DB422

 

神は間違いを犯されたか?

 GP 35    1971年1月

 

  1.神は、アダムとイブを楽園に置かれたが、神はそのことで過ちを犯されたか? その結果、彼らは自分たちで選択し、誤った選択をすることになったのである! 神は、あの大洪水に関して、ご自身の失敗を告白されなければならなかったのだろうか? すべての人間を、その悪のゆえに滅ぼし去られなければならなかったことに関して。バベルの塔は惨事そのものだったのだろうか? 言葉の混乱は破局だったのだろうか?−−人間を謙虚にさせるために、それを全地に散らすことが、神の目的を成就させるために必要な事だったのだろうか? 

  2.モーゼがエジプト人を殺したのは、過ちだったのだろうか?そのために彼は、命からがら逃げ出し、40年間を荒野の中で羊と彼の義父と共に住まなければならなかった。それは、同胞の救済という大義からのとんでもない後退ではなかったか?−−それともモーゼは、神が教えられようとする教訓を学び、自分の同胞を救い出せるだけの人間になる為に、異郷での生活が必要だったのだろうか? つまり自分自身に頼るのではなく、何でも神により頼む人になるために!

  3.ダビデがバテシバに恋に陥り、国民の尊敬を失ったことで、神は過ちを犯されたのだろうか? ダビデは、その息子によって王座を追われ、ほんの数人の友人たちと共に不名誉と醜聞の中で他国に逃げる羽目にさえなったではないか。ダビデは本当に下に落ちたのだろうか? それとも、上向きに落ちたのだろうか? 神から見れば、時々、下がることが、上に向かう道である。事実、たいていそうだ! 私達の考えとは全く逆である! 神は、当然予想されることと全く逆なことをされるのを好まれる。なぜなら、そのためには奇跡が必要であり、それをされたのが人間ではなく神であることを示すからである! ダビデはそれまでの高慢さを砕かれ、全王国も高慢さを砕かれ、彼らはすべて、彼らが今あるようにされたのは主だけであったことを思い知らされた! ダビデの生涯の苦汁と曲折から詩篇の甘い蜜と、その恵みのゆえに主を賛美する、賛美のかぐわしさが出てきたのである! すべては神であり、すべては恵みであった! 彼自身から出たものは何もなく、彼自身の義は何もなかった! その教訓がずっと今日まで、他の人々に対して、あなたや私のような大きな罪人に対して何よりの励ましとなってきた!

  4.エリヤの宣教は、彼がイザベルから逃げた時、敗北に終わったのだろうか。あれほどの勝利をカルメル山で収めたのに。あれほどの彼の勇敢さも、荒野での彼の臆病さのために台なしにされたのか?神の預言者が女一人を怖がったのだ! それとも神は、彼をより優れた預言者、謙虚な預言者にするために、彼にこのことを見せられたのだろうか? 

  5.神は、火の中におられず、雷の中にも、地震の中にもおられないということを発見した後、この火と雷の人エリヤは、小さい、静かな神の声を聞くささやかな柔和な人となり、彼はそれまでは滅亡と破壊と審判の大預言者だったが、ついに彼は羊を養い導くという、忍耐強く、ゆっくりとした方法を学んだのだ! 滅亡の預言者であることはずっと簡単だ。傷ついた者のいやし手、羊の養い手となるよりは。あるいは、小羊の育て主、ベーブらの教師となるよりは!

  6.毎日、同じ道をとぼとぼ歩く教師がどこで大きなニュースになるだろうか。あるいは、羊がだんだんと育っていって、生産するようになり、神の王国のために永遠に残る実を結ぶようになるまで、忍耐強くその羊を養う者達のことが? あるいは、うねの間を何回となく往復し、その手をもって忍耐強く、優しく、勤勉に作物を育てる農夫がどんなニュースになるだろうか。彼が育てる小さなトウモロコシの葉は、一日見ない内にも大きくなり、多くの実を結ぶ!

  7.これは、もう一つの大きな主題である。−−小さな人々、無名の人たち、舞台裏にいる小さな人々がいる。彼らなしでは、何もやっていけない。彼らはいつも後ろに引っ込んでいて家の火をたやさず、赤ん坊の面倒を見たり、子供たちに食べさせたり、皿を洗ったり、料理をしたりしてくれる! 小さな人々がいてくれなかったら、誰も大きな人になることはできない。そして、大きな人になるためには、まず 「小さな人々」 にならなくてはならない。なぜなら神は、常に神の偉大さを見せるために、小さな人々から大きな人々を作られる方だからである! 

  8. 「神は、知者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるためにこの世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち無きに等しい者をあえて選ばれたのである。それはどんな人間でも、神の御前に誇ることがないためである。」 −−つまり、神が栄光をすべて受けるようになるためである。なぜならその時、人の力ではなかったことがわかるからである!

  9.神がそれらの人々を用いるために、最初に高慢さを砕かれなければならなかった人々のリストは、数え切れないぐらいである。−−すべてのリーダーたちに対して、神は彼らがリーダーとして高い地位に立てられる前に、一度彼らを最低の所まで落とさなければならなかった。−−それによって彼らが、自分を誇ることがなく、神に栄光を帰するためである。神は、ある人を大きな人にするためには、最初その人を全くとりえのない人間にされる。自我というものが全くなくなり、すべてはイエスのおかげだということをはっきりさせるためである! 神があなた自身を取り除いてしまうなら、神はチャンスを持たれる。あなたがただの道具になり、チャンネルになるなら。そして小さなほこりのダイヤモンドになれば、神は真にあなたを使われることができる! 神はあなたを砕き、あなたを火で溶かし、悪い部分を取り除き、清め、ふるいわけ、もみがらを除かなければならない! 神は、あなたにがらくたが全く残らないように、それをあなたからたたき出さなければならないのだ−−あなたの肉体を十字架につけて、それが完全に死んだ状態になるほどにし、あなたの精神を消し去って、それが死んだ状態になるまでにされなくてはならない−−それによってイエスがあなたの中で生き、考え、行動することができるように! 神は、間違いを犯されただろうか−−あるいはそれが、私達が本来なるべき者になるために必要なことなのだろうか? それは、間違いであったのか? 何かもっといい妥当な方法があっただろうか?

  10.妥当な方法などくそっくらえ!−−妥当な方法などというものは、人間の考えにすぎない! 意外で、不適当で、因習や伝統に縛られず、正統でない、非儀式的なもの、人間の期待とは反対のもの−−これが神がふつう行なわれることである!  「わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道はあなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い!」 (イザヤ55:8,9) 誰が主の御心を知ることができようか。誰が主に何かを指示することができようか?

  11.あなたは、自分のことを誰だと思って、神にこれをせよ、これをこんな方法でせよとか言おうとするのか。神は、御自身がしていることをちゃんとわきまえておられ、神がそれをどんなふうにされるかは、あなたの知ったことではない。

  12.だから神に、ああせよ、こうせよ、と言うのをやめよ!  「さて主よ、あなたはこれをこれこれの方法でしなければなりません。そうすれば受け入れられ、民も理解するでしょう。」 これを理解しない人などかまうものか! 友人は説明を必要としないだろうし、敵はどうせ信じようとしないだろう! だから何故説明するのか? 神は、御自身がなさっていることをわきまえておられると信頼しなさい! 「心を尽くして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば主は、あなたの道を導かれる。」−−箴言3:5,6

    13.肉の思いでそれを計算しようと思うなら、それはやめたほうがいい。なぜなら、決して計算通りには運ばないからである! 「イスラエルが、わたし自身の腕がわたしを救った、と言わないためである!」 神は、私達が 「神はこうすべきだ。」 と思うこととは反対のことをするのを好まれる! これは間違いなのだろうか? 神は間違っておられるのだろうか?

  14.私達が体制からあくまでも分離して、決して妥協せず、またそれに立ち戻ることがないように、こんなに徹底的に体制から非難されなくてはいけないのですか? 彼らは、私達をあなたのもとに追いやるために、私達を完全に拒絶しなければならないのですか? 私達は二度と戻らないように、私達の背後の橋をすっかり燃やさなくてはならないのですか? 

  15.主よ、これは大きすぎる要求ではないでしょうか? 私達を社会のくずのような者にされるのは。パウロもそうでした。そして彼は、使徒もそのようなものであり、初代の信者たちは人間社会のくずのようなものだと言っていました! 主よ、彼らは全く社会に順応できない、奇妙で狂信的な変わり者たちでした! 私達も、そこまで行ってしまったら二度と立ち帰ることはできないでしょう! 体制は二度と私達を受け入れないでしょう。それが原因となって、私達の仲間の内からも私達を去る者が出てくるでしょう! 忠誠心を持たない者は、分裂と裏切りに走るかもしれません−−ちょうどユダがあなたにしたように! 弱い兄弟たちはそれによって気を害し、残る者はごく僅かになってしまい、そんな極端な忠誠心と献身と教義に従うようにと説得しても、ほんの少ししか従ってこないことでしょう!−−ちょうどあなたの 「血と肉の説教」 の後起こった事態と同じように!

  16.あなたの弟子たちすら、あなたの激しい言葉によってあなたを捨てました! あなたは、私達のリーダーたちの極端なやり方から、私達が何をすることを期待さるのですか? それは、あまりにも厳しすぎます、主よ。その方法では、決して大きな軍隊を集めることはできないでしょう! こんな極端な事を行なっていたら、私達は決して人気がでないでしょう! もし、私達が聖書にあることを全部そのまま説教し実行したら、決して一般から受け入れられないでしょう! あなたは確かにそんなことを私達から期待されはしないでしょうね!

  17.それは、あんまりです! それはきっと間違いでしょう! どうぞそれを私達に求めないで下さい! 私達もそんなに変わった者にならなければならないのでしょうか? 主よ、あなたは間違いをしておられるのではありませんか! 何か、他に方法があるのではありませんか?

  18. 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでも、わたしによらないでは父のみもとに行くことはできない。」 「命にいたる門は狭く、その道は細い。そしてそれを見出す者が少ない。」 「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない!」  「肉において賢い者、権力のある者、身分の高い者も多くは召されなかった。神は、知者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるためにこの世の弱い者を選ばれた。」 「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った。 『これはひどい言葉だ、だれがそんな事を聞いておられようか。』 」 そして  「弟子たちはみな、イエスを見捨てて逃げ去った。」 「わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。」 なぜなら彼は、「おのれを空しくして、しもべのかたちを取られた‥‥」 「彼はあなどられて人に見捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。彼は、暴虐な裁きによって取り去られた。−−彼は、その墓を悪しき者と共に設け、その塚は富める者と共にあった。」 「−−またあなたがたは、わたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。−−

そして、その後終わりが来るであろう。」 「あなたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。もし、人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。」 「あなたを受け入れる者はわたしを受け入れ、わたしを送られた者を受け入れるのである。」「弟子は、その師以上のものではなく、しもべはその主人以上のものではない。」

  19.神は、間違いを犯されない。そして、 「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い。」  神の道よりも優れた道はない。神の御言葉に耳を傾けよ! 「イエスは彼らに言われた、『わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。』すると彼らは、すぐにすべてを捨てて、イエスに従った。−−十字架の死さえも。」 「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光の内に聖なる御使たちと共に来る時に、その者を恥じるであろう。」  「人がみな、あなたがたを誉める時はあなたがたは気をつけよ!」−−ヨハネ14:6;マタイ7:14; マタイ20:16; 1コリント1:26,27;  ヨハネ6:60,66,67;マタイ26:56; ヘブル13:13; ピリピ2:7; イザヤ53章;マタイ24:9,14;ヨハネ15:19,20; 1コリント1:25; マタイ4:19; マルコ8:38; マタイ10:40,24.