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山男! GP B  1969年12月

  1.マタイ 5章--山と群衆には大きな違いがある。山は群衆と正反対のものである。イエスは、群衆を後に残された。山頂は、決して人で埋まることはない。私はたくさんの山に登ったが、ほとんどいつも一人であった。何故か? 1) それは、つらく苦しい仕事である。 2) あまり多くの人は、山に登ることを望まない。 3) それは寂しいことである。 4) その為には、全てを捨てなければならない。 5) 生命を落とすかもしれない。 6) 怪我やだぼくも多い。

  2.谷が夕闇に包まれた後も、私は太陽をまだ見ていることができた。山には、もっと沢山の光がある。谷は、殆どいつも暗い−−多くの人々や物にあふれている。だが、いつも暗いことが多い。山は風が強く吹きすさび寒い。しかし、そこにはスリルがある。山に登るには生命を賭ける価値がある、という気持ちがなくてはならない!−−いかなる山も−−この人生の山、遂行の山、障害の山、そして困難な山も−−もし、あなたがたがこれらの山に登るならば、又、苦難の象徴である風や寒さや嵐に雄々しく立ち向かうならば、それには生命を賭ける価値がなくてはならない。しかし、一人で山頂にいると、主を非常に身近に感じる! そこでは、主の御霊の声はほとんど雷鳴のように大きく響くのである。谷では、群衆の声が余りにも大きく、あなたは神の御声を聞くことができない。山頂の沈黙は、他のどんな音をも消す程のものである。山頂では、あなたの心は本当に意気高揚するものだ! それはスリルである! 殆ど恐ろしいまでの感動なのだ!

  3.言うまでもなく、登山は極度に危険なものである。崖っぷちに立っている時ほど、どん底に近づくことはないものだ! ほんの少しでも踏み外すなら、激しくどん底にたたきつけられる結果になるだろう! 登山の奇妙な点−−それが極めて危険である理由は、登るほうが下るよりもはるかに容易だということである。一度登ったら、もう二度と下ってこれないかもしれない。−−これも、山に登るために払う犠牲の一つである。行方不明になった登山家のほとんどは、下山する途中で道に迷ってしまった。登る時には、どこに行くのか、目的地を見ることができるが、下る時には見つけることができないからだ。体制に戻っていくどれだけの人たちが、自分がどこに踏み込んでいるかを知っているだろうか? 彼らは容易な道に戻っていると思っているが、実際には、下ることによって何に踏み込んでいるかを悟っていない。それは、恐るべき失望である! 山に登りつめると、去りがたいような妙な感情を抱くものである。下ることにはインスピレーションはない。登ることにおいては、駆りたてられるような意欲がある。それは、ほとんど霊的なものだ。あなたは、どのような危険もいとわない。だが下る時にはどうなのか? そこにはインスピレーションも、ゴールも、何かを成し遂げることもない。人間の泥沼と群衆のぬかるみの中に、ただ、ずるずると戻っていくだけなのだ。

  4.開拓者だけが山を登る−−誰もしなかったことをやりたいと望む人。群衆を越え、その上に抜きん出て、すでに成し遂げられた以上のことを成し遂げたいと望む人々。開拓者には、ビジョンがなくてはならない。−−ほかの誰も見ることができないものを見るビジョン。−−ほかの誰も信じないものを信じる信仰。−−初めて何かを試みるものになろうとする率先心。−−物事を最後までやろうとするガッツがなくてはならない! だが、山の上で日が昇るのを最初に見て、日が沈むのを最後まで見るのはあなたである! 主の輝かしい創造物の、全景を見渡せるのだ! あなたは、世界を正しい見方で見、越えるべき多くの峰々を見、一般の人間の見る地平線を越えた世界を見る。普通の人間には見えない、地平線のかなたにある世界を見るのだ! 彼らのビジョンと、彼らの地平線の向こうにある世界を! そして、これから登るべき、はるかなる山頂を見る! これから横切るべき遠くの谷を見るのだ! 谷間の人々が決して見ることのできないものを見るのである。−−彼らには、それが理解さえできないのである。なぜなら、彼らにはそれを見ることができないのだ。あなたは、全地平線を360度、あらゆる領域と範囲を見るのだ! それはまるで、人生のすべてを初めから終わりまで見て理解するようなものだ。他の人たちが、はるか下のほうで、限られた時の中に生きているのに、自分は、永遠の中に生きている、というような感じなのだ。

  5.群衆の中にいて、富の神マモンの偽りの世界にいれば、あなたはやがて過ぎ去ってしまう時間と、時の創造物と、時の物事だけを見る。しかし、もしあなたが、回りの群衆の中から頭を突き出すなら、あなた自身が彼らの間で山となる。そうなると彼らはあなたに対して憤慨し、反抗し、争いを挑んでくる。あなたを理解することができず、あなたを彼らの間に置くことを望まないからだ。彼らは、そこに山があると知ることさえ望まず、彼らの子供たちに、山があると聞かれることさえいやがるのだ! だが、彼らが谷間にいる時に、あなたが山にいるように見えるなら、彼らはあなたを憎むものだ。あなたが彼らより上にいることが明白であり、彼らは、誰も自分達の上にいるのを望まないからだ。彼らと同じように、あなたも泥の中につからせておきたいのだ。ほかに行く所があるということを、彼らは誰にも知られたくない。彼らは、ほかに何かがあり、ほかに行くところがあり、また、そこに行く方法があることを、彼らの子供達に知られることさえも望まない! 彼らは、その子供たちを谷間に、泥の中に、ぬかるみの中に閉じ込めておきたいのだ!

  6.太古の昔から戦争は常に、谷に住む人々と山に住む人々との間で戦われてきたことを、あなたがたは悟っているだろうか? 山の民族と谷の民族の間には常に戦いがあった。山の人々は常に頑丈で、がっしりとしていて、頑健であったが、その数は少なかった。しかし、彼らはいつも生き延びることができた。彼らには、いつも逃げていく山があり、谷間の人々にはその山を登るだけ頑丈でもがっしりもしていなかったので、追跡することができなかったのだ。その為に、いつもちょっと追いかけるだけで、逃げるにまかせたのである。彼らはただ、山の人々を追い払うことだけを望み、山を征服することは望まなかった。山の人々を追い払うだけでよかったのだ。彼らにとって山の人たちは、肉体のとげのようにやっかいな存在にすぎなかった。彼らは、谷間の他にも住める所があると証明できる存在だったし、それこそ谷間の人たちが絶対に不可能だと言っていたことなのだ。

  7.歴史には、山の民族が谷間の民族を征服した例は数多く見られるが、谷間の民族が山の民族を征服した例は滅多にない。しかし、危険は常に、山の民族が谷間の民族を征服し、彼ら自身が谷間に落ち着いて住んでしまう時に起こった。したがって山の民族にとっては、谷間の人々と戦っているほうがよいのである。谷間の人々に征服されないように、終わりのない、絶え間ない不屈の戦いを続けるほうがよいのだ。危険は、あなたがたが谷と和平を結び、谷間に下って行くのが安全になった時なのだ。最も大きな危険とは、安全で、安心感を抱いていることである。その時あなたは、山の野性の自由と解放を失うからである!

  8.谷間の地は人間の国であり、高地は神の国である。人間が谷間を支配する。−−神のみが山を支配され、山に住む人々はそれを知っている。だが谷に住む人間は、彼らが自分たち自身を支配するために、自分達が神であると考えるのだ。しかし、山の上に住む人々は、非常に恐るべきもの、危険なものの身近に生きているために、神に近く暮らせざるを得ないのだ。谷に住む人々はすっかり安心してしまって、神を必要としない。神の存在すら忘れてしまったのである。

  9.登る道は、荒れ果ててごつごつと険しく、つらく、歩きにくい道である。登りがけに会う人々は、いつも優しく親切とは限らない。だが、下にいる谷間の人々はさらに悪い。谷間では、あなたが山に登るのを思いとどまらせようとして、できる限りのことをしてくるのだ。山の上には住む場所も少ない−−小さな素朴な隠れ場や、ほったて小屋だ。食べ物もあまりなく、寒くて、風も吹きすさぶ。しかし、そこでは死ぬことさえスリルである。谷間で生きるより、むしろ山の上で死ぬほうがいい! 町の通りで転んで死んだ人の記事を、誰が新聞で読むだろうか。だが、山で死んだ者については、遠く離れたスイスの山で起こったことでさえ−−あなたがたは、ここでその男の記事を新聞で読むであろう! なぜなら、少なくとも彼は、あえて試みたからである。踏み固められた小道は敗者のためにあるが、山の頂は、力強く勇ましい開拓者のものである!

  10.あなたが山を選び、群衆を後にして離れるならば、誰が真の弟子であるかを知るであろう! イエスの弟子だけが主に従ってきた。イエスが山に入られた時、世界で最も名高い教えを聞く貴重な特権を持った者、つまりその日に、真に天からの御声を聞いた者は、群衆を後にして山を選んだ者たちであった。−−最後までイエスに従い続けた者たちであった!

  11.それができるかどうか待って見ている人の名前を耳にすることはない。やり遂げた人、またはやろうと努力して死んだ人の名前だけがいつまでも語り継がれるのだ。あなたがそれをやり遂げる時、神の口は、あなたに向かって開かれるのである。主はあなたに、顔と顔とを合わせて語りかけられるであろう。主ご自身があなたがたに教え、神の最も大いなる神秘を明らかにされるであろう!

  12.山の上であなたは何を聞くであろうか? 世界中にこだまするものを聞くのだ! 静けさの中で何を聞くであろうか? 歴史の流れを変えるであろう、ささやきを聞くのだ! 8人の人が山から下りてきた−−アララト山の上にある箱舟からノアとその家族が−−彼らは変わり、世界も変わった。一人の男、モーセが山から下りてきた。そして、すべての民族が変わり、彼らが世界を変えたのである!さらに、イエスとその弟子たちが、マタイ5章にあるその山から下りてきて、世界を変えてしまった!

  13.世界を変えた者たちを変えたのは何であったのか? 彼らが神の御声を聞き、谷間で言われたことと完全に相反することを教えられた時だ!

  14.心の貧しい人たちは、山の人々である。悲しむ者は山に住む。柔和な人たちとは、山から来た人々である。 「義に飢え乾いている人たちは幸いである。彼らは、飽き足りるようになるであろう。」山の人々は飢え、乾き、神のみが彼らを満たすことができるのだ。鼻もちならない谷間の人々は、自分の鼻さきより遠くを見ることができず、彼ら自身の現状に満足しており、十分に腹を満たしているのだ。そして主は彼らを空腹なままで帰らせられる!

  15. 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 誰と平和をつくるのか? 敵と平和をつくるのか? 谷間の人たちとの平和なのか? 悪魔との平和か? 嘘つきどもとの平和か? 惑わす者どもとの平和なのか? 谷間の人々があなたがたとの平和を拒む時、いったいどうして、彼らと平和を持つことができようか? あなたがたは、平和をつくり出すためにきて、平和を説いた。それなのに何が起こったのか? 彼らは戦いを求めている! 戦いを望む者と共に平和をつくり出すことはできない!それでは、あなたがたは誰と平和をつくることができるのか? 神との平和、平和をつくり出す人々との平和である。平和を望む者との平和である。「地上の平和を善意ある人に向かって。」と天使が歌ったように。 邪悪な人や悪意ある人と、どうして平和を持つことができようか? 彼らとでは、不可能なことだ。谷間の人たちに対して平和はあり得ない。戦いがあるのみだ。あなたがたにできるのは、彼らを征服することだけである。そして、彼らを征服する最もたやすい方法は、彼ら自身の罪悪や不正の中で、腐るにまかせることだ。彼ら自身の罪で弱くなり、なまけて、太り、病気になるにまかせておくのだ。そうすれば、彼らは山の人々にかないはしない!

  16.あなたがたが正しく、彼らがその正しさに耐えられない為に、あなたがたは迫害されているのだ! 谷間の人々は、あまりにも長く闇の中にいたので、光に目がくらみ、あなたがたが正しく、彼らがずっと間違っていたと知ることに耐えきれない気持ちなのだ。彼らは暴露されることを望まない! 彼らは、あなたがたが見るように物事を見ることができない。彼らにとって混乱が平和なのである。彼らに理解できるのはそのような類いの平和なのだ。あなたがたが、真の平和を携えてくるのを彼らが嫌うのは、それによって彼らに真の平和がないことが明らかにされるからである。それは彼らの平和を乱す。したがって彼らは、嘘を言い、欺き、偽って様々の悪口を言うのである。しかし、 「喜び、喜べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい!」  ここ地上においていつも報いを受けるとは限らない。勿論、もしあなたがたが、いつも主の安らぎと喜びに満ちた天国に住むならば、今でも多くの報いを受けるのだ! あなたがたは、霊の内でもうすでに天国にいるからである。天国は、あなたがたのただ中にある。だから、天の大きな報いはあなたがたの心の中にあり、又、これからさき天国においてあなたがたの受ける報いは非常に大きいのだ。

  17.この世界で、どの国民よりも長く自由でいられたのは何処の国かあなた方は知っているだろうか? アルプスの山上にあるスイスであり、ヒマラヤの山上のネパールとアフガニスタンである! 他の文明は栄え、やがては没落してしまったが、彼らは現在もこの世に残っているのだ! 彼らが今でも自由である一つの理由は、彼らは他の者が望むようなものを余り持っていないからだ。彼ら以外に、彼らの山を望む者がないからだ。「私は山を選ぼう。」−−エゼキエル17:22-24

  18.聖書の中で、力と偉大さは山によって象徴された。谷間で表されたことはないのだ。 「主の家の山」 、神の家は山である。あなたがたが山なのである。主は神の御国を、全地上を満たすほどとても偉大な山として、語られているのだ! それにはシオンを山と語られている。 「シオンから主の御言葉は出て、広まるであろう」 と。主の御言葉は、主の家の山から出る。−−すなわちシオンから。信じようと信じまいと、エルサレムは山の上にあるのだ。それは世界でもまれな、山の町の一つであり、ヘブル人たちは山の民であった。今日、フェニキア人たちはどこにいるのだ? 彼らは、富み、力強かった。しかし、彼らは谷に住んでいた。谷間に住んでいた民族は、すべて消え去ってしまったのだ。だが、山に住んでいた民族は、今日まで生き続けたのである! あなたは、山男か、それとも谷間の連中だろうか? 谷には死があるのだ! 山の上には生命がある! 谷を出よ!−− 「罪に嫌気がさした者よ、鳥のように山に逃れよ!」