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信仰! GP 73  1971年5月

 

  1.あなたは、主に答えを求める時、主は必ず答えて下さると期待し、最初に与えられたものを答えとして受け取りなさい。もしあなたが心から信じて主に求め、聞きたい、あるいは見たいと望むならば、決して失望に終わることはない! そしてあなたが自分の霊の目で見、霊の耳で聞いたことが主からのものである。それはあなたにとって大きな慰めとなることだろう! 神は必ず答えて下さると期待しなさい! ただ心を開いて、陽光を差し込ませなさい!

  2.もしあなたが本当に必死になって、心の底から主に呼び求めているなら、主は答えて下さる! この事については、赤ん坊が何よりの手本である! 赤ん坊が母親を求めて泣く時、誰がこれを拒むことができるだろうか。主の御声を聞くことが、私達の霊的な食物だ。だから、あなた達は主の御声を聞けるようにならなくてはならない! 赤ん坊は時にはあなた達よりも大きな信仰を持っていると言える。なぜなら、誰かきっと聞いてくれる事を期待して泣くのだから。赤ん坊は、自分が人を呼んだら答えてもらえると知っている。神が、赤ん坊がそれを知るようにされたのだ。赤ん坊は、答えられる事を期待しており、それを確かに手に入れる! だからあなたも、自分の受け取るものが主からだと期待しなくてはならない。

  3.目を閉じると、自分のまわりの物事や人に心を奪われないで、霊の内で物事を見るのに役立つ。主に思いを留め、何ものにも気をそらされることなく、リラックスした気持ちになりなさい。そして、自分が聞くことや見ることは何でも主からのものだということを期待するのだ。

  4.あなたが呼ばわる時、主は必ず答えて下さると信じなければならない。長いこと神から食物をもらっていればいるほど、あなたはどこから受け取ればいいかが、だんだんわかるようになり、あなたはいつも目を開いてそれを見、それに手が届くようになる。あなたも神に何かを求めて泣くと、神はそれをあなたの口に入れて下さる。しかし、吸い始めないなら、得ることはできない。あなたは、自分で引き出すだけの信仰が必要である。あなたは神の栄養を引き出さなくてはならない。神はあなたにそれを示し、口の中に入れて下さることができるが、あなたがそれを吸わないなら、あなたは何も得ることができない。吸うということは、信仰の行為だ! このように、あなたも信仰を行動に移さなければならない!

  5.信仰というものは、ある種の引き出す力である! 神から力を引き出しているのは、あなたである。それは、銀行の預金口座に似ている。お金はそこにあり、父がそれをあなたの名義で預金しておられる。−−天の銀行に。でも、もしあなたが信仰をもって銀行に行き、署名をし、その口座からお金を引き出そうとしなかったなら、決して、ほんの1セントだって、あなたの手に入らないだろう。あなたがそれを引き出さなければならない。けれどもほら、それを引き出すのは信仰なのだ!

  6.乳房から母乳を外に出すものは何だろうか? 赤ん坊は母乳を吸う時、自分の口の中にゆっくりと真空を作り出す。そしてその真空がミルクを外に引き出させるのである。あなたも、心の中に真空を作り出さなければならない! 「主よ、ここにからっぽの空間があります。−−どうぞ、あなたがこれを満たして下さい!」 ある空間の圧力を極めて低くすると、それを物理学では真空と呼ぶ! 真空を満たすものは何か、あなたは知っているか? それを満たすのは、実際には赤ん坊ではない。赤ん坊はただ真空を作るだけだ。赤ん坊が、自分の口の中の圧力を下げていって、その口の中の圧力が乳房の中の圧力よりも低くなったとき−−その時、母乳は母親の乳房から赤ん坊の口に流れ込む。

  7.祈る時、あなたもあなたの中に真空を作る。−−あなたの中に空間ができて、それはそれを満たすものを必要とする。−−あなたは、主の助けを求めているのである。あなたは真空を作り、主はその圧力をもってそれを満たされる。このように、力は内側からではなく、外から来る。あなたがしたことは、ただあなたの中に真空を作っただけだった。しかし、その真空が力を招き入れたのである。真空は招き入れる。そして、神から出る圧力は、いつもそれより圧力の低い場所を求めているのである。古いことわざに、 「自然は真空を嫌う」 というのがある。けれども神は真空を好まれるのだ。神は、ご自分のために造られたあらゆる真空を満たすことを好まれる! あなたが、あなたの心や霊を開くところは何処でも、神の御霊がそのすべてのパワーをもって流れ込む。

  8.主は、あなたが御言葉を吸い出す事を望んでおられる。−−単に記録された御言葉だけではなく、生きた御言葉を。しかし吸い出すのはあなたであり、あなたが信じ、信じたその場所から始めなければならない。あなたも必死に吸い始め、心の底からそれを願うなら、きっとそれを手に入れることができる。心の中に真空を作った時、主から引き出す時、つまり、信仰によって吸うという行為をする時には、あなたの口に最初に入ってくるもの、最初にあなたの目に映るものが、主であると信じなければならない。それが、主からであると信じて、そこからまっすぐに進まなければならないのだ! あなたは、主が口に入れられるものを語りだし、主があなたに与えられる聖句や言葉を語らねばならない。主はあなたに少し与えられるが、もっとあなたは期待しなくてはならないのだ! そして、ついでながら、新約聖書の中の 「信じる」 という言葉は、ギリシャ語の 「飲み込む」 という言葉である。「私は信じる」 というのは、「私は飲み込む」 という意味だ。それは 「ピスチュオー」 という言葉で、新約聖書の中で、 「私は信じます」 、 「私は飲み込みます」 という意味で使われている。

  9.それが、主から啓示を受け取る方法である。もし、それが異言や預言という形でメッセージを受けたなら、自分の口に飲み込み、それから、自分がそれを信じていることを示すために、それを他の人に与えるのである。しかし、一回に一口分しか受けることはできない。しかし、その一口分を与えないなら、また一口分もらうことはできない! 主に絵像を求め、それを受け取るなら、それを描写し始めなさい。自分の見るものを語り始めなさい。そうすれば、主はもっともっと与えて下さる。映画を見る時、あなたはどうするだろうか? そこに行って、1シーン1シーンと飲み込んでいかなくてはならない。1コマで全シーンを知ることはできない! あなたは飲み込み続けていかなくてはならない。だから、自分の信仰を使っていかなくてはならない。自分の霊の中に真空を作り出さなくてはならないのである。そうすれば、主が満たして下さる!

  10.ラジオも真空のようなものだ。たった今、私達のまわりには、ちょうど主の御霊と同じように、ラジオ電波が流れている。しかし、ラジオの小さなスイッチをひねって、ある意味で、その受信機の中に真空を作り出すまでは、何も受け取れない。あなたは、チャンネルを、電気回路を開いておかなくてはならない。接触をするために、真空を作らなくてはならないのである。

  11.忠実な人々は、信仰に満ちた人−−真空で満ちた人−−という意味だ! そして、主の大変な圧力がその真空を満たすのである! しかし、あなたは飲み込み続けていなければならない! この場合、他に与えることが、飲み込むことである! だから、私がある人達といると私を使われることができるのは、それが理由である。つまり、私の言ったことが飲み込まれ、消化され、体を強めるために使われると、主は知っておられるからである。主は彼らを信頼できることをご存じであり、主が私に示されたことを彼らに示すなら、彼らは忠実にそれを記録し、無駄にされることはないと、ご存じだからである。主はミルクを空中に噴出して無駄にしたり、それを飲み込めない赤ん坊に与えたりはされない。それを受けた者は、必ずそれを飲み込み、消化し、同化しなくてはならない。さもないと、それを受け取れなくなってしまう。

  12.パワーはいつも流れており、メッセージはいつもそこにある。神の御霊は四六時中放送している放送局のようなものである。あなたは、ただスイッチをひねって、つけるだけだ。あなたは真空を作り、誠実に口を開かなくてはならない。そうすれば、主は満たして下さる。そうやって吸い込むことが、神のパワーを引き出すのである。しかし、そのビジョンを、その夢を他の人に話さなくてはならない。メッセージを与え、異言を解釈しなくてはならない。動き続けなければならないのである。しかし、自分が吸い続けている限り、もっと受け取ることができるのだ。

  13.神の与える力は無限である。あなたが何を受け取るかは、あなたがどれだけ受け取れるかにかかっている。あなたはすぐに、いっぱいになってしまい、もうそれ以上耐えられなくなる。そして、真空がいっぱいに満たされ、おなかがいっぱいになり、霊は満足した状態になる。主は、あなたが満足するまで、霊的真空が満たされるまで、あなたに食物を与え続けられる。そしてあなたが満足すると、暫く眠っても気にはされない。ミルクをもらうには、少々努力がいる。吸わなければならないのだ! それは信仰の真の霊的努力である。信仰は、魂の手のようなものである。

  14.信仰は、霊の手であって、その手を伸ばして何かを受け取る。それはあなたが行なう部分、つまりあなたの霊的努力である。赤ん坊は、吸うという努力を行ない、あとの残りは母親がしてくれる。知っているだろう、時々預言者たちは、その後で病気になったことがあった。彼らの肉体には、かなりきついことだったからだ。彼らは、全く疲れきった状態になってしまった。それをするには、実際に体力がいるのである。霊と肉体の間には、私達の理解を越えた、そのようなつながりがあるのだ。

  15.それは非常に単純なことだ。ただ、小さな赤ん坊のような信仰を持たなければならないだけだ。ただ、それがどこにあるかを赤ん坊に教えてやらなくてはならない。それを教えてやった後は、もうどこにあるかがわかる。そしてすぐに、主が語り出されると、それだとわかるのである。主から何かを受け取りながら、それが主からだとわからない人達がいる。私も長い間そのようだった。いろいろなことを一生を通じて受け取ってきたのに、長いこと、それはただ自分が言っているのだと思っていたのだ。主が絶えず私に語りかけておられたというのに。 「私は一人で学んだ。私は愛することを学んだ。神の小さく細い声に耳を傾けたのだ。」 それは本当に自然に来るのである。それがどれだけ超自然的なことか、何と素晴らしい奇跡かに気づいてはいなかった。まるで、乳房を吸っている赤ん坊のようで、とても自然なことに思えたのだ。しかしそれでも、素晴らしい奇跡だったのだ。何もかもが奇跡である。何もかもが超自然的なことである。なぜなら、神がすべてを造られたからだ。

  16.もしチャンネルをオープンな状態にし、波長を合わせるなら、主があなたを満たして下さる。あなたの思いや心や耳や目を満たして下さるのである! 主があなたに示そうとしておられることは、あなた自身で受け取れるということだ! もし、喜んで受け入れる気があるなら、答はいつもそこにある。しかし、もし主の与えられる答を拒むなら、あなたが聞こうとしないために、主は口を閉ざされる。赤ん坊にちょっと乳房を含ませても、もし赤ん坊が一度吸っただけで、それが好きでなく、吸うのをやめてしまうなら、もうそれ以上赤ん坊はミルクをもらえない。そして母親は立ち上がって、その赤ん坊をベッドに戻すのだ。だから、あなたは、主が与えられるものを喜んで受け取り、それから与えなくてはならない!