CLTP クリスチャン・リーダーシップ・トレーニング・プログラム #37

 

ゆるす力

(ジュニアティーン以上。大人の判断で、一部のストーリーをそれより下の年齢の子供たちと一緒に読むこともできます。)

  ――――――――――

目次

・ここまで人を愛せますか?       

・憎しみに囚われて   

・戦没者記念碑の前で 

・恨みとゆるし       

・怒りは人をダメにする               

・「かなめの丸太」   

・引き裂かれたドレス 

・戦場にて       

・本物のドナルド・スマイリー       

  ――――――――――

ここまで人を愛せますか?

ボブ・コンシダイン

  これは、妻の愛の物語です。夫がその愛に値したか、またどうしてそのような行動に走ったかはわかりません。これは夫、カール・テイラーについてではなく、妻についての話なのです。

  物語は1950年初め、マサチューセッツ州ウォルサム市にある小さなアパートの一室から始まります。エディス・テイラーは、自分が町一番の幸せ者だと思っていました。カールと結婚してから23年経ちますが、毎日、帰宅した夫の顔を見るのが何よりの楽しみでした。

  もちろん、大変な時期もありました。仕事が続かなくて、カールが落ち込んでいた時です。そんな時でもエディスはカールを励まし、夫には自分が必要だからともっと愛したのでした。

  カールの方も、妻にあふれんばかりの愛情を注いでいました。彼女をとても頼りにしていて、少しでも離れていたくないかのようでした。政府の倉庫係として出張している時は必ず毎晩、妻に長い手紙を書き、一日に何枚もはがきを送りました。出張する先々から、エディスにちょっとしたプレゼントを送ったものです。

  二人はよく、夜がふけるのも忘れて、将来の「マイホーム」について話しこんだものです。「頭金が貯まりさえしたら…」と。

  1950年2月、カールは、日本の沖縄にある新しい倉庫へと数ヶ月派遣されました。

  今回は何のプレゼントも送ってきません。エディスにはわかっていました。きっと、家を買うためにお金を貯めているのでしょう。

  一人ぼっちのまま、何ヶ月か過ぎていきました。エディスにとって、沖縄での仕事はどんどん長引いているように思われました。もうすぐ帰ってくると思うたびに、「あと3週間」「あと1ヶ月」「あと数ヶ月」残らなければならないと書かれた手紙を受け取るのです。

  とうとう一年が過ぎた頃、突然、エディスにある考えが浮かびました。「カールが戻ってくる前に家を買って、カールを驚かそう!」 エディスは、ウォルサムにある工場で働き、給料はすべて銀行に預金していました。それで、未完成ではあったものの、林の中にある眺めのよい小さな家の頭金を払ったのでした。

  夫へのプレゼントに夢中になっていたため、月日がどんどん過ぎていくのも気になりませんでした。2ヶ月後、寝室の一つに床を張るためのお金も貯まりました。次の月、断熱材も注文しました。借金ができましたが、カールが貯めているお金があるなら大丈夫でしょう。

  エディスは、無我夢中で働きました。何か考えたくないことがあるかのように…。

  カールからの手紙はますます少なくなってきました。プレゼントが届かないのは理解できます。でも、切手代さえも惜しいのかしら?

  そんな時、カールから手紙が届きました。

  「愛するエディス、どうやって伝えたらいいのかわからない。実は、僕たちはもう夫婦ではないんだ…」

  エディスは思わずソファに座り込みました。カールは離婚するためにメキシコに書類を送ったのです。その書類が同封されてきました。沖縄に住んでいる日本人女性のアイコと結婚したのです。アイコは、カールの部屋を担当していたメイドでした。

  当時、アイコは19歳、エディスは48歳でした。

  さて、私がこの続きを自分の想像で書くとしたら、妻は裏切られたとショックを受け、激怒するという展開になるでしょう。そんな一方的な離婚手続きを拒み、夫とその女性を憎み、人生をだいなしにされた復讐をしようとすることでしょう。

  けれども、ここでは実際に起きたことだけを書くことにしましょう。エディス・テイラーはカールを憎んだりしませんでした。そんなにも長い間愛していたので、その愛を止めることなどできなかったのです。

  エディスには、そのいきさつが想像できました。貧しい娘と、時々飲み過ぎてしまう寂しい男。お互いを知る機会。それでも…(ここでエディスは夫を英雄に仕立て上げているのですが)それでもカールは卑きょうな道を取らなかった。若いメイドを捨てる代わりに、離婚という困難な道を選んだのだと。

  ただ、夫がエディスを愛するのをやめたということだけが、どうしても信じられませんでした。カールがアイコを愛していることも、何とか受け入れました。年の違いや境遇の違いを考慮に入れても、これはエディスとカールが育(はぐく)んできたような愛ではないはずです! いつか、二人はそのことに気づくでしょう。いつか、カールは戻ってくるに違いありません。

  エディスはそう考えるようにしました。カールに手紙を書いて、そちらの様子を引き続き知らせてくれるように頼みました。眺めの良い、断熱材が入った小さな家は売りました。カールはそのことを知りもしませんでしたが。

  ある日、アイコが妊娠していることを手紙で知りました。1951年にマリーが生まれ、1953年にヘレンが生まれました。エディスは女の子たちにプレゼントを送りました。エディスはカールに手紙を書き続け、カールもエディスに手紙を書き続けました。お互いをよく知っている者同士の、うちとけた、細々としたことを書いた手紙です。ヘレンに歯が生えた、アイコの英語は上手になってきている、カールの体重が減ったなどなど…。

  エディスの心は、今では沖縄にありました。ウォルサムでは、ただ存在しているに過ぎませんでした。工場とアパートの間を行き帰りする間も、その心はカールのことを思い続けました。いつか戻ってくると…。

  そんなある日、悪い知らせが届きました。肺ガンでカールが死にかけているというのです。カールからの最後の手紙には、さまざまな恐れや不安がつづられていました。自分が死ぬことよりも、アイコのことや、特に二人の小さな娘の行く末を案じていました。アメリカの学校へ娘たちを送るために貯金していましたが、入院費や治療費の支払いで、それもみるみる減っていきました。娘たちの将来はどうなるのか…。エディスは、自分にしてあげられる最後のことは、カールを安心させてあげることだと知っていました。アイコがその気なら、マリーとヘレンをウォルサムに連れてきてもいいと、手紙に書きました。

  カールが死んで何ヶ月たっても、アイコは子供たちを手放そうとはしませんでした。アイコに残されたのは、娘たちだけだったからです。けれども、彼女に何ができるでしょうか? 娘たちも、アイコと同じような人生を歩むでしょう。貧しさと重労働と失望の人生です。1956年11月、ついにアイコはエディスに手紙を書きました。

  エディスは、54歳にして、3歳と5歳の子供の母親になるのは大変だとわかっていました。カールが死んで、娘たちが英語をすっかり忘れてしまったことも、会って初めてわかりました。

  けれども、マリーとヘレンはたちまち英語を話せるようになりました。目から恐れは消え、やせほそっていた顔はぽっちゃりとしてきました。そしてエディスの方も、急いで仕事から帰るようになりました。6年間、まるでなかったことです。食事の支度さえ、再び楽しみとなりました!

  そんな時、アイコから手紙を受け取りました。「むすめは何、してますか? マリーやヘレンは泣いていませんか?」 つたない英語で書かれた手紙を読んで、エディスの心は沈みました。アイコの寂しさがヒシヒシと伝わってきます。エディスも孤独のつらさを知っていました。

  エディスにとって、生計を立てるのも大変でした。仕事に行っている間、子供たちの世話をしてくれる女性を雇いました。母親かつ一家の稼ぎ手となったエディスは、やせて、体も弱りました。2月に病気になりましたが、それでも働き続けました。日給が惜しかったからです。ある日エディスは工場で倒れて、その後、肺炎で2週間、入院してしまったのでした。

  病院のベッドで横になりながら、エディスは娘たちが大きくなる前に自分が年取ってしまうことに気づきました。カールへの愛ゆえに自分にできることはすべてしたと思っていましたが、もう一つ残っています。娘たちの本当の母親をアメリカに、家に連れてくることです。

  アイコを呼ぼうと決めたものの、手続きは簡単ではありません。アイコはまだ日本人で、受け入れる移民の定数に入るには何年も待たなければならないからです。

  そこでエディスは私に手紙を書きました。私はその状況を新聞のコラムで取り上げました。嘆願書が届き始め、議会では特別な法案が急いで審議されました。そして1957年8月、アイコ・テイラーはついに入国を許可されたのです。

  ニューヨークの国際空港にアイコを乗せた飛行機が到着しました。エディスの心に不安がよぎります。「カールを奪った人を憎むようになったらどうしよう?」と。

  やせた小柄な女性が一番最後に出てきました。エディスは最初、子供かと思いました。そこに立ちすくみ、手すりをぎゅっと握りしめたままで、降りてこようとしないのです。とても怖がっているのがわかりました。アイコは気が動転していたのです。

  エディスがアイコの名を呼ぶと、タラップを駆けおり、エディスの腕の中に飛び込んできました。互いに抱き合ったその瞬間に、普通では考えられないような思いがエディスの心に浮かびました。

「神さま、私がこの女性を、まるでカールの一部であるかのように、カールが戻ってきたかのように愛せるよう助けて下さい。私はカールが戻ってくるように祈りました。そして今、彼は戻ってきました。彼が愛した二人の娘とこの心やさしい女の人という形でです。神さま、私がそれを受け入れることができますように。」

  今、エディスとアイコ・テイラーと二人の娘は、ウォルサムのアパートに一緒に住んでいます。マリーはクラスの優等生です。幼稚園の先生は、ヘレンをとても気に入っています。アイコはというと、看護婦になる勉強をしていて、アイコとエディスはいつか、自分たちの家を持ちたいと思っています。夜のふけるのも忘れて、あれこれ計画を立てるのです。エディス・テイラーは、自分が再び、「町一番の幸せ者」になったのだと知っていました。

――――――――――

憎しみに囚われて

ハスラ・ハンナ

  私の娘に起きたことがあなたの娘にも起こったなら、あなたもきっとあの男を憎むことでしょう。

  それは、もやが立ちこめる一月のある土曜の夜のことでした。

  もう夕食の時間で、私はいつもなら家に戻っているはずのパットを待っていました。娘はデンバーの中心街で勤めていて、5時半には仕事が終わります。友人と電話で話している時に、もう6時過ぎだというのにパットが帰っていないことに気づきました。友人は、パットが電話をかけてくるかもしれないからと言って、その場で電話を切りました。

  けれども、電話は鳴りません。

  7時になっても、パットは戻ってきませんでした。こんな事は初めてです。パットは35歳で、遅くなる時には必ず電話をしてきました。今日も5時に、盗難警報機のスイッチを入れて、オフィスを出るところだと電話をしてきました。それで私は、娘が帰宅した時にすぐ食べられるよう、夕食の支度を始めたのです。

  私は心配で心配でたまりませんでした。私に残されたものと言えば、パットだけだったからです。父親は20年前に死にました。パットが15歳の時です。そして、私たちはとても仲の良い親子でした。娘は以前、別の町に住んでいましたが、聖書大学に通い、パートタイムで仕事をするためにデンバーに戻ってきたのです。パットは人々に福音を伝えるため宣教師になりたいと思っていました。そんな娘を私は誇りに思っていました。

  今朝の出がけの彼女のさっそうとした姿を思い出します。ブルーのパンツスーツに毛糸のキャップが似合っていました。車に乗る前にこちらに手を振り、それからオフィスに出かけたのです。

  家の中はしんと静まり返っていました。コンロの火を止め、鍋にフタをしました。とても食事をする気にはなれなかったのです。

  娘のオフィスに電話をしてみましたが、誰も出ません。それから担当の警備会社に電話をしてみましたが、5時に警報機のスイッチが入っていることがわかりました。

  事故にでもあったのかしら? 警察には電話したくありませんでした。それはまるで、何かひどいことが起きたに違いないと認めているようなものです。けれども、勇気を奮い起こして電話してみました。娘の服装や外見などを説明しましたが、何も情報はありませんでした。

  それから、あちこちの病院に電話をかけました。パットのような女性は来ていません。

  時計は9時をまわっていました。その時、電話でパットが言った言葉がまるで弔(とむら)いの鐘のように、頭の中に重く鳴り響きました。「車を玄関前に回しておくのを忘れたの。裏の駐車場に行くのは気が引けるわ。」

  ワラにもすがる思いで、聖書大学の教官のエドに電話をかけました。何人かつれて、パットのオフィスに行ってくれるそうです。30分ぐらいで電話が来ました。パットもパットの車も見当たらなかったそうです。

  「ありがとう、エド。」 私は弱々しく答えました。心は重く沈んでいきました。

  「何か私にできることは?」

  「いいえ。」 そう言いながら、私は受話器を下ろしました。夜の闇が窓からリビングルームに入り込み、私の心にも重くたれこめました。

  一晩中、部屋を行ったり来たりしながら、一時間おきに警察に電話をかけました。早朝に、警官がパットの詳しい外見や車、服装などを聞きに来たので、数ヶ月前に教会の前で撮った写真を渡しました。

  また、教会の早朝礼拝に行く友人に電話をかけて、パットのために祈ってくれるようお願いしました。

  日曜の朝10時頃、郡警察から電話がありました。ひどく胸騒ぎがしました。

  「娘さんには、身元を確認できるような傷あとやアザがありますか?」

  子供の頃、パットと近所の子供たちが「ターザンごっこ」をしたことを思い出しました。パットは木からすべり落ちて、木の枝で腕を深く切りました。その時の傷あとぐらいしか思い出せません。

  その後2回、警察は電話をかけてきました。2回目には、通っている教会の牧師の名前を尋ねてきました。

  午後になって、ついに何か食べようと決心しました。カッテージチーズと桃を持って食卓についた時、聖歌隊の指揮者のハービイ・シュローダーさんの姿が見えました。うつむいています。その後ろから、男性が二人、群警察の車から出てきました。

  玄関先で、私はこう言いました。

  「パットを見つけたんですね?」

  一人の男性がそうだと言いました。とても言いづらそうでした。

  「もう、パットは戻ってこないんですね?」

  「ええ、残念ですが…」

  日曜の朝、ウサギ狩りに出かけた二人の少年が、道ばたに捨てられたパットの死体を発見したそうです。車から投げ捨てられたのでしょう。

  その時、部屋全体がぐるぐると回り始め、全身の力が一気に抜けていきました。

  「ハンナさん…ハンナさん!」

  誰かが私を椅子にかけさせてくれました。長い間、私はただぼんやりとそこに座っていました。

  次の数日間は、言われるままに手続きなどをしていきました。パットの棺(ひつぎ)の横に立ちながら、聖書大学や会社、教会関係の大勢の参列者に、機械的に応対しました。

  それから、一人きりの家に戻りました。冷たい夜風に吹かれて木の枝が窓に打ちつけています。ベッドに横になりながら、娘の最期について考えていました。パットは、強姦されて刺し殺されたのです。

  人間が人間にそんな邪悪で残酷な仕打ちをするなんて、信じられませんでした。この見知らぬ殺人者のことを考えれば考えるほど、憎しみがこみ上げてきました。軒(のき)下に下がるツララのように、その憎しみは日ごとに大きくなっていきました。

  教会で牧師さんが愛について話している時も、私の心は復讐心に燃えていました。パットがやりかけていた聖書大学からの宿題を見た時には、その場に座り込み、怒って泣きわめいたものです。ピアノの上に置かれたパットの賛美歌の楽譜一枚一枚が、正しい裁きを求めて叫んでいるかのようでした。神はどうしてこんなことが起こるのをお許しになったのでしょう? しかも、ご自分のために働こうとしていた者に対して!

  私は職場に復帰しましたが、通りから聞こえる誰かのおしゃべりの声がパットの声に思えてハッとすることがよくありました。

  娘を殺した人物が裁かれるのを見たい一心で、私は新聞をくまなく調べました。そして、警察とも連絡を取っていました。

  3月に、ある教会の裏で女性の死体が発見されました。あの男の犯行でした。死体の横の雪の上には、「女はきらいだ」という言葉が残されていました。

  数ヶ月後、別の女性が襲われましたが、運良く逃げることができました。警察は同一人物の犯行と考えました。そしてついに10月の土曜の午後、ショッピングセンターで車に乗ろうとした女性が襲われましたが、ナイフで切りつけようとする犯人に必死で抵抗している内に、警官がかけつけ、犯人を逮捕したのです。

  デンバーポスト紙に犯人のカールトン・ムーア(仮名)の写真が載りました。私をじっと見つめているかのようでした。私はペーパーナイフを手に取って、ゆっくりとその写真の顔の部分を上から下に切りました。そして、新聞が破れてしまうまで、何度も切りつけたのでした。

  今では、憎しみをぶつけられる相手がいるわけです。新聞によれば、その男は父親はアルコール中毒で母親は精神障害というひどい家庭で育ったそうです。知能指数は高かったものの、放任され、虐待されていたため、9歳の時から更生施設を出たり入ったりしていました。カールトン・ムーアは仮釈放されてたった2ヶ月後に娘を殺したのです。

  ついに審問が始まると、私は裁判所まで出かけ、法廷の後ろからその様子を見ました。もし私の目に人を殺す力があったなら、カールトン・ムーアは即死していたことでしょう。

  私はその裁判の経過をじっと見守っていました。カールトンは3月の殺人を認め、無期懲役となりました。

  「不公平だわ! パットは死んだのに、どうしてカールトンは死なないの?」 

  数ヶ月たち、やがて一年が過ぎました。私はますます自分の世界に閉じこもりました。たいして難しいことではありませんでした。恨みっぽくて、きつい言葉を投げる私とは、誰も一緒にいたがらなかったからです。同僚も私を避けました。

  日曜の礼拝の後、心配した友人が尋ねました。

  「一体どうしたの? すっかりやつれて…」

  私は友人をにらみつけ、鋭く言葉をさえぎりました。パットのことをもう忘れたの? 私の気持ちなんか誰がわかるって言うの?

  パットの死は、私の人生のあらゆる部分に暗い影を落としました。大事なお金を投資して始めた小さな事業は、うまくいきませんでした。私は自分自身に、そしてその事業を勧めた元友人に腹を立てました。

  気分はまったくすぐれませんでした。まるで世捨て人のように、食事や地域の催しへの招待を断り、行きたいからというよりも、ただ習慣として教会や日曜学校に参加していました。

  やがて二年近くが過ぎました。パットや夫の元に行くまで何年もの一人暮らしが続くでしょう。もう62歳の私には、残りの人生など何の意味もありません。残されたものといえば憎しみの炎だけです。それはまるで炭坑の奥深くで燃える火のように、一度は愛や笑いや美しいものに反応した私の魂をいぶし、焼き焦がしていったのでした。

  しかし、1971年12月の雪の日曜日、教会の聖書勉強会であることが起こったのです。

  地元のギデオン教会から来たドン・ジェントリーさんが、ある計画について説明してくれました。親しい人への贈り物として、聖書をどこにでも送れるというのです。

  ジェントリーさんの説明の声がどんどん遠くなりました。誰か他の方が私に語っておられたのです。その声は優しく、静かで、こう耳もとにささやきました。

  「わたしも残酷な最期を遂げた。しかし、天の父は失われた魂に背を向けることはされなかった。」 それが、イエス様のお声であることはわかっていました。

  「ゆるすことで、自分を自由にしなさい。」 イエス様はそう語られているようでした。「ゆるすことで、憎しみに囚(とら)われている自分を解放しなさい。」

  召集の鐘のように、この言葉は耳に鳴り響きました。

  「愛するイエス様、どうやって私があの男を本気でゆるせるというのでしょう? 心の中はまだ恨みでいっぱいだというのに?」

  「わたしの約束を忘れたのか? 『もしあなたがたが人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるして下さるであろう。』」(マタイ6章14節参照)

  勉強会の時間は終わりました。たった数分しか経っていないようでした。自分がまるで、ここでもなく天国でもない中間の場所にいたかのように感じました。よろめきながら席を立ち、ドン・ジェントリーさんの方に歩いていきました。刑務所に聖書を数冊送ってほしいと尋ねている自分の声が聞こえました。そして、小切手を書きながら、その内の一冊を特定の人に送れるかどうか尋ねたのです。

  「ええ、できますよ。」

  「その一冊を受刑者カールトン・ムーアに届けてほしいんです。そして『イエス様が私をゆるして下さったので、私もあなたのことをゆるします。イエス様は互いに愛し合いなさいと言われたので、私もあなたを愛します』と告げてもらえませんか?」

  それはまるで、私の内にいる誰かが話しているかのようでした。けれども、これらの言葉が口から出たとたん、自分が鉄格子の監獄から解放され、今まで束縛していた何かから解き放たれたように感じました。

  家に帰ったとたん、私はベッドに横になり、何年かぶりに泣き始めました。涙が枯れてしまうくらい泣きました。そして、疲れて眠りについたのです。

  私はもう自由でした。聖書を送ることでゆるしを示した時に、心にずっとのしかかっていた深い恨みと孤立感を神は取り去って下さったのです。ベッドから起きあがり、子供のように新しい気分で窓から外をながめました。

  雪はもうやんでいました。真っ白になった町の上を太陽が輝きます。遠くの方には同じく雪化粧をほどこした山々が見えます。自分がその山の山頂まで飛んでいって、どんどん空を舞い上がれるような気がしました。それから、私はカールトン・ムーアがイエス・キリストを見いだし、その魂が自由になるように、長い間、一心に祈りました。ちょうど私が自由になったように。

  9ヶ月が経ちました。私は幸せで充実した生活を送っていました。送った聖書については何も聞いていないものの、そんなに気にもしていませんでした。ある夜、友人宅から帰ってくると、電話が鳴っているのが聞こえました。ギデオン教会のドン・ジェントリーさんからでした。

  「どこに行っていたんですか? 遊び回っていたんでしょう。」と、ジェントリーさんが快活に冗談を言いました。「ずっと連絡を取ろうとしていたんですよ。」 それから、私あてに手紙が届いていると言いました。それはギデオン教会のB・L・シャルトン元大佐とハリー・パーマーさんからで、彼らが娘を殺した殺人犯に聖書を届けたのです。

  聖書を受け取ってから数ヶ月後に、カールトン・ムーアはイエス・キリストを心に受け入れたそうです。そして、自分に聖書がどれほど大きな心の糧となっているか伝えたくて、私に次のような伝言をしたのでした。

  「ハンナさんは、僕に最高の贈り物をくれました。だから信じます。あなたがこんな僕をゆるしてくれたのだから、神さまも僕をゆるして下さるという希望と信仰を持てると。」

  ジェントリーさんが手紙を読み終わる頃には二人とも泣いていて、言葉が出ませんでした。

  今、私の人生はさらに変わりました。カールトン・ムーアに面会している人達と連絡を取ったり、彼と手紙のやりとりをするようになったからです。刑務所に入った頃、カールトンは陰気でむっつりとしていたそうですが、聖書を受け取って以来、すっかり変わったそうです。それまで、彼のことを愛しているとか、イエスが彼のことを愛しているなどと告げてくれた人は誰もいなかったそうです。いつも自分が死ぬ時には地獄に行くだろうと言われていました。彼はどうせ地獄に行くのだから、誰よりも悪いことをして地獄に行こうと決めたのです。

  救われてからの数年間、カールトンは刑務所仲間の牧師となりました。聖書を教え、カウンセラーを務め、聖書や福音文書を配ったのです。その中には私が送ったものもありました。

  私はパットの追悼式で牧師さんが言われた事をよく思い出します。「サタンはここから悪をもたらそうとしたが、わたしは良きものをもたらす」と主が牧師さんに言われたのだそうです。

  説教壇から私を見つめながら、牧師さんはこう言われました。「ハスラ、この約束を支えにがんばりなさい。」

  その時の私は本気にとりませんでした。でも先日、こんな手紙が届きました。最近は、同様の手紙がよく届きます。送り主はある受刑者の妹でした。「ハンナさん、刑務所にいる兄がカールトン・ムーアに出会ってキリストを受け入れました。これが私にとってどんなに大きなことか、あなたには想像もつかないでしょう。」

  涙で目がかすみます。もちろん、私にもよくわかります。娘の代わりにカールトン・ムーアが宣教師になったことを、神が私に示して下さったからです。

  昔のカールトン・ムーアはもういません。同様に、昔の気むずかしいハスラ・ハンナももういません。奇跡的なゆるしの力を知った時に消えてしまったのです。

 

――――――――――

 

戦没者記念碑の前で

ジョン・プラマー

  私はリビングルームで読書をしていた。テレビはつけっ放しだったが、音量は下げてあった。それは1996年のある暖かな6月の夜のことだった。

  一人のんびり過ごしていると、テレビの画面に、ある写真が映し出された。もう何年も私を苦しめてきた写真だ。何度見ても、心が痛い。ゆるしてもらえるだろうか? 私がしたことを話すことなど、できようか? それは、ベトナム人少女がカメラに向かって走っている写真で、両腕を上げて、気が狂ったように泣き叫んでいた。ナパーム弾でひどいやけどを負ったのだ。ピューリツァー賞を受賞したこの写真は、大勢の人の心に強く語りかけたが、特に私の心に衝撃を与えた。私こそ、あの少女を苦しませた張本人なのだ。

  私はテレビに手を伸ばし、ボリュームをあげた。レポーターはそのベトナム人少女、ファン・サイ・キム・フックさんが結婚し、今はカナダのトロントに住んでいると話していた。

  「生きているんだ。」 それを聞いて、私はとてもうれしかった。

  1972年、私はベトナムに駐在する米軍の大尉だった。第三地区補助軍のG3航空幕僚だった私はB−52の出撃、つまり地上軍を援護するための戦闘機出撃の計画と調整を任されていた。地上部隊が苦戦している際には、彼らを空から援護するよう命じられていた。それも一刻も早くだ。

  その春、私は司令壕から、南ベトナム人部隊を指揮していた米軍指導官と無線で話した。彼の部隊はトランバンの町に攻め入ろうとしていた。

「すぐに援護してください。」 指導官は率直に述べた。

  ベトコンは部隊近くでざん壕を掘っていた。彼は攻撃目標を告げた。

  地図で位置を確認した私はこう言った。「ここは、ちょうど村はずれにあたるじゃないか。フレンドリーはどうなるんだ?」 私たちは味方の民間ベトナム人のことを「フレンドリー」と呼んでいた。

  「フレンドリーはいません。全員出ました。避難したんです。」

  ざん壕に隠れている敵を攻撃するには、ナパーム弾や起爆性の高い弾薬が最も効果的だと知っていた。攻撃目標は我々の部隊に近かったので、私は最も確実な手段を取りたかった。そこでA−37戦闘機とA−1戦闘機の出撃準備を南ベトナム空軍部隊に命じた。

  それでも気がかりだった。念のため、地区司令部にもう一度連絡した。

  「そこのフレンドリーたちの状況はどうだ?」

  「全員、出て行きました。」

  私は爆撃を承認し、それから約5分後に指導官からの無線連絡が入った。「攻撃は遂行されました。部隊は町に入ります。」

  「いつもと同じだ」と、私は思った。こんな攻撃は何度もしたことがあるのだ。

  その3日後、入り口に束になっておいてあった軍発行の新聞「スターズ・アンド・ストライプス(星条旗)」を取って、食堂に入った。食事を受け取り、座って、コーヒーを手に取りながら新聞を開いた。心が砕かれるような写真が目に入ってきた。戦火から逃げまどう9歳の少女の姿だった。その記事には、トランバンの村への空爆により少女はやけどを負ったと書かれている。

  私が命じた攻撃だった。

  手がふるえ、熱いコーヒーがテーブルにこぼれた。息が止まりそうだった。同じテーブルに座っていた兵士が、不思議そうにこちらを見た。「これは、自分が命じた攻撃なんだ」とだけ答えて、黙ってしまった。

  このベトナムでの出来事を他の者に話したのはこれっきりだった。誰からも尋ねられなかったし、私もこのことを記憶から消し去ろうとしていた。しかし、心にある罪悪感、それも魂がよじれるような罪悪感は消えることがなかった。教会に行くのをやめてから長い間経っていたので、従軍牧師に会いに行くこともしなかった。帰国しても、その写真は、新聞、雑誌、テレビなど、ありとあらゆる場所で取り上げられているかのようで、それから逃げられはしなかった。

  1974年の初めに除隊してから、私はみじめな人生を送った。悲しい過去のあやまちを消し去ろうと、酒におぼれた。二度の結婚も離婚に終わった。魂がすさんでいたため、他の人に心を開くことなどできなかった。

  だが、ある大みそかの日に、私は友人の紹介でジョーンと出会った。彼女は敬虔(けん)なクリスチャンで、私が子供の頃よく通ったノースカロライナ州ホークカウンティの教会に一緒に通った。そして、そこで結婚式をあげた。私はジョーンを心から愛していたものの、その率直さと面倒見の良さにはよく驚かされた。彼女はいつも誰かのために何かをしていた。しかも、自ら犠牲を払ってまでもだ。私はよく、どこからそのようなエネルギーと愛を得るのだろうかと思ったものだった。

  1980年代後半、私は防衛関連建設請負会社の重役となり、バージニア州北部に移ることになった。私たちはヴィエナである教会を見つけた。そこで、私は心から福音を信じている人たちに出会ったのだった。修養会があった週末に、私は、神が自分に望まれている姿とはどれだけかけ離れているかに気づき、涙を流して悔い改めたのだった。1990年11月、私は神に人生をささげる決意をし、やっと神の恵みとは何かを知った。私はゆるされたのだ。それでも、自分があの少女にしたことを思うと、ひどい後悔と罪悪感にさいなまれた。

 

  神への信仰が増すにつれて、主が私を聖職者に召しておられるように感じた。ジョーンの助けによって、私は神学校に通い始め、ついにパーセルビルにあるベタニヤ統一メソジスト教会の牧師となった。

  長い間、心の重荷となってきたあの写真を再び見たのは、パーセルビルの牧師館のリビングルームでのことだった。少女のその後のことを聞いたのは、それが初めてだった。やけどが治った後、キム・フックさんは彼女の気持ちとは裏腹に、プロパガンダの材料として共産主義者たちに利用された。その後、薬学を学びにキューバに送られ、そこで同じベトナム人学生と恋に落ちた。ハネムーンにモスクワに行くことが許されたのだが、その帰路、ニューファンドランドで飛行機が燃料補給している時に、二人はカナダ政府に政治亡命者として受け入れを求め、認められたのだ。現在トロントに住んでおり、息子が一人いるという。

  それを聞いて、私は胸がいっぱいになった。どうしても彼女に会いたかった。その反面、彼女に会うことが恐かった。そんなに自分を苦しめた相手に、彼女が会いたがるとは思えなかったからだ。

  その数週間後、私はカリフォルニアで開かれたベトナム・ヘリコプター・パイロット協会の会合で、ベトナム人詩人のリン・ドイ・ボさんに出会った。彼はキム・フックさんのことも、あの有名な写真を撮った写真家ニック・ウトさんのことも知っていた。彼の話によると、トランバンで爆撃された時、キムさんと家族は売店の中にいて、あわてて通りに出た時に、キムさんはナパーム弾でやけどを負ったそうだ。ニックさんは彼女を急いで病院に連れていった。最初は助からないだろうと言われ、14ヶ月も入院したそうだ。あごは溶けて胸にくっつき、左腕は胸郭(かく)とくっついていた。そこで、アメリカ人の整形外科医が手術をし、彼女に新たな人生を与えたのだった。

  バージニア州に戻った後、リンさんが連絡をしてきた。彼はキムさんに私のことを話したそうだ。キムさんもクリスチャンなので、私たちは会ってみるべきだと彼は思ったのだ。私はそれを聞いておじけづいてしまった。彼女に会うなんて、辛すぎる。それは怖くてできなかった。

  復員軍人の日の式典に出席するため、キムさんがワシントンDCのベトナム戦没者記念碑の会場に来るのを知った。私も出席する予定だった。それはまるで、主ご自身が私たちが会うよう計画されたかのようだった。

  1996年11月11日月曜、私はあの黒いみかげ石でできた記念碑の前に立っていた。昔の戦友たちが数人一緒にいて、励ましてくれていた。午前中ずっと待っていたが、キムは来なかった。

  すると突然、あたりがざわめいた。レポーターやカメラマンが小柄なベトナム人女性のまわりを囲んでいる。その女性はステージの方へと案内された。

  司会者がキムさんを紹介した。トランバンの爆撃で、肉親を二人失ったことを司会者が告げた。「主よ、私にあわれみを」と思わず祈った。体がふるえ始め、涙がほほをつたった。一緒に立っていた仲間が私の肩をぐっと抱いた。そして、キムさんがスピーチを始めた。「爆弾を落としたパイロットの皆さん一人一人と直接お話しができるとしたら、私はこう言うでしょう。私たちは過去の歴史を変えることはできません。でも、今、そして将来も、平和のためにできるだけのことをしましょう、と。」

  ふるえる手で、私はメッセージを書いた。「あなたと少しお話しがしたいのですが。」 私は執行委員に紙を渡したが、その時にはもう式は終了していて、キムさんはステージから去っていた。私はがっかりした。もう彼女には会えないのだ。

  すると、友人が走ってきた。「キムさんに会えるよ。」 大勢の人をかきわけながら、彼はキムがいるところに連れて行ってくれた。彼女は待っていたパトカーに乗り込むところだった。誰かが私が来ていることを彼女に話すと、キムさんは振り返って、私の目を見つめた。憐れみに満ちた顔でキムさんがその両手を伸ばすと、私はその中にくずれ落ちていった。そして、泣きながら、「すまなかった。本当に悪いことをした。あなたをあんな目にあわせるつもりはなかったんです」と告げたのだった。

  キムさんは私を抱きながら、「もういいのよ。あなたをゆるします」と言ってくれた。その瞬間、私を悩ましてきた罪悪感は消え去った。心の重荷はなくなったのだ。

  私は、彼女が泊まっているホテルに招待され、そこで、私たちは長い間、話したのだった。その間ずっと、自分がこうやってキム・フックさんに会っていることに驚いていた。24年間、キムさんに与えた苦しみから逃げていたのに、今、神は私たち二人を会わせられたのだ。ついに、私の過去にも平安がやってきたのだった。

  別れ際にホテルのロビーで、私たちは手を取り合い、祈った。私は今、神の愛の力に畏敬の念を覚えている。自分自身をゆるせなかった時に、神は私が一番ゆるしてほしいと思っていた相手からそれを見いだすよう導かれたのである。

 

――――――――――

 

怒りは人をダメにする

ブレア・リード

 

  7年前にエディー・マイケルソン(仮名)との共同経営を解消した時、彼がいやがらせをしてきたり、私が彼を打ちのめしてやりたいと思うようになるなどとは、考えてもいませんでした。

  私たちは当時、ボルティモアで防水処理と塗装の会社をやっていて、私は今でもその会社を続けています。共同経営者として塗装の方を担当していたエディーは、独立するために共同経営をやめました。

  エディーは私に多額の借金がありました。それでも、彼が会社を始める時、穏やかに対処しました。塗装の仕事を確保してやり、客も紹介してあげました。

  ところが2週間後、その恩をあだで返すかのように、エディーは私にひどい仕打ちをしたのです。それはまるで、いきなり腹にパンチをくらったかのようでした。

  私の会社は、巻き込みタイプのガレージドアのサビをとり、特別なペンキで塗装する仕事を引き受けていました。回転式のパワーサンダーで大きな金属ドアのサビとりをするのは、社員のポール・ベビンの仕事です。ある日、みんなの仕事ぶりを見て回っていると、ポールがぼう然と立っていました。

「マイケルソンさんが、パワーサンダーを持っていってしまいました。」

  私は驚いてポールを見ました。「何だって?」

  ポールは繰り返しました。「マイケルソンさんが、サンダーを取り上げて、持っていったんです。『これはオレのだ』と言って。」

  それはまるで真実ではないので、しばらくショックで声も出ませんでした。そして、彼の恩知らずな行為に、ここ何年間も覚えたことがなかったような激しい怒りがこみあげてきました。

  頭の中は怒りと憎しみでいっぱいでした。わなわなと体が震え、話すことさえできませんでした。

  ポールは私がエディーと対決すると思いながら、こちらを見ました。「取り返すんでしょう? このままにはしないでしょう?」

  警告の赤信号が心の中で点滅していました。激しい怒りが苦悩と悲しみに変わっていきました。心の中で、「気をつけろ! 口に出してはいけなさい。今、行動に出てはいけない。落ち着くんだ」という小さな声が聞こえました。

  やっとのことで私は、「ポール、君はここにいなさい。すぐ戻ってくるから」と告げました。

  私は会社の中に入り、薄暗い地下の、コンクリートでできた階段に座りました。そして、どうすればいいか考えたのです。

  マイケルソンだって神の子供だ。そして、もともとは良い人間にちがいない。心から受け入れたわけではありせんでしたが、こう考えるよう努力しました。それは私自身のため、つまり私自身がこの激しい怒りから解放され、逃れるためです。エディーはまだ子供だ、子供のように振る舞っているだけなんだと考えました。何か間違った判断をしたため、きっと自分にはサンダーを持っていく権利があると思ったのでしょう。そうでなければ持っていくはずはありません。

  「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください…」私は座ったまま、頭を垂れました。「天の父よ、私はエディーをゆるします。あなたも彼をゆるし、祝福してあげてください。」

  立ち上がった時には、心は落ち着いていました。そして、ポールがいた場所に戻りました。私が口を開く前に、ポールは熱心に尋ねました。「マイケルソンさんのところに行くんでしょ?」

  「いや、ポール。何もしないよ。私たちは彼をゆるすべきだ。」

  ポールは驚いた顔をしていました。「このままにしておくんですか?」

  「その通り。私たちは神の方法で対処するんだ。そんなに大きな損害じゃないし、パワーサンダーはまた別のを借りられるからね。」

  その後、そして次の数日間は、マイケルソンの恩知らずな行為が頭から離れませんでした。そのことが頭に浮かぶたびに、神の御前ではエディーは私の兄弟なのだと自分に言い聞かせ、それから神が彼を祝福してくださるようにと祈りました。

  それから何週間も経ちましたが、それでもエディーのことを思い出したり、彼の名前を聞くたびに、うっ積した怒りで落ち着かない気分になりました。「こうやって彼を恨むことで、私自身を傷つけている。何とかしなくては。それに、エディーのことを思い出すたびに彼のことで怒らないように自分に言い聞かせているのだから、この恨みも取り除いてはどうだろうか? 完全にゆるしてはどうだろうか?」

  「だが、完全にゆるすにはどうすればいいだろうか?」

  その時、前にどこかで読んだ言葉が浮かんできました。「ゆるすためには、相手に何か良いことを言うか、良いことをしてあげなくてはなりません。神のどの原則にも言えるように、ゆるしも行動で現さなくてはならないのです。」

  パッと気分が晴れました。これでわかった。こうすることできっとゆるせるだろう。その時から、私はエディーのために何ができるだろうか考えるようになりました。

  後でエディーに仕事を回す機会がありました。その契約の時、エディーと会い、話をしました。

  私は取られたパワーサンダーのことも借金のことも口に出しませんでした。

  「どうだい、うまくやっているかい?」

  「それが、全然ついてないんだ。」

  それから彼は、多額の金を払うはめになった状況について話してくれました。それは、エディーが全く返す気のなかった借金の額とパワーサンダーの金額をちょうど足したぐらいの額でした。

  私はうなずきました。それは、ざまあみろという思いからではなく、神の法則の正確さに驚いてうなずいたのです。つまり、「人は自分の蒔いたものを刈り取るようになる」ということです。(ガラテヤ人への手紙6章7節)

  マイケルソンは私が回した仕事によって、もうけました。そして、私ももうけたのです。私が彼をゆるしたことを行動に現すことによって恨みから解放され、心に平安を持つことができたのです。

  数ヶ月後、社員のポールが私のところにきました。彼は少しためらいがちに、おずおずと話し始めました。

  「お礼を言いたいんです…」

  私は何のことか見当がつかず、「どうしたんだね、ポール」と言いました。

  「あの…子供の頃からいろんな説教を聞いてきましたが、全然ぴんと来ませんでした。でも、マイケルソンさんがサンダーを持っていった日のことを覚えていますか? 僕はあなたがきっと怒ると思ったんです…でも、あなたの心には平安がありました。それは、僕にとって驚きでした。そして、ずっとそのことを考えていたんです。今、僕は教会に通うようになり、自分でも祈っています。そして、何もかも前より良くなっています。このことをあなたも知りたいかなと思って。」

  ポールの話を聞いていて、私は神の知恵の偉大さにおそれいってしまいました。そして、ポールの心に手を伸ばすのに私を使ってくださったことでうれしく思い、また神に感謝したのでした。

 

   ――――――――――

 

「かなめの丸太」

ノーマン・ビンセント・ピール

 

  労働大会で講演をした日の夜、一人の男性が私のところにやって来ました。彼は自分がひどい状態なので、5分だけでも話がしたいと言うのです。けれども50分経った後でも、その人は自分の複雑な状況について話していました。正直言って、私は困ってしまいました。

  ついに、私は彼の話をさえぎりました。

 「私はあなたにどうすればいいか告げられるほど賢くはありません。私にはわかりません。困りましたね。この問題を解決するには数時間、数日かかるかもしれません。」

  それからこう続けました。「あなたも、どうすればいいかわからないのでしょう?」

 「だから、話しに来たんです。」

 「じゃあ、あなたと私で、特にあなたがこの問題について神に尋ねてみればどうでしょう?」

 「それじゃあ、あまりにも単純すぎはしませんか?」 私は牧師なので、彼は私が解決策を告げてくれると思ったのでしょう。

  けれども、私は言いました。「神に尋ねてみてはどうですか? あなたの困った状況の中心になっているものがあるかもしれません。それをつかみ出して解決するなら、他の事も丸くおさまるかもしれませんよ。」

  それから私は、ノースウエストにいた知り合いの年老いた木こりの話をしました。彼の話によれば、春先、丸太を川に流しているとよく詰まってしまうことがあるそうです。「丸太がこんがらがって重なり合うから、川の途中で止まってしまうことがあるんだ。だが、そういう時には必ず『かなめの丸太』というのがあって、それを見つけて引き上げるなら、あとの丸太はうまくおさまって、流れていくというわけさ。」

  私は話を続けました。「あなたも問題の『かなめの丸太』を探してみればどうですか? それが何かわかりますか?」

 「いいえ。何が何だかわからなくて。」

 「じゃあ、どれがその丸太にあたるか神に尋ね、取り除くのを助けてもらえばよいでしょう。そうすれば、その他のことは丸くおさまりますよ。」

  後で、私はその人に再会しました。

 「私にはその丸太が何なのかわかっていましたが、ウソをついたんです。今までそのことについて考えたことはありませんでしたが、丸太の話をしてくださった時、私の人生のかなめの丸太が何なのかピンときたんです。私はある人とケンカしていました。彼は私のことを嫌っていましたが、彼に対する私の憎しみと比べればその半分にも及びませんでした。主に尋ねた後、この男性を憎むようになってからいろいろな問題が起こっているように思えました。

  そこで、私は自問してみました。『この憎しみこそ、ピール牧師が話していた丸太なのだろうか?』とね。そして、主がそれを取り除いてくださるなら、私もその人をゆるし、愛するように努力すると主に言いました。私たちは仲直りしました。すべてがバラ色で、夢のような人生になったわけではありませんが、この憎しみが取り除かれてから、まるで私の人生の川が再び流れ出したかのようでした。」

  というわけで、人生のどんな面においても言えるのですが、状況が複雑になり、混乱し、みじめに感じるなら、祈りの素晴らしい力によって、何が障害となっているか探し出すのです。そして、それを取り除くなら、川はスムーズに流れていきます。「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」(ヨハネ16章24節)

 

   ――――――――――

 

引き裂かれたドレス

マーガレット・ジェンセン

 

  メリーは若くて、神への愛と奉仕の夢でいっぱいでした。牧師の夫のジョンと共にこのウィスコンシン州の農村地帯に移ってきたばかりでしたが、ジョンは、不機嫌でいらいらしていました。自分が通っていた神学校のある、ニューヨークやシカゴの活気を恋しく思っていました。頭脳明せきなジョンは本をほしがったのです。

  メリーはあらゆるものに喜びを見いだしました。耕されたばかりの新鮮な土のにおい、鳥の歌声、春のきざし、クロッカスやスミレの美しさ…。メリーは風の音にあわせて歌い、鳥と共に笑いました。でも、そんなメリーにもほしいものが一つありました。春物の新しいドレスです。いかにも牧師の妻という感じの地味な茶色や黒の服ではありません。襟(えり)と袖にレースがついた、太いベルトつきのフワッとした薄手のドレスです。

  お金なんてありません! メリーはじっくりと考えた末、ジョンのための新しい灯油ランプとドレス用の服地を買うため、箱の中に小銭を貯めることにしました。レースは、トランクの中の古いベルベットのドレスから取ればいいでしょう。そしていつか、赤ちゃんのルイーズに、青いベルベットの服を縫ってあげられるでしょう。

  ついに足踏みミシンを使う日がやってきました。メリーは歌いながら、ペダルを踏みました。金髪のルイーズが糸巻きや洗濯バサミで遊んでいます。小さな家はこぎれいにされ、新しいランプが誇らしげにジョンの読書机の上に置かれました。

  はしゃぎながら、メリーは長い茶色の髪を下ろし、朝の光の中で髪をときました。そして、あの新しいドレスを着たのです。スミレの模様とレースがついたピンクのやわらかな薄手のドレスです。ベルトのリボンを後ろで結ぶと、メリーは、きゃっきゃっとうれしそうな声をあげるルイーズのまわりを、クルクルとまわりました。春でした! メリーはまだ23歳になったばかりで、ルイーズのほかにも、優しく抱き、愛するようになる新しい命を宿していました。荒野の教会での生活、開墾(こん)するきまじめな移住者たち、そして、長く厳しい冬が、このうら若い牧師の妻を、歌や詩からなる自分だけの世界に閉じこめていました。けれども、メリーはここの誠実な人たちを愛し、喜びや悲しみをわかち合うようになりました。今、彼女は新しいドレスに身を包み、大喜びで踊っています。

  すると、夏の稲妻のように、突然メリーはぐいっと引っ張られたかと思うと、怒ったジョンの顔が目に入りました。日頃のイライラが爆発したのです。「バカなことに金を使って! 図書館も本もない。牛やニワトリ、作物や収穫以外、話す相手もいないじゃないか!」

  火山の爆発のように激怒したジョンは、ドレスをずたずたに引き裂きました。そして、始まった時と同じように、急に嵐は止みました。ジョンが馬に乗ってどこかに出て行ったのです。家には、ゾッとするような静けさだけが残りました。ジョンは怒りにまかせて馬を走らせ、驚く牛や騒ぎたてるニワトリを後にして、草原をかけ抜けていきました。ウィスコンシンからニューヨークのど真ん中まで行くことができればいいのに、と思いました。大好きな図書館があるニューヨークに。

  部屋のすみでうずくまるメリーは、ルイーズと破れたドレスを抱きしめていました。恐れと怒りで、体を動かすことさえできません。泣く力も残っていなかったメリーの心は空しさと、遠い両親の元に帰り、ジョンと別れたいという思いでいっぱいでした。この土地には、頼れる人が誰もいなかったのです。メリーは詩篇34篇4節を思い出しました。「私が主に求めた時、主は私に答え、すべての恐れから私を助け出された。」 それから長い間、ずっと泣き、主に呼ばわったのでした。

  メリーはここから出ようと決心しました。屋根裏に寝床を作ってルイーズとそこに寝ることができます。ジョンは一人で寝るのです。それから破れたドレスを小さくたたんで包み、トランクに入れました。ハンセン牧師がこの辺りの教会を巡回していました。そこでメリーは何もなかったように振る舞い、時機を見はからって、ハンセン牧師にドレスを見せて、ジョンから去り、母親の所に戻るのを助けてもらおうと思いました。

  そう決意すると、メリーはいつもの地味な服を着て、牧師の妻らしく髪を結い上げました。それから夕食の支度をしました。ジョンが夜遅く戻ってきた時、彼の夕食は冷めないようにオーブンの中に入っていました。メリーは屋根裏でルイーズと一緒に寝ていました。

  ジョンは静かに夕食をとると、メリーを探しました。屋根裏で寝ているのを見ると、ジョンはメリーにベッドに戻り、ルイーズをゆりかごに入れるよう命じました。メリーはルイーズをそっとベビーベッドに寝かせ、何も言わずにベッドに入りました。ジョンの怒りはおさまっていましたが、メリーの決意には気づいていませんでした。

  生活はいつも通りでしたが、ジョンへの反感によって、メリーの歌声は聞かれなくなり、その軽快さもなくなりました。メリーは、計画を立てながら、静かに待っていました。

  ハンセン牧師の訪問は、ジョンに新たな喜びをもたらしました。二人は本や教義、教会協議会の働きについて話し合ったからです。メリーは静かに接待しました。その穏やかな表情の裏に苦悩が隠されているなど、誰が気づいたでしょうか。メリーは忠実な信徒たちと共に礼拝に出席していました。でも、説教の内容はまるで頭に入っていませんでした。

  最終日の朝の礼拝がもうすぐ終わろうとしていました。でもハンセン牧師と二人きりで話す機会はまだありませんでした。きっかけを探さなくてはなりません。ひょっとしたら今日は日曜なので、午後にジョンが病気などで教会に来れない信徒たちを訪問している間、ハンセン牧師は一人で晩の説教の準備をするかもしれません。「説教の中で何か話のきっかけに使えるようなことがあるかもしれない」と、はっと気づいたメリーは、礼拝の説教に聞き入ることにしました。

  「マルコによる福音書11章25節にはこう書かれています。『立って祈るとき…ゆるしてやりなさい。』 ゆるしとはその気になったらするというものではありません。神の訓戒に従って、ゆるそうという意志からくる明確な行動なのです。感情は後で伴います。安らぎが訪れるのです。神に私たちの心の痛みや無念さを明け渡すなら、神は私たちの傷に愛やあわれみを注いで下さいます。そして、いやして下さるのです。」

  メリーは心の中で叫びました。「私にはできないわ。忘れることなんて絶対できない。」

  説教は続きます。「中にはこう考えている人もいるでしょう。『ゆるせたとしても、忘れることなどできない』と。その通り。忘れることはできません。けれども、思い出すことで人生を台なしにする必要はありません。神の愛とゆるしは心痛がなくなるまでその記憶をやわらげることができ、実際にそうしてくれるでしょう。ゆるすつもりなら、証拠も全部消してしまわなくてはなりません。そして、愛することだけを考えるのです。」

  ジョンとハンセン牧師は馬に乗って、オルセン執事の家に行きました。メリーは馬車に乗り込むと、つばの広い黒い帽子をかぶり、ルイーズを自分の腰にくくりつけて固定しました。馬が田舎道を勢いよく進んで行くにつれ、メリーの目には涙があふれました。

  自分は何をしなければならないかよくわかっていました。メリーは神の言葉に従いたかったのです。馬を馬車につないだまま、メリーは急いで家に入り、ルイーズをベビーベッドの中に入れました。ふるえる手で、破れたドレスが入った包みをトランクから出しましたが、どうしても捨てることができません。

  さて、日曜の夕食はオーブンの中に入っていました。メリーは火をつついて、薪を足しました。反射的にコーヒーポットをその上に置き、食事の用意をしました。「証拠を消さなければならない」という言葉が、頭の中で鳴り響いていました。

  「ジョン、あなたをゆるすわ。」メリーはついに、ストーブのふたを持ち上げると、破れたドレスを投げ込みました。ゆっくりと燃えていくドレスを見ながら、涙が止めどもなく流れました。

  「真のゆるしは証拠を消す。」 何度もこの言葉が頭の中でこだまし、メリーはジョンが入ってくるのにも気づきませんでした。

  「メリー、何をしているんだ?」

  涙で声をつまらせながら、メリーは答えました。「神への供え物です。」

  それを聞いて、ジョンはドレスのことを思い出しました。ジョンは青ざめ、震えながら言いました。「僕をゆるしてくれ。」

  それから58年後、ジョンが天国に召されると、メリーはジョンのことが恋しくてなりませんでした。その夜、夢を見ました。三人の天使が現れ、メリーにこう告げたのです。「来なさい。祝宴に行きましょう。」 一人の天使の腕には美しいドレスがかけられていました。

 

  (編集者:この話を載せるかどうか検討していた時、妻は夫をゆるすことができたけれども、この夫婦の関係には誤りがあり、夫は妻にひどい態度を取っていたと感じた人もいました。そこで、主はこの話をどう思われるか尋ねてみました。以下は主のメッセージです。)

  (イエスが語っている:)この人生での人間関係は完璧ではない。だからこそ、ゆるしが必要なのだ。あなたは相手が素晴らしい人間だからという理由で、その人をゆるしたりしない。ゆるしが必要だから、また何か間違ったことをしたからゆるすのだ。たくさん間違ったことをしたかもしれない相手をゆるし、恨みを抱かず、すべての反感を手放すなら、あなたは自分の心と思いに素晴らしい実を刈り取るようになる。あなたは、悪感情という重荷が取り去られ、前には感じなかったような軽快さ、喜び、幸せ、満足感を経験するようになる。これは、あなたが自由になったからである。つまり、相手をゆるすことによって恨みや憤慨の束縛から解放されたのだ。

  だから、友を七回ゆるすべきかどうか尋ねられた時、わたしは、七回の七十倍ゆるすようにと言ったのである。ゆるすごとに、あなたがたがさらに自由になること、それがあなたがたのために良いことを知っていたからだ。だから、わたしはわが子供たちにゆるすよう教えている。さらに、あなたがたが天の父にゆるしてもらいたいなら、まわりにいる人に対しても同様にしなければならない。

  だから、この話の状況は完璧ではなく、この夫の態度が誤っており、夫婦の間には良いコミュニケーションがなかったものの、それでもこの女性はゆるすという正しい行動をした。彼女は証拠を消し、この出来事を過去のものとしたのだ。そして、彼女と夫は、その後の長い歳月を幸せに暮らしたのである。それから、主であるわたしが、彼女が手放したものを与え返した。

  しかし彼女は、それを手放すまでは、また証拠を消し、夫をゆるし、前向きに進んでいくまでは幸せを見いだすことができなかった。心の中に恨みを抱いたままだったなら、誰と一緒にいても幸せになることはなかっただろう。ゆるさないことで彼女の心は食いつくされ、その人生は台なしになっただろう。だから、わが子供たちよ、これは良い教訓だ。結婚生活だけでなく、あらゆる人間関係にあてはまる、心にとめておくべき教訓である。(メッセージの終わり)

 

   ――――――――――

 

戦場にて

ビル・シーブラー

 

  1965年9月、セミの鳴くある暑い日の午後、私は、ギーギーときしむポーチの階段を上っていた。ウィスコンシン州アップトンにいる91歳の祖父に会いに行ったのだ。ベトナムに発つ前に、どうしても別れを告げたかった。特殊部隊の襟章や空軍記章、ピカピカの軍靴には大満足だったが、当時24歳の私は、これから先の自分の運命に不安を感じていた。歩兵小隊指揮官の高い戦死率について聞いていたからだ。

  私が来るのを見て、祖父は嬉しそうにロッキングチェアーから立ち上がった。しばらく話して、それからさよならを言ったが、悲しい別れだった。どちらも、もう二度と会えないかもしれないとわかっていたからだ。

  帰ろうとすると、祖父が突然、私の腕をやせた骨だらけの手でつかんだ。製紙工場で長年働いてきてごつごつになったその手で。

  「ビル、敵にも優しくしてやるんだぞ。神さまはお前を愛しているのと同じように、彼らも愛しておられるんだ。」

  しかし、私が祖父の言葉の意味をしっかり理解したのは、ベトナムでのジャングル戦にみんながうんざりきていた11月だった。私は、第一空挺師団のライフル部隊を指揮する空挺特殊部隊士官だった。神出鬼没かつ残忍な敵を憎むのは、我々にとって何でもないことだった。粘り強く、十分に武装した北ベトナム軍はジャングルの中をこっそり動き回り、全く予想もしなかった時に攻撃をかけ、大勢がそのために死んだのだった。

  ある11月の夜、我々は、イアドラングと呼ばれる谷にあるカンボジア国境近くの西方の山間地で戦っていた。だがすぐに、ヘリが間違った場所に自分たちを下ろし、敵陣の後方にいることに気づいた。

  午前2時ごろ、救出要請がかすかに無線で入ってきた。それはポール・モブレー上級参謀で、無線係と二人の北ベトナム軍捕虜と共に道に迷い、取り残されてしまったのだった。合図として、銃を撃つように指示した。何度か銃声を聞いた後で、我々はその位置を確認した。

  そして、ごつごつした岩だらけの干上がった川にいるのを発見した。彼らは川沿いに部隊に戻ろうとしていたが、全員、疲れ切っていた。特に、一人のはだしの捕虜はそうだった。懐中電灯の明かりでその足を見ると、両足とも血だらけだった。いかめしい顔つきで平気そうに振る舞っていたが、部隊まで歩くのは非常に困難なのが一目瞭然だった。

  私は、一瞬、迷った。北ベトナム軍によって、戦友が殺されるのを何度も見てきた。一発の銃弾で事は解決するかもしれない。

  その時、祖父の言葉を思い出したのだ。「神はお前を愛しているのと同じぐらい、彼らのことも愛しているんだよ。」

  すべきことは一つしかなかった。私はそのベトナム人の体を持ち上げると、後ろに背負った。M16ライフルを片手で抱え、もう片方で捕虜の体を支えた。ベトナム料理に使う強い魚のソースの匂いがした。ごつごつした岩だらけの川底を歩き、それから深いジャングルの中を歩くには何時間もかかるかように思えた。そして、私は疲れていた。

  歩いていると、後ろからすすり泣く声が聞こえた。私は聞こえないふりをしたが、やがて泣きじゃくり始めた。思わず私は、泣かなくてもいいからと言うように、抱える手にぎゅっと力をこめた。するとこともあろうに、私の首にキスをし始めたのだ。私は恥ずかしくて困ってしまった。

  ついに我々は3キロ以上も歩いて、部隊に戻った。私はへとへとだった。けれども、この小さな親切が部隊全体に広がった。そのけがをした捕虜を見て、気の毒に思う者も出てきた。衛生兵は、傷口が感染しないようにと、わざわざ抗生物質を塗ってやった。私は自分のバックパックを切り裂いて、間に合わせの靴を作ってやった。

  尋問のため師団司令部に引き渡した後、二度と会うことはないだろうと思っていた。

  後で、あの捕虜が米軍に対して敵意むき出しであると聞いた。捕虜にとっては当然とも言える。そして、自分を背負って歩いた「背の高い男」以外とは話さないと言ったそうだ。

  再び会った時、これが何の役に立つのだろうと思った。石のように硬い表情のままだ。話をさせるなんてできるのだろうかと心配になった。とにかく、ベトナムの地図を見せ、通訳を介して故郷はどこか尋ねた。彼はためらいがちに北方にある小さな村を指さした。私は銃剣を抜いて、地面に大まかにアメリカの地図を描くと、指でウィスコンシン州を指してから、自分を指さした。

  ついに彼がほほえんだ。我々は、通訳をはさんで話し始めた。敵同士でも、兵士なら誰もがいとしく思う共通の話題があることを知っていた。つまり故郷である。

  驚いたことに、彼は最上級曹長だった。その当時生き残っていたのは、ほんのわずかで、捕われた者などさらに少なかった。

  その後、二度と会うことはなかったが、私と同じように、彼も故郷に帰り、家族の元に戻ったよう望んでいる。

  ベトナムで、私はいろいろ苦難を味わった。4回重傷を負い、死にそうになったことも度々あった。現在、多発性硬化症にかかっているが、それでも幸せで豊かな人生を送っている。そして、祖父の別れの言葉をとても感謝している。神は、私が背負った敵を愛しておられるのと同じぐらい、私のことも愛しておられるからだ。そして、この事実ががんばり続けるための力と勇気を与えてくれるのだ。

 

   ――――――――――

 

本物のドナルド・スマイリー

ドナルド・スマイリー

 

  私を逮捕したのはマイク・サマーズ警部補だった。マイクは、近所のコーヒーショップで何年も朝食を共にした仲間だったが、今朝はいつものおしゃべりはなく、その快活な顔は曇っていた。マイクは私に向かってこう言った。

  「ドン、すまないが、君を逮捕しなければならないんだ。」

  21年もの逃亡生活の末、すべてが終わったのだった。この日が来ることはわかっていたが、ショックは大きかった。ついに私は捕まったのだ。

   今回は、逃げようとはしなかった。たとえ逃げられたとしてもしなかっただろう。逃亡生活にはうんざりきていた。たえずおどおどしながら、人生の約半分を逃げて暮らすことには。

  脱獄してから21年。ノースカロライナのこの小さな町に落ち着き、友人もでき、ビーと幸せに暮らしていた。自分が犯した過ちについて言い訳するつもりは毛頭ないが、以前の自分とは別人のような生活だった。あの頃の自分はまだ若く、びくびくしていて、生き残るために無理に強がっていた。

  マイクは私に手錠をかけると、郡の拘置所に連れて行き、黙秘権などについて書かれた紙を読み上げた。どういうわけかすでにニュースをかぎつけた記者たちが拘置所に群がっていた。私は恥ずかしさを超えて、とてもみじめな気分だった。見せ物になることの屈辱を感じた。そして、カメラのフラッシュや記者たちのメモを取る音、興奮した声が飛び交うこの騒ぎに、ろうばいしてしまった。明日の新聞の見出しはわかっていた。リトルリーグの試合結果や郡行政委員会の会議のことではなく、「コロラド刑務所脱獄犯…ドナルド・スマイリー、ついに逮捕!」という派手な見出しが紙面に載るのだ。町の人たちはどう思うだろうか? 私に親しくしてくれていた人たちは? 表面は平静を装っていたものの、心の中はパニック状態だった。

  ビーが来た。記者やレポーターたちは私達のほうにどっと押し寄せ、容赦なく質問を浴びせた。「何年間、逃亡生活を送っていたんですか?」「刑務所にまた入るのは、どういう気分ですか?」「家族はどう思っていますか?」 房に入った時には、実際ホッとした。

  だが、警察がビーに帰るよう告げた時、私は再び、昔のようにタフなフリをしなければならなかった。独房の扉がバタンと閉じられ、私はそこに立って、ビーのか細い後ろ姿が長いろう下を去って行くのを見送った。足音が聞こえなくなると、突然、疲れがドッと出た。一日18時間ぶっ通しで働いて、翌朝には、また起きて同じことができる私が、である。あっという間の21年間だった。私は鉄格子を背にして、独房を見つめた。

 

  あの当時、私は若く、失業中で、どうしても就職先が見つからなかった。妻と3人の幼い子供たちを養わなければならず、未納の請求書はたまっていくばかりだった。前に働いていた建設会社でまた雇ってもらおうと思い、事務所に行ってみた。すると、誰もおらず、デスクの上には会社の小切手帳が広げたままになっていた。どうして、自分がそんなことをしたのか今でもわからない。これで当座は何とかまともな生活に戻れると思ったのだろう。ほとんど反射的に、何も書いていない小切手を二枚、ポケットに押しこんだのだった。

  盗んだ金で自分の問題が片づき、後で返済できるだろうと望んでいた。しかし、そうはいかなかった。68ドルの詐欺は発覚し、すぐに私の犯行とわかって逮捕された。郡の拘置所に入った時、すでに裁判にかけられ、刑が確定している連中数人と同じ房に入れられた。ところが、彼らは刑務所に行く気は毛頭なかった。朝から晩まで、脱走の計画をねっていたのだ。ついに計画の実行が始まった時、看守たちと受刑者の間でものすごい騒ぎになり、私はその騒ぎに巻き込まれてしまった。結局、誰が何をしたかについて、一人も口を割らなかったので、全員が暴行罪になった。警察は、石けんが一つ入った靴下を「きわめて有害な武器」とみなしたのだ。家で妻子と暮らしていた私が、突如として、キャニオンシティーにあるコロラド州刑務所での14年間の服役に直面することになってしまった。

  そして、妻からの申し立てで離婚した。誰が彼女を責められようか? 私の懲役期間は、妻と私の人生の大部分を台なしにしてしまう。彼女には全く非はないのだから。

  最初は仕方ないとあきらめていたが、すぐに刑務所暮らしに耐えられなくなった。4カ月過ぎた頃、脱獄のチャンスがめぐってきた。それは驚くぐらい簡単だった。看守の車を修理しながら、交替時間に正門の列にもぐり込んだ。一台ずつ、看守たちが自分の車を見張り番の前まで運転し、手を振って、門を出て行く。私の前の車が出て行った。私の番だ。私はうつむき加減で警備員に手を振ると、そのまま走り去った。

  次の数年の記憶はおぼろげだ。ヒッチハイクしながら各地を転々とした。カンザスの農場やテネシーの工事現場、ケンタッキーの酪農場で働いた。私はすべてを忘れようとした。自分の過ちや罪悪感、失ったものすべてを。しかし、それはうまくいかなかった。何よりもまず、私の脳裏に焼き付いて離れないものがあった。それは最後に見た4歳の息子の姿で、黒い頭を白い枕にうずめて寝ていた。

  当然、子供たちに会いたいと思ったが、私が家を出た時、タミーは2歳でドンは1歳だった。もう私のことなど覚えていないだろう。だが、一番上のシャノンは私の相棒となって、いつも一緒だった。シャノンは、私がシャノンに会いたいと思っているのと同じぐらい私に会いたいと思っているにちがいない。

  そろそろ妻に連絡を取っても大丈夫だろうと思った時には、妻は死んでいた。子供たちは里子に出されたと聞いた。タミーとドンは同じ場所に、シャノンは別の場所にだ。子供たちの居場所を探し出そうとしたが、ムダだった。あきらめて、自分の道を行くことにした。

  私は天涯(がい)孤独だった。あてどもなくさまよい、ひたすら隠れ、逃走していた。真夜中に逃げ出したこともある。ほんの少しの思い出を胸に、逃亡生活にあけくれた。そして、脱獄なんかしなければよかったと思うようになったのだ。

  私のような人間は、神のことなど考えないと思うかもしれないが、そうではない。皮肉なことに、逃亡者は神ととても近くなれるのだ。神の恵みから遠ざかれば遠ざかるほど、もっとほしくなるようだ。たった一人で罪悪感にさいなまれながら、ギリギリの生活をしていた私は、神のゆるしを求めて必死に祈った。しかし、それはムダなことだ、私はゆるしに値しない男だと、自分に言い聞かせた。家庭を壊し、子供も失った男なのだから。神の存在を感じたくて何度も夜空を見上げたものの、神が創られた創造物の中でも自分は最低の存在なのだと思うと、その場から逃げ出してしまうだけだった。

  そんな時、ビーと会った。彼女が私を愛してくれたのは、私の人生に起きた最高の、いや唯一の良い事だった。それでも、最初の2年間は、過去のことを隠しておいた。それを知ったら、ビーはさっさと自分をおいて行ってしまうかもしれないと思ったからだ。結局話したが、彼女は去らなかった。しかし、毎日心配し、さらには自首するよう勧めさえした。ビーがつらい思いをしていたのは間違いない。そして、彼女にも逃亡者暮らしを強いることで、私の人生の最良のものをほとんどだいなしにしていた。引っ越しの連続で、私がまずいと感じれば、私達はただちに姿を消していた。

  けれども、ノースカロライナでは状況が変わるかもしれないと、ビーに話していた。そして、本当にそうだった。ラザフォード郡で仕事を見つけ、その土地になじんだ。特にビーはそうだったが、私は少し時間がかかった。働くのは何でもなかった。私はとても重宝された。まもなく小さな修理業を始め、ロウ建築機材店から、取り付け作業を週40時間やる仕事ももらっていた。さらには、近所の教会の管理人もパートタイムでしていた。

  教会員たちは、なぜ私が礼拝に出席しないのとか尋ねた。私は、口ごもりながら下手な言い訳をしていたが、本当の理由は単純だった。どうして指名手配中の私が、この人たちと一緒に清い祈りを捧げることができようか? 自分にはその資格がないと思った。そんなことをしたら、自分が最低の偽善者のように感じただろう。教会を修理したり、人々の家を修理することは、私なりのつぐないの方法だった。そして、良い友人たちもできた。子供の時から初めての事ではないだろうか。しかし、安心と信頼があっただろうか? まさか、逃亡者に心の休まる瞬間などないのだ。

 

  私はごつごつしたベッドで向きを変えて、鉄格子ごしに星空を見つめた。もう逃げなくてよいことに、安堵(ど)していたと言えるだろう。しかし、せっかくこの12年間に得た友人たちや尊敬を失ったことで辛い喪失感を味わうことは、予想していなかった。

  「神よ。」 暗やみの中でささやいた。「ここにおられますか? おられないなら、あなたのせいにはできませんね。私は困ったハメになった時だけあなたに話しているようです。刑務所から出してくださいとお願いしているのではありません。友人達を失望させてしまったことを、私がどんなにすまなく思っているか伝える方法があればと思っているだけです。彼らが私に背を向けても無理はありません。ビーでさえも。」

  私はベッドに丸くなり、体のふるえを抑えようとした。

  夜が明けた。寝ていようと懸命に努力したが、早くに目が覚めてしまった。記憶がよみがえってきた。スマイリー、これは悪い夢なんかじゃない。現実だ。私は向きを変えて、しめった枕に顔を押しつけた。

  「おい、ドナルド。」

  聞き覚えのある声だ。

  「ドナルド、元気かい?」

  頭を起こすと、驚いたことにノーマン・ジェンキンズが立っていた。私の親友だ。彼は借家やアパートを所有していて、コインや骨董品の店を経営していた。よく借家の修理をしたり、店番をしたり、あるいはただ座って話をしたものだった。

  「ノーマン、正直言うと、あまり良い気分じゃあないんだ。」 看守が扉を開いたので、私は立ち上がった。ノーマンは私の手を握った。

  「何でも力になれることがあれば、言ってくれよな。」

  疑い深そうに、私は見上げた。そのつもりではなかったが、皮肉っぽい言葉が口から出てしまった。

  「本当に力になるのかい、ノーマン? 君の評判ががた落ちになってしまう。僕の罪状を調べてからにした方がいいんじゃないか。」

  「何を言うんだ。」 ノーマンが口をはさんだ。「調べる必要なんてないよ。僕には確かにわかっていることがある。君のことはわかっている。」 ノーマンの誠実そうな青い目が私の目をのぞきこんだ。「心から信頼していない人間に、僕が借家やアパートや自宅のマスターキーを渡すと思うかい? 珍しいコインでいっぱいの店で、店番をしてもらうと思うかい? 僕がバカだとでも思うのか? いいや。ドナルド・スマイリーは信頼できる人間だって、ずっと前からわかっていたさ。」

  面会時間の10分が終わる前に、他の人たちが入ってきた。地元で会社をやっている人たちや牧師たち、同僚に、近所の人たちもだ。監獄の中など今まで見たこともなかったような人たちが。まもなく、独房の中はラッシュアワーの駅のように人でいっぱいになり、皆が同じことを言った。

  「過去のことは心配しなくてもいい、ドン。君は自分が信頼できる人間だって証明したんだ。」

  驚いたことに、あのぶっきらぼうなロウのトム・ウォーカーさんまで面会に来た。

  「スマイリー、今でも雇ってやるぞ。君みたいに熟練した頼れる人間を探すのは大変だと知っているだろう? 20年前にしたことは、神と君との間でのことだ。君と私との間にあるのは、立派な仕事への給料だ。それに、君が一銭も取らずに近所のお年寄りのキッチンを修理したり、配管修理をしていたことを私が知らなかったと思うのかい?」

  「その通り。うちのおふくろのキッチンもだ」と、ドン・ベイリーが答えた。フォレストシティーの車のセールスマンだ。「おふくろは君のことを絶対忘れないだろう。オレたちだってそうだ。」

  その通り、彼らは自分たちの言葉を忘れなかった。私を保釈させ、無償で私を弁護してくれる一流弁護士まで雇ってくれた。そして実際に、ノースカロライナ州知事とコロラド州知事に、私の恩赦を求める嘆願書をラザフォード郡全体にばらまいたのだった。その署名の数といったら! 1,200人以上もの人が、この事を求めていた。「スマイリーというやせっぽちを自由にせよ。」 私には驚きだった。

  数日後には、私は家に戻り、月明かりの中、ビーとポーチに座っていた。

  私はこう言った。「まだ信じられないよ。みんなでこんなに俺を助けてくれるなんて。俺を町から追い出すこともできたのに。いさぎよく白状せず、ずっと本当のことを黙っていた犯罪人なんだから。どうして、俺のことなんか気にかけてくれたんだろう?」

  ビーは黙っていた。それから、私の方を見て言った。

 「わからないの、ドナルド。今のあなたは小切手をごまかした人間とは違うのよ。あなたはこの町に落ち着き、逃げることを止めたわ。そして、静かに町の人たちの尊敬を獲得したのよ。あなた以外の町の人たち全員の尊敬を。だから、あなたが来る日も来る日も自分のことを嫌悪しているのを見るのは、とても辛かったわ。ずっと前から、あなたに見えないものがわたしにははっきりと見えていたの。それが何だかわかる。ドン、あなたが良い人だっていうことよ。」

  「どんな間違いをしたかは関係ないわ。」 ビーは優しく言った。「正しく生きようと毎日努力するなら、その罪から解放されることになるのよ。」

  去年の始め、両方の州知事が私を減刑した。ドナルド・スマイリーはその罪から解放されたのだ。ついにラザフォード郡の住民と顔を合わせるにふさわしい者となった。たった一人だけ、納得させられる必要があった。つまり、私自身である。今そのように努めているところだ。

  減刑が決定する直前に、保安官事務所から電話がかかった。あるアマチュア無線技師から連絡があって、西ベルリンにいる誰かが私と話したがっているというのだ。緊急のようだ。ベルリンからだって? 何かの間違いだろう。だが、再び電話が鳴り、その見知らぬ相手と話をした。

  「ドナルド・スマイリーさんですか?」 若い男性の声で、堂々としている。ただ感じがいい声であるだけでなく、私は何か不思議な予感がした。「以前、あなたの名前はドナルド・フィッツジェラルドではありませんでしたか?」

  「ええ、そうでした。」

  「僕は、ベルリンに駐留しているシャノン・フィッツジェラルド陸軍曹長といいます。コロラド州出身です。家族は地元のニュースがわかるように地方紙を送ってくれています。あの、その家族というのは本当の肉親ではありません。里親なんです。」 一息ついたかと思うと、彼はこう続けた。  「あの、スマイリーさん…実は、あなたは僕の父親ではないかと思うんです。」

  返事をしようと思ったが、言葉に詰まってしまった。遠い昔に残してきた、小さな男の子の寝ている姿が頭に浮かんだ。こうささやくのがやっとだった。「シャノン、お前なのか?」

  「そうです。お父さん。僕です。」

  私は信じることができなかった。あんなに道を外した人間に、こんなに素晴らしい結末が待っていたとは…

 

   ――――――――――

 

恨みとゆるし

バージニア・ブラント・バーグ

 

  人からのいやがらせや誤解、不当な扱いなどで、イヤな経験をした人は大勢います。次のような出だしで始まるパンフレットがあります。「小さな男の子が祈りました。『神様、世界中の悪い人を良い人にしてください。そして、世界中の良い人を親切な人にしてください』と。」 さて、残念なことに「良い」クリスチャンの中には親切ではない人たちも大勢います。

  ある婦人が、自分のパートナーとして若い女性を募集しました。そして、このようにしめくくったのです。「クリスチャン求む。できれば快活な方。」 この婦人は、クリスチャンの中には快活さに欠ける人もいることを知っていたのでしょう。さて、時にはそのような人たちと仲良くやっていかなければならない時もあります。でもそれは、大きな問題となっているようです。相手に対するほとんど憎しみに近い反感が、心の中で大きくなっていくのです。いやがらせをしてくる相手に対して批判的な態度を持つ人もいます。その相手は、夫や妻、しゅうとやしゅうとめ、親戚、同僚、友人だったりします。聖書のマタイ7章1節にはこう書かれています。「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」 私たちも気をつけようではありませんか。2節にはこうあります。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」 これらの聖句は、人を批判するのを少し思いとどまらせてくれます。あなたが人に与えるものがそのまま自分に返ってくるからです。

  自分に対して不公平だと感じる相手を、心の中で裁いてしまってはいけません。裁く前に少し待ってみること、また相手に憐れみを持つ方が賢明です。ヤコブの手紙2章12、13節にはこう書かれています。「だから、自由の律法によってさばかれるべき者らしく語り、かつ行いなさい。あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。」 だから、愛の律法、神の律法によってさばかれる方が良いのです。

  次の聖句には、さらに厳しい言葉が書かれています。ローマ人への手紙2章1−4節です。「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきがこのようなことを行う者どもの上に正しく下ることを知っている。ああ、このようなことを行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ、あなたは神のさばきをのがれうると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」

  恨みや批判、また憎しみを心に抱くのはひどいことです。クリスチャンだと自称しているなら、あなたに対してなされた不当な扱いをゆるし、忘れてあげる方が、神からさばかれるよりもずっと良いでしょう。そしてこれらの聖句は、そうしないならどうなるか、はっきりと述べています。

  仕返ししようと思わないこと。やり返してはいけません。人に対する苦々しい思いを心にはびこらせないこと。それを心に入り込ませるなら、何よりも、あなたの心を台なしにしてしまうのです。聖書には、「苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人がけがされることのないようにしなさい」と書かれています。(ヘブル人への手紙12章15節) そのすべてを神の御手に任せるなら、時がくれば神はその相手に対処されるでしょう。

  「彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするだろう。」(申命記32章35節) 相手を憐れんで、愛してあげましょう。神の怒りが下る時には憐れみが必要になるでしょうから。神は、「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われています。(ローマ人への手紙12章19節)

  もしかしたら、あなたはその不当な扱いや中傷、きつい言葉に対して何かをしなければならないと、感じているかもしれません。神のさばきは時間がかかりすぎるので、自ら行動に出て、自分を苦しめた相手を苦しめ、仕返しをしなければならないと考えるのです。

  けれども、そうすることで実際には自分自身を苦しめ、神に不従順を犯し、御心からはずれ、神とのつながりが切れ、そのため状況はさらに悪化することになります。主はそのすべてをご存じです。そして、それがどんなに不当なものであっても相手をゆるすよう、神ははっきりと告げておられます。

  「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父もあなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう。」(マタイ6章15節) そして、マタイ18章35節にはこうあります。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対してそのようになさるであろう。」

  けれども、愛する皆さん。自分の力だけではそれはできません! 自然にできることではないのです。キリストの霊が、あなたの内で、あなたを通してなすのでなくてはなりません。「わたしは自分からは何ごともすることができない。」(ヨハネ5章30節) イエスの足元にその問題全体を置き、それについて話し、思い切ってイエスに問題をお任せするならば、イエスが解決してくださるでしょう。なかなかそうする気にはなれないでしょうが、生まれ変わったクリスチャンを通して現れる神の愛こそ、現代社会が見るべき必要のあるものです。

  これは、イエスの弟子であるかどうかを見る真のテストです。イエスは、「互いに愛しあうならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることをすべての者が認めるであろう」と言われたからです。(ヨハネ13章35節) 神にすべてを委ねるならば、あなたを通して神の愛が現れます。その人を愛することができるなら、それは奇跡となるでしょう。神の恵みの奇跡です。神はそのような奇跡をしようとしておられるのです。これこそ、愛の律法です。

  神はあなたを助けたがっておられます。助けたいのです。神に助けを求めるなら、あなたと神を隔てるものはなくなります。その時、神は働いて、あなたの人生に対する御心と計画を完全に果たすことができます。様々な問題や悩みの種となっていたことすべてを、神に完全に委ねることになるからです。神はそのすべてをご存じです。そして、あなたのことを気にかけ、愛しておられます。

 

        神の愛はあまりにも素晴らしく

        言葉では言い表せない

        空の星よりも高く舞い上がり

        地の底にまで届く

 

        罪深き者を勝ち取るため

        憐れみ深き神が送られた御子

        不義の子供をあがなって

        その罪から救われた

 

        ああ、神の愛、豊かで清らかな愛

        はかり知れず、力強い!

        聖徒や天使の歌声は

        永遠に続いていく