DB405

 

信仰といやし!   GP M  1970年8月

  1.人間というものは極端家である! すべてのものは、これかあれかで割り切れるものと考えている。電気器具の修理の場合も、私達もある程度のところまでは知識を持っているが、一歩進んだ知識を持っている専門的な、経験を積んだ技術者がいないので、今までにないような特殊な故障があれば、躊躇なくそれを専門家のところに持っていく。私達の経験を越えたものについては、それについてよく知っている専門家のところに持っていかなければならないのである。

  2.私は普通、人間の力と能力のかなたにあるものに、もっと信仰を持っている。主ご自身も、この地上におられた間、はこの線に沿って働かれた。「彼」 は、人に、その人のできることをさせた。−−ある人には石を転がさせ、ある人にはシロアムの池に行って洗えと命じられた。主は、彼らにはできなかったことをされたのだ。人々は、あまりにも体制に依存するようになってしまった。平常のことの多くは自分たちでできるのだが、体制は彼らに、体と宗教と経済の面において、全く体制に依存するように仕向けてきた。その結果、体制なしではどうすることもできないような状態になっている。彼らは、すべてのことで体制のところに行く。このケースでは、私達の訓練と経験では手に負えない緊急事態なので体制のところに行くのだ。特殊な修理というわけだが、そしてこの場合は、肉体の治療についてである。医者は、実のところ、容態を変えたり、いやしたりというようなことはできない。ただ医者は、人間の機能についてや、症状を予測したり、こうした異常の場合の処置について、少し多くの情報を知っているだけなのだ。

  3.もし、神がいやされようとするのなら、神には何の助けもなしにいやされることができる。そして、神がいやされたくないのなら、神はいやされないのだ! 私が盲腸の病気になった時、そう言ったのだ。でもこれは非常に強い、熱狂的な信仰である。私は、完全に危険な賭けに自分自身を賭けていた。そして主は、私の信仰に報いて下さったのだ。私は、 「主よ、私は病院に行きます。−−そうすれば医者が私に、薬か何か出し、助言をくれるだろうし、何とか治療してくれるでしょうから。」 と言うこともできただろう。医者が、私の母に、 「彼に病院に来させてはいけない! そうすれば、医者は彼に鎮静剤を打つだろうから、彼はいやしについて主を信頼することができなくなるだろう。」 と言った。

  4.それはすべて、あなたがどれだけの信仰を持っているかにかかっている! どれだけ約束を成就してもらうように要求しているのか? どれだけ多くの約束を引用しているか? それはちょうど、あなたが医者に信仰を持っているのなら、医者の治療と薬剤を受けるのと同じである。もしあなたが、神に信頼を置くのであれば、あなたは聖句という薬剤をもらい、主が処方される治療法に従うだろう。「私は医者を信頼しているが、彼の薬剤は飲まない。」 とは言わないだろう。あなたは、自分が信仰をおいていることが何であれ、それに徹底的に従わなければならない。もし、主においているのなら、ちょうどイエスがされたように聖句を引用し、その成就を要求するのだ。御言葉の上に立つのだ!

  5.信仰とは、持っているか、持っていないかのどちらかである! それは、ほんの少し妊娠していると言っているようなものである。−−そのようなことは実在しない。妊娠しているか、していないかの二つしかないのだ! 信仰を持っているかいないかの、どちらかなのだ! だからイエスはこう言われた、 「もし、からし種ひと粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば移るであろう。」(マタイ17:20) 信仰は、神の御言葉を忠実に学ぶことによって築かれるものである。信仰は、神の御言葉を聞くことによってくるものであり、そして成長するものである。それは、突然、ドカーンと来るようなものではないのだ。あることについて主から突然に聖句を示され、突然に信仰を得ることもある。しかし、そのような信仰を持ち得るのも、信仰の生活を多く経験し、神の言葉を信頼しているためである。

  6.主のいやしを知る人は、信仰と自分自身のいやしを直接に主から得なければならない! 長老に手を置いて祈ってもらうことは、あなたの信仰の現れであり、信仰を使用していることであり、それは他の人たちへの証しである。あなたは、長老たちを呼ぶことなどに従っているが故に、いやしのための信仰を持つことができるのであり、あなたの信仰が、長老に手を置いてもらうことにあるからではない。

  7.すでに主を知り、神の御心と御言葉を知っている神の子供たちは、他の人の信仰や、祈りや、決断を通してではなく、自分で直接に神に触れ、神との直接的な接触をもつことを、神は要求されているのだ。だから神は、信仰の決断を彼ら自身ですることを要求されているのだ。ちょうど救いの時のように、他の人が、あなたの代わりに決断をしてくれることはできない。あなたは、自分自身で信仰の決断をしなければならない。あなた自身が、信仰の一歩を踏み出さなければならないのだ。− 「たとえ神が私を殺しても、それでも私は神を信頼する」 (ヨブ13:15) あなたは、個人的にその責任を負わなければならないのであって、それをあなたの夫や、妻や、あるいはリーダー達に転嫁してはならない。もし、あなたがその責任を他の人に転嫁せずにおれないなら、あなたは霊的には小さな赤ん坊でしかない。もしあなたが、ただの赤ん坊にすぎず、それを認めようとせず、信仰を持っていないのにそれを持っていると主張するなら、それは愚かなプライドである! もしあなたが、プライドを持っているのなら、神はあなたを謙虚にさせられるだろう。

  8.この世界で最もひどい種類のプライドの一つは、信仰を持っていないのにあたかもそれを持っているような振りをすることである! 霊的なプライド、それは今日の教会の姿であり、それは偽善的、パリサイ的、宗教的プライドである。

  9.クリスチャンの大部分は、普通の状況下で、期待どうりに、神が平常の状態を保ってくださることについては、信仰を持っているものだ。しかし、万事がうまくいかなくなり、神の御言葉に反し、平常な状態ではなくなる時、ヨブと同じように大きな信仰を持っている者たちだけが、こう言うことができるのである。 「たとえ神が、私を殺しても、それでも私は神を信頼する。」 ヨブが言おうとしていたことは、こうだったのである。 「神は、御自身の約束を破っておられるように見え、神は私を見捨てられたように見えるが、たとえ神が、すべての神の約束に反して私を殺されようが、それでも私は神を信頼する。」

  10.あの盲腸炎の攻撃を受けた時、私はそうしたのだった。−−私は、神にただこう言った。「主よ、私は何もしません。」 何とかしなければならないというような立場に神を追いやったのだ! 主はそれを好まれる! 御言葉の約束を守るようにと私達が主に挑戦することを好まれるのだ。 「神よ、私は、今ここであなたに従いました。私は、枝に座り、その枝の元を切り落としました。だから 「あなた」 が私をどうされるかは、これで 「あなた」 次第です。もし、あなたが私をいやしたいと思われるなら、あなたには何の助けも必要ないでしょう。」 しかしそれを言うには、偉大な信仰と言われるものが必要だった。なぜなら、医者には、何らかの処置をすることはできたかもしれなかったのだが、そうだとしても、私をいやして下さるのは神であるからだ。しかし、もしあなたがそのような信仰を持っていないなら、あなたは、自分の信仰に応じたことをしたほうがいいだろう。

  11.信仰とは知っていることである! 積極的であり、確信している! 一点の疑念もなく期待する! もし、あなたがそのような信仰を持たず、その信仰のためには死ぬというような覚悟を持たず、 「私は、むしろ信頼しながら死ぬことを選ぶ」 と言う決断をする、責任をとらないのなら、いちはやく近くの病院や医者の所に走っていったほうがいいだろう。あるいは、私達のグループをやめ、飛び出て仕事を見つけ、私達のような殉教の道を捨てて、もとの教会体制の慰安と贅沢に帰ったほうがいいだろう!

  12.すべてのことにおいて、あなたは、証しの一部として、自分の信仰のために死ぬことも厭わないでいなければならない。−−あなたの最後の証しである。−−福音を宣べ伝えながら、信仰のために殉教者として死ぬとしても、あなたが、すべてを捨ててイエスに従った為に、信仰のために飢えて死ぬとしても、あるいは、多くのテストと試練のうちに毎日死ぬことであっても。−−その時あなたは、自分が信仰を持っているかどうかがわかるだろう! ヨブは、自分が死なないですむかどうかを知らなかった。すべての兆候から見て、死ぬことは確実のように見えただろう。そして彼の友人たち全員が彼に、あなたは死ぬだろう、あなたは信仰を全く持っていないと言ったのだ。彼らはヨブに、信仰の欠如のゆえに死ぬだろうと宣告したも同然であった。事実は神が、ヨブがどんなに大きな信仰を持っているかを実証するために、彼を死ぬようなめにあわせたのだ。

  13.御言葉をもたずに、信仰を持つことは不可能である。平常な情況とは反したことに対する信仰、平常な期待以上の、手には負えないようなことに対する信仰−−平常なことを越えたことに対する信仰である。

  14.神は、強制された信仰を好まれない。ほかに方法がなく、選択がないから神を信じるしかないといったような信仰は好まれない。ほとんどのクリスチャンは、最後に神だけしか残らないから神を信頼するということはできる。しかし、神が好まれる信仰は、まだそこに選択の余地があり、決断に迫られ、二者択一できる時に−−他のすべての可能性を無視して神を選ぶという偉大な信仰だ。御言葉を持たずに信仰を持つことは不可能である。

  15.ある人たちは、自分がしたいこと−−やめること−−の口実を探そうとしている! 誰か他の人のせいにしようとするのだ。それを他の人が決断したことにし、他の人に責任を負わせようとする。ヤコブがしたように、天使をつかまえて、神が自分を祝福されるまでは天使を離さないとは言わないのである。そのために、ヤコブはびっこになったが、彼は新しい人になった。もはや地位剥奪者でも、詐欺師でも、嘘つきでも、ペテン師でも、偽証者でもなく、また信仰があるように見せかける人間のようなものでもなく、証明された神の王子になったのだ。彼は、祝福を受けるまでは、天使を離すのを拒否したのである!

  16.エサウの罪はそれだった。−−彼は、あまりにも簡単にあきらめてしまった! 彼は、自分があまり信仰を持っていないことがわかったのだ。彼は、自分の長子相続権を軽視し、自分が目で見、簡単に信じることができるものに満足し、自分の目で見ることができず、大きな信仰をもたなければならないものを拒否した! ある人々は、自分をあまりにも安く売ってしまう。彼らは、あまりにも早くやめてしまう! 言い訳をすることは容易である。なぜ達成できなかったか、達成することを期待されるべきでないということについて、筋の通った、論理的な、合理的な、万人に受け入れられる言い訳をする。たいていの場合、ほとんどの人はあなたの言い訳を受け入れるだろう。なぜなら、彼らも信仰を持っておらず、あなたの言い訳を許容することによって、彼ら自身の言い訳をしているからである! しかし、神はあなたの言い訳を許されるだろうか?

  17.悪魔は、あなたに神の道を捨てさせるためなら、どんなことでもして誘惑するだろう。でも、あなたがそうした後で、悪魔は返ってあなたを非難するだろう! 彼は、あなたが罪を犯すように誘惑し、その後あなたがその罪を犯したことで非難するのである。それが、悪魔と体制のやり方である。

  18.あなたが、その信仰の決断をする時、たいてい、神と二人だけでそれをしなければならないのである! 悪魔や体制や、あなたの友人からさえも援助を期待してはいけない。家の者がその人の敵となるであろう。御言葉を持たずに信仰を持つことは不可能である!

  19.私のこれまでの生涯のうちで、リーダーとしてなしてきたほとんどの決断−−大きな決断は、私と神だけが共にいた孤独の中で、そして全世界が私たちに反対していた中でなされた! 時には私の家族でさえも、また時には私が最も愛した者たちでさえも、私たちに反対したのだ!それらの決断は、みな山頂での決断であり、私とその次の峰の間にあるものは薄い空気だけであり、私は一人でその一歩を踏み出し、結果については神を信頼しなければならなかった。神以外には保証はなく、神の御言葉以外には何の保証もなかった。−−他のすべての状況はそれに反対だった。すべての自然的条件はそれに逆らっていた。−−波も風も、すべてそれに逆らい立っていた。−−そして、私にあったのは、神の御手だけだった!

  20.しかし神は、決して私を失望させられなかった。そのためには、神がその御手をもって私を抱きかかえ、次の峰に渡らせて下さらなければならなかったとしてもだ。目に見える自然な、平常な、論理的、合理的な助けの方法はなかったけれど! 神は言われる、 「わたしに仕えなさい。わたしはあなたを守ってあげよう!」 人は言う、「それは不可能だ!港に碇泊(ていはく)しておれ。引退して朽ちよ。不可能を試みてはならない。あなたは沈むだろう!」 神は言われる、「深みに乗り出せ! 網を投げよ。そうすれば、わたしはあなたに置き所もないような大量の漁獲物を与えるであろう! 何の積み荷もなく、沈む状態であったところに、あなたがこれまでに持ったこともないような、最大の積み荷を与えよう!」 人は言う、「波を見よ! あなたの船の状態を見よ! 不可能だ!」 神は言われる、 「わたしを見よ! 人には不可能である。しかし神に不可能なことは何もない。そして、信じる者には、すべてのことが可能である!」

  21.あなたがたの信仰に応じて、あなたがたの身になるように。」 私達は今、すべての問題と、障害を越えて、信仰によってここに住んでいる。しかしここにいる一人一人が、ただ神と二人きりで、個人的にそう決断しなければならなかったのだ。あなたは、その選択を自分一人でした。もしそうでなかったなら、あなたはここにはいないだろう。誰も、あなたをここに引き止めているわけではなく、もしここにいたくないのだったら、いなくてもいいのである。神に従うためには、夫はその妻を、妻はその夫を、親はその子を、子はその親を捨てなければならなかった。しかし、あなたはその最後の信仰の決断を−−神のために生き、神のために死ぬ決断を−−自分でしなければならなかった! その選択をしなければならなかったのはあなただったのだ! それは、あなたの選択でなければならなかった。そうでないと、それは役にたたず、続かないだろう! もしあなたが、誰か他の人の信仰に惰性でついて行っているのなら、やめてしまいなさい! 彼らは、早かれ遅かれあなたを失望させるであろう! あなたは今、神の前に、あなた自身の2本の足で立ち、あなたが今ここにいるのは、あなたがそう選択したからであることを覚えておきなさい。あなたが神に従う決断をしたのである。神でさえも、それをあなたに代わってされることはできない! 「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」−−なぜなら、神の道を選ぶ者は少ないからだ!

  22.しかし、もし誰かがそれについて行動を起こし、決断をし、あるいは自分一人でも信仰によって立つことを決心しなかったら−−神が私達に示されたことを信仰によって実行に移すことを決心しなかったら−−それは、決して実現しなかっただろう。誰かが、進んで開拓者の役を引き受けなければならない! 誰かが、その方向に向かっての信仰の最初の一歩を踏み出す決断をしなければならない。そのビジョンのゆえに最初のイニシャティブを取るべきであり、それがどんなに大きな犠牲を伴うものであっても、必要とあれば、一人でそれをしなければならないのだ。

  23. 「これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注ぐか否かを見なさい、と主は言われる。」  あなたは、まだその恵みを見ていない。あなたは、主がそれを注ぎ出されることをどうして知るのか。あなたは、それをするという神の言葉を受けているだけである。−−あなたは、それを証明しなければならない! それをやってみなければならない。あなたは、実際にそれを試み、神に挑戦するべきなのだ。神が行けと言われた方向に向かって最初の一歩を踏み出し、神が何をしようとしていられるかを発見するべきだ。あなたが行かないなら、神はそれを示されることができないからである! あなたが従わないなら、神は道を作ることはできない! もしあなたが、信仰によってそれに 「なら」 なかったら、あなたはそれを 「見る」 ことがないだろう!なぜなら、この仕事−−神の仕事−−については、信じることは見ることだからだ!

  24.しかしある人々は、最後の時になって弱ってしまう。夜明けの直前が一番暗いのであり、救いの直前に、最大の絶望がある! 最大の失望的攻撃は救助の直前にくる! ある人々は、もう少しのところまでいく! もう少しのところまで、しかし、敗れてしまう! もし、あともう一息、もう一歩、もう一時間だけ、もう一日持ちこたえることができたら、あなたは輝かしい勝利を持ち、素晴しい証しになっただろう! でも、あなたのこれまでの苦労は全部無駄になり、もう少しのところで成功を逃してしまった。「惜しいところまで行っても、失敗は失敗である。」 あなたにこれが起こらないように、神が助けたまわんことを! そして、神が私達に信仰を与え、一人でもそれを選択する心を与えてくれますように! 必要があれば、それを自分自身の決断で選び、それがどんな結果になろうとも、受け取ることができますように!

  25.信仰とは、努力して持つことのできるものではない! それを持っているか持っていないかの、いずれかである! あなたは御言葉に満たされ、神の信仰に満たされているから信仰を持っているのであり、あなたはそれを知っており、期待している! あなたは、信仰を持とうと努力することはできない! 信仰は、あなた自身の努力と力で作り上げ、奮い起こし、あるいは磨き上げることのできるようなものではない! 信仰を持とうと努力することは肉の業である! 御言葉を通して信仰を受け取ることは、神の恵みの業である。ちょうど救いのように。それは、代償なしに与えられるものであり、ただ、受け取るだけなのだ。しかし、あなたの業に信仰が現れるであろう! もし、あなたが信仰を持っていれば、やめないであろう。あなたは、疑いに誘惑されることがあるだろうが、疑わないだろう! 悪魔は、あなたを威かそうとするが、あなたは恐れない。悪魔は、あなたを驚かそうとするが、あなたはひるまない。彼は、高飛車に出てあなたを威そうとするだろうが、あなたは引っ込まないだろう。彼は、あなたをいじめにかかるだろうが、あなたは降伏しないだろう!−−なぜな

らあなたは、信頼しながら死ぬ覚悟があるからだ。あなたは、神に完全に確信がある。いやしを受け、奇跡を生むのは、そのような信仰である!

  26. 「すべての人は、それぞれ神に対して、自分の言い開きをしなければならない!」  「あなたには何の係わりがあるのか。私に従ってきなさい!」  選択という大いなる権利があるのだから、他の人々の背後に隠れることはできないのだ。神が、直接に私達に対処されている時、選択の責任を他の人たちに転嫁することはできない!

  27.神は、あなた自身の信仰に応じて、自分で選択するように求めておられる。−−私の信仰でも、私達の信仰でも、あるいは誰か他の人の信仰でもなく、あなたの信仰によって! 神は、あなたに対処されておられるのである。そして神は、あなたが他の人々に頼るのではなく、個人的に神を信頼することを学んでほしいだ! もし、あなたが神の子供たちのリーダーになろうとするのなら、今が、あなたの信仰を全面に出し、あなたは、どれだけ自分が神を信頼しているかを見るために、自分で決断するべきなのだ! あなたは、真に信頼しながら死ぬ覚悟でいるべきで、医者に行けたらと願いながら死ぬべきでも、プライドのために死ぬべきでもなく、信仰のゆえに死ぬべきなのだ!

  28.信仰は、生きるか死ぬかの危険なゲームであり、軽々しくもて遊ぶものではない。あなたは、信仰を持っているか持っていないかのいずれかである。人をごまかすようなことをすれば、あなたを死に追いやることになるかも知れない。−−あるいは最後の瞬間になってあなたは気持ちを変え、医者の所に行き、結局あなたの信仰は終始そこにあったことを示すことになるであろう。−−あなたは、ただ嘘を言っていたのだ! 信仰を持とうとしていただけにすぎなかった! 信仰がなくては神を喜ばせることは不可能だ。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを必ず信じるはずだからである。ヘブル11:6。 「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することだからである!」 言い替えれば、あなたはすでに信仰によってそれを持っているのであり、そのことを疑ったり、気を変えたり、最後の瞬間になって神から逃げるようなことはしないということだ!

  29.しかし、土壇場になれば、あなたは自分自身のために信仰を持たなければならない! ただし、赤ん坊や、霊的な赤ん坊のような、わずか特別な例外を除いてである。 「神に信仰を持ちなさい!」 私が、あなたのために信仰を持ってあげることはできない。もしあなたが結婚と子供を生むことについて、真剣な霊的決断ができるような年に達しているのであれば、あなたは生死についての信仰の決断も、十分にできるような年に達しているはずである。

  30.しかし、もしあなたが、自分のために神を信じることができないなら、どうしてあなたは、他の人々に自分のための信仰を持たせるように霊感することができるだろうか。信仰は、神がそれをなされると知っている!−−そして、神はそれをなされる! もしあなたの気持ちが少しでも病院に行って医者に診てもらおうということに傾いているなら、そうしたほうがいいだろう。なぜなら、そうすることにあなたの信仰があるからだ! そうした誘惑はあなたの頭の中をよぎるだろうが、しかし信仰を持つ者は、そうした敵を拒否し、敵は彼から逃げ去るだろう。彼らは、邪悪な者に少しの場所も与えるようなことはしない!−−そして彼らは、信頼してやまず、神は決して敗れないという信頼を持ち続ける!

  31.他の者たちは、もし神が失望させられたら、最後の瞬間には不確実な神から飛び下りて、彼らの肉で考えた確実さに着陸しようと考えている! 彼らは、背後の橋を焼き払ってはいない! 彼らは、すきと牛をいけにえにしてはいない! (列王紀上19:21)  彼らの心の奥に少しの余地を残しておき、神が働かれない時に、それに頼ろうと思うからである! これは信仰ではない! これは、プライドにしか過ぎず、人を喜ばせ、人の目によく思われようとすることにしか過ぎない! 神を信じるようなそぶりをしたのは、それが人気を得ることであり、一般に受け入れられること−−一般から期待されることであり、彼らが本当に信仰を持っているからではなく、他の人々に良く見られたいからである。

  32.真に忠実な者は、自分自身を、世界のすべてのものから断ち切っているのである。−−神の「エクレシア」であり−−背後の橋を全部焼き払って、離れ切ったものであり、帰ることのできない者たちである。これらの人たちが、最後まで忠実な人たちであり、命の冠を与えられる人たちである! あなたは彼らを追い出すことはできない。彼らには、だめだといっても無駄なのだ。彼らは、帰ることを拒否する!−−たとえあなたが、彼らを追い出し、追い返そうとしてもだ!−−ここが彼らの場所であり、−−彼らは、死ぬほどここにとどまろうとするだろう!

  33.しかし、見せかけの虚栄の信仰だけを持つ者は、事情が困難になり、すべてを失ったように見えたら、すぐおじけづく。彼らは、冠が下りてきている時に、氷の平原から飛び出すのだ! 彼らは、自分が乗っているボートが沈むと思うと、すぐそれから飛び出る!

  34.しかし、信仰のとりこになっている者たちは、もしそうすることが神の御心であるなら、むしろ船と共に沈むことを選ぶ。もし必要があれば、神が再び船を浮き上がらせてくださることを知っているからである!

  35.順境の時だけの信仰は、信仰ではない! 真の信仰は、自分が沈みつつあるように見えても嵐に耐えるものである。真の信仰は、他の者たちがみな失敗し、自分を残して逃げ去った後も動じない! たとえ彼が、一人でそれをやらなければならないとしても! 真の信仰は決してやめない!−−決してあきらめない−−決して止まらない−−だから、彼らをやめさせることはできない−−神はそうした信仰と共におられるからである! 真の信仰は、どんな代価をも払い、どんな犠牲をも耐え−−どんな死をも死ぬ!

  36.信仰の人を止めることはできない。彼を説得してやめさせることはできない! 彼の気持ちを他に向けさせることはできない! 彼を止めることはできない! 彼は、あなたが共にいてもいなくても進み続けるだろう−−必要であれば、あなたを乗り越えてでも。なぜなら、 「あなたの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」  そこまで来れば、彼に必要なものは神だけである! 神に対するそのような信仰を持っておれば、あなたはどんな所にも行くことができ、何でもすることができる。なぜなら、信じる者にはすべてのことが可能だからである。しかし信仰なくしては、神を喜ばせることは不可能である!

  37.あなたはどんな種類の信仰を持っているか。あなたは、何処まで神と共に行くつもりか。あなたは、最後の瞬間には逃げ出すつもりか。あなたは、今までよく走ったのに、これまで多くの苦しみを受けたのを無駄にし、報いを失おうとするのか。あなたは、最後まで耐え忍ぶ覚悟があるか。最後まで耐え忍ぶ者には−−「わたし」は命の冠を与えるだろう。