DB421

 

ダンプス! GP 33 1971年1月

 

  1.私は、自分が勝利を持っていなかった時、それについて語ることはできなかった! もしあなたが試練を受けている時にそれについて語るならば、それはただの敗北と疑惑と失意について語るだけである。あなたは、それを言葉で表すようなことはあえてしない。私が今朝、次のような歌を歌ってしまったように。 「あきらめよ、神の聖徒たちよ。幸福になる理由は何もない!」 それは私にとってショックで、私はそれで目が覚めた!時々私達は言ってはいけないことを言ってしまう時、自分は何と悪い状態になっているのだろうかと気づいて、その事は私達を怖がらせて、それをやめさせるものである! 私は、ほんの冗談でそれを言っていたのだったが、幾分、実際にそのように感じていたのだった! そして、それを口にすることは、 しばらくは快いことであった! 何て自分は哀れなんだと!

  2.あなたは大抵、周囲からの注目と同情を集めようとしているだけなのである! それは、あなたが利己的だからだ! 自分の自尊心が傷つけられ、自我がいくらかくじかれ、自信がいくらか揺るがされると、あなたはすべてが間違っていたのではなかったかと疑い始める。多分自分は、何事についても正しくなかったのだ! 多分、すべてが間違っていたのだ! 疑惑氏と疑惑夫人がやって来て、あなたは椅子を引き寄せて彼らを招き入れ、彼らと話しを始め、彼らと同調し始める!−−あなたは、全く支離滅裂であり、やめてしまったほうがいいだろうと。

  3.その原因は、あなたがあなたの目を主にではなく、自分自身に向けるからである−−天を見上げる代わりに内側ばかりを見つめるからだ!悪魔は、彼があなたに告げる嘘を別にしても、あなた自身についての恐ろしい多くの真実をあなたに言うことができる。だから、あなたが悪魔の声に耳を傾け始めるとそれには終わりがない。なぜなら、あなたはそれに相当するほど悪いのだから。そして、あなたが悪魔の声を聞き始めるなら、彼はあなたのことを実際よりも悪い人間であるという響きを与えることができる! するとあなたは、あなたの批評家達の声を聞き始めるようになり、あなたのいわゆる友人達や、時にはあなたのファミリーの誰かの、何気ないふとした小さな一言によってでさえ引き降ろされてしまうこともある。悪魔はそれを誇張し、もぐらが作った土盛りを山に描いて見せるのだ。彼らが全然そのつもりではなかったことや、あなたが誤って解釈したことを。あなたは全く気落ちし、失望し、投げ出したい気分になる! ちょうど、ダビデ王が次のように言った時と同じである。 「私はきっとそのうち、サウロの手によって殺されるだろう!」  あなたは、それを歌にすることはできない。もし歌にするなら、それは恐ろしい響きをもった歌になるだろう! 「いっそのこと、私はやめてしまったほうがましだ!」 それがまさしく、悪魔がこの疑惑と自己憐びんの連続攻撃によって、あなたをやめさせようとしている方法である!

  4.しかし、一体どうしてあなたは、それを歌にすることができるだろうか? そんな歌は、一つもダビデの歌の中にないのもその為である!「わたしはきっとその内にサウロの手によって殺されるだろう。」と、ダビデが言ったのは明らかである。サムエル記に、彼がそう言ったと記されているからだ。それは、悪魔に促されて、思わず口をついて出てくる、短い、突然のほとばしりであり、私達が自分に気がつき、それがいかに悪い響きを持つかに気がつく前に飛び出すものである! しかし、彼にはそれを歌にしないだけの十分な分別があったのであり、いつまでもそんな調べを歌うようなことはしなかった! 反対に彼は、詩篇の中で常に前向きな態度をとり、敵に挑み、苦難の中にあっても神をほめたたえた。神が終わりにはそれを全て解決して下さる事を知っていたからである。なぜなら、神はいつも解決して下さったし、又それを約束して下さったからである!

  5.今朝私が落胆し、過ちを犯して打ち負かされたような気分になり、あることに対していらいらした時、悪魔は、ある小さな真実のくさびを私に打ち込み、その後は大きな嘘の連続攻撃をしようと試み始めた。ある人が、私が少し気落ちしていることに気づいて、とても明るく歌い始めた。 「奮い立てよ、汝ら、神の聖徒たち。思いわずらうことは何もない!怖がらせるものは何もない! 疑わせるものは何もない! われらの神は、決して失敗されない。だから、神に信頼して喜びの叫びを上げよ! 明日になれば、主を信頼したことを喜ぶであろう!

  6.しかし、あなたが落胆している時、悪魔はあなたに真理に対して怒らせようとする。悪魔は真理によって打ち負かされようとしているからだ。だから悪魔は、まさにあなたを助けようとしているその人達に対して、あなたを怒らせようとするのである。彼らが、あなたを幸福にしようとすれば、あなたは自分のみじめさを楽しむことができないからだ。そして、あなたの敗北感は、彼らの勝利に比較して非常に悪く見え、それによってあなたは恥ずかしくなる。だからあなたは、彼らに対する怒りを爆発させて、自分の体面を繕おうとするか、あるいは彼らを批判し、他の人々やあらゆる物事の欠点を、時には神の欠点をさえ見つけようとして、自分がそんなにも卑劣漢になっていることの言い訳をしようとする。

  7.だから私は、私を元気づけようとした人に腹を立てそうになって、こう言っのだ、「ああ、そうかい?」 そして冗談っぽく、全く逆の歌を歌い始めた。 「あきらめよ、汝ら神の聖徒たちよ。幸福になる理由は何もない‥‥」  そこまでは面白半分であった。あきらかに反抗的で、私の罪は非常に明白だったからだ。しかし次のところにはいって、その反語の歌が行き着くところを考えると、私は怖くなり歌を続けたくはなかった。どうして私はその歌を歌うことができるだろう。 「われらの神は常に失敗された。だから、つぶやき、疑おうではないか。あなたは、神を信頼したことを明日後悔するだろう!」 私に何か知っている事があるとすれば、それは、神は決して失敗されたことはないということだ。そして私は、いつもこれまで、翌日になると神を信頼してよかったと思ったのだ。

  8.そういった短い歌でさえも、反語で歌うなら、どんなに恐ろしい嘘になるかを見てみよ。それが悪魔の常用手段である。彼は一見、無邪気で、率直で、あまり悪くは見えないような重要ではない小さな事を取り上げて言い始める。しかし、その後あなたは、その行き着くところを考えて恐ろしくなり、それはあなたを揺り動かし、目を覚ませ、ショックを与えて、悪魔が何という嘘つきであるか、あなたがどんなに悪い状態に陥ろうとしているかに気づかせるのである! 時々神が与えられるショック療法に感謝せよ! その時、私達は、自分がほんの小さな疑いや恐れや不従順によって始めたことの結果として、何という恐ろしいことを言ったり、したりしているかに気づくのである! 私にもう一つショックを与えたのは、私の気持ちを引き上げ、私を励まそうとしてくれた、信仰にあって私よりも弱くて若い人に対して、その人のそうした努力に反抗して戦おうとしたことによって、私は何というひどい手本であったかに気づき始めた時だった! 例えそれが冗談半分であったにしろ、ことによると彼らを私と一緒に引きずり下ろす危険のあったことは、私の目を覚まし、他の理由では勝利を得られないとしても、彼らのためだけにでも勝利を取らなければならないと悟ったのである!

  9.私の祖父はよくこう言っていたものだ。 「あなたが地獄に行かなければならないなら、他の人をあなたのゆえにつまずかせて、彼らも地獄に落とすようなことをしてはいけない!」 しかしそれは不可能なことである。人はみな影響し合うからである! 「誰も、自分の為だけに生き、自分のためだけに死ぬものはない。」 あなたの人生はどうしても他の人々に影響するのだ! 「人間は誰も、孤島ではない!」 時にはただの一言、ちょっとした暖かなまなざし、一つのほほえみでも大きな違いをもたらすことができる。−−あなたの外見や、声や、様子がどのようであるかによって!もしそれが朗らかでなく、勝利を持っているようではなく、高揚されていなかったら、それは他の人を傷つけ、彼らをあなたと一緒に引き下ろすことになる! あなたは、他の人々をあなたのレベルまで引き上げるか、あるいはあなたのレベルまで引き下げるかのいずれかである。あなたは結局は、熱いか冷たいかのどちらかになるのだ! なまぬるいということは、冷たさの最悪の形である。なぜならそれは、自分が冷たいということを知らないからである! ほんの僅かな疑い、僅かな恐れ、僅かな不平、僅かな落胆が大きくなり、ついにはあなたが完全に失敗して、他の人々にひどい影響を与えるようになるまで、だんだんと大きくなり得るのだ!

  10.それは、最初は何の罪もないように見える。そして悪魔はあなたに、それがたいして悪いことではないと納得させようとする。しかしそれは、苦い結末に終わるのである! 静止ということはあり得ない! あなたは頂上に達するために登っているか、あるいは下の方へと沈み、成り行きまかせに流されているかのいずれかである! そして一度下降を始めると、あなたはどん底に達するまでは、とどまる場所がないのだ。悔い改めて神に許しを求め、立ち直って、悪魔のすべての呪われた嘘と、あなたのすべての疑いや恐れや落胆をはねのけ、すべてを捨ててイエスと彼の言葉と約束に従う決心をしない限り! 将来は、神の約束のように明るい!あなたは、あなたの目をイエスに向けていなければならない。なぜなら、それ以外に目を向ける方角はなく、他を見るなら、みな下向きになってしまうからだ。

  11.あなたは、肯定的になるか否定的になるか、そのいずれかである! 両方を少しずつということはありえない! 悪魔があなたに語りかけようとするのもそれである。「少しぐらい気落ちしても、少しぐらい自分を哀れんでも害はないさ! 結局のところ、あなたもほんの少し落胆を楽しむのにふさわしく、それによって少しは他の人から同情をもらうことができる! どうしてそうしてはいけないのか? みじめさは仲間を大いに喜ぶ! 他のみんなも、いくらか少しみじめにしてやろう。そうすれば、みんなでそれを楽しむことができる!」

  12.兄弟よ、聞きなさい。悪魔の声に耳を傾けるやいなや、あなたはおしまいである。それには終わりがないからだ! 彼は、あなたを完全にどん底状態に陥らせ、勝利から全く完全に引き離して、また御仕事の恥じになって、あなたの回りのすべての人々に悪い影響を与えるようになるまで決してやめないだろう。それが、悪魔の類いの疑いと恐れを言葉に出し、悪魔の嘘を他の人々に話すことの結果である! それは、神の御言葉の真理を証しすることと、正反対の効果を持っている! それは他の人を引き下ろし、不幸せにし、落胆させ、疑いと恐れを抱かせ、最後には彼らにも又あなたのように不平を言ったり、つぶやいたりさせるのである。

  13.それが、主が私達の言葉について言われたことが、極めて大切な理由である。言葉は、実体のあるものである! それは、祝福するか呪うかのいずれかである。引き上げるか、打ち倒すかなのだ。それは、救うかあるいは滅ぼす! それには中間はない! あなたは、すべての無益な言葉に対して言い開きをしなければならないだろう。

  14.だから友よ、もしあなたが落胆するようなことがあっても、何をしようとも、神のゆえに、決してそれを言葉にしてはならない! あなたの疑いと恐れを声に出すな! あなたが彼らの上に難儀を投げかけなくても、他の人々は自分自身の十分な難儀を持っているのだ!

  15.主が、 「互いに重荷を負い合いなさい」と言われた時、彼はその類いの重荷、つまり、疑いや、心配や、神に対する信頼と信仰の欠如といった重荷を指してはおられなかった! 神が言われたのは、誰か他の人が負っている荷の下にあなた自身が入り込み、彼らがそれを持ちあげるのを助けてやれということであり、誰か他の人の上に、あなたの荷を投げかけるという意味ではなかったのである!

  16.主はこう言っておられる。 「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。」 あなたは、自分を強くして下さるキリストによって、何事でもすることができる! 神に助けを求めよ。もしあなたの荷が重すぎるなら、主があなたを助けられる! あなたに本当に助けが必要なら、まずイエスにそれを告げよ! 「あなたの荷を主に委ねよ。そうすれば、主はあなたを支えられる!」−−詩篇 55:22.  ただ、その荷をイエスに肩代わりしてもらって、自分は寝返りをうって眠りにつき、イエスに夜中起きていてもらいなさい! その事について心配するな! 主に心配してもらうのだ! 彼の肩は、どんな荷でも運ぶことができる程十分に広い−−主ご自身のも含めた、全ての重荷を一つにひっくるめたものを運べる程に!

  17.あの小さい女の子が言ったように、 「そして愛する神様、どうぞ、お体をお大事に。あなたに何か変わったことがあったら、私達はみんな沈んでしまいますから!」  そしてそれは確かなことである。私達はみんな支離滅裂だから、私達の目を主にとめ、私達の思いを主の言葉にとめていなかったら、私達は敗北と疑惑と幻滅と最終的な失敗に運命づけられているからである! それらの憎むべき疑いや恐れや落胆や、また敵がもたらした恐ろしい負担を手放して、主にしがみつけ! あなたの幌馬車を主の星につなげ。そうすれば、あなたを止めるものは何もないだろう!

  18.あなた達の中には、ちょうど凍った川を四つん這いになって、こわごわ渡ろうとした男のように、神にはそれができないと思ってとてもびくびくしている者がいる。彼は、氷が割れて下に落ち、溺れるのではないかとびくびくしていたのだった。すると全く突然に、彼がためらいながらもはって進んでいるのと、まさに同じ氷の上を鉄材の荷を引いた一連の馬が大胆に走って行くのが見えるではないか! 言わせてもらうが、神はあなたが神に委ねるどんな荷でも引き受けて下さる! 神は、あなたの憎むべき疑いや恐れや信仰の欠如以外は、どんなものにも耐えられる! それには彼は耐えられない! 「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来るものは、神のいますことと、ご自身を熱心に求めるものに報いて下さることを必ず信じるはずだからである。」−−ヘブル11:6.

    19.あなたは、神に対して信仰を持ち、神を信じなければならない。そうでないと、あなたはだめになってしまう! 神なしでは、あなたはどうしようもなくなってしまうからである! 神なしではあなたは取るに足らない者だからだ! あなたは、主にしがみついていないと迷ってしまう! どんなものでも、またすべての人が、あなたを引き下ろすことがあるのだ! 事実、ほとんど無きに等しいものがあなたを引き落とすのである! ほんのささいな挑発、ほんのささいな誇張した表現、ほんのささいなほのめかし、ほんのささいな言葉−−もうそれであなたはだめになるのである! あなたはあまりにも過敏で、それに耐えられないのだ。あなたの磨かれたクリスチャンの装いは、ほんの表面だけであるということが判明する。ほんのちょっとした引っ掻き傷をつけられるだけで、その下に隠されたひどい本性が現れる! あるいは、あなたの霊的なバランスは非常に不安定で、誰もあえてあなたに触れることはしない。さもないと、あなたはひっくりかえって倒れてしまう!

  20.中にはどうしようもない程とてもデリケートで、ほんのちょっとした圧力にも耐えられない者がいる。彼らは、主にしがみついていないので倒れてしまう。御言葉の上に立っていないから、主の約束を信じていないからである! 彼らは、自分自身の憎むべき自己正義に、そして彼らが自分で持っていると考えている堕落した偉大さに頼っているのだ! 言わせてもらうが、そうしたたぐいの聖人ぶった偽善は、悪魔のショック療法には耐えられず、ひとたまりもないのである! その時みんなが、その内面の恐ろしい光景を見る。それはあなたが、真に主にしがみついていなかったからである!

  21.「兄弟よ、もしあなたが生涯を通して幸福な人間でいたかったら、穴ではなく、ドーナツに目をとめていよ!」 「あなたの目をゴールにとめよ。そしてあなたの魂の勝利に目を向けよ。決して疑わず、常に喜びの声をあげよ!」  悪魔があなたを引き下ろし、落胆させようとそそのかすなら、戦え! 悪魔の声に耳を貸すようなことさえするな。ましてや、降伏などするな! 何か建設的な事を始めよ! 何か気を引き立てるようなこと、励ましになる事を言い始めよ。

  22.ただ、じっと座っていてはいけない。何かをせよ。歌え、叫べ、主を賛美せよ、聖句を引用せよ! 悪魔に御言葉をぶっつけてやれ!  イエスがされたのもそれであった。悪魔がイエスを誘惑し、嘘をついた時、イエスはただ聖句を引用されのだ。 「聖書にこう書かれてある!」悪魔は嘘つきであり、嘘つきの父である。悪魔は御言葉に耐えられない。敵に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなた方から逃げ去るであろう。救いのかぶとをかぶり、義の胸当てをあて、信仰の盾をとり、悪しき者の放つ火の矢を消しなさい。真理の帯を腰につけ、平和の福音の備えを足にはき、御霊の白熱した剣、すなわち神の御言葉をもって悪魔の心臓を貫け! 悪魔に、後ろに退いて去れ、と告げよ。あなたは悪魔に何の関係もなく、悪魔もあなたに何の関係もなく、悪魔はここには何の用もないと言ってやれ!

  23.忙しく働きなさい! 証しに出なさい! 誰か他の人を助けなさい! 彼らの問題に打ち込みなさい。そうすれば、自分のくだらない問題を考える時間などないのである! 誰か他の人を幸せにするために忙しくなりなさい。そうすれば、あなた自身、幸福にならずにはおれないのである! 主をほめよ! 絶えず祈りなさい!

  24.しかし、くだらない告白集会などはくそっくらえである! そこでは人々は、自分の疑い、陰気、憂うつ、恐れ、落胆、そして罪深い自分自身のことなどを他に広め、恐ろしい実態−−あなた自身に−−人々の目を向けさせるのを好む。−−単にいくらかの同情を得ようとして!

  25.イエスのことを語ろう! 肯定的になろう! 他の人達が必要としているものについて語ろう! 良い事について語ろう!  「すべて真実なこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて誉れあること、また徳と言われるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい!」 人の悪口を言ってはならない。あなた自身の悪口でも!

  26.あなたの目をイエスにとめておけ! そして、あなたの助けを必要としている人を助けることに忙しくしなさい! そして、間抜けな、くだらない自分自身のことなど忘れよ! もちろん、あなたは失敗者である! あなたは全く支離滅裂である! 私達みんながそうなのである! 私達が自分自身を見始めたら、私達は全くがっかりしてしまう!

  27. 「あなたがたを守ってつまずかない者とし、またその栄光の前に、傷なき者として、喜びの内に立たせて下さる方」に、あなたの道と生活と精神と思いと時間とをすべて委ねよ!  「なぜなら、私は、自分の信じてきた方を知っており、また彼は、私に委ねられているものをかの日に至るまで守ってくださることができると確信しているからである!」  彼だけにそれができるのだ! 彼に、機会を与えよ! 任せよ、そして神に委ねよ! あなたの目をイエスにとめておけ! イエスのことを語ろう!あなたが注ぎ出すと、彼が注ぎ入れて下さる。そしてあなたは決して、彼が注ぎ入れて下さる以上に注ぎ出すことはできないのである!

  28.先日私は、ポットの表面にある浮きかすを、どうにかして取り除こうとしていた。私が自分でそれを傾けて、浮きかすを流れ出させようとするたびに、かえってそれはきれいな水と混ざってしまい、ただもっと悪い状態にするだけだった! ついに私は、素晴しいことを思いついた。それは、そのポットを水道の蛇口の下に持って行って、さらにそれに水を入れてやることだった! ポットの水かさは増してその表面があふれ、浮きかすもすべて流れ出て、下水に流れ込んで行ったのである!

  29.それが、神がご自身の試練とテストの火をもって人を清められる方法である! 神はあなたをその火の下に置いて、あなたを沸騰させられる。そうすると、全部の浮きかすや湯あかが表面に浮き上がってきて、誰の目にも見えるようになる! あなたは、そのことを人に語る必要はない。彼らは、あなたがそのすべての経過をたどるのをじっと見ているであろう! おそらくは、いずれにせよ彼らは、すでにそのことを知っているだろう! ただそれは、神があなたを火にかけるまでは表面に現れなかっただけのことだったのである。しかしその火がそれを表面に出したのだった! 火の効用はそれである。それによって、あなたの粗悪さを浮き出させるためだ。それは、あなたが実際にはどんなに悪く、不純なものであるかを示し、あなたからそれを除いてくれる。不純物を溢れ出させてくれ、かすを下水に流してくれる。あなたの容器からそれを除いてくれる! それを取り除きなさい!

  30.だが神のゆえに、あなたがどんなに悪いかを私達に語るな! 私達は、知りたくはない! 私達はイエスのことを考えていたいのだ! イエスのことを語ろう! あなたの疑いや恐れや信仰のなさや、あなた自身の罪や罪悪を声に出すな! 私達はイエスのことを聞きたい。目をイエスに留めておきたい!

  31.「イエスにだけ、イエスにだけ、満足がある。

      すべての重荷は、

           主が近くにおられるとわかる時、祝福に変わる!」