

  4.若者達は、海岸やローズボール・パレードなどで証しを続けていた。しかし、若い人達を主に導くことは、羊を入れる囲いなしでやるとどんなに難しいことか。忌ま忌ましい教会に送る以外に方法はないのである!

  5.私達は、ひたすら待った。主のために証しなどを忙しく続けながら。集会も何回か開いたが、その効果はほとんどゼロだった! 扉は一つも開かれなかった! 新しいミニストリーも全然だった! 私達は、すっかり落胆していた!

  6.しかし、その晩主は語り始められた! 私達は、グランドマザーに、ここでは全然宣教の見込みがないので、東部にまた帰ろうと思っていると知らせるために、祈りの会を開こうとみんなを集めていたのである。すべて絶望的に見えた! その時主は語られた。主をほめよ! 主は言われた、「どこに行ったらいいかわからない時は、じっとしていなさい! 霧の中で自動車を運転していて、その霧がいっそう濃くなって視界がきかなくなったら、無理に運転を続けないほうがいい。車を片側に寄せ、霧が晴れて、また道路がはっきり見えるようになるまで静かに待ちなさい!」 そして、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはあなたに何をすべきかをもうすぐ示す。わたしは今でもあなたの道を準備している!」  それから神はこう言われた、 「あなたの聖書を開け。わたしは、わたしが何をしようとしているかを示そう!」 −−すぐホーが彼の聖書を開いた。そして、主が私達に与えられた聖書の箇所がこれであった。−−私達の宣教の輝かしい未来の予告! 詩篇第68篇−−1968年の冬の荒涼とした私達の失望の夜であった。

 

  7.第1節−− 「神よ、立ち上がって、その敵を散らし、神を憎む者を、御前から逃げ去らせて下さい。」 神ご自身が立ち上がって、私達の敵を散らそうとしておられた。私達の敵とは、私達をこれほども気落ちさせた悪魔とサタンの軍勢であり、私達を拒絶した諸教会、私達に聞かなかったクリスチャン達である!

  8.第2節−− 「煙の追いやられるように彼らを追いやり、ろうの火の前に溶けるように、悪しき者を神の前に滅ぼして下さい。」 神は、私達の視界を暗くしている雲と煙を追いはらおうとしておられた!−−私達を取り巻く、厚い失意の霧、私達を身動きできなくしてしまったサタンの軍勢である。神は、彼らを散らして、私達を助けようとしておられる。神をほめよ!

  9.第3節−− 「しかし、正しい者を喜ばせ、神の前に喜び踊らせ、喜び楽しませて下さい。」  私達は意気消沈したり、つぶやいたり、落胆したりしてはいけなかったのだ。私達は、主が私達に与えようとしておられる未来の輝かしい勝利は、今はまだそれを見ることができないが、その事を信仰によって感謝し、主をほめるべきである。私達が、この章を終わった時、私達の祈りのミーティングは賛美の礼拝に変わったが、私はその時の様子をいつまでも忘れないだろう!

  10.第4節−− 「神にむかって歌え。その御名をほめうたえ。雲に乗られる者にむかって歌声をあげよ。その名は主、その御前に喜び踊れ。」 神は、敗北と見えるところから最大の勝利を収められる。そして、しばしば神は、忘れられていた賛美の小道を私達が歩む時に勝利をもたらされるのだ! 状況が最悪と思える時には決して下を見るな!−−上を見よ! 決してつぶやいたり、不平を言ったりするな! 主をほめたたえ始めよ! あなたは、主をほめることによって、悪魔があなたを落とし込もうとしている穴から抜け出ることがよくある! 主は賛美を好まれる。いと高き聖なる方は、その民の賛美の内に住まれる。主の良き香りは、主の子供達の賛美という香水の中にある! 主をほめよ!

  11.第5節−− 「その聖なる住まいにおられる神は、みなしごの父、やもめの保護者である。」  神は、すぐその後、私達を使ってしようとしておられた事−−神が、私達に与えようとしておられたミニストリーをかいま見させ始められたのである。私達は、その時は理解することはできなかったが、しかし今、それを振り返って見る時、神がその時何を話しておられたかを理解できる! 神は、私達を使って、ご自身の憐れみをこの見捨てられた世代に示そうとされたのである!−−失われた世代−−散らされ、羊飼いを持たない、かわいそうな、さまよえる羊たち−−ヒッピーの世代−−神の愛を待っている霊的な孤児に! 私達を通して始まったこの小さい運動が、世界の若者の間で盛り上がった現在の強力なイエス運動に発展したのである! やもめとは、見捨てられ、忘れられた人達を象徴しているように思われる。すでにクリスチャンになっているが、夫もなく、家もなき者達、つまり、真理と神の真の道をまだ発見していないが、それを探し求めている、誠実なクリスチャン達で、彼らは教会の中にそれを発見できないでいる。この花嫁は、家のないやもめのように、この地で最も低い身分であるが、誠実であり、求めているのだ。

  12.そして主は、昔の預言者にそうされたように、非常に多くのザレパテのやもめたちを用いて私達を援助して下さった! どれだけ多くのやもめたちが、彼女達自身、飢えているような状態にあったにもかかわらず、なけなしのものを私達に分けてくれたことだろうか! そして主は、そのことのゆえにどんなに素晴らしく彼女達を祝福されたことであろうか!

  13.第6節−− 「神は、寄るべなき者に住むべき家を与え、めしゅうどを解いて幸福に導かれる。しかしそむく者はかわいた地に住む。」  これは、まさに神が行なわれたことであった。神は、これらの孤独な若者達を、このホームの家族の中に入れられ、彼らを、サタンの束縛の鎖から解放された。しかし教会の人達は、真理に背いているために、今もなお自分達が作った乾いた地にいる!

  14.第7節及び8節−− 「神よ、あなたが民に先立ち出て、荒野を進み行かれた時、セラ、シナイの主なる神の前に、イスラエルの神なる神の前に、地は震い、天は雨を降らせました。」 主は、彼が私達に先立ち出て、私達を導き、地を私達の足音で震わせる事を暗示しておられる。まさしく彼らは、私達の預言者達の雷鳴に震える。それは神が、私達を通してその警告の轟きを彼らに与えられるからである。

  15.第9節−− 「神よ、あなたは豊かな雨を降らせて、疲れ衰えたあなたの嗣業の地を回復され、」 この節は、確かに私達に向けられたものである! 神の嗣業である私達は、ひどく弱り、落胆していた。私達は、乾ききって、元気を回復してくれるものを必要としていた。その時神は、顧みられることのなかったカリフォルニアのヒッピー達と若者達に対する私達の伝道をきっかけにして、その御霊と祝福を私達に豊かに下し始められた。私は、あんなに素晴らしく聖霊がほとばしるのを今まで見たことがなかった。私達が若者達の間で証しを始めると、彼らは勝ち取られると同時に聖霊に満たされ、その小さなグループの間で、素晴らしい御霊の現れや預言が沢山なされた!

  16.第10節−−「あなたの群れはその内に住まいを得ました。神よ、あなたの恵みをもって、貧しい者のために備えられました。」 この 「群れ」 という言葉さえ、当時は一握りしかいなかった私達の人々には大きすぎると思われたけれど、神は私達を通して多くの人々−−孤独な若い人々を精神的、物質的両面において養おうとしておられること、そしてその過程において、もうほとんどお金が残っていない私達をも養おうとしておられることを示された。 「貧しい者を哀れむ者は主に貸すのだ。その施しは主がつぐなわれる。」 −−そして、確かに、主はつぐなってこられた!

  17.第11節−− 「主は御言葉を与えられた。それを広める者たちの群れ (company) は幸いである。」 私達は、私達がそのメッセージを持っていることを知っていた。しかし、この節を聞いておびえてしまいそうだった! 私達は、自分達の小さな家族のための信仰を持つことにさえ苦労していたので、出版する人々の群れ(company) など考える余裕などなかった。私は、その意味するものは、私達の仲間がもっともっと増えることだと知っていた。そして、私はそれ以上の責任を負いたくなかった。しかし同時に私は、私達がそれを望もうと望むまいと、神はそれを私達に与えようとしておられることも知っていた。PTL! そして、主は、確かにそうしてこられた。事実、すでに多くの世俗の大きな会社(companies) が、私達の文書刊行を助けている。−−世界で最高の発行部数を持ついくつかの新聞も、私達のことを記事に取り上げてきたし、最大規模の出版社や、ラジオ、テレビの放送局、ネットワーク会社などが私達のことを報じてきた。PTL!

  18.第12節−−「『もろもろの軍勢の王たちは、逃げ去り、逃げ去った』と。家にとどまる女たちは獲物を分ける。」 私は、この国の全土に、いくつかのチームが、本部となっているホームから出て広がり、主の王達−−あなた達神の子供−−に指導されて国中に御言葉を広めているのを見ることができる。そして、彼らは主の指示に従いながら、エジプト人達から彼らの最も価値ある宝物、彼らの最高の富を、最も価値ある戦利品を、すなわち彼らの若者達の魂と生命を奪っているのである。

  19.第13節−− 「たとい彼らは羊のおりの中にとどまるとも、はとの翼は、しろがねをもっておおわれ、その羽はきらめくこがねをもっておおわれる。」  私達は、教会によってくず扱いにされていたけれど、神は私達に翼を与えて、この新しいミニストリーを通して、天に昇らせて下さる。私達がかつて見たことのない栄光、私達には想像もできなかった高いミニストリーである!

  20.第14節−− 「全能者が、かしこで王たちを散らされた時、ザルモンは雪のように白かった。」  私達は今、非常に多くを理解し始め、この節が何を意味するのかを本当に知り始めている。しかし、主が 「白い」 と言われたのは何故だろうか。これは、収穫を意味するだろう? 神は、あなたたち王達を刈り入れの地にあまねく散らして、神の栄光のために刈り入れをさせられるのである。ハレルヤ!  21.第15節−− 「神の山、バシャンの山、峰かさなる山、バシャンの山よ」  バシャンの山は、巨人オグの住み家であった。それはヨルダン川の向こう側にある山で、イスラエルの敵のところにあった。これらの峰々は政府を表す。主の山というのは私達のこと、主の民、主の子供達のことである。主は、主ご自身の山を増やし、また敵の山と同じように高くする、と言っている。−−すなわち世界の政府である。そして私達は、新しい国である! 事実私達に敵対する山々よりも一層大きな山にである。なぜなら私達は神の国だからである!  22.第16節−− 「峰かさなるもろもろの山よ、何ゆえ神がすまいにと望まれた山をねたみ見るのか、まことに主はとこしえにそ

こに住まわれる。」  彼らは努力して、彼ら自身を高めようとしている。しかし私達は、主が高められた者達である!

  23.第17節−− 「神のいくさ車は2万である。そして何千人もの天使たち」 主は聖なる場所シナイにあって、彼らと共におられる。2万台のいくさ車といえば、これはすごい大戦隊ではないか! 私達は今始めたばかりである。主をほめよ! 私達はまた神の天使でもある−−地上にある神の天使−−神の奉仕する霊、神の聖徒たちである。ダニエル書では、私達は天の軍勢と呼ばれている! 黙示録22章8節と9節も見よ。

  24.第18節−− 「あなたはとりこを率い、人々の内から、またそむく者のうちから贈り物を受けて高い山に登られた。主なる神がそこに住まわれるためである。」  捕虜達を取り戻されたのである。本来神に属する者を神が取り返されたのである。若者達は、悪魔の捕虜になっていた! 神がそれを奪い返された。彼らは生まれる前は−−世界が創造される前は神の子供であったのだ! 「あなたは、贈り物を人々のために受けられた」−−あるいは次のように読んでもいいだろう。あなたは人を贈り物として受けられた−−主が最も喜ばれる贈り物−−人の生命と心−−である。戦いに勝った王の前には高価な贈り物が置かれる。そして勝利をもたらした神の軍隊である私達は、神の足元に、つまり戦いに勝った王の足元に、敵から奪い返した魂を置くのである。あるいは、これは神が私達に与えられた聖霊の贈り物と解釈してもいいだろう。

  25.「背く者たち」−−私達はローレンタイドでの預言の中で、私達の宣教活動と主の審判を通して、主に背く教会も悔い改め、主は、憐れみをもってこれを許されるだろうと告げられた!

  26.第19節−− 「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである。(セラ)」  私達が教会に立ち入ることをやめ、献金というものが全然いらなくなった時から、神は最も思いがけない方法で私達を養い始められた。それは驚くばかりであった! 私は以前、何回も主に、なぜそのお金が来ないのかと聞いたが、そのたびに主は答えられた。 「心配するな。その金はあなたが一番必要な時に届く!」  私達が外に出て若者達を助けると、主は必ず私達の面倒を見て下さるのであり、これはその励ましとなった! 神は、私達を祝福し、私達の必要なものを備え、私達の神に対する従順の報いとして、多くの良いものを与えられることははっきりしている!

  27.第20節−− 「われらの神は救いの神である。死からのがれ得るのは主なる神による。」 私達は、真の救いを宣べ伝えている。−−体と思いと霊のすべてのすべての救いである。そして神は、これらの若者達をまさに死と地獄の門から救い出されたのである!

  28.第21節−− 「神は、その敵のこうべを打ち砕き、おのがとがの中に歩む者の毛深い頭のいただきを打ち砕かれる。」  古代ヘブル語は、サタンに相当する言葉は、文字通り 「毛深い者」 であった。そして私達は、私達の仕事を始めて以来、この老いぼれから随分いやな思いを何回もさせられた。しかし、神は、その内必ず私達の敵に復讐されるのである!

  29.第22節−−「主は言われた、『わたしはバシャンから彼らを携え帰り、海の深い所から彼らを携え帰る。」  ここでまた主は、彼の子供達を敵の束縛から取り戻そうとしておられることを強調されている。彼らはもともと神のものであった! 彼らを神から奪ったのは極悪な親達だが、神は今、彼らを奪い返して、神の新しい国、神が承認される国に集めようとしておられる!

  30.第23節−− 「あなたは、その足を彼らの血に浸し、あなたの犬の舌は分け前を敵から得るであろう。』と」 天にいる聖徒達すら主に叫んだ−−あなたはいつ報復されるのですか。主よ、いつ彼らを徹底的に打ち負かされるのですか。(黙示録6:10)

  31.第24節−− 「神よ、人々はあなたのこうごうしい行列を見た。わが神、わが王の聖所に進み行かれるのを見た。」 全世界は、神が私達を通して何をなさるかをじっと見ている。

  32.第25節−−「歌う者は前に行き、琴を引く者は後になり、乙女らはその間にあって手鼓を打って言う」 これは私達の姿である。音楽と楽器と踊り手ときれいなガールズがいる私達の姿である! ハレルヤ! これは、私達がしようとしていることをそのまま予告したものである。これと同じように、たとえば新しい国についての預言で私達に示されたこと、エゼキエル書その他において語られたことも、文字通り私達についてであると信じている。神のすべての預言には中間点に成就されるものが多くあると同時に、最終的に成就されるものもある。そして私は、私達こそ、これらの多くの預言の成就であると、心から確信している。歴史を通じて神の民は多くいるが、私は、私達が最後の神の民であると心から信じている。−−この世代が、そしてこれらの神の子供達がである! もう他の人達の出番はない! 私達こそ、これら預言の多くの究極的な成就である。グランド・フィナーレである!

  33.第26節−−「『大いなる集会で神をほめよ。イスラエルの源から出た者よ、主をほめまつれ』と。」 私達を最も有名にしているものがあるとすれば、それは神を賛美していることである。

  34.第27節−− 「そこに彼らを導く年若いベニヤミンがおり、その群れの中にユダの君たちがおり、ゼブルンの君たち、ナフタリの君たちがいる。」  主は、私達が、これらの古い部族の名前を使うだろうということも知っておられた。イスラエルのそれらの部族は、ごく弱い先駆者、あるいは象徴であったにすぎないのである!

  35.第28節−− 「神よ、あなたの大能を奮いおこしてください。われらのために事をなされた神よ、あなたの力をお示しください。」  私達に力を与えられるのは神であり、これらすべてのことをなされたのも神である。私達は神の業であり、神の指の業である。すべての栄光を神に帰せよ! 主をほめよ!

  36.第29節−− 「エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちはあなたたちに贈り物を捧げるでしょう。」  私達が宮であり、神のエルサレムである! 私達、神の民の中に神がおられるからこそ、王達は、私達を援助する。そしてそれは、将来はいっそう多くなるだろう。

  37.第30節−− 「葦 (あし) の中に住む獣、もろもろの民の子牛を率いる雄牛の群れをいましめてください。戦いを好むもろもろの民を散らし、それらの民が銀貨を捧げるようにして下さい。」  神は、私達を通して世界と体制を戒め、彼らがその持ち物をもって私達に奉仕させておられる。それを利用せよ!

  38.第31節−− 「王子たちをエジプトから連れだし、エチオピアには急いでその手を神に伸べさせてください。」  あなた達若者一人一人は、神にとっては王子である。エジプトから連れ出された若い王達である。神に感謝せよ! そしてある意味では、神はこの世界が尊敬するような種類の若者達を、彼らの目から見れば、彼らの基準でいけば、王子である者達を私達に与えられた! この国の黒いエチオピア人達も、あなた達の中に主を求めるであろう。

  39.第32節−− 「地のもろもろの国よ、神に向かって歌え、主をほめうたえ。(セラ)」  私達は、人々に対する神からの忠告である。彼らも公園で私達と共に歌いダンスするようになった!

  40.第33節−− 「いにしえからの天の天に乗られる主に向かってほめうたえ。見よ、主は御声を出し、力ある御声を出される。」私達はこの世界に対して神の声のようなものである。

  41.第34節−− 「力を神に帰せよ。その威光はイスラエルの上にあり、その力は雲の中にある。」  主が私達の力である。私達の力は、ただ御霊の中にだけある。

  42.第35節−− 「神はその聖所で恐るべく、イスラエルの神は、その民に力と勢いとを与えられる。神はほむべきかな!」  私達はこの世に対しては恐るべき存在であり、畏怖の念を抱くべき神の代表者である。なぜなら私達は、主の力と威力を持ってやって来るからである。彼らはおびえる! 彼らは私達を笑い者にするかもしれないが、彼らは怖がっているのである! 彼らは、その恐れを隠すためにあざ笑う。なぜなら彼らは、私達が神の声であることを知っているからである。

  43.アァメン! 主をほめよ! 「主は、私たちのために大きな事をなされた。私たちは、これを喜ぶ!」 −−そして、これからもっといろいろな事が起こるのだ! ハレルヤ!