クリスチャン・リーダーシップ・トレーニングプログラム

CLTP16

 

いやしの力

 

神のいやしの力についての実話集―パート1

(12歳以上向け。それより年下の子供には、適当と思う物語を大人が選んで読んであげて下さい。)

 

はじめに

 

この「いやしの力」第1号に掲載された物語はどれも、福音の最も大切なメッセージを実証しています。そのメッセージとは、神には不可能なことなど絶対にないということです。(マタイ19章26節、ルカ1章37節参照) これを読むなら、たとえどのようにいやしがなされるのかは完全に理解出来なくとも、神はどんな病もいやせる偉大な医者で、しばしば「不治の病」と言われる病気でさえいやされるということがわかるでしょう。

 物語の中には、病気の詳細や病気がもたらす苦痛や苦悩について書かれているために、読んでいて辛くなる箇所もあるかと思います。これらの読み物は、それぞれのいやしが奇跡的で超自然的であることの証明であるものの、そのような描写によって影響されやすい人は、将来自分もそのような恐ろしい病気に倒れるのではないかと恐れたり、心配したりすることがあるかもしれません。ですからこの出版物を読む前には必ず、そういった影響を受けないように祈ってください。

 例えば、最初の物語は、重度の多発性硬化症という病気にかかったバーバラ・クミンスキーについてで、初期にめまいを経験しています。だからといって、時々めまいを感じる人は誰でも多発性硬化症の初期だということにはなりません。また、他の物語に出てくる病気の兆候の一つがあるからその病気にかかっているということにもなりません。実際には、これらの物語に出てくる病気にかかるのは非常にまれです。また、万一、こういった難病にかかったとしても、主がテスティモニーとしてそれを使われ、主を愛するものにとっては万事が共に働いて益となると確信できます。ここに病気の詳細も載せたのは、病気への恐れを生じさせるためではなく、主がこれらの人々の人生に起こされたいやしの奇跡の素晴らしさを皆さんに伝えるためです。一見、敗北と見える状況から完全なる勝利を収められたのですから!

 「神が私達に下さったのは恐れの霊ではなく、力と愛の霊である」(2テモテ1章7節)と私達は知っています。そして何よりも信仰を下さったということを。私達は主の愛情深い御手のうちにおり、恐れる必要は何もないことを強く確信しているのです。

 ですから、これらの物語を読む事で皆さんの信仰が強まるよう祈っています。覚えておいて下さい。神は知っておられ、愛しておられ、世話して下さいます。神は私達の必要を知り、祈りを聞かれ、神の完璧なタイミングの時に御心に従っていやすことがお出来になるのです。すみやかにいやされる事もあれば、何ヶ月、あるいは何年かかかるかもしれません。もしかしたら、来世でいやされるのかもしれません。いずれにせよ、主を呼び求め、主の約束に信頼するなら、いやされるのです。

 「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば開けてもらえるであろう。」「彼(主)によって神に来る人々を、いつも救うことが出来るのである。」(マタイ7章7節、ヘブル人への手紙7章25節)

 

 

       

 

奇跡が起きた日

 

バーバラ・クミンスキー

 

 「そして子供の手を取って、『タリタ、クミ』と言われた。それは、『少女よ、さあ起きなさい。』という意味である。すると、少女はすぐに起き上がって歩き出した。」(マルコ5章、41,42節)

 

 今でも覚えています。高校の廊下を苦労して歩く私の後ろで、よくこんなささやき声が聞こえたのを。「見ろよ! よろよろしてる。」「きっと酔っぱらってるのさ。」 若者というのは時にとても酷な事を言います。私の事も、私に何が起ったかも知らないのに。

  私がまっすぐ歩けなかったのは確かでした。ロッカーにぶつかることもありました。でも酔っぱらっていた訳ではないのです。勝手なことを言う人達に、自分がまっすぐ歩こうとどんなに苦労しているかを伝えられたらと思ったものでした。そして、手が震えることなしに字を書きたいという切実な思いも。でも、なぜそんな風になったのかと聞かれても、私にはわからなかったし、医者でさえもわかりませんでした。

 症状は日増しに急激に悪化していきました。高校時代から、想像もしていなかったような重い病気になってしまったことを悟り、辛い思いをしていました。まるで自分が人類の一員ではなくなってしまったかのようにも思えたのです。体の病のゆえに、自分は何の価値もない役立たずの人間だと思うと、精神的にも病んできました。そんな時こそ、神の存在をいっそう近く感じる必要があるというのに。

 日に日に悪化する体の状態にどう耐えていくかもさることながら、精神的に健康である、つまり自分は一人のかけがえのない人間であるという意識を取り戻すにはどうしたらいいかを探ることも極めて重大なことでした。

 1965年には、私は運動好きで活発な、典型的な15才の女の子でした。学校のオーケストラでフルートを吹き、放課後はアルバイトをし、教会の青年会のリーダーでもありました。母は、その3年間、私が10分もじっとしているのを見たことがなかったと言っていました。

 それからおかしな事が起こり始めたのです。ある日、体育の授業で、左手で吊り輪につかまれなかったのです。その夜、家の階段で滑りました。翌日も同じことが学校でありました。「成長期にはよくあることだ。そのうちなくなるよ」と医者に言われました。でも、そうはならなかったのです。

 というわけで、私は高校の廊下をよろめくように歩くようになり、徐々に他のわけのわからない症状も出てきました。しばらくすると、物が二重に見えるようになり、腕に付けられた固定器は、左手が曲がるにつれ、さらに内側に入り込んでいきました。色々な検査を受けましたが、病名は不明のままで、せっかく通い始めた大学も、断念せざるをえませんでした。検査に明け暮れながらも症状は悪くなるばかりだったのです。

 1970年になって、やっと病名がわかりました。「バーバラ、何の病気かわかったよ。MS、つまり多発性硬化症だ。普通、君のように若い人はかからないのだが…。」と医師から告げられました。

 「先生、どうしたらいいのですか。」と尋ねましたが、医師は首を横に振るばかりでした。「正直言って、私達にもほとんどわからない。この病気は徐々に神経中枢を短絡させていく。間違った情報が体のあらゆるところに誤って伝えられるため、体が正しく機能しないんだ。君の場合は軽いものであってほしいと望むのみだ。」

 すぐに多発性硬化症の進行状況が明らかになりました。1971年と72年の二度に渡って私の心臓と肺が停止してしまったのです。病院にかつぎ込まれたものの、死ぬ一歩寸前でした。しかし、その後しばらくは、特に良くなったわけではないものの、極度に悪化することもなく、小康状態が続きました。これは多発性硬化症によくある例です。それで障害者として大学に戻り、卒業後は秘書の仕事に就きましたが、病気は徐々に進行していました。杖から松葉杖となり、生命維持に不可欠な器官が幾つも機能不良になり始めました。

 1978年には車椅子の生活になりました。手足は曲がり、使いものにならなくなっていました。おまけに、絶えず酸素吸入が必要でした。その年、有名なメイヨー診療所にも行きました。そこなら、私の呼吸困難に対する最新の治療法があるかもしれないとの望みをもって。けれども、何もありませんでした。診療所の医者達はもともとありもしない希望にすがりつくようなことはせず、こう言いました。「祈ることだ。バーバラ。私達には、この病気の進行を止める手だては何もない。」

 私は9才の時に、自分の人生をイエスに捧げることを誓いました。十代になると、その決意も薄れていましたが、ある医師夫妻が神に近づくのを助けてくれました。それは多発性硬化症とわかった頃で、20才の時でした。それからの数年間、私の教会の牧師さんが特別な友人となりました。入院している時も、家で寝たきりの時も、毎日、訪ねてくれたのです。

 この牧師さんが、私に何が一番必要かを教えてくれました。信仰の内に成長することです。それは、私のように役立たずと思えるような存在であってもしがみつける目標でした。痛みや不自由な体にも負けずに出来る「仕事」となったのです。私は本気でそれに取り組みました。時々、意気阻喪(そそう)し、投げ出したくなる時もありました。でも、どんなに落ち込み、嫌気がさし、もう駄目だと思っても、結局いつも霊の内で何かが私を引き留めました。何度も死の瀬戸際まで行きながら命を取りとめたことや、教会や町の人達が私のために祈っていることが思い出されたのです。

 診療所での辛い治療から帰宅した時に、神とのつながりを求める気持ちが新たにわいてきました。体の状態が悪化するにつれ、自分の魂の清さをもっと切望したのです。

 私は神に呼ばわりました。「お願いです。私はもうあなたの御言葉さえ読めません。でも何かをしたいのです。」 自分がほとんど動けないことを忘れさせてくれる何かが必要であると何度も何度も求めました。何かしたい、活動したいと、神に必死に求めました。

 ついに答がありました。一瞬の内に与えられたのでも、一夜の内に与えられたのでもありません。祈りを通して与えられたのです。「祈ることは活動である。他の人達のために祈りなさい。」と。

 何と単純な答えでしょう。確かに可能です。それまでは、祈りが活動とは考えていませんでした。でもついに、他の人のために祈る事は、運動やフルートを奏でるのと同様、特別な活動であると知ったのです。

 他の人達のために祈ることは前にもしていました。でも今はそれが、必ずしなくてはいけないこと、私の召命となったのです。祈りのために何時間も費やしました。友人達が来ると、何か読んでくれるように頼んだり、一緒に祈るようにお願いしました。神が私のすぐそばにおられるかのように、声を出して神に語りかけたりもしました。

 病状は悪化するばかりで、肺はほとんど機能しなくなりました。目もよく見えません。殆ど盲目状態でした。両親は私のために家を改造し、電動車いすのためのスロープや病人用ベッドを設置し、酸素用チューブが三部屋に張り巡らされました。私がどこにいても酸素を吸入できるようにです。誰もが死が近いと思っていました。医師達もそれを否定しませんでした。

 そして、運命の1981年6月7日がやって来たのです。その日は日曜日で、妹のジャンの29才の誕生日でした。ジャンは誕生日のお祝いのために家に戻っていて、私もケーキ作りを形だけでも手伝うことを楽しみにしていました。何て明るく美しい誕生日だろうと思っていた時、母が部屋に来ました。「ケーキのたねの味見したい?」と聞かれたので、うなずきました。手を借りて、何とか体をベッドから車いすに移しましたが、まるで胎児のように足が曲がっていたので、床にぴったりと足をつけられませんでした。

 キッチンに行くと、ほとんど手首にくっつきそうなほど曲がっている指で、どうにかケーキのたねを数回かき混ぜることができました。でも、そんな小さな事でも疲れてしまい、母にベッドまで連れて行ってくれるよう頼みました。母は私をベッドに寝かせると、またキッチンに戻ってジャンのケーキ作りを続けたのでした。

 しばらくするとルーシーおばさんが部屋に来て、WMBIというシカゴのラジオ局の番組を聴いた人達からの手紙やカードを読んでくれました。「一杯の冷たい水」という番組で、私が肢体不自由者で、沢山の励ましを必要としているといった内容でした。沢山の善意の人達が、私のために祈っているという手紙をくれました。叔母が母の手伝いに降りて行くと、間もなくして、教会の朝の礼拝を終えた友達のジョイス・ジュガンとアンジェラ・クラフォードの二人が顔を出しました。3人でおしゃべりをしていると、聞こえたのです。4人目の声が! 私の左肩の後ろからはっきりと聞き取れる声で。

  「子よ、立って、歩きなさい。」 びっくりして二人の顔を見ました。何も聞かなかったようですが、私には確かに聞こえました。

 「ジョイス! アンジェラ!」 私は叫びました。「神様が私に語りかけたわ。立って歩けと言われたの。聞こえたのよ!」 

 呆気にとられて、二人は私をまじまじと見つめていました。

 「変なことだっていうのはわかるけど、神様が私に語りかけて下さったの。お願い、すぐに家族を呼んできて! みんなにここに来てほしいの。」

  二人は急いで廊下に出ましたが、妹たちや両親を呼ぶやいなや、また部屋に駆け戻ってきました。もう待てません。のどから酸素ボンベのチューブを抜き取り、腕から固定器を外すと、文字通りベッドから飛び降りたのです。私は立っていました。5年間も自分の体を支えることの出来なかったその足で。

 そうです。不可能な事が起こったのです。こんな事はありえないと証明する医学的根拠は山ほどあったでしょうが、とにかく私は立っていたのです。しっかりとぐらつきもせず。体中がぞくぞくし、シャワーから出てきたばかりのような新鮮で快適な気分でした。自由に呼吸でき、目も見えます。完全に健康になった自分が見えました。手首の方にえびぞりになっていた手もまっすぐです。腕と足の筋肉には力がよみがえり、健康そのものです。足はまるでダンサーのようにまっすぐ床についています。ダンスをしながらドアに向かっていく私のステップといったら。廊下で母に会いました。母はちょっと立ち止まってから、私の寝間着のすそを持ち上げてみました。「バーバラ、ふくらはぎがちゃんとあるわ。」と叫んでいました。

 父は居間に通じるスロープの所にいました。胸がいっぱいで言葉もなく、ただ私を腕に抱いてワルツを踊り出しました。作業療法士のアンジェラ・クラフォードは自分でも何を言っているのか分からない状態でした。「で、でも、バ、バ、バーバラ、そんなことって…」 脈を測ってから言いました。「あなたは私が学校で教わったことをみな打ち壊してしまったわね。完全に正常よ。本当の奇跡だわ。」

 私達は皆そこで神をほめたたえ始めました。私はそれから急いで外に出ました。服は妹のジャンの家にあったのでそれを取りに行くためでした。ローブを来たまま外に出ると、素足に触れる新鮮な緑の芝生の感触を大いに喜びました。頬には暖かい日光を感じ、肺も立派に機能しているので、おいしい空気を一杯吸うことが出来ます。花々の美しさといったら、信じられないほどでした。私の顔をそれにうずめながら神をほめたたえました。

 そこにいた誰もが、起きたことを秘密にしておく事を約束しました。そして、ジャンの誕生祝いの夕食の後、教会にこっそり行くことにしたのでした。私が教会に出席しなくなってから3年たっていました。後から教えてもらったのですが、牧師さんが1週間程前に私を見舞った時、私を見るのもこれが最後と確信していたそうです。

 その夜、教会の階段を上っていくと、牧師さんが会衆に、何かお知らせはないかと尋ねているところでした。そして、私が通路を入ってくるのを見るなり、説教台に倒れかかり、あっけにとられていました。「これは素晴らしい。とても素晴らしい。」と、繰り返し、繰り返し言っていました。何とか落ち着きを取り戻すと、この素晴らしい出来事を皆に話してくれるようにと、私を説教壇に招きました。

 翌日は、病院に電話しました。電話に出た看護婦は何が起きたのか理解に苦しんでいるようでした。「あなたがバーバラ・クミンスキー? でも…」 その日、診察室に入って来た私を見たトーマス・マーシャル医師は、まるで幽霊でも見ているかのように、あ然としていました。私が起き上がって、きちんとした身なりでいるのを見たことがなかったのです。

 それからマーシャル先生は、他の医師達も呼んで、約3時間、入念に診察してレントゲン写真をとりました。肺は完全に正常でした。以前は、片方は全く機能しておらず、もう片方も半分しか機能していなかったのにです。

 とうとうマーシャル先生は、信じられないといった表情で首を振り、多発性硬化症の形跡は全然ないと宣言したのです。私の首についていた管を外しながら、治療の必要はないと言いました。

 もう一人の主治医で外科医のハロルド・アドルフ先生は、私についてこう報告書に記しました。「現在のところ、この患者に多発性硬化症の症状は全くない。普通に歩き回り、話している。家族ともども、とても幸せにしている。これは、明らかに祈りに対する答えであって、神の御手の良きわざである。」

 私には、なぜ神がいやして下さったのかわかりません。私がいやされるにふさわしい人間であったわけでも、いやされるよう十分努力したからでもありません。わかっているのは、1981年6月7日に、神が私を完全にいやして下さったという事だけです。

 

 

信じなさい、ただ信じなさい

 

ハリー・デキャンプ

 

 「なんでも祈り求めた事はすでにかなえられたと信じなさい。そうすればその通りになるであろう。」(マルコ11章24節)

 

 私が今も生きているのは、驚きでしかない。69年生きてきたが、その内の66年は、神とは形ばかりの関係でしかなかった。だから、死に直面した時、神がわざわざ私ごとき者をいやして下さったのは、全くもって意外としか言いようがない。とにかく神はそうされたのだった。

 自分が膀胱ガンだと初めて知らされた時も、神に祈ろうという気はさらさらなかった。私はあまり深刻に受けとめていなかったのだが、妻のベスはショックが大きかったようだ。ベスは、看護婦をしていた母親から、ガンで苦しみながら死んで行った人達の話をたっぷり聞かされて育ったからだ。私は医学が治してくれると思っていたので、医者を信頼し、言われた通りにした。

 ガンとわかると、自分の保険会社を娘婿に売却して、生活をゆっくりしたペースに変えた。何度か入退院を繰り返したものの、ガンはそれほど進行せず、けっこう普通の生活を送っていた。だが、1978年2月に確定診断のための手術を受けてから、状況は一転した。回復室から戻ってくると、主治医が待っており、「私は外科医として腕には自信があったが、君には私よりもはるかに腕のたつ外科医が必要なようだね。」と言われたのだ。その時、私は初めて不安になった。主治医はこう続けた。「ニューヨークのスローンケタリング・ガンセンターに紹介状を送るよ。そこは世界的に有名だから。」 世界でも指折りの外科医が手術をしてくれると思うと、希望がわいてきた。

 ニューヨークに行くなら膀胱を除去されることは予想できた。その辛さは相当なものとわかっていたが、人工装置の世話になって不便な思いをする覚悟はできていた。それでガンがなくなるのなら何でも構わないと思っていたのだ。

 手術が終わって回復室に戻り、まだ麻酔の醒め切らない内に事実を知らされた。「あの偉い先生でさえ膀胱をとらずに縫合するしかなかったのだ。」 私は号泣した。外科手術では私のガンを治すことは不可能だった。

 その日の午後、外科医の助手が手術の経過を説明しにやってきた。「何も隠さないで下さい。」と私は言った。「実はですね…」 医師の眉間にしわがよった。「ガンが周辺組織にあまりにも広範囲に転移してるので、ガン細胞を全部取り除くということは結局…」 その言葉は弱々しくなって最後まで言わなかった。「あとどれくらいですか?」と私は小声で言った。「お約束は出来ません。一年か一ヵ月…もしかしたらあと一日ということも。」 私はぐっと生つばを飲み込み、からからに渇いた唇をなめた。「それで…どうしたら…。」「わかりません」という答えが返ってきた。

 今や、それまで一度も直面したことのなかった現実に直面していた。私は死ぬのだ。親指の爪くらい大きな痛み止めと睡眠薬をもらった。

 ベスはけなげに元気いっぱいに振る舞った。「あなた、まだ負けたわけじゃないわよ。」 私をリビングルームの安楽いすに座らせながらこう言った。「化学療法を試してみましょう。それに他にも色々な治療法があるわ…」 誰かが、ガン患者に多量のビタミンCを注射するという記事をカリフォルニアから送ってきた。ベスはその話に飛びついた。

 しかし、私はどのみち自分が死ぬことを知っていた。横になるとそのまま息が絶えてしまう気がしたので、なるべく安楽いすに座り、無意味なテレビ番組に見入っていた。

 食べ物の臭いには辟易(へきえき)したが、ベスは憤慨した。「お腹が空いていようと空いていまいと、知ったことじゃないわ。さあ、食べなさい。」

 私はベスに部屋から出ていくようにと手を振った。何の役にたつのか? 私は大柄だが、みるみる痩せていっている。

 時たま神に祈ろうかとも思ったが、どう祈ったらよいかわからなかった。神がおられることは知っていたが、私には捕らえがたい遠い存在であった。今の今まで神を無視しておきながら、今になって苦しい時の神頼みでは、虫が良すぎるんじゃないか。祈っても、空しく自分に返ってくるだけに思われた。

 それから立て続けに二つの出来事が起こった。

 一つは見舞状である。とりたてて特別という訳でもなかったが、なぜかそれを読みかえし続けた。友人がその名前の下に、この聖書の言葉を書き添えていたからだ。「神には何でも出来ない事はありません。」(マタイ19章26節)

 それが本当ならなんと素晴らしいことか。何度も何度もその見舞状を取り出しては読んだ。「その言葉が本当だとしても、神とどうやって話をしたらいいのだろうか?…今さら教会に行こうなんて調子が良すぎはしないだろうか? もっと熱心に祈るべきなのか? 聖書を読むべきなのだろうか?」 私は混乱していて何をしたらいいのかさっぱりわからなかった。しかしその節は何度も頭に浮かんできた。「何でも出来ないことはない。」

 それから雑誌が来た。ガイドポスト誌のカバーストーリーにガン患者の人の話があった。私と同様に、自宅で死ぬために退院したのだった。でも、その人は死ぬことを拒んだ。そして新訳聖書の中のイエスが人々をいやす話を何度も読み始めた。彼女は常に祈ることも忘れなかった。神はいやして下さるという断固とした態度で神に祈った。こう書いている。「たいていの人は気後れしながらドアをたたき、ほんのちょっとしか開けません。神が答えて下さると心から期待してはいないのです。」

 それこそ私がしていたことではないだろうか? 恐る恐るドアを叩いていたのではないか? この人のようにもっと大胆になるべきではないだろうか?

 同じ雑誌に、重傷を負ったものの、イエスの言葉を単純に信じることによって回復したある兵士の話が載っていた。その兵士はイエスに完全な信頼をおいて祈った。イエスの、「何でも祈り求めことは既にかなえられたと信じなさい。そうすればその通りになるであろう。」(マルコ11章24節)という言葉を信じたのだ。

 それからの三日間というもの、起きている間中ずっとその二つの記事を読んでいた。10回、いや30回は読んだだろう。寝ても覚めても彼らの身に起こった事を考えていたので、詳細に至るまで覚えてしまった。二人に共通していることは単純だった。それは、神は自分を愛しており、必ずいやしてくれるという、子供のような神への信頼であった。私も彼らがしていた通りに信じようと心に決めた。ベスが台所仕事をしている間、リビングルームで頭を垂れた。

 「神よ」 私は心に固く信じて言った。「いま私はドアを叩きます。私はあなたの御前にいます。あなたがいやして下さることを信じ、決して疑うようなことはしません。」

 説明することは不可能だが、その瞬間にドアが大きく開かれたのだ。生まれて初めて神が自分のそばにおられるのがわかった。神はすぐそこにおられるのだ。初めて祈りで実際に誰かに話しかけているような気持ちになり、心の底から喜びがわいてきた。「ベス! ベス!」と大声で呼ぶと、ベスは急いでやってきた。今起きたことを話してやりたかったが、言葉でどう表現していいかわからなかった。

 「どうしたの、ハリー? 何があったの?」

 「お腹すいたんだ。」と私は言った。

 ベスは、けげんそうに私を見ると、「お茶でも飲む?」と聞いてきた。私は、「いやそんなんじゃない。何か食べるものをくれ。」と答えたが、最初ベスは私が冗談を言っているのだと思っていた。もう4週間、頼みもしなかったことだから仕方がない。それでベスは茶化すようにこう言った。「じゃあ、外に行って、大きなサブマリン・サンドイッチを買って来るわ。」

 「そりゃいい。」 私はにやっと笑った。

 ベスはそれではということで、ハムとチーズとレタスとトマトの入ったサンドイッチを急いで買ってきた。そして私が一口一口味わいながら食べるのを、信じられないという様子で眺めることとなった。翌朝、私が朝食を残さず食べた時もあっけに取られていた。しかも、その前の晩は、数カ月ぶりにぐっすりと眠れたのだ。そして短いけれど散歩もした。

 神を見いだした最初の二日間、私は祈った。古い堅苦しい祈り、自意識過剰の口先だけの祈りではなく、信仰から出る自然な祈りである。歩きながら祈り、安楽いすに座りながら祈り、ベッドに横になってからも祈った。神と絶えまなく話を続けた。神に心から信頼していたのだ。

 そして、自分がいやされている様子を、まるでテレビでも見ているかのように鮮明に頭の中に描き始めた。イエス・キリストに導かれた白血球の軍勢が肩から腹に進軍し、膀胱を取りまくのが見えた。肝臓と心臓の中にも入って行った。白い軍団は続々と押し寄せた。その白血球たちはガン細胞に容赦なく襲いかかり、食いつくした。その勝利に満ちた白い軍団が頭のてっぺんから爪先に至るまで進んで行って、散らばっていたガン細胞を一掃したのだった。そしてついに戦闘は終わり、イエス・キリストが勝利をもって立たれた。

 来る日も来る日もその戦闘場面を思い浮かべた。完全に回復したように思えた。体力が劇的に戻ったし、歩いたり、車を運転したり、ゴルフを18ホールしっかり回った。一応、化学療法を続けはしたが、どちらかと言えばベスと医者を喜ばすためだった。

 6ヵ月後、最初に診察した医者の元を訪れると、私が元気そうなのに驚いた様子だった。

 ショックを和らげるために、初めにこう前置きした。「先生、検査したって無駄ですよ。本当なんです。もう治ったんですよ。」

 医者は、私の気持ちを傷つけまいとほほえみながら言った。「まあ、とにかく見てみよう。」 幾つか検査したが、膀胱の後ろにあった悪性の腫瘍はもうなかった。どれも正常のようだった。医者はかなり驚いていたが、慎重だった。「ガンが完全に治ったことを確実に証明するには、診断を確定するにはもう一度手術をやるしかないが、とても元気そうだから、それはやめておこう。じゃあ、しばらく様子を見ることにしようか。とにかく、かなり良好だね。」と医者は言った。

 それから1年以上たつが、私はピンピンしている。いまだに驚きでいっぱいの毎日だ。私は神の愛に感嘆している。神がそんなに身近な存在であることにも。そして、何もかもとても単純であることに驚いている。私は人生を何と煩雑なものにしてきたことだろう。イエスは我々にいやされる方法を教えられた。この上もなく単純で力強い言葉で。それは、「ただ信じなさい。」である。

 

 

 * * *  

  

"POWER TO HEAL"

いやしの力

ジェームス・マッキーパー

「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」(マタイ9章29節)

 

 私の友人であり、神の人であるジム・スピルマンはかつて、南カリフォルニアのディズニーランドの近くにあったメロディーランド教会の牧師をしていた。ある日、前から知っていた若い女性が礼拝の始まる前に話に来た。「牧師さん、今日こそ私はいやされると思います。」 その時に、この女性の片方の目が少し不自然で瞳が同じ方向に動かないことに気づいた。

 礼拝が終わり、いやしの時間になると、牧師は彼女の目のために祈った。

 後でその女性が、遠くの字を読んだり、色々なものを指差しては色や何やらについて興奮しながら話しているのを見た。左手で左目を覆っていた。右手の人差し指で興奮しながらいろいろ指差している。右手の他の指はしっかり閉じたままだった。ジムは少し気になったので、その人を説教壇に呼び戻し、何があったのか尋ねた。ちょっと動きのおかしかった目がいやされ、今は両方とも正しく動くようになったのだろうと思っていた。彼女が左手を左目から離すと美しい茶色の二つの目がジムを見つめていた。しかし、彼女が右手を開くと、何とガラスの義眼があるではないか。

 その人は生まれつき右目がなかったのだ。いやしを求める祈りが捧げられている時に、教会の案内係の一人が、この人の右の目から義眼が落ち、通路を転がるのを見たので、拾って彼女に渡した。そして次に、何か白いうずまくものがその人の右の眼窩(か)にあってそれからまぶたの下で目玉が出来たということであった。

 この話は詳細に渡って記録され、1972年ロサンジェルスのチャンネル9で両親と牧師の証言と共に報道された。

 我々が神に信頼するなら、神はあっと驚くような素晴らしい事をなされると考えると、喜びがわいてくる。ジムはあの時、「彼女の目を完全なものとして下さい。」と祈っただけなのである。

 

  * * *

 

天使との遭遇

 

1993年12月27日付

「タイム」誌からの抜粋

 

 「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」(エレミヤ33章3節)

 

 1977年7月にアン・カナディーは3度目の子宮検査を受け、ガンが進行していることが確実となった。「ガンは、とても恐ろしい言葉」とアンは語る。元米空軍曹長の夫のギャリーは、最初の妻を同じく子宮ガンで亡くしていたため、またもやあの辛い経験に耐える気力があるかどうか不安だった。「それからの8週間というもの、私達はおびえては祈り、祈ってはおびえる毎日だった。『もし死ななければいけないのなら、すぐ死なせて下さい。ギャリーを同じ目にあわせたくないから。』と神に願い続けた。」とアンは語っている。

 祈りが聞き届けられたことを、アンは知っている。その鮮明な記憶はこの世の出来事とはかけ離れていた。

 手術のために入院する日を三日後に控えた朝、玄関のベルが鳴った。ギャリーが出ると、1メートル95センチもある、ギャリーよりもさらに数センチ高い大男が、入り口に立っていた。「あれほど真っ黒な黒人を見るのは初めてだった。深い深い青色の目をしていた。」とアンは言う。その男は、トマスと名乗ると、アンのがんはもう治ったと言った。

 「どうしてわたしの名前や、わたしがガンだってことを知ってるの。」 アンは口ごもりながら尋ねた。それから夫の方に振り向いて、「どうしましょう。中に入ってもらおうかしら。」と言った。

 中に通すと、トマスは、「もう心配しなくていい」とアンに念を押し、聖書のイザヤ書章5節にある「その打たれた傷によって、われらはいやされたのだ。」という言葉を二人に向かって言った。

  アンは当惑しながら、「あなたはいったい誰なの。」と強い調子で聞いた。

  「わたしはトマス。神につかわされた。」 

 アンはその次に起こった事をこう語っている。「トマスは右手を上げて、直接触れはしなかったけど、手のひらをわたしにかざした。  その手からは信じられないほどの熱が出ていて、突然、床に仰向けに倒れてしまった。そのままにしていると、サーチライトか何かのような強い白光が、体の中を通り抜けて行った。つま先から頭のてっぺんまで。その時、何か超自然的なことが起きたことを体全体で感じたばかりか、心でもそう確信できた。」

 アンは気を失った。意識が戻ると、夫がアンを腕に抱え、「アン、大丈夫か? 返事をしてくれ。」と必死に叫んでいた。トマスはもういなかった。アンはまだその遭遇のせいで弱まっていた。アンは後に次のように語っている。「電話の所まではって行くと、主治医に電話し、すぐ話したいと強く頼んだ。何かが起きて治ってしまったから、もう手術は必要ないと言ったら、ストレスと恐れから、自分で何を言っているのかわからなくなっているんだと言われた。」

 結局、アンは予定通り病院に行くものの、手術前に検査をすることで話がついた。アンは手術台に寝かせられ、もし予備検査でひっかかれば、予定通り手術することになっていた。検査後、目を覚ますと、普通の病室に寝かされていた。ベッドの脇で医者は、「何が起きたのかわからないが、検査の結果は異常なしと出た。サンプルを検査センターに送って、さらに検査してもらうが、今のところ異常なしだ。」と言った。

 それ以来、ガンの再発はない。最初アンは、気が狂ったと思われるのではないかと思い、誰にも、子供達にもそのことを話すのをためらったが、取り越し苦労だった。医師でさえ、「医学の奇跡を見た」と認めたのだから。

 

 

 

神には不可能も必ず可能となる

 

パット・ロバートソン

 

 

 「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる。』」(マルコ9章23節)

 

 1979年5月初めのある夜のことです。バーバラ・ブラクは9歳の息子ポール・ジュニアの悲鳴を聞きました。「見えないよ。頭が痛いよ!」 その前に中耳炎にかかっていましたが、それとは比べものになりません。泣きながら、何もはっきりと見えないと訴えました。

 それが長く辛い闘いの始まりでした。24時間もたたない内に、ブラク夫妻と息子のポール・ジュニアはマイアミの病院にいました。脳炎で危篤状態の少年は、助かる見込みはないと診断されました。

 ブラク夫妻の通う教会の人々は、1日24時間、交替でいつも誰かが少年のために祈っているようにしました。「全国に、私達のために祈っている人たちがいた。」とバーバラは当時を振り返って言いました。もちろん、ただあきらめて、絶望に打ちひしがれることもできたでしょう。しかしながら、ブラク夫妻は、神には不可能はないと信じていました。

 ポール・ジュニアは四日間昏睡状態で、その後もさらに15日間、軽い昏睡状態が続きました。病状は一進一退で、希望が出て来たかと思えば、絶望に沈んだりしました。バーバラは息子が苦しんでいるのを見るに耐えられなくなり、一人で外に出ると、祈りながら神に語りかけました。そして、信仰を失いかけているのではないが、主が助け、この厳しい試練をくぐり抜ける力を与えて下さらなければいけないと訴えました。「あなたにこの子を助けていただかなくては。このまま植物人間にしたりしないで下さい。」と祈りました。

 翌朝、この祈りがはっきり答えられたようでした。脳波に異常はありませんでした。けれども試練が終わったわけではありません。翌日、脳の造影検査を受けると、医師は、「脳の損傷は間違いない」と言いました。しかし、父ポールはこの診断を聞いて、不可能を乗り越える神の力に対する信仰がかえって強まったようでした。「主はこれまで息子を生かし続けて下さったんだから、きっと奇跡を行なって下さる。主は中途半端でやめたりはされない。」 だから、脳の損傷という診断結果が出ても、「それを受け入れるつもりはない。」ときっぱり言ったのでした。

 別に虚勢を張っていたのではありません。父ポールがあくまでも信仰を貫く決意を示した時から、息子は次第に回復のきざしを見せました。そして医者も驚くほどの早さで回復していったのです。少年にはその理由がわかっていました。聞く耳を持つ人には誰にでも、いやして下さっているのはイエスだと話しました。将来、精神障害が残るだろうという医者の言葉にも反して、100%回復したのでした。小児神経専門の医師も、完治したと断言しました。退院以来、息子は学校でずっと成績優秀です。

 このブラク夫妻の貴重な体験から得られる教訓は、回復「不可能」と言われてそのままうのみにしてしまうのは決して賢明ではないということです。だから、「不可能」なことに取り組む時、何よりもまず、神には何でもできないことはないということを認めるのです。

 

 

 

いやされた

 

モード・ブランフォード

キャサリン・マーシャル

   

 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころがなるようにして下さい。」(ルカによる福音書22章42節)

   

 信仰によるいやしは、私にとっていつも神秘的だ。私自身、様々な祈りのキャンペーンに参加してきたが、輝かしくいやされる人達もいれば、少なくともこの世ではいやされない人達もいる。どうしてだろうか。この疑問に簡単に答えることはできない。

 神が奇跡を行った実例として、モード・ブランフォードという婦人の場合がある。昨年の夏、末期ガンの人が奇跡的にいやされた話を、知り合ったばかりの友人から聞いた。非常に興味そそられる話だったので、ルーイヴィルへ飛行機で向かい、ブランフォード夫人から詳しく話を聞いたのだった。

 食卓をはさんで対面したブランフォード夫人は、とても感じのよいおばあさんという印象だった。「あの、病気の始まりは、どうだったのですか。」 健康そのものの人にこんな質問をするのは気が引けたが、とにかく尋ねた。

 「左脚がずっと痛くて、立ち仕事が多いからだろうと思っていたのですが、主人と相談して、病院に行くことにしました。」

 かかりつけの医師が、「専門医」とか「生検」とか言うのを聞いて、ガンかもしれないとわかった。

 ブランフォード夫人はヘイズ医師を紹介され、診断の結果、放射線治療を受けることになった。治療開始は7月7日で、9月29日には手術を受けた。手術が終わって、ヘイズ医師に本当のことを言ってほしいと迫ると、「ガンでもう手遅れです。広い範囲に転移していて切除は無理です。片方の腎臓は、ほとんど機能しておらず、恥骨にも転移しています。だから脚が痛かったのです。」と言われたのだった。

 その頃には痛みは激痛に変わっていた。痛みを抑える薬を大量に受け取り、自宅で死を待つことになった。半年以上、鎮痛剤のために何千ドルも支払いながら、自分の人生の精神面について考え、その乏しさを痛感したのだった。聖書の知識などなく、イエスについても何となく知っていただけだった。

 1960年1月、ブランフォード夫人は脳溢血(のういっけつ)で倒れ、病院に運ばれた。12日間意識不明だった。確かにこの世界では意識がなかったのだが、全く別の世界では、意識がはっきりしていた。深い昏睡状態の中で見た世界はとても鮮明だった。屋根のない家が見えた。部屋と部屋の仕切りや家具類はあったのに、屋根がなかったのだ。夫人は、「屋根をつけないと」と思ったことを覚えている。

 ついに昏睡状態から覚めた時、意識ははっきりしていたが、当惑していた。「屋根のない家なんて、どんな意味があるんだろう。」 そのことであれこれ考えていると、ある存在が答えを教えてくれたようだった。今では、その存在が聖霊だったとためらわずに言うことができる。「家は私の体を表していて、イエスというおおいなしには、保護が得られないと示されたのです。」と夫人は言う。

 それからの5カ月間、症状は悪化の一途をたどるばかりだった。心機能は低下し、呼吸も困難になり、弱々しく囁くことしかできなかった。強い鎮痛剤を使っていても、痛みは耐え難くなるばかりだった。

 7月に入る頃には、放射線治療に通い続ける力もないとわかっていたので、7月1日に看護婦さんに、「もう戻ってこれないだろう。」と話したそうだ。

 その日ブランフォード夫人の娘むこが、病院の玄関から車まで介護したが、夫人はとうとう泣き崩れてしまった。「あの時は、神様がすぐにでも私をこの世から連れ去って下さることだけを願っていました。 『神様、あなたがどんな方か知りません。あなたのことは何も知らなければ、祈り方も知りません。でも、主よ、どうぞ、あなたがよしと思われることをして下さい。』と言いました。」

 本人は気づいていなかったものの、すべての祈りの内でも最も力強い祈りをしていたのだ。それは、すべてを主にゆだねる祈りである。自分の思いや意志をすべて放棄することで、聖霊へと導く扉が開かれたのだった。

 主の存在を実感するまでに、そう長くはかからなかった。7月4日月曜日、美しい夜明けと共に暑い一日が始まった。午後になって夫のジョー・ブランフォードは、夫人が樹の下で休むためのベッドを用意した。夫人が横になっていると、美しい言葉が心に浮かんだのだった。

 「わたしが選ぶところの断食は、悪のわなをほどき、くびきのひものを解き、しえたげられている者を放ち去らせ…ることではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て…わたしはここにいる。」

 私はコーヒーカップを手にしたまま、夫人をじっと見た。「でも、聖書については、ご存じなかったと思いますが。」

 「ええ、一言だって読んだことはありませんでした。その時わかってたことと言えば、これは普通の英語とちょっと違うなということぐらいでした。それで、聖書の言葉じゃないかと思ったのです。するとすぐに、イザヤ書五十八章だという声が聞こえました。夫が聖書を持ってきてくれたのですが、イザヤ書というところを探し当てるまでずいぶんかかりました。『わたしはここにいる』という最後の言葉を除いては、私が聞いたとおりのことが書かれていました。この最後の言葉は、神自身の語りかけだったと思います。」

 それから何週間にも渡って、夫人は聖書を読み続けた。夜中の2時、3時になることも、よくあった。イエスという方が、まさに現実の存在として認識できたのだ。聖書を読めば読むほど、また新しい変化があった。これも人の心の中での聖霊の働きで、夫人は賛美を始めたのだ。とてもゆっくりながら階段も上れるようになってきた。一歩上るごとにイエスを賛美していた。

 次にはバケツに水を少し入れ、台所の椅子に座ってまわりの床にモップをかけるようになった。一ヶ所がすむと少し椅子を動かして、また別の所にモップをかけるという具合に。「わたしがモップをかけるのを助けて下さって、イエス様どうもありがとう。」

 息子の嫁がほとんど毎日、掃除しに来ていたが、ある日とても不思議そうに、「おかあさん、どうして台所の床は、いつもきれいなの。」と聞いた。

 夫人は、にっこりほほえんでこう答えた。「実はね、私はイエス様と一緒に家事をしているのよ。」  

 でも、ただれんがと木でできた家のためでなく、ブランフォード夫人の魂という家のために働くことが、主とブランフォード夫人の最も大切な仕事だった。長い間、屋根のなかった家のためだ。夫人はだんだん主のことを深く知るようになり、主の保護的な愛が自分を包んでいることに気づいた。されども、苦痛や辛い闘病生活が終わったわけではなかった。まだ鎮痛剤の世話になり、放射線治療のために吐き気もひどかった。

 ある土曜日のこと、痛みで眠れないため、ベッドで神をほめたたえ、聖書を読んでいた。そして午前2時頃、聖書をおなかの上に置いたまま、うとうと眠ってしまった。その時、宇宙のはるかかなたまで旅して、天国へ連れて行かれたように感じたのだった。そして、天から声が聞こえた。「わが子よ、あなたの仕事はすんではいない。もう一度地上に戻ることになる。」 これがゆっくりと威厳に満ちた声で、三度繰り返された。

 その夜は喜びにあふれ、神に感謝しながら朝まで起きていた。朝、夫が目覚めると、「あなた、イエス様が昨夜いやして下さったのよ。」と言った。

 夫が信じていないのが見て取れた。外見は全然変わっていないのだから。「でもいやされたってわかるの。みんなにこのことを知らせなくちゃ。」 その日は日曜で、午前中に大きな道路の向こうにあるバプティスト教会まで歩いて行った。そして、昨夜体験したことをみんなに話してもいいか牧師に尋ねると、牧師は了承してくれ、神が昨夜語りかけられ、いやして下さったことを満員の人々に話した。

 それから数週間後には、ウエストバージニアにいる息子に長距離バスで会いに行くと言い張った。まだ薬も飲んでいて、痛みもひどかったが、今度は薬の代わりにイエスに頼るように聖霊が語りかけて下さっていることがわかっていた。1961年4月27日の五時にバスで帰ってきた時、駐車中に鎮痛剤を口に放り込みながら、これが最後の薬になると思った。

 そして確かにそうなったのだ。当時を振り返って、医師たちは、夫人が禁断症状もなくこれほど急に薬の使用を中止できたのは、ガン細胞が健康な細胞に変わったのと同じくらい大きな奇跡と考えている。

 ブランフォード夫人の体という家の再建には、ずいぶん時間がかかった。悪い足がほぼ正常に戻るまでに9カ月、ガンの諸症状がなくなるまでに2年かかった。1962年に、ちょっとした用事でヘイズ医師に電話をすると、ヘイズ医師は驚きで叫ばんばかりだった。「ブランフォードさん、どうしたんですか。私は、とっくにあなたが…」

 「死んだものと思っていらしたんでしょ。」夫人は笑いながら答えた。

 「どうぞ病院まで来て下さい。診察しますから。どういうことかぜひ知りたいです。」

 「いたって健康なのに、どうして高いお金を払って、わざわざ診てもらいに行かなきゃならないんですか。」と夫人は聞いた。

 「ブランフォードさん、約束します。費用はこちらもちです。」 その結果は、ヘイズ医師自身の言葉が端的に物語っている。「ブランフォードさんとの連絡が途絶え、この患者は死亡したものとばかり思っていました。ところが、1962年の5月に来院したのです。手術後2年半ぶりで、最後にレントゲンを撮ったのは1960年の7月でした。…脚のはれは引き、何の苦もなく歩けるようになっていました。ガンの症状はなく、検査ではガンが少しでも残っているかどうかは断定できませんでした。

 ブランフォードさんは、1962年の11月5日にもう一度来院し、検査の結果、ガンは完治していました。…それ以来、定期的に検査を受けています。…ガンの症状は皆無です。…この患者が子宮頚ガンの末期に近い患者だったことは医学的に証明されており、助かる望みは全然なかったはずでしたから、例外中の例外と言えます。」

 助かる望みは全然なかった…信仰に根ざした望み以外には。